カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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古代編 7

 まつろわぬガブリエルとの戦闘が終わった後、護堂はフリウスから借り受けた屋敷に二日ぶりに帰還した。屋敷を開けていた理由については、リリアナが毛布を借りに行った際に適当に誤魔化してくれていたらしく、夜中の帰宅でも何も問題がなかった。

 そんなことよりも、この集落の間では近隣の森で発生した天変地異(・・・・)のほうがよっぽど恐ろしかったらしく、護堂たちに構っている余裕はなさそうだった。村人の中には、護堂たちがその原因なのではないかと疑う者もいるようだが、おいそれと口に出せる話題ではないこともあって、表だって批判されることはないだろうというのがリリアナの見立てであった。

 時刻は大体夜の十一時を回ったというくらいだろうか。

 古代に来たせいで時間の感覚が狂い始めているが、腕時計が生きていたのが幸いだった。

 これを見れば現代の感覚をすぐに思い返すことができるからである。

 毎日日暮れと共に眠り、夜明け前に起きる生活。

 二十一世紀の日本ではありえない生活習慣である。

 少なくとも、護堂の周囲にはそのような生活を送っている人間はいない。娯楽に溢れ、夜の闇を駆逐する電気という文明の利器があるので、人は昼夜の別なく活動を続けることができる。人間の生活は自然から切り離され、完全に人間の都合で生活習慣を定めることができるようになった。

 それが、二十一世紀という科学の時代である。

 五世紀のガリアはそうもいかない。

 人間は未だ自然と共に生きている。

 僅かな抵抗として火と土木工事がある程度である。そして、それすらも日常生活を快適に過ごすことができるほどの安心をもたらしてくれるものではない。

 千五百年という月日の断絶は極めて大きく、しかしながら人の営みそのものは形は違えど確かに存在している。不思議なことだが、古代の生活は、これはこれで歯車がかみ合っているかのように効率的に運営されている。むしろ、雑多な未来の世界に比べて遙かに無駄がなく、そのために生きるという単純な目的のために日々を過ごしているように見える。

 それが、人間のあるべき姿なのではないかと錯覚するほどに。

 農本主義とか、土に還れ主義とか言うものか

 かつての文豪に島木健作という人物がいたが、彼の著作『生活の探求』がまさしくこの状況を描いているようではないかと、護堂は思う。

 古本屋で育った護堂は、古い書籍に自然と馴染みがあった。

 何となく、人間らしい生き方を模索する主人公がエリート街道を外れて帰農し、真の生を探求していく『生活の探求』のストーリーが頭に浮かんだ。

 かつて、発展する社会と農村との葛藤の時代を生きた人々が漠然と抱いていた回帰衝動の根幹に当たる光景が、護堂がいるこの時代にはあるのではないかと、ふと思う。

 その農村を一手に引き受けるのは、この屋敷の主であるフリウスである。

 厳密に言えば、ここは農村であると同時にフリウスの私有地でもある。つまりは、一つの集落と見紛う程に広大な個人所有の農地なのである。フリウスはこの広い農地を利用して葡萄を作ったり、麦を作ったりして生活しているのだが、基本的に働いているのは奴隷たちばかりである。

 奴隷制。

 平成の日本に生まれ育った護堂にはまったく馴染みのない制度であるが古代の世界では社会を支える重要な制度であったという。

 より厳密に言えば、この時代のローマのそれは奴隷制ではなく古代ローマ式の大規模農業形態(コロナートゥス)であったか。

 奴隷ではなく、ローマ市民権を持つ小作人(コロヌス)を使った大規模農業である。

 古代ローマの奴隷制は、古代ギリシャの奴隷制に比べて非常に緩やかで、奴隷身分から脱することも不可能ではなかった。しかし、戦争奴隷を中心に発展してきたローマの奴隷制は、平和な時代(パクス・ロマーナ)による戦争の激減によって奴隷の供給量が減少し、その市場価値が急騰したことで限界を迎えた。五世紀のローマは、それに加えて異民族の侵入で奴隷の確保どころの話ではない。現状、ローマの奴隷制は維持できないほどに社会が変わりつつあったのである。

 大規模農業のコロナートゥスへの移行は、裕福なローマ市民が郊外の農村に居宅を構える流れに繋がり、都市の衰退や分権化が発生する。フリウスが経営するこの大規模農園も、そのうちの一つであろう。

「草薙、様……」

 と、小さな声が護堂を呼ぶ。

 振り返ると、仄かな獣脂蝋燭の灯りに照らされた少女が立っていた。

「リンデ?」

「はい……あの、姫様方はご入浴されましたが、草薙様はどうされますか?」

 ぎこちなく、護堂にそう言ってくるのはこの屋敷で小間使いとして働く少女である。

 歳の頃は晶や静花と同じくらいだろうか。あるいは、欧米人は大人びて見えるから、もしかしたらもっと年下かもしれない。

 彼女もまたコロヌスの一人。 

 ガリア出身のゲルマン系で、白い肌と金色の髪がそれを物語っている。

 リリアナと晶が先に風呂に入った。

 それは、護堂がそうするように言ったからだ。

 女性にとって風呂は重要な活力源であろう。イタリア人のリリアナには湯船に浸かるという習慣はないかもしれないが、身体の汚れを落とすのは何物にも変えがたい生活習慣の一つである。さすがに中世ヨーロッパのような不衛生な環境に身を置くのは、気高い女騎士であっても御免被るところであろうと、護堂はそう思ってリリアナと晶を先に風呂に向かわせたのである。

「どうと言われてもな」

 護堂は困った風に笑った。

「まさか、あの二人と一緒に入るわけにもいかないだろうし、出てくるのを待つよ」

 以前、晶と混浴をしたことはある。

 しかし、それはそれ。今、そのようなことをする必要性はないし、常識的にどうかしている。

「あの……」

 と、リンデは言う。

「それでしたら、他にもあります。浴場は、一つではありませんから」

「そうなのか?」

「はい」

 リンデは頷いた。

「姫様方がご利用になられているのは、野外の温泉ですが、それ以外にも屋内のものがございます」

「あ、そうなのか。そっち、使えるのか?」

「天然の温泉を引いておりますし、掃除も済ませておきましたので、すぐにご利用できます」

「へえ、いいな。じゃあ、そこを使わせてもらおうかな」

「承知しました。ご、ご案内します」

 おどおどとしつつ、リンデは護堂を浴場まで案内してくれるようだ。

 ローマに於いて浴場というのは屋内にあるものであるが、ここはローマ文明の端の端。異民族が治める土地と境界を接する地であり、様々な価値観が入り乱れる土地なのかもしれない。

 入浴という文化はローマ以外にはほとんどないし、ローマ帝国が衰退していけば公衆浴場の文化はあっという間に下火になってしまうだろう。

 水は身体に悪いと信じられた中世ヨーロッパでは身体を水で清めるという習慣すらも存在しなかった。二十一世紀に入っても進んで湯船に浸かろうとするのは日本を初めとするごく一部でしかない。

 ローマの消滅と共に、入浴習慣そのものが西洋から消え去ってしまったのである。

 フリウス氏所有の屋内温泉は、屋敷に併設された大きな施設の中にある。

 一度屋敷を出て、それから施設の入口から中に入る。

 白い石の柱が立ち並ぶ廊下は中庭に面していて、夜の風が肌を撫でる。

 古代ギリシャや古代ローマの建築物によく見かける柱で囲まれた廊下。

 アーケードの前身の一つであり、柱に支えられる部分をエンタブラチュア、そしてエンタブラチュアで繋がる列柱構造をコロネードと言うらしい。

 多方面に知識のあるリリアナが、この建物を見たときに教えてくれた。

 また、コロネードに囲まれた屋根のない中庭をぺリスタイルというのだとも。

「見た目から分かってたけど、大きいな」

「お館様が、ローマのテルマエを再現しようとされて建てられたのがここです」

公衆浴場(テルマエ)か……」

 平成の人気漫画風に言えば、護堂と晶は「平たい顔族」である。では、この時代のローマ市民も「平たい顔族」を見て驚いたりするのだろうか。フン族の活躍によって、辺境の民はすでに「平たい顔族」を恐怖の対象として認識している。

 護堂が魔王の力を誇示するでもなくこの屋敷を貸与されたのも、フン族――――とりわけ名の通ったウルディンという人物の仲間、あるいは同族であると見なされているからである。

 リンデもまた、護堂のことを恐れている。

 西洋人であるリリアナとはそれなりに会話をしているようだが、フン族似の容貌であり、数日の付き合いしかない護堂の人となりを彼女に理解してもらおうというほうが難しいだろう。

「こちらが、脱衣所(アポディテリウム)になります……。この部屋で衣服を脱いでいただいて、蒸し風呂(ラコニクム)高温浴室(カルダリウム)をご利用になれます」

「どっちを使ってもいいのか?」

「はい。どちらを使っていただいても大丈夫なように準備をしておりますので」

「そう。じゃあ、高温浴室(カルダリウム)を使わせてもらうよ」

 護堂は、蒸し風呂の利点がいまいち分からないのだ。

 垢を落とすために利用するというのだが、温水があるのならそちらを使いたい。おまけにこの辺りの温泉は、ローマ軍御用達の天然温泉と源泉を同じくするという。

 浴室の中からはオレンジ色の光が漏れ出ている。

 護堂が夜中に使えるように、篝火を焚いているのであろう。

 本来、こんな時間に利用することのない施設だ。

 かなり、無理をしているのは間違いない。

「あの、お召し物をお預かりします」

「ん?」

「お召し物。そのままでは入れませんし、オリーブオイルとか、垢すりとかも必要です」

 リンデは顔を紅くしつつ、そんなことを言った。

 この時代では、オリーブオイルを石鹸代わりにし、垢すりをすることで身体を清潔に保っていた。一人でできるものでもないので、奴隷などが主の入浴を補助したとされ、護堂もこの村に来てから背中の垢すりをしてもらったりもした。もちろん、男性の小間使いにだ。

「いや、君、一緒に入るつもりか?」

「い、今は草薙様のご入浴をお手伝いできるのがわたしだけですので……その、男性でなくて申し訳ありませんが……」

「あん?」

 今、彼女は奇妙なことを言わなかっただろうかと護堂は首を捻った。

「男性でなくてってどういう意味だ?」

「その、草薙様は、男性のほうがいいのではないかと……姫様方と臥所を共にされませんし、入浴のお手伝いも男の方にさせていらっしゃいましたし……わたしは、その、性に関してはどうとも言えませんが……」

 おどおどとした様子のリンデは搾り出すようにしてそう言った。

 なるほど、確かに護堂は入浴も就寝も男女の別を設けている。

 ガブリエルとの決戦を前にした日はしかたなかったが、今回は部屋がかなり余っているので晶やリリアナと部屋を共にする意味がなかった。入浴については日本男児が軽々しく見ず知らずの女性に補助させるわけにはいかないという極めて常識的な判断をしたまでであった。

 ところが、この古代の少女の眼にはそうは映らなかったらしい。

 その理由――――何となくだが分かってしまう。

 リンデが口にした理由もあるが、何よりも古代ローマは一応男同士の色恋には寛容だったという背景もあるに違いない。

 総てが許されていたわけではない。

 が、しかし男に抱かれることは問題でも男を抱くことは許容の範囲内だった。どちらが上か下かというだけの問題しか、この時代のローマにはなかったらしいのである。無論、キリスト教が広まった後はその傾向も一気に下火になっていっただろうが、そういうものがあるという認識はローマ市民には当たり前のようにあっただろう。

 リンデの言葉の端々に滲み出る不快感のようなものは、彼女が生粋のキリシタンであることを髣髴させる。

 とにもかくにも、この恐るべき誤解を残すわけにはいかない。

 千五百年の月日を越えた黒歴史を作るのは、御免被る。

「あのなぁ、さすがにそれはない。俺は男と関係を持ちたいと思ったことはないぞ」

「え?」

「え? じゃないよ! 繰り返すけど男にはそういう意味で興味はないからな!」

「では、女性のほうが……?」

「いや、それはそうだろ」

「ッ」

 びくっとするリンデ。

 気持ちが分からないわけでもないが、結構傷つく。

「だからな、君もここまででいいから。自分のことは自分でできる。部屋に戻って明日に備えておくんだ」

 できるだけ怖がらせないようにリンデには話しかける。

 そもそも、普通は眠っているであろう時間に無理をして護堂の世話をしようとしているのである。異民族に対する恐怖や主人からの言いつけもあるのだろうが、職務に忠実で誠実な彼女に厳しく言葉を投げかける護堂ではない。

 しかし、護堂からの命令という体裁は一応とっておかなければ後でフリウスに何か言われるかもしれない。護堂はマレビトでしかなく、数日中にはここを出て行く。後の禍根を残さないようにしなければならない。

「その通り! リンデさんは、お休みになってください!」

 そんなところに飛び込んできた一陣の疾風。

 ぬばたまの髪をしっとりと濡らした晶であった。よほど慌てていたのか、身体には水滴も付いている。それが分かるのは彼女の身体を包んでいるのが薄い布一枚だけだからである。

「お、お前なんて格好してんだ!?」

 護堂がさすがに声を荒げた。

 しかし、晶は護堂よりもまずリンデに向かっていく。そして、リンデの両肩をぐわし、と掴むと、

「ここは、わたしがします。リンデさんはお休みになってください」

 と、ゆっくり、しかし明確に語りかけた。

「は、はいぃぃ……」

 晶の気迫に気圧されたリンデは、がくがくと震えながら頷くと、逃げ去るように脱衣所を飛び出ていった。

「ふう、危なかった」

 晶は汗を拭うような仕草をする。

「さあ、先輩。入浴のお手伝いを……」

「いや、もう、お前も出てけ」

 護堂は一切の容赦も慈悲もなく晶を脱衣所から放り出した。

 

 

 

 温泉で汗水を流した後に自室に向かった護堂は、部屋に近付いたころになって、真っ暗なはずの室内から覚えのある呪力を感じ取った。

 呪力を感じるというのは、中々不思議な感覚だが、強いて言えば匂いに近い。

 例えばカレーが用意されていたとして、大抵の人は見なくてもそれをカレーだと判断できるだろう。呪力を感じ取るというのは、そのように目に見えずともその存在を認識できることなのである。

 今、護堂の部屋にいるのはリリアナと晶の二名だ。

 さすがに、この二人の呪力を感じ取れないほど護堂は鈍くはない。

 そして、護堂の勘が告げるには、リリアナは室内で何かしらの呪力を行使しており、晶はその近くにいるようであった。

 護堂が部屋に入ると、ぼんやりとした火の灯りに目が眩んだ。

「何だ、明るいな」

 見れば、部屋の四隅に小さな燭台が置かれていて火が灯っている。

「お上がりになりましたか、護堂さん」

 リリアナが護堂に言った。

 ポニーテールを解いたリリアナは、その銀色に輝く長い髪の先端をリボンで結んで纏めていた。

 リリアナがポニーテール以外の髪型をしているのを見た覚えのなかった護堂は一瞬、まじまじと眺めてしまった。

「何か、おかしな点でも?」

 リリアナが不安そうな顔をするので、護堂は笑って謝った。

「悪い、見慣れない髪型をしてたもんだから」

「この髪型、おかしいですか?」

「おかしくない。むしろ似合ってるよ」

「そ、うですか。ありがとうございます」

 リリアナは照れながらも笑った。

 誉められて悪い気がしなかったのだろう。

「何、いい雰囲気だしてんですか」

 と、機嫌悪そうに晶が言う。

 彼女の服装は貫頭衣――――トゥニカである。一枚の布を半分に折り、頭を出す部分に穴を開け、腕が出る場所を残して左右を縫い止める。この時代の一般的な衣服である。

「で、なんで二人は俺の部屋にいるんだ?」

「ミーティングが必要だと、リリアナさんが言ったので」

「ミーティング? こんな時間に?」

 護堂はリリアナを見た。

「申し訳ありません。ですが、報告はしておくべきかと思いましたので。例のウルディンという人物について、いくつか気になる情報があります」

 深刻そうな面持ちで、リリアナは護堂に言った。

「フン族のウルディン――――彼は、あなたと同じカンピオーネである可能性があります」

「なんだって?」

 護堂はつい問い返さずにはいられなかった。

 ウルディンという名は歴史に名を残すフン族の人間の最初期に現れる。フン族の王であるとか、複数いる指導者の一人であったとか様々な説があるが、実在する人間である。護堂たちの耳に届くウルディンが二十一世紀に語り継がれているウルディンであるとは限らないが、歴史的に重要な活動をした人物である可能性があるために接触は避けるべきであるとリリアナは言っていた。

「歴史に名を残した英雄が、その実神殺しの王であったという可能性は夢がありますが……ウルディンという方についてはどうも本物のようです」

「この時代のカンピオーネってことか」

「はい。厳密にはカンピオーネという名称はありませんが。……例のデイノニクス。どうも彼の神獣のようなのです」

 護堂はこの時代にやってくる直前まで暴れていた恐竜を思い出す。

 護堂の時代では恐竜という概念がきちんとあるが、この時代は一括りにして竜となるのだろう。どういうわけか分からないが、古代のカンピオーネは竜を操る権能という形で、なぜか恐竜型の神獣を呼び出せるらしい。

「リリアナさん。やっぱり、先輩とウルディンさんが会うのはまずいですよね」

「まあ、ろくな結果にならないとは思う。今までの例を見る限りでは……」

「自覚はあるけど、露骨に言わなくてもいいだろうに……」

 カンピオーネとカンピオーネが同じ場所にいるというのは、まったくよいことではない。

 それは、今回、護堂がこの時代に飛ばされてしまったように、訳の分からない権能を持ち、それを気侭に使う精神構造をした連中と一緒にいては何に巻き込まれるか分からない。まして、今は五世紀で、相手はフン族の指導者だというではないか。基本的な価値観が、現代人とは違いすぎる。

「護堂さんの影響力を考えれば、この時代のカンピオーネと出会うのはよくないわけです。間違いなく互いに影響し合うことになるでしょう」

「それに巻き込まれる周りがいるわけですし」

「この時代では家や土地が荒れるだけで飢餓を招きかねません。行政による保護など、到底望めない時代です。お気をつけください」

 リリアナと晶が代わる代わるに護堂に注意を促す。

 それを、護堂は神妙な面持ちで聞く。

 意識はしなければならない。実行できるかどうかは、また別ではあるがこちらから手を出すようなことはゆめゆめ控えるべき。護堂はあくまでも歴史の流れに突如として現れたマレビトでしかないのだから。

「それと、もう一つ。これに関連してですが……現在、そのウルディンというカンピオーネはアウグスタ・ラウリカという都市を攻略しようとしているらしいのです」

「アウグスタ・ラウリカ?」

「二十一世紀では古代ローマの遺跡としてスイスの観光地になっているところですね。この時代ではなかなか大きな都市ですが……なんでも、この都市には聖女がいて、ウルディンはその聖女を妻に迎えるためにちょっかいをかけているのだとか」

 ウルディンはローマ人が恐れるとおりのフン族であるらしい。

 都市を襲い、欲しいものを略奪していく悪魔のような存在。定住し、土を耕す民族に於いて遊牧民は大きな脅威であったが、まさしくその脅威を現実のものとして実感する日が来るとは思わなかった。

「ウルディンはカンピオーネなんだろ? そんなちまちまと攻撃するようなものなのか?」

 この時代でもカンピオーネの権勢は通用するらしい。

 しかし、それであればその聖女というのをさっさと差し出させればいいのである。

「それができない相手――――だとすればどうでしょうか?」

 リリアナは、もうこの答えを知っているのであろう。

 護堂も自分で問いかけて、まさかと思う可能性が頭を過ぎる。

「あー……つまり、その聖女はウルディンってヤツが簡単に手に入れられない相手。俺と同格のカンピオーネってことか」

「はい。そして、この近辺にいる女性のカンピオーネとなると、もしかしたらアイーシャ夫人なのではないかと思うのです」

「なるほどね……」

 護堂は頷いた。

 ここに来てやっとアイーシャ夫人の手掛かりを手に入れたのである。

 正体不明の旧時代の三魔王の一人であるアイーシャ夫人。洞窟に引き篭もっているという噂ではあったが、その洞窟の先が過去の世界などというどうしようもなく迷惑な権能の持ち主である。

「なんか、きな臭い感じになってきたような気がしますね」

 晶が言う。

 護堂もため息をついた。

「場合によってはこの時代のカンピオーネに喧嘩を売らないといけないってこと、か」

 仮にその聖女がアイーシャ夫人だとして、ウルディンが彼女を妻に迎えようとしている状況で護堂が出て行けばどうなるか。

 ウルディンとしては恋敵が出てきたとでも思うかもしれない。事情を説明して分かってくれるのならばいいとして、そうでなければ戦闘になるだろう。

 さらに、場合によってはアイーシャ夫人とも戦いになるかもしれない。

 彼女もまたカンピオーネなのだ。

 絶対に戦わないですむという保証は何一つない。

「とりあえず、わたしたちが元の時代に戻るためにはアイーシャ夫人の協力が不可欠です。明日の朝にはアウグスタ・ラウリカに向かうべきではないかと思うのですが、状況が状況です。護堂さんの判断を仰がなければ始まりません」

「うん、まあ、行くしかないだろうな。行こうか」

「よろしいのですね?」

「さっさと元の時代に戻るには、それしかないからなぁ。アイーシャ夫人が、ウルディンにどうにかされるとますます面倒だから、その前にこっちが接触しなくちゃいけない」

「承知しました。高橋晶も、それでいいか?」

 リリアナは晶にも尋ねた。

「わたしは、大丈夫ですよ。いつでも、移動できます」

 三人は三人とも根無し草である。

 目的地がはっきりすれば、この地に留まる理由がない。護堂が行くというのに、晶が断わる理由もまた存在しない。

「では、そのように。急ではありますが、フリウスさんには朝一番に報告しましょう。それともう一つ、とても大切なことがあります。護堂さんに、きちんと意識していただきたいことです」

 リリアナは妙に緊張したような口調で、護堂に言った。

 心なしか顔が紅くなっているようにも見える。蝋燭の影響ではないだろう。

「何だ、改まって」

「その、なかなかこういうことを面と向かって言うのはどうかと思うのですが、女性関係には気を遣われるべきかと思うのです」

「はあ?」

 護堂は突然のリリアナの意見の意図が分からず首を傾げた。

「さきほど、リンデと同じ浴場に入りかけたとか」

 リリアナにそう言われて、護堂は咽そうになった。

「う、それは、あの娘が勝手に言ってただけだぞ。俺は断わってたからな!?」

「はい。ですが、まかり間違ってということはあるわけです。そして、そうなった場合、あなたを止めるものは何もありません。唯一、あなたの理性のみがストッパーなのです。この時代に、あなたの子を残すようなことがあってはなりませんので、そういった行為は厳に慎まれるよう、お願いします」

 少し、厳しくリリアナは言った。

「そりゃ、まあ、当然のことだ」

 護堂は頷く。

 人としての責任もあれば、歴史に与える影響もある。護堂がこの時代の女性と関わりを持つのは、非常に危険なことなのである。

「それでは、もう夜も遅いので失礼します。高橋晶、あなたも」

「え、はい……」

 リリアナに声をかけられた晶は、口数少なく小さな返事をしてリリアナの隣に向かう。

 それから、リリアナと晶は並んで部屋の外に出ていった。

 

 火の呪術が消えたことで、部屋の中は真っ暗になった。

 護堂はベッドの上に寝そべって仰向けになっていた。ガブリエルとの戦闘による疲労があるはずなのに、妙に目が冴えて眠れない。こういう日は時々あるのだ。身体が眠りを欲しているのに、精神が眠りを拒否するような日が。それでも無理にでも眠らなければ疲れは取れないので、護堂は目を瞑る。暗闇を見通す目を持つ護堂が、真の暗闇を得るには、こうして瞼を閉じるかアイマスクのようなものをつける以外にはないのである。

 と、そのとき護堂は馴染みの気配を感じて目を開けた。

「何してるんだ、晶?」

 ドアをすり抜けて入ってきた晶に護堂は声をかけた。

「むぅ、全然どっきりにならないじゃないですか」

 実体化した晶が護堂のベッド脇に現れる。

 やや不満げにしているのは、彼女の言葉のとおり護堂を驚かすのに失敗したからであろうか。

「何言ってんだよ。というか、人の部屋にいきなり入るのはよくないっての」

「すいません」

 と、晶は謝る。

「まあ、どっきりもありますけど、ちょっとさっきの話で」

「さっきの?」

「はい。リリアナさんが言ってた、この時代に子どもを残すのはよくないって話です」

「ああ、それか」

 それがどうかしたのか、と問おうとしたとき、晶は護堂の上に圧し掛かり、胸を顔を埋めていた。

「お、おい?」

「……」

 護堂は身体を起こす。

 晶は、護堂の背中に両手を回して抱きついている。離れようとはしなかった。

「どうしたん、だよ」

 護堂は問う。突然の晶の行動に理解が追いつかなかったからである。

「夜這いです」

「はあ?」

「だから、夜這いですって」

 小さな声で晶は言った。

 羞恥に顔を歪めている晶は、護堂と視線を交わさないようにしている。

「あのな、夜這いって、お前それ意味分かって言ってるのか?」

「あ、当たり前じゃないですか。分かってなかったら言いませんし、行動しません」

「何でいきなり、そんなこと」

 護堂はつい大きな声を出しそうになるのを堪えた。

「だって、リリアナさんがこの時代に子ども作っちゃダメって言ったから……子どもができないわたしなら、なんの問題もないじゃないですか」

「問題ないって。それはダメだろ。色々と問題あるだろ」

 道義的にも年齢的にも行為に及ぶのは推奨されない。

 護堂自身もそういった点での一線は守らなければならないと思っているのだ。それが、リリアナの言っていた理性の部分である。

 だが、晶はまったく納得しないとでも言うように護堂の背中に回した手に力を入れる。

 そのまま、晶は護堂を押し倒した。普段の純粋な力では護堂よりも晶が上だ。まして、晶の意図が読めないこの状況では――――。

「ダメって、何でダメなんですか?」

「何でって」

「わたし、今回ばかりは真剣なんですよ……。どうして、この状況で手を出してくれないんですか? 言ってくれれば、何でもできるんです。何でもですよ……。先輩の好きなようにしていいのに。それでも、ダメなんですか? どうして?」

 見れば、晶は半ば泣きそうになっている。

 瞳を潤ませて、護堂に迫っているのだ。並々ならぬ感情がそこにはある。何かに追い込まれ、突き動かされているような感じである。

 晶の香りがともすれば護堂に一線を越えさせようとする状況で、護堂は冷静になろうと深呼吸して答える。

「とにかく、ダメだ。晶だけじゃない。他の娘にも、そんな簡単に手を出すわけにはいかない」

 晶が自分のことを好いてくれているのは知っている。何せ告白までされたのだから、今更その気持ちを無視するわけにはいかない。

「――――わたし、ダメですか?」

「晶がダメなんじゃない。前にも言ったけど、俺のほうの問題なんだってことだ」

「分かってます。でも、先輩、いつもいろんな女の子と仲良くしてるじゃないですか。万里谷先輩とか清秋院さんとか明日香さんとか。リリアナさんともキスしたし……」

「それは、そうしないと『剣』が使えないから」

「それも分かってます。でも、合理的なのと感情は別ですから。理由があっても、納得できないものはあります。特に、先輩は――――こういうときに自分から求めることってあまりないじゃないですか」

「どういう、ことだ」

「わたしたち、みんな先輩のことが好きで集まった仲間です。紆余曲折ありましたけど、結果的にそういう構成になってます。けど、先輩のほうがどうなのか分からない。先輩が、きちんと意思表示してくれたこと、ないから。だから、こんなに不安になる。もしかしたら、自分は友だちとか戦友とか、その程度の立ち位置なんじゃないかって。ここまでして、ダメって、もうそう考えるしかないんじゃないかって。みんないい人ばかりで、ガツガツしてないから争いになりませんけど、一歩間違ったら内紛状態になりかねませんよ」

 一息に言い切った晶は恨めしげな視線を護堂に落とした。

 護堂に明確に好意を向けて集まった仲間は、祐理、恵那、晶、明日香の四人の少女が中心である。

 祐理は奥ゆかしい性格で争いを好まず、他者を優先する気質があるし、恵那は育った環境が極めて特殊だ。男の女遊びについても理解がある家庭で育っている。明日香については、晶もきちんと把握していないが、ベストを追い求めるタイプではなく、ベターに留めようとするタイプだ。祐理や恵那に対して勝ち目がないと分かっているから、無理に勝負せず皆で一緒にという選択に落ち着いているという状況ではないか。

 何にしても、護堂にとっては都合のいい環境であり、常識的にはありえない状況ではある。

「それが許されているのは、カンピオーネだからですよ。カンピオーネだから仕方ないって思えるんです。あらゆる権利を持っているカンピオーネなら、全員に可能性が残り続けるわけですから、ベターでも選択肢に入るんですね。先輩がカンピオーネでなければ、どうなっていたか」

 早々に護堂に見切りをつけて去っていく者もいたかもしれない。

 あるいは互いに憎み合い、排除しようと動いたかもしれない。

 もしくは、護堂に憎しみを抱くということもあるかもしれない。

 誰か一人しか選ばれず、護堂自身が法に縛られる定めにあるのなら、護堂を諦められない者たちが一つしかない席を巡って争うのは当然ではないか。

 それがないのは、護堂がすでに権利を行使しているからである。

 彼の自覚の有無に関わらず周囲が彼に認めた特権が、文句を封殺している。それどころか、元々は好意によって集った集団ということもあって、護堂の指示ではなく自分の意思でそこにいるのだという前提が生まれている。護堂からすれば、自分が命じたわけではないという逃げ道が常にあるのだ。

「それは卑怯です。現実的にはキープしているのと同じような状況なのに、先輩自身は手を出すとも言わず、誰かを選ぶとも言わない――――はっきりしないから、わたしたちから行動するしかないじゃないですか」

 今にも泣きそうな顔。

 不安に苛まれた晶に護堂は申し訳ないという気持ちで一杯になった。彼女の気持ちを、察していなかった。察して当然であるべきところを気付けなかったのは、偏に護堂の落ち度でしかない。彼女の言うとおり、カンピオーネでなければ非難されていたのは間違いない。

「悪かったよ、晶。そんな風に、苦しませるつもりはなかった」

「本当ですよ。先が見えないのはきついんですから」

 護堂が自分を嫌っているわけではないというのは実感する。しかし、その一方で異性として捉えてくれているのかどうかはあやふやなままであった。エリカのように、ビジネスライクな付き合いだと公言することもなく、ただの妹の友人であったころとほとんど変わらない距離感が維持されているような気すらする。

「俺が晶に手を出さないのは、責任が取れる歳じゃないからだよ。晶を女の子として見てないってわけじゃない」

「歳って、先輩、カンピオーネなのに」

「カンピオーネでも犯罪はダメだろ。できることとすることは違うっていうのかな。俺は色々な権利を持っているし、義務も負ってないけど、だから、人間らしく守れるところは守らないとって思う。そこが、俺なりの線引きなんだよ」

「そう、ですか」

 晶は護堂の言葉を噛み砕くように呟いた。

「じゃあ、わたしに手を出さないのはまだ高一だからですか」

「そうだな」

「ほかの人に出さないのも? 万里谷先輩とか清秋院さんとか」

「誰だって、同じだ」

「複数人に手を出す可能性があるってだけで、先輩最低なんですが」

「分かってるよ」

 護堂は捨て鉢になって答えた。

 何と言うことはない。

 そういう面で、草薙護堂という男は最底辺の男なのだ。

 晶との問答で、自覚した。祖父のように女性を積極的に篭絡するタイプではない。護堂はそれとはまた別の道を行く外道であると。

「まあ、分かりました。先輩は人の好意を受け取っても、それに応えるのは十八からってことですか。そのときに傍にいる女の子にはきちんと手を出すと」

「そうなるかもな」

「そうですか。もう分かってましたけど、どうしようもない人ですね」

「晶から見限るんなら、もうそれでも仕方ないと思えるくらいには最低だと思ってるよ」

「何言ってるんですか。わたし、先輩に首輪付けられてるようなものなのに」

 晶は護堂の胸に頬を寄せた。

 薄い掛け布団を一枚隔てただけなので、彼女の体温はよく伝わってくる。こうしている今でも、晶に手を伸ばしたいという自分がいるのを護堂は抑えているのだ。それを、彼女は理解しているのだろうか。

「でも、まあいいんです。わたしのことを異性として見てくれているって分かったので、ちょっと安心しました」

「いいのかよ、それで」

「いいんですよ。そういう人を好きになったってことですから」

 そもそも、護堂が誰か一人を選ぶことはないだろうと晶は思っていたし、それは仲間うちでの共通認識ではあった。そういうものだから仕方がないのだ。本当に、その一言で片付く問題でもあった。だから、一番になりたいとか、そのような欲は抱けない。護堂の中に手を出すか出さないかの枠組みがあるのなら、自分がどちらに属しているのかということだけが気がかりだった。

 とりあえず、今日のところは選ばれる側にいるということが確認できただけでも良しとしよう。

「なあ、晶」

「何ですか?」

 護堂に問われた晶はのそりと身体を起こした。

「さっき、カンピオーネだから、今の状態が許されるって言ってただろ」

「はい」

「もしも、俺がカンピオーネじゃなかったら、お前はどうしてた?」

「わたしですか?」

 自分で言ったことではあるが、自分に置き換えて考えたことはなかった。

 少しだけ考えて、答える。

「そうですね、もしもそんな形で先輩を好きになってたら……」

 晶はぎゅっと護堂に抱きついた。

 護堂の耳元まで唇を寄せて、囁く。

「ほかの人、皆どうにかしちゃって、わたしだけの先輩になってもらってたかもしれないですね」

 




外道であると自覚すると同時にさり気なく言質取られた護堂であった。

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