選抜戦最終戦。
今日の観客席はいつもの数倍の生徒達によって埋められていた。
これまで無敗を貫いてきた十二名しか試合を行わないため、試合数そのものがずっと少ないのだ。
特に寧々と新宮寺がいる第一訓練場の賑わいは、他のそれとは一線を画すものであった。
それは学園生だけでなく、報道陣が入っていることも大きかった。
黒鉄家次男黒鉄一輝と、ヴァーミリオン皇国第二皇女ステラ・ヴァーミリオンのスキャンダル。そして、その騒ぎに言いがかりをつけてくる者達を黙らせるために──という建前で、一輝の敗北する様を全国に報道することによって、一輝の騎士としての社会的地位を粉砕するために、赤座が引き込んだ者達だ。
「なぁくーちゃん。今回の勝負、どうなると思う?」
リングを見詰めながら、寧々は隣の新宮寺に問いかける。その顔には一輝への懸念が滲んでいた。
「……正直、黒鉄は厳しいだろう。日本支部に向かわせた教師曰く、どこか体調を崩しているそうだったからな。そしてそれは西園寺も見抜くだろう。そこを彼女が突かないとは思わない」
彼女の恐ろしさは《模写》という能力の汎用性も勿論だが、突出した魔力制御技術とブラフを数多に敷き詰めた盤面操作技術の高さにあると新宮寺は読む。
その実力はあの《紅蓮の皇女》ステラ・ヴァーミリオンを掌で弄び、文句の付けようがない実力勝ちを収めたことからも明らかである。
無数のブラフと相手の冷静さを奪う的確な言葉選び。それによって対戦相手を翻弄し、平時のコンディションを奪い、勝利する。
鍛え抜いた剣術と純粋な殺意、そして勝利への執念で相手の悉くを蹂躙する紫苑とはまるで対極。その戦闘スタイルは
「だろうねぇ。まぁけど、黒坊だってそう大人しく負けてやるつもりなんてないだろうさ。だから……力抜けよくーちゃん」
「……っ」
無意識に鬱血するほど強く握りしめていた手を、寧々に言われ緩めた。自分の生徒に対してあれほど好き放題させてしまったこと、そして彼を陥れるために自分の生徒が使われたこと。
未然に防げることはあった筈なのに、それに気付けなかった自分の至らなさが彼女を追い詰めていたのだ。
「この戦いがどういう結果に終わろうが……あの赤狸にはきっちり落とし前つけさせる。そうだろ?」
「……あぁ」
「ウチらに出来ることなんざ見守ることくらいさね」
そう言って、気を利かせた笑みを浮かべた寧々が凍りついたのはその直後の事だった。
『ご来場の皆様にお知らせいたします。
西園寺栞選手対黒鉄一輝選手の試合時間となりましたが、まだ黒鉄一輝選手が控え室に到着しておりません。選抜戦規定に則り、今から十分以内に黒鉄選手の到着が確認されない場合、西園寺栞選手の不戦勝となりますので、ご了承くださいませ』
スピーカーから聞こえてきたのは、そんなアナウンス。
それに新宮寺は拳を自分の膝に叩きつけた。
「あの、下衆が……っ!」
「おい、くーちゃん。どうなってんだよ、これは……」
「──赤座が黒鉄を連れてくるからと、迎えを断ったんだ。あの赤狸……どこまで私を愚弄すれば……!!」
──黒鉄一輝は夢を見ていた。
夢だと認識できる夢……いわゆる明晰夢。
その中で一輝は、しんしんと雪が降る森の中を歩いていた。
(これは……あの時の……)
一輝は思い出す。
この景色は……己の夢の原点。曾祖父《大英雄》黒鉄龍馬と出会った場所であると。
自分の居場所が家の中に無いことが嫌になって衝動的に家から飛び出して。そして迷子になって家に帰れず、このまま凍死するかというところで彼に助けられたのだ。
それにしても……何故今になってこんな夢を見ている?
久しぶりに黒鉄家の者に会い、彼らに追い詰められていく状況を幼少気の頃に重ねたのか。
それとも、桐原静矢との選抜戦の直前に見たような『自身の心の絶叫』か。
どちらにせよ関係ない。歩かなければ。歩いてこの森から抜け出さなければ。
強迫観念めいたそれが、一輝を突き動かす。
『──今すぐ騎士をやめろ、一輝』
『ごめん、黒鉄。……お前とは、もう仲良くできない』
自分の父親が、自分の元を去っていたかつての友人の声が。
その他にも一年前に自分を徹底的に追い詰めた桐原の声が。
数多の声が、黒鉄一輝を否定する。ここで折れてしまえ。諦めてしまえ。実の父親にすら何も望まれなかった人間が勝つことなど烏滸がましい。
ここで凍え死ねと。
だが黒鉄一輝はその全てを真っ向から否定する。
それは──自分の心の奥底から、炎のように燃え上がる想いがあるからだ。雪と共に降り積もる罵詈雑言のすべてを上書きするような暖かな言葉が脳裏に響くからだ。
『頑張って! お兄様!!』
鈴の音のような玲瓏な声が、彼を奮い立たせる。
『今回の壁新聞は先輩の特集ですよ!』
あざとさすら感じさせる可愛らしい声が、彼の背中を押す。
『ここが正念場だよ、黒鉄くん!』
かつて自分が剣の手解きをした少女の声が、彼の手を引っ張った。
それだけではない。
自分がかつて下した敵達が、昼休みに開いた武術教室に来てくれた友人や先輩達が、自分を学園に入れてくれた教師が。
多くの人が一輝の背中を押し、手をとって導き、病に侵された一輝の身体を支える。
そこに彼の歩みを止めようとする者などひとりもおらず、そして──。
『一緒に行きましょう! 騎士の高みへ!!』
何よりも愛しい者の声がして、彼の意識は現実世界に浮上する。
「……ん、あれ……」
自分は誰かに背負われていた。
その背中は逞しく、そして大きい。結われた白髪が、一輝の鼻先をくすぐった。
──その背中を、一輝は知っていた。けれど同時にあり得ないとも思う。
当然だ。その背中の主は──《大英雄》黒鉄龍馬は、もう十年以上前に老衰で死去した筈なのだから。
目を覚ましたことに気付いたのか、黒鉄龍馬の姿をした何者かは自分を背中から下ろす。
随分と長い間寝ていたおかげか、連盟支部を出るときには極めて悪化していた体調も、少し身体が重い程度にまで改善していた。これならば西園寺栞との決闘にも、万全とは言えずとも彼女に誠意を見せるには十分なほどの力が振るえるだろう。
いや、と一輝は首を横に降る。
確かに体調が改善したのは、極度の緊張を常に強いられていた『倫理委員会』の監視の目を逃れられたこともあるのだろうが、一番の要因は──安心できる背中で眠ることができたからだ。
幼少期に彼と出会った場所が夢に出てきたことも、彼に背負われていたことが関係しているのだろうか。
「行ってこい、小僧」
……彼の声は記憶のままの声だった。何もなかった自分に、夢を与えてくれた、低くも優しい声音。どん、と力強く背中を押される。
その硬くなった大きな掌と、そこに込められた想いが一輝に最後の渇を入れた。
「待って──」
一輝と龍馬の間に一陣の強い風が吹く。思わず目を瞑ってしまった。
目を開ける。そこには──黒鉄龍馬の姿はどこにもなかった。
故人である筈の龍馬が自分を背負い、そしてすぐに消えた。
夢でも見ていたと言われた方が納得するくらい、不可思議な体験だった。けれど……彼の激励、あれは間違いなく本物だった。
気が付けば学園から十数メートル離れた場所まで来ていた。早く行って、栞と戦おう。そして──。
その一心で彼は歩みを進め、校門前まで辿り着いた。
あともう少し歩かなければ。そう思った一輝を、
「──お兄様!」
「珠雫……?」
妹の言葉が止めた。
どうしてこんな所に妹がいるんだろうか。……いや、妹だけではなかった。
「先輩、頑張れー!!」
「試合はまだ始まってないぞ! 走れー!」
「黒鉄くんなら勝てるよ!!」
かつて打ち破った強敵達が、休み時間の武術講座に来てくれた先輩や同級生達が。たくさんの者達が一輝を出迎えた。
信じられないものを見るような目で固まったのは、束の間。一輝の眦から涙が溢れた。
「え……?」
「ど、どうしたんですかお兄様!? やはり連中から暴力を……」
「い、いや……違うんだ……なんか、嬉しくて……」
──嬉しくて泣くなんて初めての事だった。
誰にも望まれていないと思っていた。夢の中で聞こえてきたものも所詮は夢。自分にとって都合の言い妄想でしかなくて、実際はそんな事がある筈がないと思っていた。
それでも……違った。
自分は確かに望まれている。自分の勝利を、願ってくれる人がこんなにもいた。
それに気付いたら……気付けば涙が溢れていた。
「……確かに最初はひとりだったかもしれません。長い間、ずっとひとりだったことも私は知っています。……けど、今はひとりじゃないんですよ。こんなにも多くの方が、あなたを応援したい、貴方に勝ってほしいって思ってるんです」
「うん……」
「それは私も一緒です。そして──あの人も」
「──イッキ!」
顔を上げる。
そこには炎のような紅蓮の髪を靡かせた少女がいた。
「ステラ……」
「……私はシオリに負けたわ。今年の七星剣舞祭には出られない。──けど! アタシはアンタを応援してる! アタシが負けた女に勝って! 七星剣舞祭に出場して!!
アンタは──アタシの最強なんだから!!」
一輝の手を握り、笑いかけてくる彼女に思わず苦笑が漏れた。
世界最高峰の才能を持ち、それに胡座をかく事なく鍛練に明け暮れた彼女にとっての最強が、Fランクの自分なのか。
あまりにも不相応な称号だ。けれど──彼女にそこまで言わせたのも、また自分だ。それならば。
「──勝ってくるよ!」
必ず勝つ。
それこそが、彼らへの感謝の示し方だろうから。
『──ご来場の皆様、長らくお待たせいたしました。
黒鉄選手の到着をこちらの方で確認できたため、これより七星剣舞祭最終戦の方を開始させていただきたいと思います!!』
「黒鉄……!」
「間に合ったか!」
前回のアナウンスから八分。なかなかにギリギリだったが、一輝の不戦敗という事はなさそうだと新宮寺と寧々は安堵の息を吐いた。
『赤ゲートから今、《眠りの魔女》が姿を見せました!
十九戦無敗の騎士。しかもそのうち十四試合は自身の能力を大幅に制限した上での勝利! 自身の能力が《模写》であるという事が割れてからは主にステラ・ヴァーミリオン選手の《炎》を用いて勝ち上がってきました。そして──未だ彼女に傷を負わせた騎士はなんとゼロ名!! ルームメイトである《黒鬼》百鬼紫苑選手と並んで最強と呼ぶに相応しい強さを持っています!』
栞の足取りに強張りはない。
しゃん、と背筋を伸ばし、青ゲートを静かに見つめている。
その姿には紫苑に抱くような恐怖とはまた違う、一種の底知れなさがあった。
「イッキ……」
ステラは恋人の名を呼び、ぎゅっと手を握った。
彼女と戦ったからこそ、彼女の強さは友人達の誰よりも知っている。それにお世辞にも彼のコンディションはベストとは言い難い。だからこそ、普段ならば出ない筈の負けの芽が出るのではないかと不安になる。
だが──彼女は目を逸らさない。隣に座る珠雫もまた同様だ。
それはひとえに……彼の事を信じているから。
『そして青ゲートから姿を見せるのは、同じく十九戦十九勝無敗。《落第騎士》黒鉄一輝選手。
──これまで彼は誰にも認められませんでした。ただひとり、地の底で研鑽を続けてきた一匹狼。けれどッ! 彼は打ち倒してきた!! 《紅蓮の皇女》を! 《狩人》を! 《速度中毒》を!! 破軍学園が誇る数多の猛者達を! その剣一本で!!
そして今、彼は頂点へと手を伸ばした──!!』
青ゲートから姿を見せる一輝。
体調不良などおくびにも出さず、彼は歩みを進め栞の前に立つ。
沸き立つ観客席。その中心で対峙したふたりの間に流れる空気は、決闘の場に相応しくないほどに穏やかである。
「──良い顔ですね。黒鉄さん。見違えましたよ」
「うん。……気付かされたからね。僕は一人じゃないって。僕の勝利を願うのは、決して僕だけではないんだって」
「……そうですね。ほら、周りを見てください。貴方を応援する声があちこちから聞こえてきます。私が悪者みたいです」
そう言って栞は苦笑する。
悪い魔女を自称する身だ。悪者扱いは上等だとは思うが、ここまでアウェーだと些か気不味さがある。
「黒鉄さん。ひとつ提案があるんですけど」
「何かな」
「──最初の一刀。そこにお互い、全てを乗せませんか?」
「…………!」
予想外の提案だった。
まず最初に一輝が疑ったのは、ブラフの可能性。しかしそれは自身の照魔鏡と謳われる観察眼と、彼女自身の言葉を以て否定される。
「貴方の事情は粗方知らされています。
……決闘なのでしょう? ならば……わかりやすい形の方がいいでしょう。私が勝つにしろ、貴方が勝つにしろ誰の目にも分かる明らかな決着。
──貴方のコンディションが悪かったから私が勝った、なんていちゃもんを後からつけられたくない」
「……意外だったよ。君は勝てればそれでいいってタイプだと思ってた」
「紫苑さんはそういうのを嫌うでしょうから。私も影響されたのかもしれません」
「確かに彼ならそう言うだろうね」
紫苑は一輝よりも遥かに求道者の気質が強い。
彼は勝負の中での騙し討ちやブラフなどは仕掛けるが、盤外戦術を好まないだろう事は用意に想像できる。
「それに頷いてくれるのであれば、西園寺栞の全力を以てお相手いたしましょう。……如何です?」
「……良いよ。乗った。それにそういうのは嫌いじゃないからね」
「決まりですね」
一輝は黒い一振の刀を。栞は紫色の短剣を。
お互いが霊装を握り締め、闘気を迸らせる。
──臨戦態勢をとった。誰の目にもそれが明らかだった。
『それでは皆さんご唱和ください。──試合開始!!』
瞬間、
「《一刀修羅》ァァァァァァァァァァァ!!!!」
一輝が吼え、全身から青い炎を迸らせる。
彼が死に物狂いで会得した必殺。自分の全てを一分間に注ぎ込み、発動する絶技。
霊装である《陰鉄》をなおさら強く握り締め、一輝は栞を真っ直ぐ見据える。
対する彼女は陸上のクラウチングスタートのような構えをとった。そして黄金の雷を全身から迸らせる。
その技を一輝は知っていた。
──《建御雷神》
それは《雷切》東堂刀華が持つ、自身をレールガンの弾丸として射出し相手に突貫する技だ。一度紫苑に破られた技であるとはいえ、侮って良いものではない。
確かに栞の魔力はお世辞にも優れているとは言い難い。けれどそれを補って余りある魔力制御技術と、最初の一刀に全てを込めるという言葉に相応しい魔力がそこには込められている。
その威力、そして速度は本元である刀華の一体何倍なのか。
予想ができない。だが──自分は彼女に勝つと誓いを立てた。
そう決めていた一輝は……自然と迎撃に最適な型を取っていた。
刀身を握り締め、背中を栞に向けるほど背骨を捻り込んだ。
そうして完成されるフォームは……《雷切》と同じ抜刀術の構え。双方共に、同じ騎士の理合いを用いて眼前敵を打倒せんとする。
「行きます」
小さく呟き、栞は自身の身体を弾丸とし──一輝に突貫した。
(駄目だ──!)
時が静止したのではないかと勘違いするほどに引き伸ばされた、超集中の世界の中で一輝は確信する。
このままでは自分は敗北してしまうと。
魔力で作られたレール。魔力による装甲を纏い、人体を引きちぎるには十分すぎるほどの加速を得て突っ込んでくる栞。
たとえ抜刀術の溜めを利用し、普通に剣を振るうのとは桁違いの速度と破壊力を生もうとしても、このままでは剣を振るうことすら許されない。
ならばどうするか。
決まっている。──勝利するために、かき集めるのだ。
彼女と自分の間にあるあらゆる差。それを埋めるために。
《一刀修羅》の制限時間。一分間など長すぎる。振り絞って一秒にまで収束させろ。
五感も不要。そんなものにリソースを割く余力はない。
刹那の間に決着がつくのだから、呼吸だって必要ない。
血肉、気力、体力、魔力、可能性、そして自らの歴史。
その全てを振り絞って──目の前の最強を打ち倒せ!!
──その時、どこからか。
聴覚を断った筈の一輝の耳に。
ぎちり、という鎖が擦れるような音が聞こえた。
衝突する鋼の稲妻。
刀身同士がぶつかったとは到底思えない轟音が響き、大気をリング上から残らず吹き飛ばす。
交錯は閃光を生み出し、あらゆる音と色を消し飛ばし──瞬間、ゴム毬のように吹き飛ぶ何かを観客達は見た。
それは──黒鉄一輝と西園寺栞だ。
黒鉄一輝の腕に握られている筈の《陰鉄》の刀身の長さは1/3程度にまで短くなっており、彼が纏っていた筈の制服、そして刀を握っていた筈の腕は焼け焦げている。
対する栞はというと霊装は欠片も残さず粉砕されており、腹部から左肩までが大きく逆袈裟に切り裂かれていた。腕に至っては皮膚一枚でなんとか繋がっているという有り様で、腹からは臓物を溢している。
どちらも致命傷を負っている。今すぐにでも再生槽に入れなければ命を争うだろう。しかし、まだそういうわけにはいかない。
これはただの選抜戦ではなく、黒鉄一輝の未来をかけた決闘なのだから。
固唾を飲んで観客が見守る中──ぴくり、と身体が動いた。
そして身動ぎしたのは──《落第騎士》黒鉄一輝。
僅かに残った刀身を支えに彼は立ち上がり、死に体でリングへと戻り──天に向かって拳を掲げた。
『……け、決着ッッッッ!! 決着しました!!
彼らが言ったように、たった一合の交錯! 試合時間にしてみれば一分もないほどの刹那!! それに打ち勝ったのは!! 《落第騎士》──否ッッ!! 《無冠の剣王》黒鉄一輝選手だァ!!』
観客席が歓声に包まれる。
興奮の坩堝と化したリングの上から、一輝は身体を引きずるようにして降りていく。その姿を見て──ステラは迷わず駆け出した。
彼が向かった青ゲートで出迎えるつもりだろう。
それを追わないのかと、珠雫に横に座っていた日下部は視線をそちらに向ける。
「……ぅ、ひぐっ……」
──珠雫は涙を溢していた。
だがそれも無理のないことだと日下部は思った。
栞はあの瞬間、今まで見せたことがない──それこそ間違いなく『西園寺栞』という人間に許された限界の力を以て、一輝を打倒しようとした。
そう、
……そんなものに耐えられる筈がなかったのだ。当たり前だ。誰が世界で一番愛する人が死ぬところを見たいと思うのか。
日下部はそれを理解したからこそ、黙って珠雫を抱き締めた。
「見たか、寧々」
「あぁ。……黒坊の奴、やりやがったよ……!」
興奮を隠しきれないという様子で言う寧々。
ふたりは見たのだ。一輝の居合い抜きと栞の《建御雷神》が交錯せんとした瞬間──一輝が更に加速したのを。
「一分でテメェの全てを使い尽くす《一刀修羅》ではしおりんのスピードには追い付けねぇ。それを黒坊は理解したからこそ、一分じゃなくたった一振に自分の全部を乗っけやがった! 『最強の一分間』を更に驚異的な集中力で凝縮して、身体能力の強化倍率を数百倍にまで高め、スイングスピードとパワーを上乗せしやがった……!」
それはもはや『修羅道』などという人が堕ちる程度の道に非ず。
極限を超えた極限。人を超えた──鬼。名付けるならば。
(……アイツはずっとこうしてきたんだろうな)
一分前の自分よりも強くあれ。一秒前の自分にも打ち勝てと。
絶えず逆境の中、死に物狂いで己を信じ続け、己を昇華させ続けてきた。
常に己の可能性を信じ続け、前へ、更に前へと強さを渇望し続けた事が今回の勝利を生んだのだ。
「……全く、大した男だよ。本当に」
この調子ならば──そう遠くない未来、彼は自分が引き返してしまった領域にすら到達するだろう。
それを素直に喜べないのは……自分が《魔人》の領域に踏み込むことを恐れてしまったが故か。
「ともかく今回の騒ぎはもう収束するだろう。家のしがらみ、襲いかかる理不尽、不条理な決闘……その全てを黒鉄は真正面から相手取り、完膚なきまでに一刀両断したのだからな」
もはやこの決着に口を挟める者などいない。
黒鉄一輝の勝利を、会場に入っている報道のカメラが捉え、この戦いの結果は全国に放映されている。
《紅蓮の皇女》ステラ・ヴァーミリオンを打倒した騎士、西園寺栞が黒鉄一輝に敗北した光景を。
「……それはそうとさ。良いのかい? 赤狸をどうにかしなくて」
「構わんさ。奴がどう足掻いたところでどうにもならん。それに……あの戦いの後にそんな真似はしたくないからな」
理事長室に戻れば、此度の騒ぎの後始末が色々と待っているのだろう。けれどこの瞬間だけは──この素晴らしき戦いの余韻に浸っていたかった。
……そんな中、今回の結果を受け入れられない人間がひとりいた。