ずいぶんと長い間古代の世界を旅していたと思う。実際に数ヶ月を過ごしたのだから、当然といえば当然ではあるが、この関門を現代人がよく乗り越えられたなと自分を誉めてやりたい。
古代は古代で、慣れれば過ごすことは不可能ではなかった。滞在していたのはインフラが整備された大都市だったということもあり、また護堂自身がカンピオーネとして強靭な生命力と支配力を持っていたということもあるだろう。ただの人間だったのならば、ものの数日で音を上げていたのは間違いない。
そういった意味でも――――
「あー、やっぱ現代は最高だな!」
「そうですね。疑いの余地なく最高です!」
「同感です。やはり、現代人の生活は捨て難い」
過去に飛ばされた三人は古代ガリアからやっとのことで帰還を果たしていた。
元の時代に戻ってきて、まだ三時間。しかし、そのたった三時間で、護堂たちは現代の生活の利便性と快適性を全身で享受していた。
「第一にお風呂が最高です。ローマのお風呂もよかったのですが、自由気侭に入れるお風呂は最高です」
晶がうっとりとした表情で言った。
晶が言うとおり、古代にもローマ風の公衆浴場はあったが、現代のそれに比べると見劣りはする。
同じ乙女として意見を同じくするリリアナも大きく頷いて賛同した。
風呂上りに火照った頬が、妙な色気を出している。
「ん、そういえばアイーシャさんとサルバトーレは……」
護堂は、一緒にこの時代に戻ってきた二人のカンピオーネを思い出した。
元の時代に戻ってきたときは確かに一緒にいたのだ。
古城のホテルに戻ってきた際には二人のカンピオーネも一緒にいたはずである。
「アイーシャ夫人はレストランでお食事中よ。あと、サルバトーレ卿はお付の方に折檻を受けているところね」
黄金の獅子を思わせる髪の少女がそう告げる。
「エリカ、久しぶりだなぁ」
「わたしからすれば、ほんの一日ぶりよ。あなたたち、いったい何日向こう側にいたの?」
護堂の口振りにエリカは不思議そうに尋ねてくる。
「何ヶ月か、だな。この時代では一日でしかないのか」
「逆リップ・ヴァン・ウィンクルか逆オシーンといったところなのかしら。ずいぶんと貴重な経験をしたのね」
「貴重は貴重だったな。ああ、アレクサンドルが探してた最後の王ってヤツとも戦ったし」
「それ、本当? よく生きてたわね。地上のカンピオーネを殺戮する神様だって触れ込みのはずだけど」
「相手が本調子じゃなかったからな」
エリカはリリアナに比する才媛である。
さすがに騎士の中で最高峰というわけにはいかないが、同世代では突出した逸材である。呪術という点では魔女のリリアナには及ばないが剣術や智慧でそれをカバーする。彼女が真に力を発揮するのは、政治的な駆け引きにおいてであった。
そういったこともあり、アレクサンドルが何を求めて騒動を起こしているのかという点についても熟知している。そういう情報が得やすい立場にあるということもあるだろう。
「それで、あなたはどうしてここにいるんだ?」
と、リリアナがエリカに尋ねた。
「あら、わたしがここにいてはおかしいかしら?」
「いや、おかしくはないが、何か用があったんじゃないのか?」
「そうね。そろそろ護堂がアイーシャ夫人やサルバトーレ卿を気にする頃合かと思ってね」
「何故あなたが護堂さんを分かったように言うのか不思議でならないが……」
「でも、当たっていたでしょう」
「む……」
釈然としないとばかりにリリアナは押し黙る。
対するエリカは興味深そうにリリアナを頭の先からつま先まで眺めている。
「ま、いいわ。ねえ、護堂。そろそろ、古代の世界の武勇伝を聞かせて欲しいところなのだけど、いいかしら?」
「武勇伝? そんなもの大してないぞ。俺は、サルバトーレやアイーシャさんに振り回されてただけだし」
「でも、『まつろわぬ神』と戦ったり、古代のカンピオーネと出合ったりはしたのでしょう? 最後の王についても気になるところだし」
「知的好奇心が旺盛なのは相変わらずだな」
「最後の王についてはわたし個人の感情面の都合だけじゃないわよ。もし本当にこの世の最後に現れる王なのだとしたら、人類全体の問題になるわ。あなたが、本物と出合ったのならばその正体から探って対策を練る必要があるもの」
「ん、まあ、そうだな。つっても、どこまで探れるか分からないけど」
最後の王あるいは最強の《鋼》と呼ばれる恐ろしい英雄神がいる。
アレクサンドル・ガスコインが聖杯に絡めて探求する謎の神であり、はるか古代からカンピオーネと戦い続けてきた魔王殺しの勇者であるという。その力の一端を、護堂は垣間見た。未だ不完全な状態だったものの、それでも護堂と互角以上に渡り合って見せたのだ。本調子になったら、どれほどの猛威を振るうのか想像もつかない。
確かにエリカの言うとおり、最強の《鋼》の正体が分かれば何かしらの対策は取れるかもしれない。何よりもウルスラグナの権能が使えるようになるのは大きい。
「万里谷先輩に頼んでみるのはどうでしょうか。リリアナさんも先輩も、あの神様の呪力を肌で感じたわけですし、もしかしたら当たりを引けるかもしれませんよ」
晶が提案すると、護堂すぐに同意した。
もとの時代に戻ってきたばかりで、そのことを喜びすぎていたが、喜びも覚めれば冷静になってくる。先のことを考えると、きちんと五世紀の経験を活かしていかなければならないだろう。
「リリアナも協力してもらえるか?」
「それは……もちろんです。あなたは王なのですから、協力しろと命じてくだされば、それでいいのですよ」
「そういうのは苦手だ。ま、今後の課題だな」
などと言って、護堂たちは応接間に向かう。
祐理や明日香、恵那もそこに来てもらうことにした。
□ ■ □ ■
そして、体感時間では数ヶ月ぶりとなる仲間たちとの本格的な再会が実現した。
この時代に戻ってきたときに言葉を交わしはしたが、その後は護堂の疲労を慮って距離を取っていたのである。
「それで、護堂。あんたはアイーシャさんのトンネルの向こうで大冒険したそうだけど」
「大冒険って言えば、そうだな。エリカにも言ったけど、まさか五世紀に飛ばされるとは思わなかった」
「えーと、それってタイムスリップってこと?」
明日香は疑いの眼差しを向けてくる。
「アイーシャさんの権能は、やっぱり過去の時代に通じる穴を開けるものだったみたいですよ」
「へえ、それはまた、まあカンピオーネの権能なんだから当然、なのかしら。話には聞いてたけど……」
明日香は理解するのも難しいとばかりに目を白黒させる。
当然の反応ではあるのだろう。
時間を超えるというのは、ファンタジーやSFではよくある話ではあるが、実際にそれが発生するとなると時間の連続性の点で問題が発生する。平行世界が生まれるのか、未来が変わるのか、そういったところがまったく分からないからである。アイーシャが言うには世界には修正力があるというが、それがどの程度のものなのかは護堂たちには分からないのである。
事前にエリカからある程度の話は聞いていたが、体験してみるまでは半信半疑ではあったのだ。
「でも、カンピオーネってだけあって出鱈目な権能だね。恵那たちは、アイーシャさんって洞窟に隠棲してるって聞いてたけど、実際はいろんな時間を渡り歩くアウトドア派だったなんてね。しかも、王さまたちも体験しちゃうなんて」
「アウトドアなんてもんじゃなかったぞ。あの人の自由さ、というか腰の軽さは……」
疲れたように護堂は言った。
晶とリリアナも、同調するように沈黙する。
その三人の表情を見るだけで、五世紀で護堂たちが散々な目にあったことは容易に想像できた。
「ん、なんか護堂ってそういう星の下に生まれてきたんだって、改めて思うわ」
「止めてくれよ、本当に」
確かに、護堂は法道を倒すためにこの世界に呼び出された存在である。それを思えば、その誕生の目的そのものからして将来の波乱を約束するものではあったのだろう。
しかし、それは護堂の意志によるものではない。
「ですが、最強の《鋼》が最後に漏らしていたように、護堂さんがこのままカンピオーネとして生き残っていけば、近い将来彼とまた出会うのは確実です」
リリアナの指摘に、護堂は苦い表情を浮かべた。
カンピオーネになった時点で、『まつろわぬ神』との対立は避けられない。
そして、『まつろわぬ神』が滅びることもありえない。彼ら、彼女らは人類の歴史と共に歩むものたちだからである。『まつろわぬ神』が滅びるときは、人類が滅びるときである。
最強の《鋼》は人類の歴史の中で度々姿を現し、その時代の神殺しを皆殺しにして眠りに就くというサイクルを繰り返している。
最近の目覚めは一五〇〇年前のブリテンだという。
護堂が旅をした五世紀初頭よりも、数十年は先の話だったのだろうが、恐らくはウルディンも彼の犠牲になったはずである。
長すぎる休眠はそろそろ破れるだろう。
さらに数百年も眠り続けるというのは虫のいい楽観的な考え方である。
「最後の王か。グィネヴィア様がずっと探してた《鋼》の軍神だったよね」
恵那がかつての強敵を思い返して言った。
晶と共に敵対した神祖は、最強の《鋼》をアーサーと呼び慕っていた。結局、その目的は果たされることはなく、志半ばで死を迎えたが、彼女が求めていたものは今でも護堂たちの運命の上で復活の時は待っている。
「アーサー王だと伝ってはいましたが……」
「プリンセスアリスによると、アーサー王ではないらしいわよ」
リリアナの言葉を受けて、エリカが言った。
どうやら、この件について欧州呪術界で最も高貴と謳われる姫とコンタクトを取っているようだ。
「アーサー王は六年前に降臨されているの。かなり大きな事件ではあったみたいだけど、黒王子とプリンセスのご活躍で秘密裏に処理されたそうよ」
「アーサー王伝説は普及しすぎたから、伝説の中のアーサー王が出てきたってことだろう」
「ええ、そうみたいね。それで、グィネヴィア様は大層うちのめされたそうよ」
グィネヴィアが最強の《鋼》を蘇らせるために世界を旅するのもその頃からだったという。
それ以前はアーサー王伝説を触媒にした『まつろわぬ神』の招来に固執していたらしいが、それでは目的は達せられなかった。
よって、眠りに就いた最強の《鋼》の所在を探し出すようになったのだそうだ。
「結局、どこの神様が最強の《鋼》なのかまったく分からないんだよな。直接戦いはしたけど、アイツは名前を明かすのは許されないとか何とか言ってなぁ」
「魔王殺しの神様と戦われて、よくご無事で……」
「悪運の強さはさすがよね」
祐理と明日香は、護堂の異常性に頭を抱えそうになる。
呪術業界の伝説である最強の《鋼》と戦った経験のあるカンピオーネというのは非常に珍しいのだ。最後に彼が活動した一五〇〇年前から現代に生き残るカンピオーネは皆無である。
「祐理には悪いんだけど、俺たちが戦った最強の《鋼》のことを視てもらおうと思ってな」
「あの、護堂さん。わたしたちの霊視は決して万能なものではありませんよ。託宣をいただこうと思っても、いたがけるものではありませんし。ましてや、これまで一度たりとも御名を明かされなかった神格です。非常に難しいかと思います」
「分かってる。けど、今までに何度もそれで助けられたからな」
「祐理って、なんだかんだいって読み解いてくれるから、つい頼っちゃうよね」
恵那がニコニコしながら祐理を見る。
恵那の言うとおりである。
祐理の霊視の的中率の高さは世界でも最高峰なのだ。
また、霊視を得ることができなくとも、優れた直感で危険を感じ取ってくれることもある。
これまでの戦いの中で祐理の力が護堂の助けとなった場面は数え切れないほどであり、そういったところからも祐理の力に護堂は全幅の信頼を置いている。
とはいえ、祐理が言うように、念じれば霊視ができるということでもない。ただ的中率が圧倒的に高いというだけであって、霊視ができないことも少なくない。まして、今回の霊視対象は古代から現代まで正体が謎に包まれてきた『まつろわぬ神』である。歴代の名のある魔女や巫女ですら、読み解くことのできなかった正体不明の相手に挑むのだから、十中八九失敗するだろうというのが当然の見解である。
「わたしも、護堂さんのお力にはなりたいのです。せめて、最後の王と縁のある物でもあればと思いますが……」
「縁のある者ね。天叢雲剣がアイツの呪力をコピーしたけど、それが使えるかな」
と、護堂は黒い剣を呼び出した。
天叢雲剣に残留する最強の《鋼》の呪力を祐理に視てもらう。
ランスロットのときも、最強の《鋼》の呪力はあった。が、それとこれとは力の質が違う。本人が振るった救世の神刀の呪力は、彼に直接繋がる縁である。
「これは、確かに天叢雲剣とは異なる《鋼》の気配を感じます。かなり微弱で、ほとんど残っていないようですが……鋭い、まつろわす剣。大地から力を奪い、敵を討ち取ることを本質とする者……」
祐理は目を瞑って、精神を研ぎ澄ます。
それから首を振って、目を開けた。
「申し訳ありません。《鋼》の性質までは感じ取れるのですが、本質的な部分については何も」
「む、そうか。まあ、いいんだ。そんな簡単に正体を割り出せるとは思ってなかったし、当たれば儲けモノって程度だからな」
そうは言いながらも祐理に期待していたところもあったので残念ではあった。が、それを彼女に伝えるのは失礼だろう。一方的に期待して、一方的に落胆するのはあまりに酷である。
「リリアナのほうも、ダメだったか?」
「はい。申し訳ありません。わたしは、あの神格の呪力を肌で感じていましたのに」
「いや、謝らなくてもいいよ。分からなくて当然の相手なんだからさ。だとすれば、後は情報を集めていくしかないか。やっぱり、都合よく事は運ばないな」
祐理もリリアナも共に読み取れないとなると、霊視方面から攻める方法は諦めるしかない。
「じゃあ、この話はこれ以上はなしだな。疲れるだけだ」
「それが建設的でしょうね」
エリカが頷いたことで、最強の《鋼》についての話は終わることになった。
さすがに女主人のような立ち居振る舞いが身に付いているだけのことはあって、基本的に庶民の明日香などは終始エリカに気圧されているばかりである。自分の言葉を周囲に納得させる強制力のようなものをエリカは持っている。アイーシャのそれとはまた別の才能である。
「とりあえず、もう夕方だし、食べに行かないか? 確か、ピザの専門店がちょっと出たところにあったよな?」
「では、わたしが話を通しておきましょう。車の用意もさせます」
「悪いなリリアナ」
「いえ、王の命となれば当然のことです。では、出発まで少々お待ちください」
スッとリリアナは携帯電話を取り出して応接間を出て行った。
「なかなか板についた執事っぷりね。護堂、あなた古代でリリィに何かしたのかしら?」
「いや、別に……」
歯切れの悪い返事をする護堂に湿った視線が注がれる。
祐理はため息をつき、明日香は頭を抱える。恵那は興味深そうにして晶はというとすべて知っているので余裕の表情である。
「まあ、後であの娘に聞いてみればいいかしら。ありがとね、護堂。また面白いネタを提供してくれて」
などと、エリカは悪魔のような笑みを護堂に向ける。
幸いなのは、この悪魔の顔が護堂に向かないことである。その代わり、犠牲になるのは銀色の騎士なのだが。
■ □ ■ □
護堂が現代に戻ってきた夜のことだ。
本場のピザに舌鼓を打ったあと、再びホテルに戻ってきた護堂たちは、長旅の疲れを取るために早めに休むことになった。
フィレンツェの呪術結社《百合の都》が運営する古城ホテルは従業員から呪術師で構成されており、カンピオーネへの特別待遇に揺るぎはない。護堂に与えられた部屋も、VIP待遇と言うに相応しい豪奢なものであった。
時刻は午後九時過ぎだ。窓の外はすっかり闇に覆われているものの、自然の中に人工の光が見える。部屋の中にも照明器具の明かりが溢れていて、時代の違いを感じさせる。
「生活習慣が変わるわけだな……」
すでに護堂には眠気が訪れている。
長い間、古代の地で過ごしてきた影響である。明かりのない世界では太陽の運行が人々の生活習慣を決めていた。日が沈めば一日が終わる。そんな世界に慣れてしまえば、現代のいつでも明かりがある状態はむしろ異質に思えるのである。
そんなことを考えているところで、ドアがノックされた。
返事をすると、ドアが開いて中に祐理が入ってきたではないか。
「申し訳ありません、このような遅い時間に」
「いいや、大丈夫だ。遅いといってもまだ九時だしな」
現代的な生活を思えば、九時は遅い時間ではあるが寝るには早い。学生としては、むしろここからという時間帯ではないだろうか。
祐理をソファに座らせた後で、護堂は反対側に座って尋ねた。
「それで、どうしたんだ?」
「はい、それが……先ほどの最強の《鋼》について、なのですが」
祐理は言いずらそうに、言葉を紡ぐ。
「もしかして、何か視えたのか?」
護堂は身を乗り出して聞いた。
後になってから、祐理が何か視たと言うのならばそれは朗報である。
「あ、い、いえ。そうではないのですが……」
と、首を振ってから、どういうわけか俯いた。
しばらく後、祐理は紅くなった顔を上げる。
「護堂さんが古代で感じたことをわたしに伝えていただければ、霊視の成功率が上がるように思うのです」
「伝えるって言っても……」
「ですから、その……わたしと護堂さんの感覚を繋ぐことで、それが可能なのではないかと。ガブリエル様の権能で、感覚をさらに研ぎ澄ますことができれば、可能性も上がるかと思います」
なるほど、と護堂は納得した。
祐理は自分が直接感じることで霊感を刺激される。
護堂と精神的な繋がりを得れば、護堂が古代のガリアで戦い、感じ取った最強の《鋼》の情報を祐理に与えることができる。それは、言葉による伝達よりもずっとはっきりとしたものであるはずだ。
「いいのか?」
「はい」
護堂が何を問うたのか、祐理は理解している。理解した上で、ここに来たのだ。
「先ほども申し上げたとおりです。わたしは、あなたの力になりたいのです」
しっかりとした口調で、祐理はそう告げる。
ここまで言われては護堂に断わる理由はない。
「じゃあ、頼む」
「はい……」
祐理はしっとりと笑みを浮かべて、護堂の隣に腰掛ける。
それから、護堂の頬に手を添えて自ら唇を重ねた。
もう何度目になるかわからないキスは、初めてしたときのような初々しさは感じられない。
しかし、慣れたとはいえ事務的なものに堕したかというとそうではない。祐理は大人しい性格とは裏腹に、積極的な舌使いで護堂に迫るようになっていた。
「はう、んぅ」
時折、唇の間から声を漏らしながらもより深く繋がるために唇を吸って舌を絡める。
祐理は護堂の首に腕を回し、抱きつくようにして体重を護堂に預けた。
互いの口を介して知識が祐理に流れ込んでいく。
護堂は祐理の存在を感じながら、五世紀での戦いを想起した。
最強の《鋼》と呼ばれる何者かとの戦いは二度あった。
一度目は相手の積極的な攻撃になす術なく敗退に追い込まれ、晶の助けがなければ命が危ういというほどに痛めつけられた。そのときの痛みと身体に与えられた損傷の性質はガブリエルの権能で感じ取っている。
二度目の戦いではカンピオーネの総力戦となった。
相手にアルティオのほかにも従者と見られる『まつろわぬ神』がいて、風と《鋼》の混淆神であるようだった。
蠢く蛇のように絡みつく祐理の舌に負けないように護堂もまた反撃をする。祐理は逃げることもなく、護堂の反撃を受け入れて、味わうように口をすぼめる。
「あ、ん……」
唇を離した祐理は、そのまま脱力して護堂の肩に顎を乗せる。
荒げた息を整えるために深呼吸をする祐理に護堂は尋ねた。
「何か、見えたか?」
祐理は身体を起こして、護堂を見つめる。
「あ……」
祐理の瞳が玻璃色に染まっていた。
幽界の玻璃の媛と同じである。
祐理たち日本の媛巫女が、玻璃の媛の血統を受け継ぐ巫女であることの証であり、祐理の高い資質を示すものである。
陶然とした表情の祐理は、名残惜しそうに護堂の唇を軽く吸うと小さく頷いた。
「本当、か?」
「はい。……視えた、というよりも浮かんだといったほうが正しいのですが」
祐理は、囁くような小さな声で、歌うように言葉を紡いだ。
「海に邪竜あり。竜は即ち風雲を興して持って天日を擁し、電耀は海に光れり。王は乃ち箭を放ち、まさに竜の胸を破る――――この言葉がわたしの心に浮かんできました」
祐理は目を瞑って、心に浮かぶ言葉を脳裏に描く。忘れないように、心で覚えるのである。
「竜退治の話、か」
「最強の《鋼》は、《蛇》をまつろわす神と聞きます。竜は《蛇》の属性を持つ神々の象徴のようなものですから、間違いはないかと思います」
「そうか。ありがとうな」
と、言って護堂は笑った。
祐理の頭を優しく撫でて抱き寄せる。
祐理は頬を染めながらも、抵抗せずに護堂に身を任せた。
せめてもの役目を果たすことができて、ほっとしたのだろう。祐理は、目を瞑ってしばらくの間、護堂に身体を預けたままだった。
□ ■ □ ■
護堂が祐理の霊視結果を仲間たちに伝えたのは、翌朝のことであった。
夜に口付けを交わしたという点はぼかして、祐理が霊視を受け取ることに成功したという事実を端的に伝えた。
「海に邪竜あり。竜は即ち風雲を興して持って天日を擁し、電耀は海に光れり。王は乃ち箭を放ち、まさに竜の胸を破る、ってのが浮かんだらしい」
朝食を取った直後のテーブル席でのことである。護堂は祐理が霊視で読み解いた文言を書き込んだメモをテーブルの上に置いて、反応を待った。
「竜を退治する物語って感じだね」
と、まず恵那が言った。
「でも、そんな話はどこにでもありますよ。ちょっと漢文の書き下し調なのは、なんなんでしょうか?」
晶が祐理に尋ねるが、祐理は首を振って、
「わたしにも分かりません。感じたままに、言葉にしただけですから」
感じたことをそのまま言葉にするのは難しい。護堂と祐理がしたように、感覚の共有ができれば話は別だが、感覚を言葉に置き換える時点で、重要な情報が失われることもある。
「うん、でも今回のこれはいつもと違う感じだな」
護堂は普段の霊視と今回の霊視が異なるように感じていた。
これまでは、祐理自身が感じたことを上手く表現できないといった事例があったように、祐理自身の言葉で表現されていた。
「これは、祐理の言葉じゃないな。書き下し調にする意味がない。勘なんだけど、これ、なんかの文章じゃないか」
「あるかもね。恵那は覚えがないけど、もしも実在する文章なんだったら、この話の全体像が見えるかも」
「リリアナさんとエリカさんは、どうですか?」
晶はリリアナとエリカにも尋ねてみた。
彼女たちは千の言語で日本語も中国語もマスターしている。漢文の書き下しくらいなら、言葉の感じで理解はできる。もしかしたら、学習の過程で答えを得ているかもしれない。
「だめね。わたしは聞き覚えがないわ。竜を殺した英雄の話っていうのならいくらでもあるけれど」
「わたしも分からないな。この文章が実在するとすれば、中国か日本だろう。書き下しとなれば、日本以外にないから、あなたたちが分からないのならば、かなり難しいだろう」
エリカもリリアナも首を横に振る。
西洋の伝承には詳しくても、東洋の伝承は難しい。当然と言えば当然であろう。
「やっぱり、日本で探すほかないのでしょうね。国立国会図書館や正史編纂委員会の書庫を当たってみましょうか」
祐理が困ったように言った。
無数と言っていいほどの文献の中から、目的の文章を探し出すというのは砂漠から一粒のダイヤを探し出すようなものである。情報が少なすぎて当たりをつけることすらできない。
せっかく、最強の《鋼》に関わる重大な情報を得たというのにこれでは活かせない。
カンピオーネ命令による物量作戦という物騒な言葉が護堂の脳裏を過ぎったときだった。
「『六度集経』ね」
そう呟いたのは、一人スマートフォンを操作していた明日香だった。
「え?」
護堂は明日香に聞き返した。
「だから、『六度集経』だって。海に邪竜あり云々って」
ほら、と明日香は護堂にスマートフォンの画面を見せた。
そこにはインターネットの個人サイトに公開されている漢文が表示されており、画面上の文字検索機能で色づけされた部分に「王乃放箭、正破龍胸」とある。
「おい、ネットかよ!」
「そんなのアリですか!? ここで皆して頭捻ってたのに!?」
護堂と晶が同時に叫ぶ。
「えー、反則。そりゃ、電気のないところで生活している恵那は思いつかないなぁ」
「わたしも機械は苦手で、そういう考えにはなりませんでした……」
恵那と祐理はむしろ感心して明日香に視線を送る。
「呪術の話だし、まさかネットを使うとは思わなかったわね」
「盲点だったな。確かに、現実に存在する文章ならば、ネット上にあってもおかしくはないか」
エリカとリリアナも「呪術の話が公共の場にあるはずがない」という前提でネットの存在を度外視していた。唯一、呪術の知識を持ちながらプログラミングまでこなす明日香のみが、現代機器を有効活用する発想を持っていたのである。呪術から、一定の距離を置いているからこその考え方であった。
「分からないことがあれば、まずネットじゃないの」
と、明日香はむしろ意外そうな顔をして一同を見る。
「書き下しって時点で漢文だし、だったらネットにあるかもしれないでしょ。まあ、原文で検索するしかないからいろいろと試したけどさ」
例えば、「まさに」だけで「正」や「将」といった漢字が考えられる。そういった組み合わせを試しつつも、試行回数はそれほど多くはなかった。特徴的な部分を抜き出して、書き下しを漢文の並びに書き換えて検索すれば、何かしらにヒットはする。実在していればの話ではあるが。
「あればいいな、くらいだったけど、まさかヒットするとは思わなかったわ。研究院にはなかったから、ちょっとまずいとは思ったけど、個人サイトとかにはあるわね」
漢文のサイトは中国の誰かがアップしたものらしい。その他にもPDFで公開されている論文にも、検索ワードが引っかかっているようだ。
「『六度集経』か。確か、菩薩様の活躍を描いた仏典だったっけ……」
と、恵那はスマートフォンの画面を覗き込み、文面に目を通す。
「
「わたしが感じたのは、この部分をいくつか切り取ったところのようですね」
祐理が納得いったというように表情を綻ばせる。
「小猴曰く、人王は射を妙とす。
晶が祐理が読み解いた部分を独自に書き下す。それが正しいかどうかは護堂の知識では分からないが、意味は伝わってきた。
「話の流れからすると菩薩が一国の王で、竜に攫われた妃を助けに行ったってとこか」
「そうですね。概ね、そのような理解で間違いないと思います」
晶が頷く。
「小猴って何だ?」
「小さな猿ってことですね」
「猿、か。あまり、いい想い出がないな」
護堂は苦々しげに表情を歪めると祐理と恵那が苦笑する。
「日光では酷い目にあったもんね、王さま」
「斉天大聖様も非常に強力な《鋼》であらせられましたから」
「まったくだよ」
日光を中心とした一連の戦いでは、カンピオーネが三人も共闘するという異例の事態にまでなったのだ。人々が猿に変化させられるという衝撃的な事件もあり、護堂の中にも強烈な記憶として残っている。
「でも、もしかしたら、それはアリかも」
と、晶が言った。
「アリって?」
「『六度集経』のことです。斉天大聖も、最強の《鋼》に関連しているように思います。異常に強い、カンピオーネ殺しの擬似再現までする神格ですから。『六度集経』にだって猿が出てるわけですから。そう考えると辻褄もあう気が」
「アッキー何か思いついた?」
「何となく、ですが」
晶は頭の中で情報を整理しながら、言葉を選んで口にする。
「『六度集経』は、確かインドの
「三蔵法師みたいなもんか」
「はい。それで、もう皆さんもご存知のとおり仏典にはインドの宗教関係の経典が漢訳されたものが多々あります。インドラが帝釈天になったりしたのも、その流れです」
それは有名な話である。
カンピオーネとして呪術に関わっていれば、自然と得られる知識の一つである。
もっとも、仏教にはアレキサンダー大王を原点とする韋駄天やヘラクレスを原点とする金剛力士などもいるので、仏教はインドだけでなくインド経由で西側の神話の影響も受けているという、文化の流れで見ればグローバルな宗教でもある。
「てことは、この話もインド原産ってことか?」
「そっか、インドか。竜は単純に竜じゃなくてもいいよね。例えば退治される側、羅刹とかラークシャサとかいうふうにインド風に言い換えたほうがいいかもね」
そう言って、恵那は護堂に視線を向ける。
「ラークシャサとか羅刹とかって、昔から王さまたちカンピオーネの呼び名だね」
「む、まあ、そういう位置付けなんだろうな」
などと護堂が呟いた瞬間に、恵那と祐理も神妙な顔つきになる。
さらにはエリカとリリアナもだ。
「ラークシャサ……魔王殺しの話、か」
「ええ、納得できるわね。『六度集経』って書物の内容とも符合するわ。確かに、洋の東西に広く影響した神話ですもの。最後の王の正体には相応しいわ……」
リリアナとエリカのような西洋の騎士にすら理解できるほどに有名な話なのかと護堂は一人だけ置いてけぼりを受けている。
「整理しましょう。最強の《鋼》の正体として有力な手掛かりは『六度集経』。その内容は一国の王が、奪われた妃を助け出すために、小さな猿を伴って竜を討つというもの。そして、この話の原典はインドの伝説である」
エリカが祐理と晶の指摘を簡潔に纏める。
「これと同じ話が、インドにもあるわ。今でも残っているの。偉大なる英雄が、妃を救い出すペルセウス・アンドロメダ型神話のインド代表とも言える物語……護堂も聞いたことくらいはあるかもしれないわ」
エリカは一呼吸を置いて、今まさに伝説の謎をこじ開ける栄誉に身を焦がしながら、
「その物語は『ラーマーヤナ』。主人公はラーマ王子で、ヒロインはシーター。悪役のラーヴァナは、神々では倒すことのできない悪の親玉で、ラーマ王子はラーヴァナを倒すために人間として生まれ変わったヴィシュヌの転生体なのよ」
『ラーマーヤナ』もラーマ王子も、護堂は知っている。目を通したことはないが、名前くらいは聞き覚えがあった。
「それが、最強の《鋼》の正体だって?」
「可能性は高いです。ガリアの地で、最強の《鋼》と共に戦っていた神格を思い返してください」
リリアナに言われて、護堂はサルバトーレと戦っていた《鋼》の軍神を思い浮かべる。
「別に何とも。《鋼》と風の神様ってくらいしか……」
「ラーマ王子にも、《鋼》と風の神がお供にいるのです。ハヌマーンという不死身の風神が」
「本当に?」
リリアナは神妙な顔で頷いた。
「ハヌマーンは猿の神様なんですよ、先輩。おまけに斉天大聖の原型ともされています」
晶がリリアナの補足をする。
ハヌマーンの存在が、『六度集経』の小猴と合致する。
「つまり、『六度集経』は『ラーマーヤナ』の逸話を取り込んでいて、菩薩はラーマ王子、小猴はハヌマーン、竜はラーヴァナって言い換えられるのか」
「そうね。しかも、ラーヴァナが属するのは邪悪なラークシャサであり、カンピオーネの古い呼び名でもある。『ラーマーヤナ』の成立は紀元後のことなのだけど、これは詩人のヴァールミーキがヒンドゥー教の伝説とラーマ王子の伝説を編集したものだと言われているから、ラーマ王子そのものはもっと古い神格ね。実際『ラーマーヤナ』の一部は紀元前まで遡るはずよ」
エリカが言って、恵那が続ける。
「もしかしたら、『ラーマーヤナ』が成立した頃に、ラーヴァナに当たる昔のカンピオーネがラーマ王子と戦ったのかもしれないよ。それが、物語として現代に残ってる、なんてこともあるかも」
「インドの伝説は、聖書の成立にすら影響するほどですし、ヨーロッパの代表的な天空神はその源流をインドのディヤウスに求められるほどです。それほどの影響力があったインド神話の代表格である『ラーマーヤナ』の元になった伝説は当然西洋にも多大な影響を与えているのです」
「ラーマ、王子か」
護堂のよく知らない神格ではある。が、しかし、これで光が見えたような気がする。
ここまでの符合が見られるのならば、ほぼ間違いないと断言できるだろう。今、護堂たちは伝説の謎を一つ解き明かした。対策までは見えていないものの、それだけでも驚嘆すべき偉業である。
護堂の胸に戦意にも似た感情が燃え上がる。
正体不明の敵の秘密が暴けた。それだけで自信にはなるのだ。後は、この説が正しいかどうかを探求し、来るべき決戦に備える。
カンピオーネとして、男として仲間が生み出してくれたこの奇跡を無駄にしてはならないと強く心に刻みこむのだった。
晶の積極性を全面に出してきた本作ですが、それでも美味しいところを掻っ攫うのが祐理クオリティ。
これで古代編は終わり。
再び完結状態に入ります。
二年前に本編を最終回としてから、さらに三十話余を書きまして、気付けば百万文字を突破しておりました。
改めてお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。