「まったく、失礼しちゃいます。逃げようとしているだなんて」
馬車の上でプリプリと怒っているのは、褐色の肌の少女である。
アイーシャ夫人と二十一世紀の呪術師たちは呼ぶ。偉大なる旧世代のカンピオーネの一人であり、十代後半という非常に若い見た目ではあるが、その実百年以上の時間を生きてきた魔王なのだ。
常に格上との殺し合いが発生するカンピオーネは、時に誕生から数年で命を落とすことも不思議ではない。それどころか、カンピオーネとなってからの二戦目にして、その生涯に幕を降ろすということもありえなくはない。だというのに、人の寿命を越えて世界を、そして時間を放浪する彼女の異常性は明白である。強いというわけではない。けれど、しぶとい。それがアイーシャの特長である。
そんな彼女が怒っているのは、自分の遙か後輩である護堂に失礼をされたからである。
もっとも、それを失礼と言っていいのかどうか。
ただ、護堂がウルディンと話をつけに行っている間に、自分はサルバトーレと話をつけるために旅立とうとしていたというだけなのだ。それは、護堂がアイーシャの身の安全を確保するために危険を冒したことは紛れもない事実であり、それについてはありがたいとは思っている。
自分のために親身になってくれる人には、きちんと感謝を示す。
けれど、アイーシャは気まぐれな性格だ。自分が正しいと思ったことは、最後まで実践しようとする性格でもありお節介焼きでもあった。
それ故に、彼女は思ったのだ。
護堂が自分のために行動してくれるのであれば、自分もまた護堂のために行動するべきであると。
それが、サルバトーレと話をして、元の時代に連れ戻そうという行動に繋がった。つまりは、善意から来るものであり、アイーシャに悪気はまったくなかったのだ。
だが、護堂からすれば、この通信手段もない時代に広い世界に勝手に出て行かれてはいつ会えるか分かったものではない。
二十一世紀に帰るためにも、アイーシャとは極力行動を共にしなければならないのだ。
「――――という事情をきちんと汲んでください」
「それは、分かってますけど」
護堂は馬車の荷台でアイーシャに懇願するように言った。
ただの馬車ではない。
荷車も二頭の馬も、黒い炎のような輪郭と白い表皮に覆われているのである。それは、水墨画から抜け出してきたかのような不可思議な馬車である。
護堂が法道から簒奪した権能を使って、簡易的な馬車を仕立て上げたのである。御者を必要としない魔物の如き馬車は、人目につけば相応の騒ぎとなるだろう。
そんな馬車に乗り込んで、護堂はアイーシャに訥々とここに至るまでの苦労話をしたのである。
追いつくだけでも一苦労だった。
アイーシャの幸運の権能なる胡乱な力によって、アイーシャを追いかけようとする護堂に対して多くの艱難辛苦が襲い掛かってきたのである。
護堂の権能である『
アイーシャのしぶとさの一端を垣間見た護堂は、このカンピオーネが長き時を生き永らえた理由を知った。
今回、護堂の運が良かったのは、偏にアイーシャに危害を加えるつもりがなかったからである。あくまでもアイーシャを心配して追いかけていたからこそ、護堂は何とかアイーシャに追いつくことができた。もしも、彼女に危害を加えるつもりがあれば、もっと酷い目にあっていたことだろう。そして、それは恐らくは『まつろわぬ神』にも適応されるだろう。
アイーシャが一度逃げの一手を取れば、追いすがるのは困難を極める。神速使いであってとしても、確実にアイーシャを捕らえるのは至難の技だろう。
生命力、生存能力という点でアイーシャはカンピオーネの中でも一、二を争うのではないだろうか。
「まあ、俺も強く言いすぎたところはあります。突然、アイーシャさんがいなくなって動転したんです。ですが、これも元の時代に戻るためと思ってください」
「それはもちろん、草薙さんたちを巻き込んでしまったのはわたくしの権能ですから、きちんと元の時代にお戻ししたいとは思っていますよ。ですが、サルバトーレさんの説得も早めに行わなければならないことですから」
「ですから、俺も協力しますよ。どうせ、言っても聞かないと思いますけど、場合によっては無理矢理連れ帰るしかないかもしれないですね」
そうは言ってみたものの、そんなことができるのかどうか判然としない。
相手は剣の王サルバトーレ・ドニ。
戦うことが生き甲斐の狂戦士である。言葉で解決できる気がしないし、かといって力に訴えたところで勝てる保証はない。負けるとは思わないが、連れ帰るところまでとなるとなかなか難しいだろう。というか、困難を極める。何せ、護堂はカンピオーネの中では一番の若手だ。サルバトーレですら、戦闘に於いては先輩に当たる。
「サルバトーレ卿が素直に従ってくれるとは思えませんし……」
「あの人はそもそも、こっちでやることがあるから来たわけだから……」
リリアナと晶もサルバトーレの説得には悲観的だ。
「あの方は生粋の戦士ですから、戦って負ければ勝者の意見をある程度は尊重してくださるような気はします」
「リリアナ、勝つのも難しい相手だって。戦ってうま味もないしなぁ」
場合によっては、こっちが死にかねないのだ。サルバトーレのような超防御型は護堂の苦手とするところである。何せ、護堂は幅広い手札を持ちながら決定力に欠けるところがあるからだ。対するサルバトーレは攻撃手段は単一ながら、それが絶対的な強さを誇る特化型であり、防御力についても護堂以上である。護堂が手を尽くしたところで、彼の守りはそれを阻むだろう。
以前戦ったときは、彼の隙を突いて湖の底に引きずり込んで無理矢理決闘を終わらせるという手段を講じたが、ここで同じことはできないだろう。その気になれば、地中に引きずり込むこともできなくはないが、当然、同じ手は食らわないはず。適当なことをして羅濠教主のときのように、油断からのカウンターを食らうという可能性が高い。
サルバトーレに勝つことを前提に、作戦を立てるのはあまりにも危険である。
「サルバトーレに効きそうな権能はウルスラグナくらいしかないぞ」
ウルスラグナの黄金の剣であれば、サルバトーレの権能ごと斬り割くことができるだろう。それは確実であり、護堂にとってのジョーカーたる権能である。幸い、サルバトーレの権能は総てその出所からはっきりしている。
二人の少女が、護堂の呟きを受けて身体を僅かに震わせた。
ウルスラグナの権能を使うということは、護堂に対象神格の知識を与えるということである。
となると、そのための『儀式』も必要となる。
「戦いましょう、先輩!」
晶が言った。
「大丈夫、以前戦ったときよりも先輩は権能を増やしています。対するサルバトーレ卿はあれからまだ一柱も弑しておられない様子。ウルスラグナの権能だって、卿にとっては未知のはずです。イケマス!」
「こ、こら、高橋晶。さすがにはしたないぞ」
身を乗り出さんばかりの勢いの晶にリリアナが苦言を呈する。
ウルスラグナの権能を使うための儀式の内容を知るリリアナは、まつろわぬガブリエルと護堂が交戦した際に図らずも儀式の主体となってしまったことがある。ウルスラグナの権能を使うことを勧めるというのが、何を意味するのかはっきりと理解している。
「それに、高橋晶。あなたはヌアダやジークフリートの背景まで説明できるのか? ガブリエルすらダメだったじゃないか」
「う、ぬ……いや、けど。勉強は、一応は、してますけど」
晶が急に口篭る。
晶は日本人の日本育ち。それも極めて特殊な環境で過ごしてきた。アジア圏の神話伝承には強くても、西洋の神話伝承については、まだまだ勉強不足が否めない。祐理のように霊視によって、知識をカバーすることができればいいが、生憎と晶は媛巫女ではあっても霊視能力は持っていない。
本来の肉体であれば、微弱ながら霊視ができた可能性もあるが、魂を移し変えられて以降は霊視能力を失ってしまっていた。
つまり、純粋に学んだ知識で教授するしかない。とすると、できる範囲は限られてしまうのだ。
「護堂さんが必要だと仰るのならば、その、わたしがささやかながら教授することもできる。適材適所だと思う」
「ぬぬぬ……!」
唸るように晶はリリアナに鋭い視線を送る。
彼女が言っていることは戦略的にも戦術的にも正しい。西洋の神話に由来する神格の知識を教授するのであれば、西洋の魔女が最も相応しい。そうでなくても、リリアナには霊視がある。護堂の『強制言語』で強化すれば、より確実に教授することができるだろう。
もちろん、それは護堂に好意を抱く晶にとっては面白くない。面白くないが、決して護堂の不利になることはしないのが晶のポリシーだ。ハンカチを噛み締め、不満を露にはしてもだ。
だが、気にかかるのはリリアナの心変わりだ。
ヴォバン侯爵との決戦以来、裏で繋がりのあった護堂とリリアナの関係は表面化していなかっただけで、実はかなり親密だったのではないか。
リリアナは生真面目だが、ロマンスに弱いということを晶は知っている。恐らくはかなり吊橋効果に弱いタイプの女性だ。
そして、遺憾なことにその吊橋はすでに幾度も渡ってしまっている。今もまた、新たな吊橋の上である。
「あの、お二人とも急にどうされたのですか?」
事情を知らないアイーシャがきょとんとして尋ねた。
「いいえ、なんでもないです」
「は、はい。今度の戦略的な部分での話ですので」
晶とリリアナは取り繕ったように身を引いて言った。
「はあ、そうですか」
脳裏にクエスチョンマークを浮かべながらも、アイーシャは深く追求することはなかった。
追及しようにも、何の話をしているのかさっぱり分からないのだから仕方がないと言えば仕方がない。ここで、真実を知れば、アイーシャはきっと根掘り葉掘り聞き出しに来るだろう。
それからさらに時が過ぎ、日没も間のないときのことである。
最初に異変に気付いたのは護堂であった。
護堂の直感に触れるものがある。
強い呪力が北方から迫ってきているのだ。ついで、漂ってくるのは獣の臭いだった。動物園やペットショップに漂っているような、そんな臭いである。
「獣臭い、それに」
「はい、間違いなくこの世ならざる怪物ですね」
魔女のリリアナもその気配を感じ取って言い切った。
『まつろわぬ神』の気配はしないが、それに近いものが近付いてきている。それも、大集団だ。
「わたし、ちょっと見てきます」
「見るだけだぞ」
「はい」
晶は頷くや否や、大気に溶け込むようにして姿を消した。
実体を解いて霊体となり、異変の原因を探りにいったのである。
■ □ ■ □
するり、と馬車を抜け出した霊体の晶は黄昏に沈むガリアの大地を上空から睥睨する。
この身体では夜風の心地よさも太陽の温もりも感じない。あるのは自分の視覚と聴覚、あとは嗅覚か。それも五感で感じ取っているというよりも、第六感で感じたことを理解しやすいようにそのように表現しているに過ぎない。霊体のときの感覚を人に伝えることは基本的に不可能なのだ。
それでも、精神的な昂ぶりというのはある。
古の平原を、上空から見下ろすスペクタクルに、晶は感動を禁じえない。一生に一度あったら奇跡という経験を今しているのだ。
とはいえ、感動に仕事を忘れることは許されない。
馬車まで漂ってきた異変の気配の原因を探るために外に出た。その役目は最低限果たさなければと思ったものの、思いのほか早く原因が掴めてしまうと拍子抜けもする。
西日が照らす大地を、黒い集団が走っている。
「熊?」
晶はよりしっかりと確認するために、一時的に実体化して目視でそれを見た。
草原を駆けるのは、熊の集団だったのだ。
それもただの熊ではない。
濃密な呪力を纏っており、集団の中には四から五メートルには達するだろう巨大すぎる熊もいる。
「地母神の眷属で間違いないですね」
古来、大地の女神は熊を聖獣とする者が多い。ここはケルト文化のあった土地でもある。熊が出てくるのは不思議でも何でもない。
しかし、それにしてもだ。一頭いるだけで驚異的な生物である熊が、見上げんばかりに巨大化している。それが、凡そ六十頭あまりだ。ちょっとした村であれば、あっという間に食い尽くされるのではないだろうか。
討伐したほうがいいのだろうか。護堂に何と報告しようかと考えていたとき、平原の先からやって来た人間の集団が、その勢いのままに大熊の群れに挑みかかった。
晶からの報告を受けた護堂はすぐに状況を確認しに向かった。
そして、凄惨な戦いを目の当たりにする。
ちょんまげに近い髪型の男たちが、それぞれの武器を携えて巨熊と戦っているのである。
凡そあらゆる生物にとって、武器を手にした人間は天敵である。陸上生物の頂点に君臨する熊であっても、鉄で身を守る人間には討ち取られてしまうものだ。
しかし、今咆哮を上げるのは何処かの女神によって産み落とされた眷属である。格としては非常に低く、人間の手が届く程度ではあるが、それでも野生の熊とは戦闘能力が違う。
それが六十頭だ。人間が武装したとしても、接近戦では歯が立たないのは道理である。あれを何とかするのならば、呪術を仕込んだ重火器でもなければ、ただの人間には厳しすぎるだろう。
「ああ、もう、見てられないな!」
どちらが正しいかどうかは、この際関係ない。
熊の一撃が人の身体を引き裂くのが見て取れる。鉄の鎧も、ほとんど役に立っていない。護堂は、目の前で起こる無慈悲な殺戮を見て見ぬふりをするほど腑抜けてはいない。
「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」
聖句と共に顕現するのは黄金に輝く剣と斧。
必殺の刃は、この世に形を結ぶや否や、金の軌跡を引いて熊の群れの頭上に降り注いだ。
神の使いとはいえ、神獣にも満たない脆弱な存在だ。カンピオーネの権能に勝てるはずもない。貫かれ、切り裂かれて倒れていく。
やはり、護堂の権能は集団でやってくる雑魚を蹴散らすには都合がいい。
ひと際大きな巨大熊がのっそりと立ち上がったのはそのときだった。
護堂の刀剣射出で虚を突かれ、何事かと気を抜いた人間たちに、巨大熊が襲い掛かった。
「あ!」
護堂が小さく声を漏らしたとき、するりと熊の前に現れる人影があった。
金色の髪の男は、やおら剣を引き抜くと居合いでもするかのようにするりと斬り上げた。刃は大熊の身体を両断し、上半身と下半身は別たれて、空中で塵に還る。
その卓越した剣技、そして莫大極まりない呪力を忘れることはない。
「サルバトーレ、見つけた!」
護堂の声が届いたのか、サルバトーレは振り返って護堂に大きく手を振って叫ぶ。
「やあ、護堂! 元気そうで何よりだ!」