これからちまちまとやっていこうと思います
──西園寺栞は、どぶんと水に沈むような感覚を覚えた。
辺りは真夜中の海のように──いや、月明かりがない分夜よりも暗い。完全な黒で覆われた海のような場所に彼女の身体は浮かんでいた。
だが、息苦しくはない。当然だ。ここは海などではないのだから。
ここは《夢》の中だ。彼女の異能は時たま、このように彼女自身が夢だと認識できる夢──所謂、明晰夢を彼女に見せる。大体の場合はただそれだけで終わるのだが、今回はそうではないという直感があった。
──眼下で炎が燃えている。
電車の脱線事故だろうか。電車は住宅街に突っ込み、多くの悲鳴と絶叫が彼女の耳を突き刺すが、その光景はどこか朧気だ。まるでピントが合っていない写真のようである。
その理由を彼女は知っていた。
それらの景色は、この夢を見ている者にとっては些事に過ぎないからだ。言ってしまえばどうでも良い事であったり、記憶が朧気だからきちんとした輪郭を帯びていないのだ。
『薫姉! 起きてよ、薫姉ッッ!!』
そうした曖昧な夢の中で、唯一はっきりとした形となっている場所があった。
そこにはひとりの少年がいた。黒髪黒瞳の、一般的な日本人の容貌。あどけなく、平均よりも少し整っているその容姿は、涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっている。
そしてそんな少年に揺さぶられているのは、自分と同じくらいの年齢をしたひとりの少女だ。右腕はあらぬ方向に折れ曲がっており、右の横腹は肋骨が粉砕されているのだろう、大きく凹んでいる。頭からの出血も酷く、生きていたところで虫の息だろう事が火を見るよりも明らかだ。
やっぱりか、と栞は思う。今日の事から、予感じみたものは感じていた。
年齢も、容姿も、雰囲気も大きく異なる。されどこの夢にいる人物を──性格に言えば少年の事を知っていた。
これは
暗転し、場面が切り替わる。
夜の病院だ。月明かりが病衣を纏っている紫苑を微かに照らしている。
そんな暗がりで電気もつけずに、紫苑がテレビを真っ直ぐと見つめている。音声も遠く、テレビから発せられる音が何を言っているのかはよくわからない。
けれどテレビの映像だけははっきりと見えた。
それはひとりの少女が刃を振るう光景だった。伐刀者同士の試合だろう。少女が振るう刃は自身に迫る雷撃を払い落としながら、対戦相手だろう男へと突貫する。そしてそう時間も経たずに男を斬り伏せ、喝采を浴びる。
その剣技は、紫苑が普段振るう剣技と酷似──いや、全く同じ剣技《瀧華一刀流繚乱勢法》だった。
『……俺がこの剣を』
世界最強にするんだ。
真夜中の、誰も聞くことのない宣誓は夜の闇に消えていった。
場面が切り替わる。
彼が刀を振るっている。いや、訂正しよう。振るうという表現はあまりにも合っていない。言うなれば刃に振るわれているような、そんな光景だった。お世辞にも子供の棒振りごっこの域を出ない──否、その域にすら達していないあまりのもお粗末なそれだった。
しかし彼の瞳は、動きは、真剣そのものだった。間違いなく彼はごっこ遊び、などという理由で剣を振るっているわけではなかった。
というのも彼が振るっていた剣術は、《瀧華一刀流繚乱勢法》の剣筋にいくつか類似点が見られたのだ。しかしそれを見抜くのは並大抵のものではなく、洞察力に極めて優れた彼女だからこそそれに気付けたと言っていいだろう。それほどまでに……彼の剣は杜撰で、愚鈍で、弱々しかった。
──才能がないことは、誰の眼にも明らかだっただろう。
そしてしばらくして、看護師らしい女性が彼を連れ戻しにやってきた。体力を著しく消耗し、尚且つ病み上がりと言っていい彼は一切の抵抗が許されず、ベッドへと連れていかれた。
場面が切り替わる。
彼女が目にしたのは、和風建築の一軒家だった。庭は以前は整えられ、見事な植物が出迎えたのだろうが、それは見るも無惨な姿になっている。ここ数ヶ月の間、手入れがされていなかったのは確実だ。
夢の中の幼い紫苑は、鍵穴に鍵を差して扉を開ける。そこで彼女は玄関の表札に『瀧華』と書いてあることに今さら気がついた。
彼は玄関を上がり、それに栞も続いていく。そこで彼女の嗅覚は不穏な臭いを嗅ぎ取った。
──それは腐臭だった。それも食べ物が腐った匂いに極めて類似しているが、それとは違うとはっきりわかるそれ。彼女はこの特有な匂いを知っていた。以前嗅いだことがあったからだ。
この臭いは──人の死の臭いだ。以前、腐乱死体に出くわしたことがあったから気付けた。最悪のイメージが頭をよぎるが──イメージどころではないほぼ確実なことなのだけれど──紫苑を止めることはできない。あくまでもこの夢の主、見ている人間は紫苑であって彼女は彼が見ている夢の観客でしかない。見ることはできても、夢そのものには一切干渉できないのだ。
だからこそ彼は紫苑の後ろを歩いて、彼と一緒に夢の世界を見ていくことしかできない。
そしてふたりはその臭いの根元へとたどり着くことができた。できて、しまった。
──そこにいたのは、否、あったのはひとりの男の死体だ。年齢はおよそ40代後半~50代前半ほどの男性。非常に筋肉質であり、生前はひどく厳格な人だったのだろうと思わせる顔つきと体つきだ。
そんな男が、ダイニングキッチンで首を吊っていた。腐臭からもわかる通り、彼は確実に死亡しており、男の死体の回りをハエやウジなどの羽虫が飛び交っていた。
それを半ば認識できていないのか、紫苑はダイニングキッチンのテーブル。彼が首を吊っている真横ほどに置かれていた紙に視線をやって、それを手に取った。
『縺雁燕縺ョ縺帙>縺』
彼の脳が拒絶したのか、紙に書かれている内容を確認することはできなかった。文字化けし、それはまるで意思を持つかのようにふよふよと浮かび、四方八方に飛び去った。
そんなときに、栞は聞く。
何かが崩れ去るようなけたたましい音。それが彼の心があげた断末魔だということを理解するのに、さほど時間はかからなかった。
場面が切り替わる。
最所の頃から身長も伸び、体つきも男性のそれになってきた彼が剣を振っている光景だ。しかしそれは最初に見たようにひとりで振っているのではなく、どうやら模擬戦相手がいるようだ。顔の形や輪郭こそひどく曖昧で、影のように見える。そしてそれを見ている人間がふたり。ひとりは禿げ頭の好好爺めいた杖を持つ老人に、赤い着物装束を着崩した幼女。そこだけははっきりとしていて、そのふたりを彼女は知っていた。
『南郷寅次郎に……西京寧々……?』
それは日本を代表する魔導騎士のふたり。彼らが師弟関係にあり、南郷寅次郎が自分の見込んだ騎士を自分の弟子にすることは有名な話だったが、まさか紫苑も弟子のひとりだったとは。
それにしては彼の戦術からは南郷寅次郎の気配は感じないけれど、それも彼の《瀧華一刀流繚乱》──いや、瀧華薫への想いを考えれば当然か。彼は小さかったため、今もその想いを自覚はしていないのだろうが彼の彼女への想いは恋慕に近しい。そんな彼女の剣術を会得しようとする彼が、彼女以外に由来する技術を取り込もうとするとは思えなかった。
やがて紫苑の持つ霊装が弾き飛ばされ、南郷から彼の敗北が告げられた。
それが幾度も幾度も──数にして千は越えるほどに繰り返された。
場面が切り替わる。
更に彼は大きくなった。齢にして12ほどだろうか。
彼の剣は更に精錬され、対戦相手だろう影を《幻想形態》である霊装で叩ききった。影から赤い光が溢れだし、地に伏せる。南郷からの勝利が告げられ、西京寧々からは称賛されるも彼の表情は暗かった。
それも、夢を見ている栞にはわかった。彼の心を埋めるのは焦りだ。どれだけ戦っても、どれほど鍛練を積んでもこれ以上強くなれなくなっていた。彼は今、壁にぶつかっていたのだ。
しかし彼は愚直に努力した。いやそれしか知らなかったと言っていいだろう。彼は「次!」と吠え、別の影と向かい合い、剣を交えた。それにも勝利する。
次、勝利した。さらに次、勝利した。その次、勝利した。
そうして幾度も幾度も幾度も幾度も勝って、勝って、勝ち続けた。
そんな時だった。
ぎちり、と。
重く堅い鎖が、どこかで擦れるような音がした。
場面が切り替わる。
そこは今までの光景とは違って、非常に現実場馴れした光景だった。
そこは吹雪が吹いていた。しかしその雪は黒く、そのひとつひとつが刃であるかのように彼の身体を突き刺した。そしてそれらがもたらす厳冬もまた、彼の身体に牙を剥いた。
その痛みに彼女もまた顔をしかめた。100%とまでは言わないが、彼が味わう痛みが観客である栞にも襲いかかってくるからである。
そんな時だった。
カンカンカンカン、という音がこの黒い世界に響き渡った。
その瞬間、吹雪は少しだけ大人しくなり周囲の様子が明らかになる。そこは線路の上だった。踏み切りが降り始め、彼の目の前から風を切りながら電車が猛スピードで迫る。その電車は血のような赤で染まっていた。
「やめ……!」
意味がない、とわかりながらも彼女は彼を守ろうと飛び出そうとした。飛び出さずにはいられなかったのだ。
彼の電車に対する恐怖は絶対だ。
愛しい姉を奪い、そして彼の心に決して癒えることのない傷を刻み込んだ。そんなものを彼に届かせてはいけないと。
しかし観客風情が舞台に上がるなと言わんばかりに、彼女の足は夢によって縛り付けられる。
彼の顔が恐怖に染まった。必死に逃げ出そうとすれば、彼の足に雁字絡めになった黒い鎖がそれを阻み──
「やめなさい──!!」
彼女の絶叫もむなしく、彼は電車に轢殺された。
彼だった肉片とピンク色の脳、臓器が周囲に散らばって黒い雪を赤く染めていく。
そしてそれは繰り返される。
彼の肉体を傷つける黒き冬。そして再び対峙することになる死の象徴。それに嫌だ嫌だと身体を捩る百鬼紫苑。そして再び彼の身体は列車に踏み潰される。
繰り返す。
列車に轢き潰され、そこには彼だったものが残った。
繰り返す。一切の抵抗もできないまま轢き殺される。
繰り返す。轢き殺される。
繰り返す。轢き殺される。
繰り返す。轢き殺される。
轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。轢き殺される。
そうやって何度も何度も、一切の抵抗ができないまま轢き殺され続け、彼の意識が現実へと浮上する。
『ハァ……ハァ……ハァ……ッェ。オ゛エ゛ッ……!!』
現実に浮上した瞬間、彼は嘔吐した。
幾度も幾度も夢の中で死んだ。一切の抵抗もできず、自身のトラウマと相対し続け、敗北を喫し続けた。
異変を察知した影──おそらくは南郷の弟子のひとりだろう──何かを叫んで、急いで外に駆けていった。そうして然程時間が経たずして、南郷と西京、そして影の何名かが彼の周りを囲んで、何名かは彼が吐瀉物をぶちまけた後始末をし、そのひとりが彼の背中を優しくさすっていた。
──そうしてやれない事が、大丈夫だと抱き締めてやれないことが、栞には何より歯痒かった。
『紫苑……辛いかもしれんが、教えてくれぬか。お主、何と相対した?』
『……電車、です。踏み切りが、下りて足には、鎖が黒い鎖が、絡み、付いて、いて。逃げ、ようと。思っても逃げられなくて。それで、ずっと轢きッ、殺され……』
嗚咽を溢し、目からは大粒の涙を溢しながら。つっかえつっかえになりながらも彼は告白した。
自身が味わってきた地獄。その全てを。
『なぁ、ジジィ……』
『あぁ。間違いないじゃろうな。……悪いが、ワシと寧々、紫苑だけにしてくれんか』
南郷は周りの弟子達に告げる。
全員が、こんな様子の紫苑を置いていくなんてできないと渋ったが、彼が真剣な眼差しに気圧され、彼らは出ていった。
『なぁ紫苑、今からお主の身に起こったことを説明する。落ち着いてきいてくれ』
『…………はい』
『お前に起こったことは……《魔人》化の兆候だ』
寧々は説明する。
伐刀者が自身の可能性を極めきり、それでも足りないと手を伸ばした時になれる存在であること。そうなったときに起こる事の全て。
そして紫苑が見た夢は、そうはさせまいと運命が必死になって見せた絶望であること。運命の外に至るということは、運命の保護下から出ていくということ。
『《魔人》……』
『そうじゃ。……しかし寧々も説明したが、《魔人》になるということは運命の外に出るということ。その先では今まで出会わなくてもよかった厄災と出会うことに繋がる。だが、運命の内にいる限りそこには相応の幸福が保証される』
『相応……』
『《魔人》になれるからといって、その先に踏み出さなきゃいけないわけじゃねぇ。事実、お前と同じところに至りながら引き返した人間だっている。先に進むか、引き返すか。決めるのは、お前だ』
『俺は……』
夢の中の彼らの説明を、栞は静かに聞いていた。
それは彼女にとって既知の事であったからだ。
なにしろ……寧々が言った『《魔人》になれたのに、そこで引き返した人間』こそ西園寺栞であったからだ。
『……先に、進みます』
『そう、か。……ならば《魔人》の先達としてひとつ教えておこう』
ピッ、と南郷は人差し指を立てる。
『「俺は絶対に勝てる」、そう信じるんじゃ』
『「俺は絶対に勝てる」……』
『そうじゃ。自分を信じろ。今まで積み上げてきた努力を信じろ。そこに賭けてきた自分自身の想いを信じろ。自分は負けないと吼え続けろ。さすれば……運命は必ず引きちぎれるじゃろう』
『……わかりました』
そうして、彼の運命を引きちぎる戦いが始まった。
二回目。惨敗。栞が数えられる内で5000を越えるほどに繰り返され、その全てが一切の抵抗を許すことなく轢き殺された。
三回目。惨敗。3000を越える挑戦をしたが負け続けた。しかし夢の中で自身の霊装を展開することに成功。最後の辺りでは電車に向かって刀を振り下ろしたが……その全てが呆気なく蹴散らされた。
四回目。刀を振り下ろしたが、前日と同じくその全てが呆気なく砕かれた。その後、彼は起きて刀を振るった。次こそは負けはしない、そう決意を抱いて剣を振るった。
そうして……黒星の個数が二万を越えた頃、電車を僅かではあるが刃を立てることに成功した。
しかしその代償は極めて大きかった。
彼の黒かった髪は尋常ではないストレスのせいかその大部分が白く染まっており、満足に睡眠を取れていないせいか目元には隈が濃く刻まれている。そして眠ろうと思えば、あの電車に轢き殺され続けるのだから満足に眠ることもできず、運命への戦いを迫られる。
そんなことを続ければ、紫苑の心が再び砕かれるのは時間の問題だろう。それに……栞は、自分の運命に挑み続ける彼の姿を直視できなくなっていた。
当然である。自分が逃げ出したところに彼は挑み、そしてその先へ至らんと必死に努力を続けている。どれだけ打ち砕かれようとも、敗北を喫しようとも、立ち上がり、そして前へと進んでいく。その姿が……彼の表情が、あまりにも痛々しくて。
もうやめてくれと何度懇願しただろう。
彼がどうしてそこまで努力しなければならない? どうしてそこまで傷つかなければならないのだ、と彼女は誰かに問うわけでもなく彼女の口から溢れていた。
すでに運命に挑み続けて一週間。電車に轢殺された回数は3万を越え、その痛みを、心の絶叫を、栞の心は受け止めている。もはや紫苑ではなく、栞の心が限界だった。
自分が動けるのなら、今すぐにでも彼を助けることができるのに、と。自身の力の無さを呪い、通算3万5195回目の事だ。
彼が刀を振り上げる。
その一刀は、これまでのそれとは大きく異なると一目にわかった。ギチギチ、と彼が握る霊装からは霊装自身が悲鳴を上げるような音が聞こえ、全身の筋肉が彼の外見とは比べ物にならないほどに隆起。それに彼を縛り付けている運命の鎖もまた、軋んでいた。
彼の目からは恐れが消えていた。ただ振り上げた刀を振り下ろすことしか考えない、そう如実に語っていた。そして──、
『────』
彼が小さく呟くと、刀を振り下ろす。
それは一瞬ではあるが何も起こっていないのではないかと錯覚させ……次の瞬間、電車は先頭から最後尾まで一刀両断され、彼の足を縛っていた運命の鎖もろとも叩き切った。
瞬間、場面は切り替わる。
場所は雪原だった。以前のような黒い雪が降っているというような異常事態はなく、されど身を刺す寒さだけは彼の心の中で体験した地獄のそれとは一線を画すほどに冷たい。
その雪が当たった場所が瞬間に凍りつくのではないかという、絶対零度を思わせる白の中で唯一燃え上がっている物があった。
それは──《鬼》だった。《鬼》としか言えない何かが、その雪山の上に身体を赤黒い炎を、瘴気のように纏いながら佇んでいた。そして……彼が立っている場所が、積み上げた屍の上だと気がつくのにそう時間はかからなかった。
屍から溢れた血は赤黒い河を作り、無数の屍は彼女が見上げなければならないほどの山を作っていた。
屍山血河の頂にて佇む鬼神と目があった。瞬間、彼女自身の意識が浮上していくような錯覚を覚えた。