──落ち着けッッ!!!
オズボーンは自らを律する。
確かに不意打ちで殺されかけた事は事実だが、それほどまでに優位な状況であっても自分は死ななかった。それは百鬼紫苑と名乗った男が見た通りの魔力しか持っていない事は確定的に明らかであり、自身の魔力総量を欺く技術(一般には迷彩と呼ばれる技術であり、自身の魔力行使を隠蔽するものである)を用いている可能性は著しく低い。
手間をかけるまでもなく、一撃で敵を倒すことが出来るだろう状況でそのような愚を犯すほど目の前の男は弱くない。
ならば油断をしなければ自分が勝てるはず。それほどまでに自分と彼の魔力量のは天と地ほどの差がある。
(最初の一撃で仕留められなかったテメェの才能のなさを恨むんだなァ!)
運命に決定付けられた絶対序列。その最も低い場所にいるだろう男を嘲笑しながら、オズボーンは自らの伐刀絶技を発動させ目の前の敵を蜂の巣にしようとする。
が、それよりも早く。
──オズボーンの左腕が宙を舞った。
「……へ?」
間抜けな声が漏れる。
目の前には刀を抜いた百鬼紫苑。少し遅れて爆発音のような何かが響く。それが床を蹴った音だとわかった。左腕から自分の命が零れていく。痛みが左腕から脳に突き刺さり、混濁する意識を無理矢理覚醒させてくる。
「ひぎっ、ぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫が溢れた。踞り、左腕を反射的に押さえようとするが──それよりも早く紫苑の振り下ろしが頭上から襲いかかる。
それに一切の音はない。無音の、必殺の魔剣。それがオズボーンの命を刈り取らんと振るわれるが──そこは熟練の傭兵だ。魔力を放出し、自分の身体を空中に放り出すや足から着地。
左腕がなくなったことでバランスを崩しそうになるが、それをすぐさま立て直し、伐刀絶技を発動させる。
「《
肉が爆ぜるような音がした。次いでするのは金属が擦れ合うような不快音。
オズボーンの身体から出現したのは、漆黒の銃身。詳しい種類などは生粋の剣客である紫苑はわからなかったが、それが何かは知っていた。それは数ある銃の中でも一般的な部類であり、解放軍の男達も装備していた──アサルトライフルである。
「死にやがれぇぇぇぇぇ!!」
無数の金属音がモール内に響く。オズボーンの姿が見えなくなる程の魔力光が瞬き、紫苑を貫かんと咆哮をあげた。
戦場を丸々蜂の巣にする魔力の銃弾は、普通の銃弾よりも遥かに威力が上だ。しかもオズボーンの銃弾は着弾した瞬間に爆発する。その爆発によって紫苑が盾にした柱を爆発によって粉砕し、その向こう側にいるだろう男諸とも瓦礫と血の海で埋め尽くしてやろうと。
やがて柱が倒壊し、紫苑を肉の塊にしてやったと確信したところでオズボーンは自身の身体から突き出たアサルトライフルを、身体の中に収めるとふぅ……と溜め息を吐いたところで──彼の鼻は嗅ぎとった。
それは彼と対面したときにも感じた同種の死臭──その諸悪の根元が未だに自身に牙を向けようとしているという、確かな啓示。
反射的に背後を振り向いた。
そこには──
「──《
一切の表情なく、ただ敵を斬ろうとする悪鬼の姿があった。
赤黒く、禍々しい瘴気を纏った黒刀が背中からオズボーンを切り裂こうとする。回避は間に合わない。彼は自身の能力によって身体に鎧を纏い──否、身体そのものを強度な魔力で覆われた鎧に変じさせることによってその一撃を塞ごうとする。
オズボーンが今まで培ってきた戦闘経験と、いつもそこに転がっていた死体達と同じ運命を辿るかもしれないという環境下が、辛うじてオズボーンの命を繋いだ。
だがそれも無傷では済まない。
《瀧華一刀流繚乱勢法》の絶技のひとつ──《八重椿》による一撃が甲冑を切断し、肉体を深く切り裂いた。げぼぉあ、という血反吐が吐き出されるがそれでもオズボーンの闘争本能は、目の前の脅威に対する最適解行動をとった。
「こんのぉ……クソ野郎がァァァァァァァァ!!!」
突如として出現した光の球。そこから発せられる光が、それが爆ぜたことによる轟音が紫苑の神経を駆け抜ける。しかしそれだけには終わらない。
鎧を破るようにして彼の肉体から出現したのは大口径のバズーカ砲だ。超至近距離からの砲撃、それに対して紫苑は一切の焦りを見せることなく、彼の霊装の鞘の形状を変化させ攻撃を防ぎきる。
──しかし砲弾は防ぎきれても、衝撃までは防ぎきれない。天井に叩きつけられる寸前まで吹き飛ばされるが──それを紫苑は一切苦にしない。
紫苑は空中で体勢を制御し、再び三階の廊下に着地する。
既にオズボーンの姿はない。数々のテナントが並ぶ大通りから逸れていくように血痕が付着しているが、それは徐々に量を減らし、やがてその赤い雫はなくなっていた。
「自分の身体を《武装》する事で血を止めたか」
紫苑は僅かな交戦──それは蹂躙と呼ぶのが相応しかったが──の間に大方相手の能力を掴んでいた。
相手の能力は概念干渉系能力《武装》またはそれに類する力。最初は肉体から武器を生成する能力かと思ったが、それは鎧によって肉体を守ろうとした事から、武器だけではなく盾などの防具も産み出すことも可能。先程の光の球は
しかし先程の戦闘からわかるように……紫苑はオズボーンは攻撃を一切苦にしない。圧倒的な速度、神の領域に達しつつある剣技を以て異能の力を真正面から蹂躙する。
それこそが最速にして最強の超攻撃特化型剣術──《瀧華一刀流繚乱勢法》の真骨頂なのだ。
「そろそろ西園寺の援護に行くか」
逃亡したオズボーンの事は一切気にも留めず、紫苑はフードコートの方へと向かう。しかし──
「死にさらせぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
物陰からオズボーンが攻撃を行おうとする。
そう彼は逃亡などしていなかったのだ。柱の影に隠れ、自分は恐れをなして逃げたと錯覚させ、完全に油断した紫苑に不意打ちを叩き込むために。
彼が失った左腕から生やした武装は、戦闘用ヘリなどに装備されているガトリング砲だ。秒間千を超える、文字通りの銃弾の雨は、放たれれば脆弱な紫苑の魔力の盾など容易に貫くことが出来るだろう。
そう、放たれれば。
──最初からこうなると決まっていた。
オズボーンは最初紫苑と対面した際に恐れを抱いていた。そしてそれは一時的に鼓舞されてはいたものの、ずっと凝りのように残っていた。それが左腕を切断されたとき、上半身を大きく切り裂かれたときにその恐れは。
決定的であったのが先程の閃光弾からの、バズーカ砲による吹き飛ばしだ。
あれは明らかに逃げの一手にして明らかな愚行だ。
無論それが体勢を立て直すための一手で、それが普通の伐刀者であれば悪くない手であっただろう。
しかし相対している男は百鬼紫苑──日本において最年少で《魔人》の境地に至った真の怪物だ。
以前にも語ったと思うが、通常の伐刀者と《魔人》は一線を画す存在である。
そして《魔人》を魔人たらしめる要素のひとつは因果干渉系能力者でなくとも、因果に干渉する力を持つことだろう。
それは《魔人》そして《魔人》に近づいた者達からは《引力》と呼ばれる力である。
伐刀者が運命に縛られ、決定付けられる存在であるとするならば《魔人》は運命をねじ伏せ、運命を決定付ける存在であると言える。
ゆえに優秀な伐刀者ではあるが《魔人》でないオズボーンは、紫苑が決定付ける運命に制縛される。
紫苑が『必ず殺す』と確かな意を持ち、オズボーンが『俺はこの男に負けるかもしれない』と思った上で相対したのならば、運命は一切の過程を必要とせず、必然の終わりへと結ばれる。
その結果──、
オズボーンの身体が左右に一刀両断された。
一切の悲鳴も上がることなく、ただ死の運命がオズボーンの肉体に顕現した。
どちゃりと音を立てオズボーンの肉体が倒れる。血が溢れ出て、白い床を赤い池が汚していく。
明らかな致命傷。生命活動が行われていない事は火を見るより明らかなこと。それでもなお紫苑は、
「────」
オズボーンの死体を切り刻む。何度も何度も刀を振るい、肉を撒き散らし、脳髄をぶちまけてもなお切り裂き続ける。動くはずもない死体に対し、過剰な程に何度も、何度も刃を突き立てる。
……五分ほどそうしていただろうか。オズボーンとの交戦時間よりもなお長く霊装を突き立てていた紫苑は、ようやっと『オズボーンは確実に死亡した』と納得し、フードコートへと向かった。
ところ変わって同じモール内のフードコート。
そこにはおよそ十人ほどの《信奉者》が集い、人質達を囲んでいた。その中でも特徴的な姿を持つものがひとり。
《信奉者》の武装した姿のなかではひどく浮く法衣に左右の指につけられた趣味の悪い、派手な指輪。《信奉者》を率いる《使徒》にして、此度のショッピングモール襲撃の首魁であるビショウである。
そして彼と向き合うのは燃え盛る炎のような髪を持つ少女──ステラ・ヴァーミリオンである。
彼女は紫苑達と同様に友人達と一緒に、このモールに遊びに来ていた。しかし彼らとは違い、テロリストの襲撃を予期できなかった彼女は分断され、もうひとりの友人と共に人質のなかに紛れていた。
機を見てテロリストの鎮圧しようと思ったところで、思わぬハプニングが起こる。人質の子供がテロリスト達に反抗的な態度を示したのである。リーダーとは違い、理知的でなかったテロリストのひとりはその子供に銃を向け、それをステラが防いだところで──現在に至る。
「クククっ、まさか一国の皇女様が紛れていらっしゃったとは。これは運が良いの悪いのか……」
「御託は良いわ。あなたも首魁だというなら、飼い犬の首輪くらいちゃんと着けていたらどうなの」
「くくっ、そりゃぁ耳の痛ぇ話です皇女様。しかしですねぇ、そこのガキがウチの仲間にアイスぶん投げたって事実はなんも変わらねぇんすわ。罪には罰を……ちゃんとケジメをつけさせる必要はありやす。そこんとこ、どうですかねぇ?」
「……何が言いたいの」
「いえいえ、大した事じゃあございやせん。皇女様にはガキに代わって、頭下げてもらおうって話ですわ。……全裸で、土下座してねぇ! ひひゃひゃひゃひゃ!!」
(あの、クソ野郎──!)
三階から下の様子を伺っていた黒鉄一輝は、歯を噛み砕かんとする程の怒りが湧いた。あのクソ野郎を今すぐに斬ってやりたいという殺意が吹き上がる。が、
「やめなさい、一輝」
一輝の隣で同じく様子を伺っている長身の美少年──有栖院凪が制止する。
「でも、有栖……!」
「気持ちはわかるわ。でも敵はあそこだけにいる訳じゃない。B~Aランク相当の敵がいるって言っていたでしょう。百鬼紫苑って人が交戦中らしいけど、その人が逃す可能性もあるんだからここは耐えなさい」
同じくモール内に居り、敷地外での霊装の使用許可の申請を行った以上、新宮寺からの情報も渡っている。
敵の規模や首魁であるビショウの能力。そして現在、同じ破軍学園の生徒である百鬼紫苑が有栖の言った敵と交戦中。そして彼のルームメイトである西園寺栞が、モール内の敵を無力化しながらこちらに向かってきているのだという。
有栖院の《影》の能力が隠密行動に向いている能力であったとしても、彼女の尽力がなければ敵と交戦する可能性もあったかもしれない。
しかし……、
「その心配はない」
「「──ッッ」」
突如として背後からかけられた声。それにふたりは肩が跳ねる。しかしこの声を一輝は知っていた。
「百鬼くん……!」
それは白髪の鬼、百鬼紫苑であった。
「敵は?」
「斬った」
一輝の問いに紫苑は端的に返す。
新宮寺に連絡してから五分ほどしか経過していないにも関わらず、Aランク級の騎士を相手に勝ちをもぎ取ってきたというその強さに一輝は舌を巻く。
「流石だね」
「じゃあ残りは……」
「あそこの11人だけだ。だが俺達の役目はないだろう」
「どうしてそう言い切れるの?」
「西園寺はこのモール内全域を索敵し、的確に敵の位置を特定できるくらいに魔力制御が優れている。なら──」
これほど絶好の機会を逃すわけがないだろう。そう言う紫苑に「勿論ですよ」と言わんばかりに、西園寺栞の攻撃が始まった。
音も、光も、前兆と呼べるものは何一つなかった。
ビショウは断言できた。
《信奉者》のおよそ半数──ここにいない全員が音信不通となっていたため、このモール内にステラ・ヴァーミリオン以外の伐刀者がいることは明らかだった。そのためステラを凌辱してやろうとは考えていたものの、それでも周囲に対して気を配っていた。いつでも敵を迎撃できるように備えていた。
だというのに──自身を除く《信奉者》全員がなんの前触れもなく、地面に倒れ込んだのだ。それも人質のなかに紛れ込ませていた者すらだ。
そしてその攻撃は自分にも及んだ。
眠いのだ。
これほど緊迫した状況で、敵の迎撃をしなければならないと脳は覚醒を促していると言うのに、それでも眠い。思考が鈍り、身体の感覚が愚鈍になっていく。今すぐ地面に横たわりたい。そんな欲望がふつふつと沸き上がっているのだ。
幸いなのは目の前の敵が状況に困惑して、自分に襲いかかってこないことだろうか。しかしそんなことすらどうでもいい。早く夢の中に旅立ちたい。
「あら、まだ立っているんですね。これぐらいで眠ったかと思いましたが」
目蓋が落ちた僅かな視界でその下手人の姿を捉えた。
ストライプのTシャツにデニムジャケット、ロングスカートという出で立ちの、ステラに勝るとも劣らない美少女だ。
「でもいい加減逆らうのも限界でしょう? もう落ちてしまった方が楽だと思いますが」
彼女と目が合う。前述の通り、自分の目蓋は落ちかけていたのに、なぜかそう断言できた。そしてその瞳は青く、引きずり込まれるような感覚を覚えた。まるで深淵に誘われるように……、
「──《
ビショウが意識を保っていられたのはそこまでだった。彼の意識は夢の中に引きずり込まれ、喪失した。
ビショウの身体もまた他の兵士達と同じように事切れ、まるで糸の切れたマリオネットのように地に倒れた。
──栞がオズボーンとの交戦を紫苑に任せ、《信奉者》及びビショウの制圧に乗り出したのはひとえにお互いの能力を考慮したが故の事である。
今までの生活の中で紫苑は一対一の真正面からの戦闘を、そして自分は大人数の制圧を得意とすることはわかっていた。そのため自分は紫苑付近にいる《信奉者》を眠らせ、オズボーンとの戦闘に妨害が入らないようにした後に、ショッピングモール内を巡回していた半数の敵を眠らせたあとに拘束。そしてステラが気を引いてくれているうちに残った敵を制圧したのである。
「シオリ!」
「奇遇ですね、ステラさん。そしてお久しぶりです。この一週間前にヤンチャしたかと思ったら次はテロリストと遭遇ですか。運がありませんね」
「そんなことはどうでもいいのよ! あいつら、殺したの!?」
「いえ。眠らされているだけですよ」
ステラとの問答していると後ろから割り込む声──それはゴスロリ服を纏った小柄な少女のものだった。
「あなたは……」
「黒鉄珠雫と申します。お兄様がお世話になりました。それにここでも……」
「いえ、そんなことは。降りかかった火の粉を振り払っただけですし 大した手間でもなかったですしね。それよりも百鬼さんが心配ですが……」
その時、とんっという軽い音が三つほどモール内に響いた。
それぞれ百鬼紫苑、黒鉄一輝、有栖院凪である。
「百鬼さん、お怪我はございませんか?」
「掠り傷ひとつない。……が、服が汚れた。これなら制服のままでいれば良かったな」
「あぁ……」
交戦時のものだろう。黒いニットに乾いた付着してしまっている。
「汚れ、取れるか?」
「問題ありませんよ。私にお任せください」
「そうか。頼りになるな」
「いえいえ」
(随分と呑気な……)
珠雫は二人を見てはぁ、とため息を吐くが同時に栞に脱帽する。
それは栞の魔力制御技術だ。ここに集められていた人質はおよそ五十名。そこから的確に敵のみに魔術を命中させ、あろうことか人質に紛れていた者すらも鎮圧してみせた。しかも、視界外の攻撃でだ。
──間違いなく自分と比肩する、またはそれ以上の技量だ。少なくとも自分には同じ事をしろと言われてもできないだろう。
「しかしこの解放軍の方も運が悪かったですね。まさか襲撃をかけたショッピングモールで
「え……?」
今ここにいる伐刀者は一輝、珠雫、ステラ、有栖。そして紫苑と栞だけのはず。
なのに七人とはどういうことだ。
ほら、と栞が言えばなにもなかった空間が輝き始め、鱗が剥がれ落ちるように景色が変わる。
するとそこには中肉中背の少年と、その後ろに隠れている少女がいた。
少女の方は知らなかったが、男の方を紫苑と一輝は知っていた。
「……何故、僕の能力を暴けたんだ」
「いえ。私の能力を発動したときにあなたが居た場所は、なにもなかった筈なのに人らしき反応があったので。何かしらの魔術を使って隠れているのだろう、と思っただけですよ」
「そうか。埒外の魔力制御力にその索敵能力……百鬼のルームメイトに選ばれるだけはあるということか」
「桐原くん……来ていたんだね」
彼の名は桐原静矢。昨年の首席入学者にして、七星剣舞祭の代表者でもある男だ。
彼は一輝の事を無視して、紫苑に視線を向ける。そこには確かな憎悪が燃えていた。
「会いたかったよ、《黒鬼》百鬼紫苑」
「そうか」
「ふふ。僕程度、眼中にもないってことか。それはそうだよね。去年、僕は君を前にして一秒も立っていられなかったから。……君が学園を自主退学したって聞いたときは、正直落胆を隠せなかったよ。でも、どうしてかな。いつか戻ってくるんじゃないか──いや、絶対戻ってくる。そんな確信があったんだよ。事実、君は戻ってきた。昨年よりも更に強い力を携えて」
桐原には見える。
特に殺気を向けてきているわけでもない。だというのに彼の背後に佇む、こちらを睥睨する黒き鬼神が。
「僕は強くなった。君に勝ちたい──いいや、勝つ。そう決意して一年間。毎日毎日努力した。血反吐も吐いた。嘲笑するクラスメイトからの視線にもずっと耐えてきた。……それも今年で終わりだ。君に勝って、僕は取り戻す。尊厳も、名誉も。君に奪われた何もかもを!」
最後の方は半ば悲鳴になっていた。
当たり前だ。
桐原にとって百鬼紫苑という男はトラウマそのものなのだから。相対しただけで膝が笑っている。アイツに向ける笑みはひきつっていないだろうか。
百鬼紫苑との決闘に敗北してから一年間。桐原に押された烙印は『世界最弱の騎士に負けた男』だったのだから。そこからの毎日はずっと悲惨だった。
彼を慕っていた女達は軒並み掌を返し、教師陣達からの陰口や嫌みは桐原の心を確実に切り刻んでいた。自分は首席入学者だったというのに、まるで落第生のような扱いをずっと受けた。
屈辱の日々だった。雪辱に塗れた日々だった。しかし彼は折れなかった。この借りを絶対に返してやると、これまでの数倍の鍛練を毎日毎日重ね続けた。
「生憎、初戦は君とは当たることができなかったが……僕と当たるまで負けるんじゃないぞ。君を倒すのは僕なんだからな」
「あぁ。お前も油断はしないことだ」
桐原はふん、と鼻を鳴らして去っていく。その震える手を、後ろに立っていた少女に覆い隠してもらいながら。
そのタイミングで複数名の警察がフードコートに駆けつけた。新宮寺が呼んでいてくれたものだろう。
調書を作るから署まで同行してほしい、という責任者の言葉に従って紫苑と栞は責任者についていった。
──警察から解放されたのは日が傾いた時だった。
空が橙色に染まり、烏が家に帰れと促すようにうるさいくらいに鳴いている。
「今日は色々ありましたね。ただ遊びに来ただけだったのに」
「……たぶん俺と一輝のせいだろうな」
「え、どうしてです?」
「俺と一輝は運が悪いからな」
伐刀者のステータスには運というものがある。運も実力のウチ、という言葉があるが、実際に戦闘において僅かな天運すらも戦況を左右しえるのだから当然と言えば当然だが。
その六段階で評価される伐刀者のステータスにおいて、一輝は最低のF、そして紫苑においてはF-という最低評価の更に下をいくほどには恵まれない。
そのふたりが集まれば、まぁこうなるだろうという紫苑に栞は苦笑して、
「まぁ物は考えようですよ。今回の事件で報奨金も貰えましたし、新宮寺理事長から代休も頂けました。その時間を更に鍛練に当てることもできます。ほら、一概に不幸だとは言えないんじゃないですか?」
「西園寺は前向きなんだな」
「どうせなら良い方向に考えようとしてるだけですよ。何事も悪い面ばかり見ていたらずっと気分が沈んでいきますし」
ね? と言う栞にそれもそうだと紫苑も返す。しかし同時に自分にはできない考え方だとも。
そんなときだった。
「キャァァァァァァァァァァァァ!!」
「「──ッッ!」」
女性の悲鳴が聞こえた。反射的にふたりはそちらを振り向いた。
叫んだのは中年女性だ。その先には彼女の子供だろう、ひとりの少女が、落ちかけている踏み切りのなかに囚われようとしている。
カンカンカン、と警告機がけたたましく鳴り響き、前からは音を立てて電車が迫ってきている。
「────ッッッッ!!!!」
「百鬼さん!」
紫苑は地面を蹴る。それは刹那の間に最高速に至り少女を救わんと突貫する。
その横顔は何かの強迫観念のような物が滲んでいて──思わず、叫ばざるを得なかった。彼をあのまま行かせてしまっては、良くないことが起こる。そんな予感がしたから。
しかしそんな事を紫苑自身は意に介さず、アスファルトが靴の形に歪むほどの脚力と魔力制御で踏み切りの下を潜り抜け、少女を抱き抱える。そしてそのまま転がって踏み切りから少女を救いだした。
そしてそれから一秒と経たずに電車は踏み切りを通過していった。
「ハァ……ッ! ハァ……ッッ!!」
肩で息をし、身体からは汗を吹き出して止まらない。オズボーンと戦ったときよりも遥かに消耗している。それは自分以外の誰かの命がかかっていたからか、それとも……、
「玲、玲! 怪我はない!?」
「う、うん……大丈夫……」
「ありがとうございます! あなたが居なければ娘は……!」
「いえ。今度はちゃんと見ていてあげてください」
頭を下げて、去っていく親子をふたりは見守る。
無用な心配だったか、そう思い駆け寄ろうとしたときだ。
──突如として紫苑が地面に踞った。
「百鬼さん!?」
「ハァ、ハァ……ぅぉえ……!」
腹の中身を路上にぶちまけ、「ヒュー、ヒュー……」と苦しげに呼吸を繰り返す。顔には脂汗が滲んでいて、粗方腹の中身を吐き出したであろうにまだえずきは止まらない。
吐き気、そこから伴う嘔吐に異常なほどの発汗に呼吸困難──代表的な
一体何故──いや、そんなことを考えている場合ではない。
「早く、病院に…………!」
「……いや、だい、じょうぶ……」
掠れ、苦しげな声でそれを制止したのは紫苑本人だった。
「大丈夫って、それが大丈夫なわけが!」
「すぐ、おさまる……悪い、水、貰えるか……?」
栞はショッピングモールで購入した水が入ったペットボトルを差し出した。彼はそれを受けとると、ズボンのポケットから何かの錠剤を取り出すとそれを水で流し込んだ。
「悪い、迷惑かけた。もう、大丈夫だから、早く」
帰ろう、と一歩前に踏み出せば足元がふらついて、危うく転倒しそうになる。それを詩織は支える。
「すぐに大丈夫になるわけないでしょう……! ほら、一旦休みましょう」
「でも、またお前に迷惑かけ──」
「そんなことどうだっていいですから!!」
紫苑の言葉を彼女は怒号で遮ぎる。
「私に迷惑がかかるとか、どうでもいいですから……!! もう少し自分を労ってください……!」
「…………悪い」
「……落ち着きましたか?」
先ほど助けた子供が遊んでいたのだろう、公園のベンチにふたりはそちらを腰掛けていた。
「あぁ。悪い、水……」
「気にしなくて良いですよ。安いものでしたし」
背凭れに体重を預け、黄昏時の空を見上げ、ふぅ……と深く息を吐く。そして……
「……電車が怖いんだ」
紫苑は語り出す。彼としては話すつもりなど欠片もなかったのだが、一度溢れたものは止まらなかった。
「もう、十一年も前の話だ。関西の方で大規模な電車脱線事故があった」
「それは……」
栞も五歳、または六歳頃の話だ。忘れていてもおかしくはなかったが、忘れられないほどにその脱線事故は未曾有の被害を出した。乗客のおよそ六割が死亡し、二割が重傷。しかもその脱線した電車は住宅街に突っ込んだことも、被害を拡大した要因であった。
「俺もその事故に巻き込まれそうになってな」
「巻き込まれそうになった……?」
「あぁ。俺は巻き込まれなかった。精々突き飛ばされた時にできたかすり傷程度だったよ。でも……俺を庇ってくれた人は、無事じゃすまなかった」
「…………」
「その人は──
「瀧華って……」
「あぁ、俺が使う《瀧華一刀流繚乱勢法》の創始者だ」
といっても《瀧華一刀流》から派生したものだから、創始者というのは微妙なところだけどな、と紫苑は続ける。その声は──その人に対する想いが溢れんばかりに詰まったものだった。
「あの、その薫さんは……」
「いや、死んではいない。ちゃんと生きてるよ。──ずっと眠ったままだけどな」
もう傷は完治した。脳にだって異常はない。どこから見たって健常体のそれとなんら変わりない──だというのに何故か目を覚まさない。医者も何故彼女が目を覚まさないのか全くわからないらしい。
「生きてるだけで幸運なんだ。生きてくれればいつか目を覚ますから。もう十一年も前の話だ。いい加減立ち直るべきなんだ。もう終わったことなんだ。でも……ッ」
声がひきつる。嗚咽が混ざり、眼からは大粒の涙が溢れる。
「怖くて仕方がない……電車を見ただけで、走る音が、聞こえてくるだけで、身体が震える。あの日の景色が、浮かんでくる。
「百鬼さん……!」
頭を抱える。浮かび上がってくる過去の惨劇から目を背けるように、強く目蓋を閉じて頭を振った。見たくない、もう嫌だ。あんな地獄に遇いたくない。
嫌だ嫌だと半ば狂乱する紫苑を、栞は強く抱き締めた。
「落ち着いて。……ここにあなたを傷つけるものは何もないですからね。大丈夫……大丈夫……」
深呼吸してみましょう、と言う栞の言葉に従って、紫苑は大きく息を吸う。吸って……吐いて……。吸って……吐いて……。それを数分は繰り返しただろうか。
落ち着いて、ようやく紫苑は言葉を絞り出せた。
「……あれも、嘘だったんだ」
「あれ……とは?」
「今日の、用事があるから、先に行っててくれって言っただろ……? あれも本当は、電車を避けたかっただけだったんだ。こんな事になるから……」
「……」
「でもそれも無駄だったな。結局お前に迷惑をかけた。本当に、情けない……お前が怒るのも当然のことだ」
「……えぇ。そうですね。私は確かに怒っています。けど」
栞は一息置いて、続ける。
「けどそれはあなたが思っていることとは全く違いますよ」
「え……?」
紫苑は思わず顔を上げた。
「まず聞きたいんですが、どうして紫苑さんは『自分は電車が苦手だ』って教えてくれなかったんですか?」
「いや、それは……お前に迷惑がかかるから。そんな俺なんか勝手な都合にお前を付き合わせてちゃ……」
「まずそこです。いつ私が『あなたの勝手な都合に付き合わされて迷惑だ』、なんて言いましたか?」
「それは……」
全く言っていない。栞はこれまでの紫苑に対して、一度もそのような事を言っていない。
「それに今回ショッピングモールに出掛けたのは、私が百鬼さんの服の少なさをなんとかしたいと思ったからです。それにあろうことか私が持っていた割引券をなんとか消費したいから、と思ったこともあります。……ほら、全部私の勝手な都合でしょう?
紫苑さんは服を増やす必要性なんて全く感じていなかったでしょうし、私のわがままに付き合って一緒に食事をとる必要も全くなかったわけですから。……なのにどうして付き合ってくれたんですか?」
「……迷惑だと、感じなかったからだ」
「そうでしょう? それと同じですよ。私は今回の件で、あなたに迷惑をかけられたなんて全く思っていません。……心配は、しましたが」
「……悪かった」
「もういいんですよ。他に苦手なものはありますか?」
「いや、大丈夫だ。こんな風になるのは、電車だけだ」
涙でグシャグシャになった顔を紫苑は拭って立ち上がる。もう大丈夫だと、栞に示すように。
「帰ろう。俺のせいで遅くなった」
「……えぇ。そうですね」