「く……化物!」
晶は、大きく跳び退りながら毒づいた。
真横を土蜘蛛の巨体が突っ切っていく。恐ろしい速度だ。蜘蛛の機敏さが、十メートル近い巨体となっても失われていないのだ。
木々はなぎ倒され、地面が捲れ上がっている。惨憺たる破壊痕だ。
戦いの舞台は、上品蓮台寺から、二百メートルほどのところにある船岡山公園に移っていた。土蜘蛛が現れたとき、周囲を囲む住宅をどのように守ればよいか、ということがまず先にあった。
これが、人里離れた山の中などであれば、監視をつけながらもすぐに戦う必要もなく、装備も人員も揃えて万全の体制で挑むこともできただろうに。ここは京都市の真中である。なんの対処もしなければ、どれほどの被害が出るものかわからない。
だから、真っ先に戦いやすい場所へ誘導できたのは大きかった。
土蜘蛛が現れた真言院から、千本通を渡ればすぐに小学校がある。当然、深夜だから無人だ。晶たちは、土蜘蛛の注意をひきつけながら道路を渡り、小学校の敷地に呼び込んだ。さらに、その奥。グラウンドを抜け、船岡西通という小さな通りの渡ると船岡山公園に入る。
そこは、上品蓮台寺よりも数倍の敷地面積を持つ公園で、鬱蒼と木々が茂っていて、まるで森だ。
うまく公園に誘い込んだ事で、周囲への被害は可能な限り押さえられた。
後は、如何にしてこの怪物を始末するかだが。
「攻撃が効かないんじゃどうにもならないって……!」
晶は、土蜘蛛の側面に銃撃を叩き込む。XM109ペイロード。バレットM82シリーズの対物ライフルの中で、最も大型の口径を持つ銃である。25x59Bmm NATO弾。原型のバレットM82が、12.7x99mm NATO弾を使用するところからみても、その弾丸の威力のほどがわかるだろう。
大口径の対物ライフルであるXM109ペイロードは、銃身が通常よりも短く、初速が従来の半分という欠点もあるが、使用する弾丸が強力なために、飛距離は変わらず、威力は上昇している。
晶は、この最新鋭の対物ライフルを委員会経由で入手し、技術開発室に持ち込んで呪術戦で使用できるようにカスタマイズしている。
銃身長の短いこの銃は、木々に囲まれていてもとり回しが効くし、十五キロという重さも、呪術を扱う人間にとってはたいした重さではない。
銃口から放たれた砲弾が、土蜘蛛の脇腹に突き刺さる。虎柄の胴体にめり込んだ弾丸は、込められている術と化学薬品とで盛大に火を噴いた。
バレットシリーズは二キロ離れた人間を狙撃して真っ二つにしたという伝説を持つ魔銃だ。その至近距離からの銃撃は、戦車の装甲に隠れていたとしても安心できない威力がある。
しかし、物理世界に縛られた物品ならば、いかようにも料理できる対物ライフルも、魔力の塊である神獣には相性が悪い。
まつろわぬ神であれば特殊な呪術以外は如何なる手段を持ってしても傷つかない身体を持っている。剣で斬りつけようが、銃で撃とうが動じない。神獣は、まつろわぬ神には劣り、人間の魔術や兵器も効果を期待できるものの、だからといって効果的というわけではない。
あくまでも傷つけることができる程度。科学薬品による発火など効果はないに等しく、晶の銃撃も、そこに術が込められているから足止め程度の効果を発揮しているに過ぎない。
神獣を倒すには、大人数で大魔術を行使するくらいしかない。もしくは、超一流の術者による対神格魔術。そして、カンピオーネ。
土蜘蛛は、晶から受けた攻撃を物ともせず、眼光を光らせている。
ゴアアアアアアアア!
鬼の口が裂け、咆哮する。
そして、晶に向けて突撃する。木々が引き裂かれ、なぎ倒れていく。
「このッ」
再び砲撃。
火を噴く弾丸は、土蜘蛛の足、それも関節部分に直撃して爆発する。バランスを崩した土蜘蛛は、つんのめって地面に腹部をこすりつける。
地割れのような轟音が響く。
晶は、その間に離脱。猿飛の術で身軽さを増し、大きく後退する。
銃弾は効かないわけではない。ただ、ダメージが微々たるものだから数がいる。
晶は、動き回り、土蜘蛛を翻弄するようにする。
もっとも威力を発揮する御手杵による接近戦は封印だ。
倒せるかどうかもわからない敵であり、爪は岩を切り裂き、突進は木々を薙ぎ払う威力。とても近接戦を挑める相手ではない。挑むのであれば、相応の準備を必要とするだろう。
それに、今は、時間を稼ぐ事が何よりも大事だ。
晶が勝負にでないのも、馨がこうしている間に、なにかしらの策を立ててくれるだろうということを期待してのことだった。
やはり、蜘蛛の足だけあって、関節部分は構造的な弱所であるようだ。
装甲と装甲の間の部分は、柔らかくなければ曲がらない。人間の鎧がそうであるように、硬質な外殻を持つ生物でも、間接部分は守りが薄いのも道理であろう。
晶は、さらに二発、それぞれ別の足に打ち込んだ。
「これで、どの程度のダメージになるのか」
土蜘蛛は、機能不全を起こした三つの足をわなわなと震わせて、晶に憎悪の目を向ける。
あの怪物の思考力がどれほどのものか晶にはわからない。もしかしたら人間並みの頭脳を持っているのかもしれない。少なくとも、敵に復讐しようというだけの『分別』を持つ事は明らかだった。
晶は手早くマガジンを交換。
土蜘蛛に銃口を向ける。
すると、土蜘蛛が大きな口を開いた。顎が外れているのではないかと思わせるほどに大きく開かれた口の中には、ワニを思わせる鋭い乱杭歯が並んでる。
バハアアアアア!
その喉奥から、真っ白な糸が吐き出されたのだ。
「キャッ!」
遠距離攻撃はできないものと思っていた晶は完全に不意を打たれた。
よろめきながらも糸を辛うじてかわすと、すかさず銃撃。
放たれた銃弾は、土蜘蛛と晶の中間地点で炸裂し、紅蓮の花を咲かせた。
糸による追撃を避けるために、晶が念じたのだ。糸を焼ききっても安心できるものではない。土蜘蛛の八本の足が再びうごめき、そして、その巨体を砲弾のように弾く。
驚異的な速度。まるでロケットのような加速で迫る土蜘蛛に、晶は反射的に引き金を引いた。その時、銃口は、晶のすぐ脇に向いていて、地面に放たれた榴弾は、爆発するとともに晶の身体を真横に吹き飛ばした。
結果として、より殺傷性の高い土蜘蛛の体当たりを回避することができた。
晶を仕留めそこなった土蜘蛛は、そのまま直進し、百メートルほどの距離を使って停止した。
「うああああ……うぐぅ!」
守護の術でも限界はある。まさか自分で考案した弾丸を自分に使うことになるとは夢にも思っていなかった晶は、その爆風を受けた右腕を押さえ苦悶の表情を浮かべる。
神獣を相手にすることも考慮して、火力の高い弾丸を製作した。
仕込んでいる術はただの火の魔術ではなく、高位の神仏の加護を頼みとした高い威力の呪術であり、晶はその力を我が身をもって実感することになってしまった。
「はっはっは……」
治癒術をかけても体力までは回復しないし、呪力もずいぶんと消耗している。
晶は、右手の状態を確認する。
表面には火傷に裂傷、内部は骨折が三箇所はありそうだ。完治までは三十分はかかるだろう。それまでは、右手は戦力に数えられない。
おまけに、ライフルは拉げて使えない。
敵はほぼ無傷。増援を整えるのはもう少し時間がかかるか。
「御手杵」
左手に、相棒を呼び寄せた。
片手で扱うには、長すぎてバランスが取りづらい。
「倒せるかわからないけど。行動不能程度には陥らせて見せる!」
晶は、様々な条件を考えて、ここで賭けに出ることにした。
土蜘蛛を相手に、接近戦を選ぶのは危険すぎる。一方で、時間を稼ぐ戦い方も、今の消耗を考えれば長く続けられない。
一撃。自分の今出せる最大の攻撃でもって、土蜘蛛に大打撃を与える。
土蜘蛛が反転し、晶のほうを向いた。
晶は、呪力を高めて槍に注ぎ込む。
大地と月の魔力。彼女だけの、純粋で高質の呪力は、すべて母なる大地から汲み上げたもの。つまり、人一人で賄える魔力よりも多くの魔力を、高い質のままで行使することができるのだ。
晶の魔力を吸った御手杵が、月色に光り輝く。
晶は、御手杵を掲げ、逆手に持って、呪文を唱える。
「南無八幡大菩薩!!」
それは、源氏の氏神にして、弓の神。皇室においては天照に次ぐ位階を与えられた皇祖神の御名。
遠距離攻撃、及び破魔に多大なる恩恵を与えてくれる神仏の加護を宿し、豪槍が一直線に土蜘蛛を襲う。
土蜘蛛は回避もままならず、槍の一撃を受けた。
衝撃が奔り、一条の閃光と化した槍は、土蜘蛛の頸部に突き立ち、なおも勢いを失わない。
まるで、槍そのものが土蜘蛛を討ち果たそうとしているかのごとく、その巨体を押し戻し、呪力を爆発させて星のように輝いた。
土蜘蛛のいた場所は粉塵に覆われその様子を窺うことはできない。
全力の一撃は、確かに土蜘蛛に一矢報いる事ができた。その穂先はあの硬い身体に突き立ち、大きなダメージを与えたはずだ。
晶は、疲労困憊。顔色も力を使いすぎて青白くなっている。
「う……」
突如襲い掛かってきた嘔吐感にたまらず膝を突く。
全身を蛇が這いずり回っているかのような寒気を感じ、前後左右も分からないほどに頭が揺れる。
(しまった……土蜘蛛は、厄病の……)
平家物語には、源頼光を瘧(マラリア)で苦しめた逸話が残っている。
毒素を振り撒く事くらい、土蜘蛛にとってはなんの苦にもならない。
立ち込める臭気。澱んだ泥と水に臭いこそが、土蜘蛛の毒だったのだ。知らず知らずのうちに、晶はこの毒を体内に取り込んでいた。今までなんともなかったのは、呪力を全身に行き渡らせていたからであり、投槍の術によって呪力を大きく減じた晶には、これに抵抗する力がなかった。
「うう……」
全身を襲う気だるさに、晶は為す術なく倒れるしかなかった。
指一本も動かす気にならない。動かない。
おまけに、粉塵が晴れたその場所に、土蜘蛛はまだ立っている。身体のどこかに機能不全はおきているのかもしれない。それでも、神獣の回復力や打たれ強さを考えれば、安心できるものではない。
晶には、もうにらみつけるほどの力もなかったが、悪あがきにそちらに視線を向ける。
土蜘蛛が黒々とした足で地面を踏みつける。
大きな身体が持ち上がり、牙の間から唾液が零れ落ちる。
倒れて動けない獲物にも、土蜘蛛は容赦するという事がないらしい。
八つの足で地を蹴って、晶に襲い掛かった。
そして、死ぬ、ということを呆然としたまま考えて、目を瞑った。
一秒、二秒、三秒……
時間が過ぎる中で、晶はいつまでたっても自らに死が訪れない事に疑問を抱いた。
土蜘蛛の速度であれば、一秒あれば踏み潰し噛み砕けるはず。しかし、いつまでたってもそれがこない。
もしかしたら、すでに死んでいて感じなかっただけなのかもしれないが、それにしてもなんの衝撃もないのはどういうことなんだろうか。
おそるおそる、目を開いた。
最初に見えたのは相変わらずの黒い雲。そして、宙を漂う雨粒たち。まるで時間が止まったようだ。
「なんだ、起きてたのか」
すぐ近くから、落ち着いた声が聞こえてきた。聞き覚えがあるその声の主は、晶の眼前にいた。
「草薙先輩?」
青白く帯電しているが、それは紛れもなく護堂だった。
晶は、自分が抱きかかえられている事に気づいて、頬を赤らめた。
なんだかんだいっても、男性との接触の経験はほとんどなかったからだ。
気がつけば、晶は公園の端にある広場まで移動していた。護堂に運ばれたようだ。
神速で消えた晶を狙っていた土蜘蛛は、今頃、目標を見失ってさまよい歩いているに違いない。
晶には何が起こったのか、まったく把握できてない。ただ、護堂に助けられたという事だけが理解できる事である。
「顔色が悪いな……毒か」
「ッ……!」
覗き込んでくる護堂に反射的に身を引きながら、晶はコクリと頷いた。
医学の知識のない護堂の目から見ても、晶の体調が悪いことは一目でわかった。第六感が、その身のうちに潜み悪さをしている毒の魔力を喝破していた。
護堂は、晶の額に手を伸ばした。
「な、なにを?」
「動かないで」
護堂に言われて、晶は身動きを止めた。というよりもむしろ、固まっていた。
「ん……」
護堂がなにか呪文を唱えると、その掌から呪力が晶に流れ込んできた。
土蜘蛛の力とは正反対の、清浄な呪力。
晶は体内に入り込んだ毒が、抵抗も許されないままに消滅していくのを感じた。おまけに、力が戻る。体力も、呪力も、集中力すらもかつてないほどに溢れてきたのだ。
「成功か。いや、初めて使うものだからうまくいくかわからなかったんだけどな」
「今のは、治癒の権能……それも蛇ですね。たぶん、若雷の」
晶は、今の呪力の正体に心当たりがあった。
護堂がこの春にたおした雷神の一柱に、豊穣の象徴にして再生の権能を持つ個体がいたからだ。
とすると、晶を救った高速移動にも大体の見当がつく。
森を破壊し、ついに土蜘蛛が護堂たちの前に姿を現した。
「もう少し遠くに逃げられればよかったんだけどな。ごめん、神速には慣れてなくて、あれ以上は続けられなかったんだ」
「そんな。謝らないでください。先輩が来なかったら、わたし死んでたんですから」
東京から京都までの道のりは、遠い。
その距離を生まれて初めての神速で駆け抜ける。護堂の想像以上に、負担が大きかった。
(原作みたいな、行動不能にならなかったのは幸いだったな)
ちょっと重い車酔いのような感覚だろうか。
慣れればもっと時間をかけられるだろう。
おまけに、護堂には、原作から得た神速の特性が頭の中に入っている。なんの因果か、黒王子と同じ雷の神速。負担を減らす、雷化をイメージし、うまくいったときにはしめたとも思ったが。
(多用は止めておいたほうがよさそうだな)
土蜘蛛が、突進を開始した。
晶を散々苦しめた、暴走列車のような突撃だ。
「く……!」
晶が護堂の前に躍り出た。楯になろうとでもいうのだろうか。神速は続けられないという発言から、護堂には高速戦闘が行えないと考えたのだろうか。
しかし、護堂はカンピオーネで相手は神獣だ。そもそもの格が違う。
護堂は、土蜘蛛を見ても、特に脅威とは感じなかったし、土蜘蛛の最大威力の攻撃であろう突進にもまったく動じる事がなかった。
我ながら、慣れとは恐ろしい、とあきれ返る思いだった。
こんなときに、新しい力を試してみようと考えるほどに護堂は冷静だったのだ。
側にいた晶を抱き寄せる。晶は、「せ、先輩!?」と声を上げるが、護堂の耳には届いていなかった。
「土に生きる雷の蛇よ。暗き大地の中で踊れ」
聖句を唱えた瞬間に、土蜘蛛が、護堂たちのいるところを猛スピードで通過していった。
土蜘蛛が過ぎ去ったところには、何も残っていない。護堂も晶もそこにはいなくなっていたのだ。
跳ね飛ばされたわけではない。なぜなら、二人は、土蜘蛛と位置を入れ替えてその場にいたのだから。
「今のは、なんですか?」
「地面を自在に移動できるみたいだ。これ多分、壁抜けとかもできそうだな」
土蜘蛛のタックルを、護堂は地面に潜る事で回避したということだ。穴を掘るのではなく、溶け込むような感覚で地中を動き回る事ができる。
おまけに、雷化しているようで速度も神速に引けをとらない。
雷が土に吸収される様子を具現化したということだろう。
土雷神らしい権能だ。
「空中戦以外はこれ使えばいいんじゃないか?」
護堂は呟いた。使い勝手の悪い伏雷神の神速よりも地面に足をつけていればいい土雷神はほぼいつでも発動できるからだ。
護堂は土蜘蛛に止めを刺すべく、呪力を練り上げる。
そのときだった。
「横槍御免!神殺しの少年よ!」
恐ろしい力の篭った声が空から落ちてきた。
第六感が警告を発した。土蜘蛛など、ものの内にも入らない巨大な呪力の塊だ。護堂や晶はもとより、土蜘蛛ですらその声の主を見上げていた。
大きな馬に乗った大鎧の武者が驚くほどの速さで空を駆けてくる。いや、跳んでいる。跨っている馬がとてつもない大ジャンプをしたのだろう。
着地と同時に、あふれ出る呪力と威圧感が、公園中に風となって吹き荒れる。
「某を呼ぶ不吉の声。やはり土蜘蛛であったか」
鎧武者は土蜘蛛を懐かしそうに眺め、スラリと太刀を抜き放った。
それに反応した土蜘蛛が、脇目も振らずに鎧武者に特攻する。鬼気迫る様相は、土蜘蛛と鎧武者の力関係を如実に現していた。
「ふん!」
鼻を鳴らして、馬上から一閃。
晶には信じられなかった。あれほど、苦戦し、猛威を撒き散らした土蜘蛛が、ただの一太刀で両断されたのだから。一刀両断された土蜘蛛の亡骸は、石となり砕けて消滅した。
この世ならぬものの最後は、ひどく呆気ないものだ。
護堂は、晶を背に庇い、鎧武者をにらみつけた。
「あんたは」
「む?神殺しは礼儀を知らぬ御仁と見える。お主も戦人ならば、それ相応の礼節を身につけるべきであろうが……まあよいか。お主の戦いに水を差したのも事実。ここは某から名乗るとしよう」
鎧武者は、大きく息を吸うと、驚くほどの大音声で名乗りを上げた。
「遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ!我こそは鎮守府将軍源満仲が長子、源左馬権頭頼光なるぞ!此度は京での兵乱を平らげ、安寧を齎すべく摂津国からこの地へ参った!神殺しよ、いざ、組まん!」