カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

104 / 132
古代編 2

 この世ではないどこかに通じるというアイーシャ夫人の孔に吸い込まれた護堂たちは、気付けば麗らかな太陽の下にいた。

 トンネルを抜ければそこは雪国――――ではなく春の森であった。

 数十秒前まで足元にあった雪は見る影もなく、深い緑に埋め尽くされた森に護堂たちは囲まれていた。

 目の前には、濁った川が轟々と音を立てて流れている。

「……なるほど、アイーシャ夫人の権能ってのは、こういうものか」

 護堂は呟いた。

 サルバトーレが暴走させた孔の中に引きずり込まれ、まったく知らない土地に放り出されることは覚悟していたが、季節まで変わってしまうとなると、事前に得ていた情報の通り時間すらも超越してしまった可能性が高かった。

「本当にSFだな。神様と戦ったりしてなかったら、大混乱してたところだ」

「護堂さん。いくらなんでも順応が早すぎます」

 リリアナが呆れたように呟いた。

 彼女も神々の戦いに巻き込まれた経験はある。ヴォバン侯爵に招聘された際にサルバトーレとジークフリートの戦いを目撃しているし、護堂とヴォバン侯爵の戦いにも参戦していた。権能を持つ者が、どれほど理不尽な力を振るえるかは身を以て理解しているが、これはあまりにも規格外ではないか。

 少なくともリリアナが知る権能は、兵器として優れているものであった。

 護堂にしろ、ヴォバン侯爵にしろ、サルバトーレにしろ、彼らの権能はものを破壊する力が強大であるが故に最強の生命体たりえている。しかしながら、アイーシャ夫人の権能は方向性があまりにも異質すぎる。この権能は直接的には脅威にはならないだろう。しかし、引き起こす奇跡のレベルはただ物を壊すだけの権能とは段違いだ。

「権能というよりも、魔法といったほうがいい気もします」

「かもなぁ。おまけに、トンネル閉じちまったし、アイーシャさんを探すかサルバトーレをここに連れてくるしかなさそうだな」

「そうですね。後は、有能な巫女なり魔女なりを何人も集めて、満月の夜などの時期を見計らって儀式を執り行う手もありますが、現実的とは言えませんね……」

「まずはここがどこでいつなのか、だな。ただ移動しただけなら問題ないんだけど」

「時間まで移動しているとなると、本当に厄介ですね」

 解決策は二人のカンピオーネのどちらかに出会い、この孔を開けてもらうしかない。

 しかし、アイーシャ夫人の人となりはよく分かっておらず、カンピオーネに出会うということはそれだけで厄介事を運んでくることでもあるので危険を伴う。サルバトーレに関しては協力を仰ぐだけ無駄だろう。

「何か色々と詰んでる気がするな……」

「とにかくここを移動したほうがよさそうですね。サルバトーレ卿の行方も捜さないといけませんし、森の中にいても始まりません」

「まずは人里か」

 護堂はサルバトーレの権能の影響を受けて暴発した晶の様子を窺った。

 霊体となった晶は、護堂の背後でふわふわと漂っている。常人には姿を見ることすらできないが、魔女であるリリアナは気配を捉えることができるようで、しばしば気にかけている。

「晶のほうの調子も悪くなさそうだ。若雷が効いているな」

 回復能力のある若雷神の権能は、護堂だけでなくその周囲の人間を治癒することも可能である。また、晶自身が護堂の権能の一部を借り受けることもできるので、サルバトーレの権能の影響をそうそうに排除することに成功していた。

「どっちに行く?」

 まずは川の上流か下流か。

 木々に囲まれたこの場所は完全に閉鎖されている。道はなく、人の気配も皆無。動物の気配は、小鳥の囀りだけといった状況である。

「少し、お待ちください。目を飛ばして周囲の様子を窺ってみます」

 リリアナは目を瞑り、視覚を遙か上空に飛ばした。

 魔女の目を使い、広範囲を一息に調べてしまおうというのである。

 空から見れば、人里も道も一目瞭然である。

 目を開いたリリアナはため息をついた。

「森の先は見渡す限りの平原ですね。ただ、人工的に整備されたと思われる道がありました。とりあえず、そこまで移動しましょう」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 そして、尋常ならざる時間旅行に巻き込まれてから四日が経った。

 護堂とリリアナ、晶の三名は最初に訪れた農園の主に手厚い歓待を受けて比較的快適な生活を送っていた。

 屋敷の主の名はフリウスといい、ローマ人の血を引く貴族階級で、かつては近くの市で議員を務めていたらしい。積み上げた私財で以て農園を開き、この小さな集落の長老として村人を纏め上げている。

 そんなフリウスは護堂に自らの屋敷を献上し、家族と共に別邸に移り住んでいる。

 神殺しの雷鳴がこの時代でも通用する――――ということではなく、別の誰かと人違いをしているらしい。

「ウルディン、という人物をこの村の人々は恐れているようです。あの川辺の砦がその人物の居城で、『テュールの剣』などと呼ばれているそうです」

 数日前に降り注いだという猛烈な豪雨の影響で濁りきったライン川の川辺を散策しながら、リリアナは護堂に教えてくれた。

 西洋の地理関係に疎い護堂はライン川と聞いても名前くらいしか聞いたことがない。ましてやここは過去の世界である。現代と地名が一致するはずもなく、護堂や晶だけでは途方に暮れていたことであろう。

「ガリアってフランスあたりだったっけ」

「ガリアといっても広範になりますから一概には言えません。例えばここはわたしたちの時代ではスイス領のはずです。ガリアとゲルマニアの境界で、まさしくローマ文明の末端というべき場所に位置します」

「名前くらいは聞き覚えがあるなぁ。一応、世界史の授業でやったんだよな」

 リリアナが貨幣や調度品、地名や人名を調べた結果、時代としては五世紀の前半であるとのことであった。

「激動の時代だよな。ゲルマン民族の大移動があったころじゃないか?」

「はい、そうです。ゲルマニア方面から他民族に押し出される形で南下したゲルマン民族――――主にゴート族などがローマ帝国と緊張状態となり、やがてローマの崩壊にまで至る一連の民族移動ですね。あの砦の主は、その要因を作り出したフン族の者ではないかと思います」

 と、リリアナは砦を眺めて言った。

「それも聞いたことのある名前だな。匈奴だかを先祖にしてるって話だったっけ」

「はっきりしたことは分かりませんが、有力な説の一つですね。遊牧民族であり、古代ローマの人々に最も恐れられた異民族の一つです。そして、ゲルマン諸民族と異なり、彼らはアジア系だったとされています」

「それで、俺が怖がられたわけだ」

 護堂はやっと納得した。

 西洋人は日本人の顔の区別がつかないという話は聞いたことがある。

 それが誇張されたものではあるにしても、この時代の西洋人がアジア人を見慣れているはずもない。まして、肌や顔立ち、髪色などの大まかな特徴だけが広まっているのであれば、当然のように護堂をウルディンという人物と間違えても仕方がない。

「それにウルディンという名前も重要です。彼は個人名が知られるフン族では最初の人物になります。詳しくは歴史にも残っていませんが、重要人物であることに間違いはありませんね」

「そっか、過去の世界だもんな。歴史上の重要人物に出会うことも不可能じゃないのか。それはそれで、興奮するな」

 護堂は砦を眺めて呟いた。

 生憎と今、あの砦の主は長期の出征に出かけたらしく不在の模様である。

「五世紀の前半で有名な人って誰がいましたっけ?」

 と、尋ねてきたのは晶である。

「失礼を承知で言うと、微妙な年代だよな……日本は、古墳時代だからな」

「百五十年前に卑弥呼が生きていたって思うと、浪漫がありますけどね」

「言われてみると確かにそうだな」

 まったく思いつかなかった。

 イメージ的に卑弥呼は古代の人間のようだが、世界史の視点から見れば比較的新しい時代の人物だ。活躍は二世紀の中頃なので、五世紀前半に飛ばされた護堂からすれば邪馬台国の時代から百五十年程度の開きしかないことになる。それは、現代と明治時代初期くらいの差である。

「西洋で言えば、やはりアッティラ、ガイセリック、アラリック一世でしょうか。どれもローマを脅かした異民族の王ではありますが」

 と、リリアナが名を上げる。それぞれ、フン族王、ヴァンダル王、西ゴート王である。

「ローマの有名人っていないのか?」

「そうですね。今の西ローマ皇帝はホノリウスという人物ですが、暗君で有名ですね。ゴート族を恐れてラヴェンナに引き篭もっているといいますし……有能な人物は、アエティウス将軍などどうでしょうか」

 アエティウス将軍。

 聞き覚えのない名前に護堂も晶も首を捻った。

「西ローマ帝国を異民族から守り続けた英雄です。もっとも、完全に異民族を排除していたわけではなく、フン族の傭兵を雇い入れるなど柔軟に対応していたようです」

「フン族の傭兵?」

「はい。この時代のローマは足りない戦力を補うために度々傭兵を雇い入れていたのです。アエティウスはフン族の傭兵部隊を駆使してブルグント王国を滅ぼしますが、これは『ニーベルンゲンの歌』の成立に大きな影響を与えます」

「ジークフリートの伝説だったな。サルバトーレが面倒な権能を手に入れた元凶ってわけだ」

「いえ、まあ、アエティウスも千五百年後にそのような影響を与えるとは思っていなかったでしょうけど……」

 しかし、結果的にサルバトーレ・ドニはジークフリートを倒して鋼鉄の肉体を手に入れ、時を遡って五世紀のガリアに侵入を果たしてしまった。彼がこの時代でどのように大暴れするのか未知数ではあるが、もしもジークフリートが存在しなければ、どうなっていたのだろうか。歴史を遡ったことで、そういったIFの状況を想像しやすくなってしまった。

「そろそろお昼時ですし、このあたりで食事にしませんか?」

 リリアナの手には簡素なバスケットが握られていた。

「そうだな。晶は?」

「いただきます」

 基本的に護堂たちにするべきことはない。

 五世紀のガリア地方は田舎も田舎。娯楽が氾濫していた時代の人間からすれば、あまりにも無駄がなさすぎて息が詰まる。しかし、その一方で為すべきことが明確であり、日々を素朴なままに道に外れることなく生きている人がいる。何かに追い立てられるように生きる現代の人間にはない空気感のようなものを護堂は感じていた。

 ネットもなければテレビもない。もちろん、本もないのでは手持ち無沙汰になるのも無理はない。

 情報収集にも限界があり、早くも護堂たちの冒険は行き詰まりつつあった。

 リリアナがどこからともなく取り出した敷物の上に腰を下ろし、改めて大河を眺める。

「正直、今でも夢を見てるみたいだ」

「同感です。可能な限り早く元の時代に戻りたいところですが、卿の行方も分からずアイーシャ夫人を探す手掛かりもないとなれば、難しいところですね」

「サルバトーレ卿なら、そのうち大きな問題を引き起こしてくれる気がしますけどね」

 晶の言葉に、護堂とリリアナは苦い表情を浮かべて頷く。 

 確かに放っておいても風聞は聞こえてくるに違いない。 

 あの男は、問題を起こすことを目的としてこの時代にやって来たわけだから大人しく歴史の闇に埋もれることをよしとするはずがない。

 もちろん、そうなったらそうなったで後世に与える影響などがどうなるか分からないという大問題が発生する。

 それを気にかける男ではないということがさらに輪をかけて護堂たちの心に重く圧し掛かった。

「と、とにかく今は重く考えても仕方がありません。サルバトーレ卿を見つけ出すことは難しくないと、前向きに捉えることにしましょう!」

「あ、ああ。そうだな」

 頷いた護堂はバスケットの中身に目を向けた。

 蓋代わりのハンカチを取り去ると、中からは綺麗に切り揃えられたサンドイッチが現れた。

「おお、これはまた……」

「お口に合うか分かりませんが、どうぞ、ご賞味ください」

 と、リリアナは少し恥ずかしがりつつ護堂にサンドイッチを進めてくる。

 リリアナが朝に台所を借りて料理をしたのだという。

 護堂はそのうちの一つを取り上げて口に運んだ。

「これ、上手いな」

 キャベツのシャキシャキとした食感に卵マヨネーズの味がよく合わさっている。王道の組み合わせではあるが、現代のものよりも酸味が少ない。手作りだからか、それとも材料の影響か。

「ありがとうございます。作った甲斐がありました」

 嬉しそうにリリアナは微笑む。

「やっぱりリリアナさんって料理上手なんですね。そんな気はしてましたけど」

 晶も一口食べて感心したように呟いた。

 それでも、その口調にはどことなく悔しさを滲ませているようにも思えた。

「あなたは普段料理はしないのか?」

「し、しますよ。人並みには。一人暮らしですし……まあ、リリアナさんほど上手くはないですけど……」

 などと、予防線を事前に張っておく。

 本当は、対抗したいところだったが、到底敵わないとすでに白旗を揚げてしまっていた。

「晶だって十分料理上手だろ。得意不得意があるってだけで、卑下することないって」

 そんな晶を護堂がフォローする。

「あ、ありがとうございますぅ……!」

 落ち込みつつあった晶は、その一言だけでにへらっとだらしない笑みを浮かべて敗北感を消し去った。

 現金な女だという自覚はあるものの、他者の評価などどうでもいい。護堂から誉められたという一事を以て万事と為すのだ。

「そんな先輩にせっかくですのでわたしから、これをプレゼントします」

 と、晶は転送の術で真っ赤な球を呼び出した。

 差し出した両手の中に転がり込んだのは、赤々と熟した見事な林檎だった。

「お、デザートか」

「この季節にどうしてそんなものが?」

 単純にフルーツの登場に目を輝かせた護堂に対し、リリアナは現実的なツッコミを入れる。

 主に秋から冬の食べ物という認識である林檎が、完熟した状態でここにあるのが意外だったのだろう。

「というかどこから持ってきたんだ?」

 リリアナは護堂の手に移った林檎を眺めて、晶に尋ねた。

「作りました」

「は?」

 リリアナは意味が分からないという風に首を傾げた。

「作ったってどういうことだ?」

 リリアナの疑問を代弁するように護堂が尋ねた。

 すると晶は胸を張って答えた。

「もちろん、林檎の木からです」

「いや、まだ時期じゃないから無理だろっていう話なんだが」

「ふふん、そうでもないんですよ先輩。わたしの本質をお忘れですか?」

 と晶は意味ありげに笑みを浮かべる。

 しかし、本質と言われても護堂にはピンと来ない。

 どういう意味での本質なのだろうか。

「例えば、そう。こういうこともできるわけです」

 と、晶は近くに生えていた草の一本に触れる。

 晶の指先から呪力が草に流れ込んだかと思えば、瞬く間に草が成長し、一メートルほどにまで丈を延ばして小さな花を咲かせた。

「な……!?」

 リリアナが驚愕して目を見張った。

 大地に属する神の気配を感じ取り、護堂もまた感嘆する。

「そうか、クシナダヒメか」

 高橋晶という少女を構成する要素は複数の権能と呪術からなる。

 御老公らが生み出した転生の秘術と護堂が有する式神の権能、そしてまつろわぬ法道が用意したクシナダヒメの竜骨とそれに魂を定着させる呪術といった具合に雑多な力が組み合わさっている。そのため、晶は護堂の式神でありながら護堂なしでも存在することを可能とし、その一方で跡形もなく消し飛ばされるような事態になったとしても護堂が無事ならば蘇ることができるというカンピオーネが従える神獣にも似た状態を手に入れた。ヴォバン侯爵のゾンビが、ヴォバン侯爵なしでも活動できるようになったという感じだろうか。

 そうして様々な要素で成り立つ晶であるが、その身が肉を持っていたころから親しんでいた神力はクシナダヒメのものであり、晶の特異な巫女としての能力もこれに起因している。晶自身が、本質と呼ぶのもこのためであろう。

「最近になってやっとある程度コントロールできるようになったんです」

「クシナダヒメ、というと確か日本神話に登場する女神だったな」

「お、知ってますか」

 晶は身を乗り出してリリアナに尋ねた。

「これでも、そこそこ日本には詳しい自信があるんだ。それにしても、事情は聞いていたが権能に近い能力まで持つとは、護堂さんの陣営はずいぶんと層が厚い」

 晶だけでなく、恵那や祐理といった世界に通じる若手が一堂に会している。あまり会話を交わしていない明日香についても、色々と驚かされる何かがあるのではないかと疑ってしまうくらいに、護堂の仲間は才に溢れていた。

「すばらしいことだ。わたしも、うかうかしていられないか」

 同世代の少女たちが着実に力を付けている。

 彼女たちは『まつろわぬ神』やカンピオーネの戦いを身近で見て、時には巻き込まれることで実戦経験を積んでいる。

 大騎士という立ち位置に甘んじていては、この先取り戻せないくらいに引き離されてしまうかもしれない。

「まあ、これをわたしの実力と言っていいのかどうか分かりませんけど」

「実力は実力だろう。先天性だろうが後天性だろうが、それが自分の力であることに変わりはない。それをどう使うのかが重要であって、実力や才能云々は後付けの理屈でしかないと思う」

 リリアナは素直に晶の力に感服し、それを羨ましいと思いつつも認めた。自分にはない力を羨んでいても仕方がないことであり、自身の成長のためには自分を磨く以外に術がないと分かっているからであった。

「人それぞれだな。リリアナにはリリアナの得意分野があるし、晶には晶の得意分野があるというくらいなんだろうな。まあ、それにしたって食べ物を作れるのは、こういうときには便利な力だな」

「確かに、そうですね。この時代では特にこの能力は大きな役割を果たしてくれるでしょう。道に迷っても、餓える心配がないのはありがたい」

「え、そうですか。まあ、確かに食糧事情を改善することはできるかもしれないですけど……うん?」

 晶が不意に川の上流に視線を向けた。

 それにつられて、護堂とリリアナもそちらを向く。

 陽光を受けてキラキラと輝く大河。

 その中心に、水面よりも綺麗に光を反射する球体を見つけて、首をかしげる。

 ゆらゆらと、川を流れる白い――――繭。

 遠目からでも美しい紋様が表面に走っているのが見て取れた。

「ッ」

 その瞬間に走った衝撃は、この時代に飛ばされてから始めてのものであり、同時にこの一年の間に慣れ親しんでしまった感覚でもあった。

 リリアナと晶も気付いた。

 護堂の肉体はすでに活性化して、全身が武者震いを始めている。

 もはや、改めて確認するまでもない。

 あの川を流れてくる繭の中に、『まつろわぬ神』がいる。

 護堂は跳ね起きるようにして立ち上がった。

 リリアナと晶は警戒して中腰になって、繭を凝視する。

 流れてくる繭はゆっくりと岸に近付いてきて、やがて葦に引っかかって止まった。

 護堂たちから、およそ三十メートルほど離れている場所である。

「晶とリリアナはここで待っててくれ。俺が様子を見てくる」

 敵意ある『まつろわぬ神』だった場合、対抗できるのは護堂くらいのものである。晶でも何とかなる場合もあるだろうが、それでも護堂がまずは確かめるべきである。直感に優れた護堂ならば、敵の不意打ちにはある程度は余裕を持って対応できるということもある。

「気をつけてください、護堂さん」

「先輩、危ないと思ったら、まずは距離を取ってくださいね」

「分かってるって」

 護堂は一目連の権能で楯を生成して左手に持ち、そして様子を窺いながら純白の繭に歩み寄っていく。

 繭と護堂は葦の林を挟んで対峙した。

 距離にして、五メートルもない。

 護堂が相手を認識しているように、相手も護堂のことを感じ取っているだろう。

 それがカンピオーネと『まつろわぬ神』との数千年に亘る逆縁なのだから。

 しかし、ここまで護堂が近づいたにも拘らず、繭はピクリとも動かず小波を受けて揺らぐだけであった。さすがに不審に思って護堂は神槍を召喚し、邪魔な葦を一息に刈り取った。

 この一連の行動によって葦に引っかかっていた繭がくるりと回った。

 月の表と裏がひっくり返ったかのように、隠れていた反対方向が護堂の目に触れる。

「え……!」

 思わず、声を出してしまった。

 純白の繭は、その三分の一ほどが破壊されていたのである。

 そこまで壊れていれば、もはや繭とは呼べまい。沈みかけたゴンドラのような形状であり、その内側にも川水が侵入を果たしている。

 壊れた繭の中に入っていたのは、一柱の美しい女神であった。

 光の具合によっては金にも銀にも見える煌く髪は緩く波を打ち、肩口で切り揃えられている。鼻筋の通った、整った顔立ちで、抜けるような白い肌が濁った水に汚されている。

 しかし、ただの男ならばまだしも、護堂が美しいだけの女神の姿に騙されることもない。

 彼女たちは飛び切り美しいか人ならざる姿をしているかのどちらかであることが多い。見てくれに騙されては痛い目を見るに違いない。

 とにもかくにも、この女神は護堂に危害を加えられる状態ではないということは明らかであった。

 目を瞑り、苦悶の表情を浮かべているではないか。

 呪力も大きく消耗しているようだ。

 肉体に目立った怪我は見られないが、相手は人間ではないのだ。分かりやすい怪我くらいは気絶していても自動で治癒するなりするだろう。

『来い』

 護堂は『強制言語(ロゴス)』による命令を繭にぶつける。

 繭は弾け跳ぶようにしてライン川から飛び出し、護堂の元へ移動した。抵抗するそぶりはまったくなかった。

「先輩、大丈夫なんですか?」

 晶とリリアナが繭を引き上げた護堂の下に駆けてきた。すでに神槍を取り出していて、いつでも戦闘できるように準備済みである。

「何か、怪我をしているみたいだ。気絶してる」

 繭の中から女神を引きずり出し、地面に横たえる。

「相当衰弱しているみたいですね」 

 リリアナが女神の顔を覗きこんで言った。

「リリアナは霊視ができるんだろ。この女神の素性とか、分からないかな?」

「申し訳ありません……ご期待には添えそうもないです。ですが、何かの拍子に霊視を得ることもありますので、その際にはお伝えします」

「そうか。分かった」

 霊視は魔女や巫女の一部が持つ特殊能力で、呪術的な物品の鑑定などに利用されるものであるが、『まつろわぬ神』に関連して、その神の由来を読み解くといった形で人類に恩恵を与えるものでもある。

 神名さえ分かれば、その神の権能をある程度予測することもできるようになる。

「ですが、少しだけ視えたのは、雷に由来する女神だということでしょうか。それと、この繭のようなものを見る限りでは服飾にも精通していそうですね」

 近くで見れば、その文様の緻密さに舌を巻く。

 人の手によるものではなく、女神の手によるものなのだから当然といえば当然なのだが、それでも間近で神代の技を見ることができるのは幸運以外の何物でもない。

「とりあえず、この女神様を起こしてみようか」

「それ、いいんですか?」

「仕方ないだろ。いくら女神とは言ったってほっとくのは良心が痛むだろ。それに、女神をここまでにする相手が近くにいるってことでもあるしな」

 心配する晶に護堂はそう言った。

 しかし、晶の心配も当然のことだ。

 この女神の名も性格も分からない状態で神殺しと女神が出会うというのは状況としてはかなりまずい。

 場合によってはその場で死闘を繰り広げることになる。女神の消耗を考えれば、護堂が優位に戦闘を進めるだろうが、何事も事故は起こりうる。

「ですが、護堂さん。女神を起こすとしても、どのように?」

「そうだな……」

 護堂は眉根を寄せて、考え込んだ。

 怪我は治癒しているようだが、呪力が減衰している。人間で言うところの栄養失調の状態である。時を置けば自然と快復するだろうが、すぐに叩き起こすには外部から失った栄養を送り込んでやる必要がある。

「若雷神っつっても、弾かれるからなぁ」

「若雷神って、それキスしなきゃダメじゃないですか。そんなのはダメです。何があるか分かったもんじゃないんですから!」

 晶が護堂の呟きを拾って抗議した。

 護堂が女神に呪力を供給しようとするのなら、若雷神の呪力経口摂取させるのが手っ取り早い。

 しかし、それは同時に女神が護堂に何かしらの呪詛を吹き込む機会を与えるものでもあり危険を伴う。何よりもキスというのがダメなのだ。晶にとっては。

「じゃあ、どうする?」

「大地の呪力を込めた林檎のジュースを飲ませれば、多少は改善すると思います。完全に快復しないでしょうけど、それはそれで都合がいいはずですしね」

「なるほどな。高橋晶の能力で生成した果物であれば、確かに女神に呪力を供給することができるだろう。相性もいいはずだ」

 リリアナが納得したとばかりに頷いた。続けて、

「女神の不意打ちに備えて、拘束しましょう。護堂さんの権能で鎖なり紐なりを用意できませんか?」

「できるけど、何かそれも嫌だな……」

「護堂さんのその考え方は美徳ではありますが、神々とカンピオーネの相性の悪さを考えれば、即戦闘になる可能性は否定できません。念には念を入れておくべきかと思います」

「うーん、まあ、そうか」

 気絶している少女を拘束するのは非常に釈然としないものがある。

 リリアナの言うことが正しいことだというのは分かるが、犯罪を犯しているような気分になってしまうのである。

 それに、女神を拘束することで敵対的な意思を感じさせてしまっても、それはそれで問題である。 

 メリットとデメリットが混在する中で、護堂は女神を拘束しないという判断を下したのであった。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 晶が豊穣の念を込めた林檎ジュースを少しずつ女神の口に含ませることで、大幅に消耗し、蒼白となっていた女神に血色が戻った。

 傍に宿敵たる神殺しがいることも手伝ったのだろう。そう時をおかずして、女神を瞼を開けた。

「……な、に」

 女神が呆然としていたのはほんの一瞬であった。

 護堂の気配を感じ取り、顔色を変えたのである。

「神殺し、か」

「気付いたみたいだな、女神様。ずいぶんと酷い有様だったけれど、体調のほうはどうだ?」

 護堂の問いに女神は答えない。

 警戒しつつも身体を起こし、立ち上がろうとした。

「く……」

 それでも、さすがに動き回れるほどにはなっていないらしく、膝の力が抜けて座り込む形となってしまった。

「いきなりは無理だろ。消耗しすぎてたんだって。こっちから呪力を分けてやらなくちゃいけないくらいだったんだぞ」

「……神殺しが、わたしに呪力を分け与えただと」

「分け与えたのは俺の連れだけどな」

 と、護堂は晶に視線をやる。

 護堂の後ろに立つ晶が小さく頭を下げた。

「知らぬ神だ……未だ存在しない、あり得ぬ大地の女神の……残滓? 一体何者だ?」 

 女神は疑惑の目を晶に向ける。

 確かにこの時代はまだ『日本書紀』は成立していない。日本は未開の時代を過ぎた頃の古墳時代の前期に当たり、統一王朝の有無については、議論の必要性を有するという状態である。無論、晶の根幹を成すクシナダヒメの神話も、その源流となったものはあるかもしれないがはっきりとした形で語られているわけではない。つまり、五世紀の時点では、歴史上に存在していない地母神なのである。

 それを、この女神は見抜いたのである。

「霊視の権能か? 色々と引き出しがあるのは不思議じゃないけどな」

「神殺しが、わたしを助けて何とする」

「そりゃ、あなたをそんな目に合わせたヤツがどっかにいるわけだろう。それが降りかかる火の粉にならないとも限らないからな。情報収集だよ」

 瞬間、護堂の首に雷光を纏う剣が飛び込んだ。

「わたしがその火の粉になるとは思わんわけだな」

「そんなはずないだろ。優先順位の問題だっての」

 護堂は女神の攻撃を用意していた楯で受け止めていた。

 ジリジリとした熱が頬に届くものの、それは呪力によるものである。よって、護堂の呪力耐性によってほぼ無力化されていた。

 弱りきった女神の攻撃であれば、受け止めるのは難しくない。

 前かがみになっている護堂に向けて、膝立ちでの斬撃を放った女神は悔しそうに顔を歪める。

「とりあえず、落ち着いて話がしたいんだけど、この剣、何とかしてくれないか」

「このままでも話はできるだろう」

「疲れないか、その体勢。それに、さっきも言ったけど、あなたを襲った何者かが近くにいないとも限らないんだ。こっちとしても襲われたときのためにどんなやつなのか知っておきたいんだよ」

「わたしがそれを話すとでも?」

「あなたがどこの神様だかは知らない。けど、恩を仇で返すのならそれもいい。相手になるだけだ」

 護堂が女神を拘束しなかったのは、彼女に必要以上に敵意を感じさせないようにするためであったが、それでも戦闘状態に移行する可能性は常にある。相手が素性の知れない『まつろわぬ神』である以上、護堂との相性は決してよくはないからである。

 膠着状態は、その後二十秒ほどに亘って続いた。

「チッ……」

 露骨な舌打ちをして、女神は剣を引いた。

「いいのか?」

「今のあなたに立ち向かっても敗北は必至。戦うつもりのない相手に立ち向かって敗北するのはあまりにも愚かしいからな」

「そう。それは助かるね」

 背後で、安堵の吐息を漏らす二人の少女がいる。

 護堂も内心ではほっとしている。

 物分りのいい女神でよかった。

 威厳を守りつつも理性的な判断を下してくれるのはありがたい。

 相対してみた感じからだと、やはり地母神に連なる女神という印象が強い。

 女神が剣を消したので、護堂も武器を手放した。敵意がないということを示すためである。

「ふん、形はどうあれ、助けられたことに変わりはないからな。その事実に目を背けるわけにもいくまい」

 と、そこで女神は視線を険しくして、護堂の背後を見据えた。

 リリアナと晶を見ているわけではないようで、護堂もつられて振り返る。

 十メートルほど離れたところに、一人の少女がいた。いや、少女なのだろうか。中性的な顔立ちで、年齢が十代の中ごろから後半くらいということもあって男女の区別を付けにくいが、男性的かと問われればはっきりと否を突きつけられる――――となれば、女性的、少女と表現するほうがいいかもしれない。

 そして何よりも問題なのが、これほどの近距離に近付かれていながらまったく気配を感じなかったことである。極めて鋭い直観力を持つ『強制言語』の権能を持っている護堂ですら、振り返るまでその存在には気付かなかったし、こうして対峙した今でも薄らと神性を感じ取ることができる程度でしかない。

 極めて脆弱な神霊の類か。

 一瞬、そのような考えも頭を過ぎった。

 しかし、護堂の肉体は明らかにあの存在に対して戦闘態勢を整えつつあった。反応は鈍く、普段とは比べ物にならないが、それでも目前の存在が『まつろわぬ神』であると如実に物語っている。

 そして、何よりも――――護堂は、その顔を知っていた。

 なるほど、確かに過去の世界ならば、そのような出会いもあるのだろうと納得して。

「晶、リリアナ。下がって」

 静かに、護堂は言った。

 晶とリリアナも、その異質な存在を警戒していたので、護堂の言を素直に聞き入れた。

「貴様……」

 女神が唸るように敵意を明らかにする。

「やっと見つけたよ、雷神様」

 その声は聞く者を惹き付ける優美なソプラノであった。

 淡い微笑みすら浮かべての『まつろわぬ神』は護堂にも視線を向けた。

「まさか、神殺しの恩寵を受けるとはね。邪悪なる女神は、恥も知らないようだ」

「こそこそと隠れて様子を窺っていたか。恥を知らんのはどちらだろうな」

 ビリビリとした呪力の鬩ぎ合い。

 『まつろわぬ神』同士の決闘は、ただ睨み合うだけで天変地異を思わせる環境の変化を引き起こす。

 いつの間にか空が暗くなっている。

 風が強まり、ライン川の水面が泡立った。

「お前が喧嘩の相手だったんだな」

 護堂がその神に向かって言った。

「喧嘩なんて、つまらない言い方は止めてほしいな」

 淡い微笑みをそのままに、護堂に向けて冷たい言葉が飛んだ。

「これは、誅罰だ」

「は?」

「誅罰だよ、少年。悪しき神を堕落の元凶を打ち滅ぼすのは僕の使命なんだ」

「悪しき神?」

 この美しい女神に向かって、その神は悪しき神と言った。

 とてもそうは見えないが、しかし地母神というのは崇められると同時に恐れられるものでもある。死に深く精通するが故にだ。

「そうだ神殺しの少年。そこのメンルヴァを始末した後に、大罪人たる君も処断すると宣言しておくよ」

 言うや否や目にも止まらぬ速さで何かが射出された。

 予備動作はなく、その危険を一切感じさせないままに無造作に投じられた一振りの槍。それが、メンルヴァと呼ばれた女神の顔面に向かって飛ぶ。

 ただ速いだけではない。

 恐ろしいのは、攻撃の直前まで何も感じないことだった。呪力の流れの変化もいまいち分からない。銃口を向けられているのに、それに気付かないようなものである。面と向かっていながら完全なる奇襲に成功したその神の刃は、しかし、女神を貫く前に火花を散らしてあらぬ方向に飛んでいく。

 打ち払ったのは護堂の神槍であった。

 咄嗟に反応ができたのは、間違いなく『強制言語』の恩恵であろう。

「へえ、僕の攻撃を弾いてみせるのか」

 笑顔を浮かべるも、その口調には明らかな不快感が混ざっている。

「驚いたけどな、色々と」

 何と言ったらいいのか、上手く言葉にできない護堂は困り顔で言った。

「あんたのことは、それなりに知ってるんだよ。相変わらず、能面みたいな笑顔貼り付けやがって――――ガブリエル」

 晶とリリアナが驚愕に目を剥いて護堂とまつろわぬガブリエルを見る。

 メンルヴァも正体を確信してはいなかったのだろう。護堂の言葉に得心が言ったとばかりに顔つきを変える。

「そう、驚いたのは僕のほうだよ、神殺し」

 そして、まつろわぬガブリエルは、機械的な笑みをより深くして護堂に視線を向ける。

 草薙護堂が最初に討ち滅ぼした『まつろわぬ神』と寸分違わぬ顔立ちと物言いだ。

 護堂の人生を狂わせる要因ともなった存在であり、初めて心底美しいと感じた少女との再会に、護堂は運命的なものを感じていた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。