諸星が目を覚ましたのは、白い空間だった。
上下左右、床までも白。何か物が置かれているといったこともなく、扉や窓といった出入り口も存在しない。
人によっては気が狂ってもおかしくないほどに白で埋め尽くされた空間はされど、室内──部屋なのかは疑問の余地があるが──は、人にとって最も快適に過ごせる場所であった。そういう場所である、と諸星は理解させられた。
あまりにも殺風景な静謐の只中にあって、彼はその部屋唯一の彩りであった。
ふむ、と腕を組む。
自分の最後の記憶は、七星剣舞祭第一回戦Dブロックの第四試合。百鬼紫苑との全身全霊を尽くした戦いだ。
そこで自分達は互いに致命傷を負いながらも、レフェリーが決して介入できないよう死力を振り絞り激闘を演じた。
ならばここは……。
「天国か?」
「いいえ、亡くなっておりませんよ。本当に辛うじて、ですが」
返事が返ってくるとは到底思っていなかった諸星は、勢いよく振り向く。この部屋に自身を閉じ込めた下手人である可能性もあったため、《霊装》も展開しようとしたのだが……それは失敗に終わる。
「あぁ、申し訳ありません。ここでは魔力は使用できないんです」
綺麗な所作で諸星に頭を下げる、藍色の和装に身を包んだ少女。ロングボブに整えられた黒髪に、サファイアの双眸。胸元の『日の丸』が彼女の所属を何よりも明らかに語っていた。
否、そもそも諸星には少女に見覚えがあった。
一言二言ではあるが、会話をしたこともある。
「……栞ちゃん?」
「覚えていてくださったんですね」
紫苑と同じ『国立暁学園』に所属する伐刀者にして、《
見渡す限りが白の空間にあって、自分と同じ色を有した存在に安堵を覚えるが……彼女の言から推測すれば、他ならぬ彼女こそがこの空間の支配者なのだろう。
こちら側を即座に害す意図はないようだが、一体何を目的として自分をこの空間に閉じ込めたのか。《霊装》は展開できずとも、それでも警戒を怠ることは出来ないと身構えたところで……。
「そう身構えないでください。こちらに貴方を害す理由はございません。ただ……少しばかり『内緒話』をする必要があり、『夢の中』へと招かせていただいた次第です」
「内緒話、やと?」
「はい。今回、私は日本国内閣総理大臣・月影獏牙の名代で参りました。諸星さんへ身体に起こった異変についての説明と、こちらからの『お願い』を聞いていただくために」
「……随分なビッグネームが飛び出してきおったな。なんや? もしかしてワイの身体に起こった異変は国家機密やとでも──」
「…………。強ち間違いとは言い切れませんね」
「………………マジか」
諸星としては単なるジョークのつもりだったのだが、まさかクリーンヒットするなどと誰が思うのか。
これを紫苑が言っていれば『いやいや、そんなわけあるかい』と返せたのだが……生真面目な栞が真剣な顔で言うのだから、冗談としても切り捨てられなかった。
「ですから徒に言いふらされると、こちらとしても相応の対応をしなければなりません。……くれぐれも、お口チャックでお願いしますね?」
「お、おう。わかった。どんと来いやで」
唇に指を当て『し〜』とウィンクする栞。
ふざけているようにも見えるが、声音が全くもって冗談などではなかった。
こちらが対応を間違えれば、即座に国家の力で圧殺されるだろう。流石の諸星もたった一人で国を相手にして勝てると思うほど驕っていない。
だが、諸星にはひとつ懸念点があった。
「でも栞ちゃん、大事なお話の前に一個えぇ?」
「はい、何でしょうか?」
「ここってざっくり言うと、栞ちゃんの《夢》の中で二人っきりで会っとる状況なんやんな?」
「えぇ。まぁ、そうですね?」
「浮気にならん? 大丈夫?」
「は、はい?」
栞は『この人は一体何を言っているんだ』という視線を一切隠さず、諸星に対して向ける。
本当に何を言っているのかさっぱりわからなかったからだ。
諸星に対して栞は恋愛感情の『れ』の字も抱いていないし、そもそもの話をすれば自分と交際関係にある者はいない。
そんな男女が二人きりで会っていたところで、ただ知り合い同士が会話しているだけであろうに。
そんな栞の考えは、
「だって栞ちゃん、紫苑の女なんやろ?」
「ゲホッゲホッ!」
諸星の爆弾発言によって吹き飛ばされることとなる。
「はぁ!?」
「流石に
「違います! ぜんっぜん違いますっ! 私と紫苑さんはそういう関係じゃないです!」
「え〜、んなわけないやろ。そうじゃなかったらあんな人目のあるところでいちゃついたり」
「いちゃついてませんっ!」
本当に何を言っているんだ、この人は。
確かに紫苑はお世辞にも友人が多い男ではないから、自然と自分と行動することが多くなるとはいえ。
それに諸星が言う『いちゃついている』というのは、彼の実家『一番星』に向かう一幕であろう。あれはあくまでも紫苑の心を慮った結果であり、断じて打算はない。
「まぁ紫苑呼ばへんのかって言った理由はそれもあるけど……アイツも途中で明らかに魔力増えよったやん。十中八九ワイと同じ現象が起きてたわけやし、説明するなら一緒にした方が手間省けるんちゃうかな〜と思って」
「はぁ……なら最初からそう言ってくださいよ」
大きく溜息を吐き、ぱちん、と栞は指を鳴らす。
瞬間、諸星と栞しかいなかった筈の空間にもう一人の男が出現する。
「………………」
白髪の剣鬼、百鬼紫苑である。
彼は周囲を見渡した時に諸星と栞がいた事、この目が痛くなる程の白い空間であったことから、ここが以前自分が幽閉された月影栞が展開する『夢の世界』である事を把握。
持ち前の適応能力の高さで現状を理解し、大した混乱もなく自分がこの場所に招かれた理由を把握した。
「どこまで説明したんだ?」
「まだ何も。諸星さんが紫苑さんもお呼びしたほうが良いのでは、と仰られたので招待させていただきました。貴方からも先輩として是非助言していただきたいです」
「……明らかに人選を間違えてるとは思うけどな。あぁ、わかった」
「いや、紫苑を呼んだ理由はそれだけやなくて──」
「はい? 何か仰いましたか?」
「いいえ何も」
諸星にとって小粋な冗句はもはや呼吸と言ってもいい。
加えて言えば、自身の恋心すら自覚しているか疑わしい、紫苑の背を押してやりたいという思いもあった。
ともかくなんとか紫苑と栞のコミュニケーションの機会を増やしてやろう。
そんなお節介を諸星が口走ろうとすれば、「余計なことをするな」と栞が黙らせてくる。
彼女の相好こそ気品ある微笑みだが、背後に名状し難き怪物が見えるのだ。
十重二十重と重なる触手。闇の中で燃える三つの眼。その威容は山の如し。
彼女が背に負う化身はこの世全ての暴力と畏怖を詰め込んだような、まさに『魔王』とでも呼ぶべき存在で──諸星は即座に口を噤んだ。
これは駄目だ。決して抗ってはならない、と本能で理解できた。
あれ以上からかっていれば、死すら生温い何かを味合わされていたのではないか、とすら思える。
(紫苑、あの娘を嫁さんに貰うんかぁ……)
絶対に尻に敷かれるな、とは口には出さない。
諸星も引き際というものは弁えているのだ。
「……?」
諸星の苦笑も恐怖も肝心の紫苑には伝わらなかったようで、首を傾げるばかりだった。
「……諸星さん、そろそろ真面目な話をしても構いませんか?」
こほん、という軽い咳払いをすれば諸星は栞に向き直り頷いた。これ以上、あの『魔王』の姿を見ているのも居心地が悪かった。
アレが姿を消してくれるのなら、喜んで真面目な話を聞くとも。
「──魔力とは伐刀者が世界に対してもたらす影響力の強さである、ということは諸星さんも知ってのことだと思います。故にそれは『運命』と称され、生涯不変のものであるとされています。ですが、それを覆す例外が存在します。自らの強固なエゴで運命の縛りを断ち切った者。彼等を我々は《
栞は続ける。
本来の運命では、紫苑と諸星の魔力が尽きた瞬間に諸星は敗北していたのだと。
だが魔力が枯渇してもなお、妹の声に応えんとした諸星は同時に運命を振り切った。
結果こそ紫苑に敗北してしまったが、それでも最後まで戦い抜く事が出来たのは彼がこの世界が『諸星雄大』という存在に許した限界を超越したからこそ。
その証明が『総魔力量の増加』という、本来あり得ざる奇跡であったということだ。
「あの時、諸星さんは通常の伐刀者とは異なる存在へと魂の階位を進めました。この《覚醒》を迎えた伐刀者は、訓練次第で総魔力量すら引き上げることができます。今回の趣旨は、貴方がそういう存在になったのだとご理解いただくと同時に、たとえ誰に対してもこの事を話さないようにお願いをするためです」
「……それがわからへんねんな。伐刀者の魔力が、訓練次第で引き上げられる。こんな事、秘密にしとく理由がないやん。栞ちゃんのおとんとしても国全体の伐刀者の基準が跳ね上がるなら、周知させるべきとちゃう?」
「いや、絶対に広く知られるべきではない」
割って入ったのは紫苑だ。
彼は極めて強い口調で、諸星の言葉を否定する。
「なんでや? 紫苑。お前が断言するなんて意外やな。お前ならてっきり賛成してくれるもんかと」
──百鬼紫苑に伐刀者としての才能は欠片としてない。
精々恵まれたと言えるのは魔力を有して生まれた事だけだろう、と紫苑は卑下する。
何をするにも要領が悪く、物覚えも悪ければ不器用でもあると来た。おまけに家柄も大したこともなければ、顔に関しても酷い……とは言わずとも、人に好かれるような顔立ちではない。
伐刀者以外であれば何であっても大成できる、と評される黒鉄一輝の劣化。それが紫苑の自己評価である。
勿論、諸星も栞もそのような事は考えていない。しかし彼がそう思っていることは理解している。
故に諸星は考えたのだ。
この《覚醒》こそ、《魔人》と呼ばれる境地は紫苑にとって垂涎のものではないか、と。
「……例えば、の話だ。お前の妹である小梅も、伐刀者であったとしよう。この話に出てくるあの子はお世辞にも伐刀者として大成できるだけの才能があるとは言えなかった。故にあの子は予備役として生き、お前の応援に徹そうとしていた」
伐刀者は《連盟》から騎士学校への入学を義務付けられている。
予備役と呼ばれる者達は、騎士学校を卒業しながら一般企業や店舗に就職し、緊急時のみ伐刀者として活動する者達を指す。
諸星もまた、予備役として実家のお好み焼き屋を支えようとしていた一人だった。
「だが、あの電車の脱線事故が起こった。お前は両足を失い、伐刀者として生きる道を絶たれ、あの子は酷く自分を責めた。自分さえ言い出さなければ、と。……そんな矢先、《覚醒》の事を知る指導者が現れる。そしてこう言うわけだ。『伐刀者は自身の努力次第で、魔力の総量すら上回れる。そんな存在に君がなればいい』と」
「……っ!」
紫苑の言葉に、諸星が目を見開いた。
彼は、自身の妹である小梅をこの場にいる誰よりも知っている。故に想像し、理解した。理解、してしまった。
彼が言う『もしも』
それが現実であった際に確実に起こるであろう、その絶望を。
「あの子は自分自身に強いるだろう。心も、身体も、自身の全てを壊し尽くしながら、己の運命を駆け抜ける自殺紛いの鍛錬を。『お兄ちゃんはもっと苦しかった』『私がお兄ちゃんから奪ったものを考えれば、こんなものなんてことない』……そんな事を想いながら」
そして、諸星は同時に自覚した。自分が、紫苑を放っておけなかった、その理由を。
この例え話に出てくる諸星兄妹。それはそのまま瀧華薫と百鬼紫苑の関係であり、諸星は無意識に紫苑に対して小梅と同じものを見ていたのだ。
諸星小梅は非伐刀者である。
それは魔力を行使し戦う伐刀者としての戦い、その舞台に立つ権利を最初から有さないという事を意味する。
これを諸星は残念に思ったことも、血なまぐさい世界に立たせずに済んだとどちらも考えたことがあるが、とんでもない。
小梅が伐刀者として生まれなかったことは、紛れもない幸運だ。
もし彼女が紫苑と同じように力を有して生まれてきていたのなら、先程紫苑が語ったことが確実に起こるだろう。それこそ、百鬼紫苑のように。
運命は生涯不変のものであったのなら、諦められただろう。自分の運命はここまでなのだと、自分の可能性を極めてもなお届かなかったのであれば仕方がない、と。
だが己の努力次第で超えられると知ったのなら? 今超えられていないのは、自分を甘やかしているからなのではないか? 自分が我が身可愛さに怠けているからではないか?
……ならば、彼らは己の心を粉微塵に砕いてでも自分を追い込むに違いない。
彼らは馬鹿が付くほど真面目で、優しくて、そして存在しない筈の罪を勝手に背負い、受ける必要のない罰を求め戦い続けるのだろうから。
「……それでも、まだマシな方なんですよ。その殺人的な鍛錬を他者に強要していないから」
勿論、周囲の人達からすれば全く以てマシなどではありませんが、と栞は更に続ける。
「日本のみならず、全世界の『軍事力』は伐刀者に大きく依存しています。自分達の国を守ることが出来る戦力は、多いに越したことはない。故に魔力の上限を壊す方法があると知られたのなら、それを自国の伐刀者に強制する方が必ず現れます。……いいえ、世論全体がそうなっても全くおかしくありません。
ですが、《覚醒》というものは第三者に強制されて至るようなものではない。それは実際に《覚醒》を迎えた諸星さんの方が御理解されている事だと思います」
「……そやな。ワイも小梅の声を聴いたから踏ん張れたんや。あれがアイツ以外のモンやったら、絶対倒れとる」
諸星があの場で《覚醒》を迎えられたのは、小梅の前で決して膝を折ってなるものか。彼女の前で、世界で一番格好いい兄であり続けたいという渇望だった。
これが妹の声でなく『七星剣王がこんなところで負けていい筈がない。まだ戦えよ』といった野次であったのなら、中指を立てて倒れ込んでいたという確信がある。
「紫苑さんが仰って下さったように、そのような殺人的な鍛錬を強制すれば悲劇しか生まれません。己自身やご友人、そしてこれから生まれてきてくれる全ての伐刀者の命と尊厳を守るため。《覚醒》及び《魔人》の秘匿にご協力をお願いします」
「おう、わかった。墓場まで持ってったる」
諸星とて一人の人間だ。
無論騎士の本懐として弱者救済、ノブレスオブリージュ……などという表現は大げさだが、それでも非伐刀者を守らねばならないという常識は染みついている。
そんな守るべき彼らに畜生や替えの効く武器、自分達に脅威が迫る前にそれを自動で迎撃する肉盾のような扱いをされるのはごめんだった。
頷く諸星に栞は「ありがとうございます」と頭を下げ、
「以上が『日本国内閣総理大臣代理』としての依頼。以降は『ただの月影栞』からのお願いになります」
「おっ、おう……。なんや、改まって。ワイ叱られたりする?」
「いいえ。ただのお願いです。ただこの話をするには《覚醒》関連の知識が必要となるので……」
栞は言う。
《覚醒》が『
だが、《覚醒》の事を知る一人の伐刀者はこう考えた。
『魂のみが人ならざる者へと変質したのに、器である肉体が人のものであり続けるなど可能なのか?』と。
その仮説を裏付ける存在を、栞は知っている。
──《大炎》播磨天童。
戦後最大のテロ事件《帝都ホテル染料事件》を引き起こしたテロリスト《天導衆》の首魁にして、《災害》の概念干渉系能力を有する生ける災厄。
《大英雄》黒鉄龍馬、《無缺》南郷寅次郎を有する日本が総力を挙げ討伐に挑むも、決して殺すことが出来なかった真性の怪物だ。
《魔人》は《覚醒》を経てその力を行使し続けると、人ならざる魂の影響が肉体に作用し始め、膨れ上がる魂に器が形を合わせようと変質し、膨大な力を獲得する代わりに人間性を喪失する。
「その現象を《覚醒超過》といいます」
「覚醒……超過……。覚醒、しすぎ。まんまのネーミングセンスやな」
「えぇ。勿論、常識の範囲内で力を行使していただく分にはこの現象は起こりません。現に黒鉄龍馬氏や南郷氏にはこの現象は起こっていませんから。ただ……貴方方の《覚醒》はあまりに早すぎた」
これまで諸星にのみ向けられていた視線が、紫苑にもまた向かう。
──諸星は十七歳、紫苑に至っては齢九つでの《覚醒》である。
栞の言う通り、通常であれば生涯をかけたとしても至ることができるか疑わしい境地に、この若さで辿り着いているその事が異常。
そもそもの話をすれば《覚醒》を迎えられた時点で人としての大切なネジは一、二本どこかに飛んで行ってしまっているのだが、それは詮無きことである。
「そしてこれからも貴方達は戦い続けるのでしょう? それをやめろ、などとは言えません。ですが……ひとつ、心に留めておいてほしい事があります」
「なんなんだ? それは」
「簡単な事です。『自分は多くの人に大切に想われている』ただ、その事を自覚してください」
紫苑であれば、姉である瀧華薫。
諸星であれば、妹である諸星小梅。
彼らは共に、大切な身内を原動力にして己の限界を超えた者達だ。
素晴らしい事だと、栞も思う。
彼らの一歩も退かない、意地と意地のぶつかり合いには栞だって胸が熱くなった。
だが、紫苑を想うのは瀧華薫だけではないし、諸星雄大を想うのは諸星小梅しかいないわけではない。
「貴方達が限界を超える理由になった人。それ以外の方にも、貴方達は慕われています。今日だってそうでしょう? 貴方達を応援する声が、称える声が、いっぱい聞こえて来たでしょう? その他にも一緒にくだらない話をする友達や、頂点に向かって切磋琢磨する好敵手も沢山いらっしゃるでしょう。彼らとの縁、そのひとつひとつをどうか大事になさってください」
《覚醒超過》とは自らの
渇望の殉教者にして、彼らを大切に想う人々の願いや祈りを「そんなもの知った事ではない」と自らの欲望で踏み躙る最低最悪の
故に栞は二人にはそうなってほしくはない、と彼らが人であるうちに縁を結ぶ。どうか、彼らが人であり続けられますように。人間として幸福を掴めますように、と。
「難しい事をする必要はないんです。すれ違ったら挨拶を返したり、昨日あった嬉しい事を話すくらいで。ご友人とは一緒に食卓を囲んだり、一緒に鍛錬をなさるのも良いでしょう。あぁ、あとは誕生日を祝ったり、だとか」
「そういった……人としての当たり前のことを、大事にしてほしい。そういう事やな? あぁ、わかった。ひとまず、試合見に来れんかったお袋とおとんに紫苑の事自慢してくるわ。こんな凄い奴とワイは戦ったんやって」
「えぇ、是非そうしてください」
元より諸星の事を、栞は然程心配していなかった。
およそ6年前の電車の脱線事故に巻き込まれ、両足を欠損した時や《白衣の騎士》薬師キリコが拵えた偽足を用いて復帰したばかりの時であればともかく。
戦い続けるうちに『妹の言葉を取り戻す』以外にも戦うモチベーションを見つけられたようだし、そも彼は小梅の言葉を取り戻したのである。むしろこれ以上ないほどに精神が安定しているといっていい。
故に先の栞の言葉は、この先大きな壁にぶつかることになるかもしれない諸星に対する忠告も兼ねていたが……何より、紫苑に対する警告でもあった。
だが、肝心の紫苑の反応が芳しくない。
「……? 紫苑さん?」
「…………ん? あぁ、悪い。考え事してた。別に話を聞いてなかったわけじゃないんだ。……耳が痛い話ではあったけどな」
良くも悪くも直球且つ即断即決のコミュニケーションを取る紫苑が呆けるだなんて、珍しい事もあるものだ。
けれど彼は近頃よくこちら側に子細な報告、連絡、相談をしてくれるようになった。養父である月影の傘下に入り、社会的責任の重要性を学んだのだろう。
好ましい傾向である。
とはいえ、過剰に彼の行動を制限するのも栞の望むところではない。故にこちらに関係のある事であれば折を見て、あるいはプライベートな事や自分に話しづらい事であれば一輝辺りの友人に相談するだろう。
自分と紫苑は異性。たとえ破軍学園にて同室で過ごしていようとも、己の全てをさらけ出せるような関係性ではない。男女のコミュニケーションと、同性のコミュニケーションは全くの別物なのだから。
故にここでは彼の『考え事』には触れず、微笑みを返すのみとして。
「相談ならいつでも乗りますからね?」
「あぁ、ありがとな」
一通りの話が終了した事と、紫苑と諸星に施された全身麻酔が抜けてきたこともあって栞主催の『《魔人》説明会』は解散となったのであった。
宿泊しているホテルビルとはまた別の超高層ホテルビル。
そこに5、6分ほど走って──これは魔力を用いた身体能力強化を施した紫苑基準である──その場所に辿り着いた紫苑は、受付に「人と会う約束をしている」と告げ、迷いなく最上階を目指すエレベーターに乗り込んだ。
所謂VIPルームに、紫苑の目的としている人物はいる。軽くノックをし、入室の許可を得た後扉を開けた。
「……お疲れ様、百鬼くん。もう身体は平気なのかい?」
紫苑が訪ねたのは、ワインレッドのスーツに身を包んだ老年の男。
日本国内閣総理大臣、月影獏牙である。
面会のアポイントを取ったのは、紫苑が目覚めてすぐ……即ち18時過ぎだ。国の代表に会う事を考えれば直近も直近という無礼であったにも関わらず、19時には紫苑のために貴重な時間を捻出してくれた。
故にまずはそのことに対して頭を下げた。
「はい。医療班から聞きました。俺達の治療には栞も関わってくれた、と」
おかげで快調も快調だと頷けば、月影は笑みを深めて応じる。
「それはよかった。君は我々の切り札だからね。万が一があっても困る。……あぁ、そうだ。何か飲むかな。アルコール……は流石に論外として、なにやらバレンシアオレンジを使ったジュースがおすすめらしいよ? どうだい?」
「……では、ありがたくいただきます」
こういう場面では遠慮しなくていい。むしろある程度我儘を言ってくれた方が嬉しい、と紫苑は月影から事前に言われていた。ならばこちらも素直に好意に甘えるのが礼儀であろう、と紫苑は月影からの酌を受ける。当然中身は酒ではないが。
おそらくは紫苑が訪ねてきたときのために事前に取り寄せてくれていたのだろう。非常にありがたい事だ。
「君の勝利に」
「ありがとうございます」
かちん、と軽くグラスとグラスをぶつけ、互いに一口。国内で夏に収穫される唯一の国産オレンジと喧伝される濃密な味と酸味で喉を潤す。
「……! 旨いですね。これ」
「良かった。もう何本かあるから、良かったら持って帰って栞と飲むといいよ」
「何から何まで世話になってすみません。それに突然会いたいなんて言ってしまって」
「気にすることはないよ。私は君に依頼をしている立場だ。都合ならいくらでもつける。それで……要件、というのは何かな。『栞には相談できない事』だというのは文面で見たけれど」
そう。
何も紫苑は高級オレンジジュースに舌鼓を打つために、わざわざ月影の下を尋ねたわけではない。
娘である栞には話せず、彼にしか相談できない事があったからだ。
「何か暁学園の計画で不明なところでもあったかな?」
「いえ、その……私的、な事で。こんな用件でわざわざ時間を作ってもらうのは、申し訳ないとは思うんですが」
紫苑が言い淀むなど珍しい事もあったものだ、と月影は彼の言葉に耳を傾ける。ましてや、私的なこと且つ栞には相談できない事とは一体なんぞや。
男同士のあれこれならば、わざわざ歳の離れた己を尋ねはしてこないだろうし……と思考を巡らせていれば、紫苑の言葉は明確な形となる。
「……栞の誕生日、っていつですか?」
紫苑は続ける。
諸星に対する《覚醒》の説明の最中、《覚醒超過》と呼ばれる現象についても話題に上がった事。
それを防ぐためには、自身を取り巻く日常。そこで繋がれた縁を大事にしていくことが重要であるという事。
そして栞と知り合ってからのおよそ3か月間、自分の日常には常に彼女がいてくれたという事。
言うまでもない事であろうが、紫苑と栞の関係性とは『栞が紫苑を世話している』のであって、断じて逆ではない。
料理は栞の担当であるし、洗濯も栞の担当。洗濯に関しては流石に下着を見られるのは恥ずかしい、と栞が率先して引き受けたものであるがそれでも世話になっている事実は変わらない。
掃除は半々で、買い物に関しては荷物持ちは率先して引き受けているが、それでも内容は彼女が決めている。
せめて生活にかかる金銭は自分が多めに出そうとするも、栞は頑なに平等に出し合おうとしている。
対して己。
果たして自分はこれだけの事をしてくれている彼女に対し、相応する何かを返すことが出来ているだろうか。
否。
断じて否である。
自分は彼女から貰うばかりで、彼女に何も利を提供できていない。『二人だとお弁当が作りやすくて助かりますね』とは言ってくれているが、最大の利である弁当を貰っているのはこちらである。
なんて不甲斐ない男なのだろうか。これではただ金銭に余裕があるだけのヒモと言われても何一つ文句は言えない。
そんな中彼女の方から周囲の人との繋がりを大切にしろ。誕生日とか祝ってもいいかもね、と言われたのだ。
散々もらった恩を少しでも返す良い機会。それがたとえ言われるまで祝おうという発想そのものが出てこなかった欠陥品の脳ミソであろうとも。歴史からは決して学べぬ愚か者であろうとも。
前進するその姿が好ましい物なのだと言い聞かせ……あろうことか、肝心の誕生日を知らなかったことに気が付いたのである。
もはや男だの女だのと言った問題ではない。
明らかに一人の人間として問題があるだろう、と紫苑は自信を省み、そして改めて己の欠点を改善すべく彼女の父親の下を訪ねたのだ。
そんな彼の言葉に月影はしばしの間呆気にとられたものの、噛み締めるように「そうか」と呟いた。
「もし過ぎていたらこの話はなかった事になりますが……」
「うん。でも大丈夫だよ。まだ彼女は誕生日を迎えていない。ただ……」
「ただ……? なんですか」
ひとつ大きな問題があった。
これに関しては紫苑の落ち度では決してない。強いて誰が悪いのか、と言えば他ならぬ栞が悪いという事になるだろう。
あれだけ親しくしておいて、自分の誕生日も教えていないのだから。彼は大いに困るだろうな……と苦笑しながら、続ける。
「明日、なんだよ。栞の18歳の誕生日は」
「は?」
彼のその顔は、『呆気にとられる』という表現の手本として辞書に載せられるほどであった。
「明日?」
「うん。明日」
──漢、百鬼紫苑。
七星剣舞祭の最中、もう一つの戦いの舞台が幕を開ける。
閑話で紫苑の修行エピは必要ですか(本編中でこんな事やった、というのは触れる予定)
-
いる
-
いらない
-
はよ本編仕上げろ