七雄神社で最初の情報提供を受けてから二日が経った。その間、『まつろわぬ神』の新しい情報は護堂にはまったく入ってこなかった。まだ報告できるような確度の情報が入ってきていないのかもしれない。そう思いながらも、自分が関わることになれば一大事なので、頭の片隅ではいつも気にしてしまっていた。
かといって日常生活が変わるわけでもない。この二日間は代わり映えのない普通の生活を送っていて、変わったことと言えば数学で壊滅的点数を取った晶に泣きつかれて勉強を見てやったことくらいだろう。
古典や歴史分野では、同学年に右に出る者のいない晶ではあるが、数学や理科は「基礎」から頭に入っていないので、非常に苦労しているのだ。それも彼女の出自を考えると仕方のない面はあるが、来年度からは高等部に入学することになるので、あまり悠長なことは言っていられない。最低限基礎になる公式くらいは押さえておかなければ、高校の数学についていくことはできないのだ。
天変地異とも言える『まつろわぬ神』の情報が護堂に入ってこないのならば、それは対岸の火事として頭から消してしまってもいいのかもしれない。
今日は終業式で、明日からは春休みだ。午前中にすべての活動が終わり、午後からは部活動の時間になる。
祐理は茶道部に参加し、晶は最後の追試で不在だ。この学校の追試は、大抵が赤点を取ったテストと同じ問題を出題するので、よほどのことがなければ落第することはない。彼女は中等部なので失敗したところで留年もないが、春休みの半分は学校に来なければならなくなるのが痛手だろう。まず失敗はないと思うが。
終業式の後は、先輩とのお別れ会がどの部活でも行われる。護堂の友人たちもその例に漏れず、お別れ会があるので、駄弁って時間を潰すこともできなかった。
思いのほか暇になってしまったので、道草を食いながら帰宅しようと思い校門を出た。
近くの本屋に寄って週刊誌の立ち読みをして、それから昼食にハンバーガーを食べ、午後の三時を回ったあたりで家路に就いた。
平日の午後は、住宅街から人気が消えて静まりかえる。あまりこの時間帯に出歩かないので、新鮮な気分になる。
そんな折り、歩いている護堂のすぐ隣に黒塗りに車が停まった。
「お疲れ様です草薙さん。お時間、よろしいですか?」
助手席に乗っていたのは馨だった。運転者は冬馬だ。正史編纂委員会の東京支部を室長である馨自ら護堂の迎えに来たというのは、何かしらのトラブルが護堂にも大きく関わるものであることを意味する。
「この前のフランスのヤツですか?」
「はい。祐理と晶にも、別に連絡を入れています。込み入った話になるので、お手数ですが七雄神社までいらしていただけますか?」
馨は慇懃にそう言った。
調査を続けていた『まつろわぬ神』の件で大きな動きがあったと思われる。護堂に否やはない。すぐに後部座席に乗り込んだ護堂は、そのまま自宅ではなく七雄神社に向かうことになった。
古くは伊勢神宮の荘園の一つであった芝公園のすぐ近くの小高い丘の上にあるのが七雄神社だ。階段を使うと汗をかくので、いつもはエレベーターを使って神社まで上がっている。
いつもと変わらない七雄神社――――とは行かない。足を踏み入れた瞬間に違和感を覚えた。
「何だ、これ?」
研ぎ澄まされた第六感が、いつもと違うことを伝えてくる。しかし、その正体ははっきりと掴めない。あまりにも弱すぎる。危ないものではないと分かるが、少し気になる。
「さすがですね。お分かりになりますか」
「馨さん、やっぱり何か仕掛けてますか?」
「ただの人払いです。人体には無害ですが、普通の人は『なんか嫌な感じ』だと思って、ここを避けるようになります。それと遠見やらなんやら、諸々の対策ですね。魔王様の会合をのぞき見しようという輩がいるとは思いたくありませんが、念のためです」
「そこまで入念は準備をするのって、今まであんまなかったですよね?」
「ええ、そうですね。まあ、今回はちょっと組織の運営上の話もありますし、
どうやら、正史編纂委員会だけの話ではないようだ。
現場がフランスで《赤銅黒十字》が絡んでいるのだから、そこは国境を越えた話になるということだろうか。
「さあ、どうぞ」
いつもの社務所に護堂は上がり込んだ。
馨が事前に手を回していたからか、神社の職員は一人もいなくなっている、
人のいないはずの社務所の中に見知った人影がいた。
「リリアナ?」
「お久しぶりです、というにはあまり間が開いていませんが、その節はお世話になりました」
白銀の美姫、《青銅黒十字》のリリアナ・クラニチャールがそこにいた。騎士として護堂の前に恭しく跪き、挨拶の口上を述べた。
「珍しい……馨さんが言っていた先方って、リリアナのことだったんですか?」
「ええ、そのとおりです。イタリアの古き呪術結社《青銅黒十字》の大騎士様です。非公式の訪問ですが、無碍にもできません」
「非公式? それで、人払いやらなんやら」
「そのとおりです。僕たちとしてはさほど気にしないのですけどね、あちらはそうでもないようで」
リリアナ側の事情での非公式会談というわけだ。
「申し訳ありません、このたびはわたしのわがままでこのような場を設けていただきました。護堂さんは正史編纂委員会の総帥であらせられます。お会いするにも、まずは窓口を通してからのほうがいいと思いまして、こちらの甘粕さんに連絡をしました」
「別に気にしなくてもいいのに。メールでも電話でもいくらでもあるだろう」
「もちろん、それもありますが、今回はプライベートを離れますので」
リリアナは護堂とガリアの旅路を一緒に乗り越えた仲だ。それぞれ連絡先も知っているので、やりとりを行うのに形式張ったことをする必要はない。
しかし、リリアナ側はそう簡単な割り切りはしていない様子だ。少なくともカンピオーネであり、一組織のトップに立つ護堂に何かしらの依頼をするのなら、組織を通すのが礼儀だと考えているのだ。
「リリアナがわざわざ日本まで来たってのは、フランスのなんとかっていう峠のことなんだよな?」
「その通りです。おそらく概要はすでにご承知かと思いますが、その関係でお話があるのです」
晶と祐理、明日香の到着はそれから二十分ほどしてからだった。恵那にも声がかかっているのだが、奥多摩から駆けつけるのは困難だったのでこの場には参加できなかった。
純日本風の神社の社務所の中で、綺麗に正座をする北欧系イタリアの美少女騎士というのがミスマッチではあるが、それを覗けばいつものメンツだ。
「それでは、事件のあらましから、説明します」
と、リリアナは居住まいを正して口を開いた。
「きっかけはわたしたちも巻き込まれたガリアの一件です。サルバトーレ卿は、わたしたちがガリアから戻った後、数日は大人しくされていたのですが、ある日唐突にこうおっしゃったのです『ガリアで会った神様が最強の《鋼》だって言うんなら、僕たちはそれを出迎えるためにきちんとした準備をしないといけないと思うんだ』と」
「出迎える?」
「はい。卿のことですから、まつろわぬラーマが降臨した時に、彼と剣を交えるおつもりなのでしょう」
「まあ、アイツならそう言うだろうな」
「そこで、卿はこうも仰いました。『今のまま挑むのもいいけれど、どうせならもっと手札を用意したほうが面白いよね』と。ええ、これはアンドレア卿から伺ったことなのですが」
「その手札ってのは、つまり権能のことか?」
「そのようです。しかも折悪く『まつろわぬ神』に連なる神獣らしき存在がピレネーの頂で確認され、結果、《赤銅黒十字》にその行方を追わせるということになったのです」
サルバトーレの厄介なところは、大変な気分屋ということだ。他のカンピオーネにも概ね共通する性格的特徴ではあるが、彼は自分と同格かそれ以上の存在との戦いにのみ楽しさを見いだす生粋の戦闘狂でありながら、その場の気分次第では戦わずに、無視することもある。
今回も、直前にガリアでの大きな戦いがあったのでしばらくは休息を取るという選択をする可能性があったのだが、サルバトーレは迷わずに戦いを選んだ。
「よほど、ガリアのことが効いてたんだな」
「そのようです。そして、それは《赤銅黒十字》を巻き込んだことでも窺えます」
「そうなのか?」
「はい。要するにわたしが関わったことが原因らしいのですが、どうも護堂さんにわたしが付き従っていたところから、《赤銅黒十字》に発破をかけたようで」
「よく分からないんだが……?」
護堂は首を捻った。それに答えたのは馨だった。
「組織間の対立を上手く煽ったということでしょう。従来から《青銅黒十字》と《赤銅黒十字》は何かと比較されるライバル関係です。そこに、リリアナ・クラニチャールが『まつろわぬ神』関連で功績を打ち立てたものだから、《赤銅黒十字》は面白くなかったでしょうね」
馨は組織運営に長けているだけあって、その辺りの理解が早い。
リリアナは頷いて、続ける。
「アンドレア卿と《赤銅黒十字》の会談で、《赤銅黒十字》がサルバトーレ卿に協力することになりました。最初はピレネー山脈を捜索し、神の気配を追ってアルプスまで移動した結果、イズラン峠でサルバトーレ卿と『まつろわぬ神』が衝突した、ということです」
「その『まつろわぬ神』とサルバトーレの戦いはどうなったんだ?」
「今分かっている範囲ですと痛み分けという状況です。どうも『まつろわぬ神』は権能で異界を形成したらしく、サルバトーレ卿とアンドレア卿がその異界から脱出されたことは確認できています。しかし、降臨した神の正体などはまだ分かっていません。地母神ということまでは分かっているのですが……」
「地母神。《蛇》系の女神とかかな」
情報がまだ少なくどんな神なのかは分からないが、《蛇》の属性を持つ神は大抵が生と死を司る神格で、それ故に不死性を持つ厄介さがある。おまけに、《鋼》の軍神が持つこざっぱりとした潔さがなく、手練手管を駆使して追い詰めてくることもある。こういう策を弄するタイプは戦いにくいので、アテナのような軍神の相がある相手のほうが分かりやすくていいとすら思う。
「サルバトーレはどうしてるんだ?」
「現在、別の『まつろわぬ神』との戦闘中とのことです」
「別の? まだ、いるのか?」
「おそらくは従属神の類かと。しかし、卿も負傷しており万全ではなく、戦線が広がっているとのこと。すぐさま異界の探索というまでには至らない状況です」
「その話、リリアナがわざわざ俺に持ってきたのって理由があるのか?」
「はい、大変申し上げにくいのですが……」
と、リリアナは言葉を一度切った。そして、
「エリカの捜索にお力を貸していただけないでしょうか」
意を決した真剣なまなざしでリリアナはそう言った。
□ ■ □ ■
エリカ・ブランデッリ。
《赤銅黒十字》の総帥、パオロ・ブランデッリの姪であり、若き大騎士。護堂とは同い年で、カンピオーネになった当初、メルカルトとの戦いを最も近くで見ていた呪術師である。護堂が世に知られるきっかけになったレポートを出したのが他ならぬエリカなのだ。
それ以来、エリカは護堂と交流を続けて現在に至っている。リリアナほどには頻繁でないにしても、ヨーロッパ情勢の情報源の一つとして護堂を助けてくれているのだ。
言わばビジネスパートナーというべきだろうか。遠く離れた異国の友人である。
そんな友人にして稀代の才媛が、サルバトーレの『まつろわぬ神』捜索の中で行方不明になり、今も所在不明であるらしい。
「あのエリカが簡単に大事に至るとは思いませんが、相手は『まつろわぬ神』。その領域に囚われれば、エリカであっても脱出は困難でしょう」
「いわゆる神隠しってヤツだね。神様だけじゃない。妖精やら精霊やらが形成する異界は、この世と地続きでありながらも、一度足を踏み入れたら抜け出せない別世界だ。エリカ・ブランデッリはそこにいると、君は確信できているわけだね?」
と、馨は念押し気味に尋ねた。
「はい。根拠はありませんが、そのように感じます」
「魔女である君がそう言うのなら、きっとそうなんだろう。エリカ卿は少なくとも今はまだ無事ということだね」
「はい」
「思うに、今回の君の行動には組織としての後ろ盾はないんじゃないかな?」
「その通りです。わたしが日本に来たのは、あくまでもわたし個人の意思です。《青銅黒十字》は今回の件には関わりません」
「だろうね。組織としては正しい判断だ。何せ、神様との揉め事だ。魔王に命令されたくらいのいいわけがなければ動けない。まして、その魔王は《赤銅黒十字》にどうにかしろと命令しているわけだから、横からしゃしゃり出るわけにはいかない。サルバトーレ卿が突いた組織間のライバル意識の片翼を担う《青銅黒十字》ならば尚のこと」
「はい。その通りです」
リリアナは膝の上で握りこぶしを作り、緊張した様子だ。自分たちの事情を馨が言い当てているので、ますます締め上げられているようになってしまった。
「リリアナ卿に確認しなければならないことがあるけれど、いいかな?」
「なんでしょう?」
「エリカ卿を助けたいというのが、君の依頼だ。そうだね?」
「そうです」
「なら、それを僕らが受けたとしてメリットは示せるかな? 君は今、独自に行動している。それはつまりこれが明らかになると、組織の中での君の立場が危ういということでもある。君を助けることで僕らも《青銅黒十字》との関係に罅が入るかもしれない。大変、リスキーだ。何より、君の依頼は我らが王である草薙護堂が命を賭ける可能性もあるのだからね」
明朗に馨はリリアナに話す。
リリアナが独自行動をしている以上、彼女が担保できるものは一個人で負担できるものに過ぎない。確かにクラニチャール家は歴史ある名家で、蓄えも十分にあるが、それは個人で見ればというもので、カンピオーネという国家レベルの重要人物を動かすにはあまりにも不十分だ。
「正直に言いまして、今のわたしから提示できるものはほとんどありません。あるとすれば、この身命とイル・マエストロくらいのものです」
「本来、それでは話にならないということは承知しているはずだね?」
「……もちろんです」
悔しそうにリリアナは唇を噛んだ。
厳しいことを言われているが、すべて事実だ。
失礼な依頼だとも分かっている。
『まつろわぬ神』の相手をする以上命を賭ける必要がある。護堂にそれを頼むのに、リリアナはその見返りになるものが用意できない。
しかし、今やリリアナは護堂にしか頼れない。
かつてリリアナの祖父が信奉していたヴォバン侯爵との関係は護堂とヴォバンの対立により白紙化し、さらにサルバトーレの認識ではリリアナは護堂側である。今回の一件も、背景にあるのはサルバトーレがリリアナと《青銅黒十字》が護堂に近いということを利用して《赤銅黒十字》を焚き付けているのだ。
リリアナは護堂以外に縋る相手がいないのが現実だ。
おまけにサルバトーレは従属神と傷ついた身体で戦闘中である。降臨した『まつろわぬ神』はもとより、行方不明のエリカを捜索するという手間を彼がかけるとは思えない。
無理を承知で頼むしかない。リリアナはすべて分かった上で日本に来たのだ。
「馨さんも、リリアナを困らせるのはその辺りで。事情は分かったし」
「申し訳ありません、王よ」
馨は慇懃に頭を下げる。芝居がかっているのに嫌みを感じさせないのは、さすがだと護堂は思う。
「馨さんが言ってることも分かるけど、要するにリリアナは順番を間違えたんだなってことだな」
「順番、ですか?」
リリアナは目を白黒させる。
「リリアナは組織のしがらみを無視して、プライベートで頼みに来たんだろ? だったら、初めから直で俺に頼めばよかったんだ。メールなり電話なりで話をすりゃいい。たぶん、エリカならそうしたぞ」
「……確かに、エリカならそういう選択もしたでしょうが……しかし、護堂さんは正史編纂委員会の総帥でもあります。依頼するのであれば、手順を踏む必要があると考えたのですが」
「まあ、確かに正式にはそうなのかもしれないけどな。例えば、エリカなら事前に俺に話をしておいて、内諾を取ってから、馨さんたちに話をしたと思うぞ。そうすれば、事実上俺の一存でスムーズに決まる、とあいつなら考えるだろうし」
「う……確かに」
リリアナはエリカならばやりそうだと反論できずに押し黙る。
エリカは決して騎士の礼を忘れるような女ではない。しかし、護堂の人となりを熟知した上で、それを利用するくらいはしてみせるだろう。
「リリアナは友達を助けるためにここに来たんだろ?」
「友ッ、というと語弊があるにはありますが、腐れ縁といいますか……その、まあ、そうです」
エリカを友人と認めるのは何ともこそばゆい。しかし、彼女の危機的状況は直感で理解している。昔なじみだからだろうか。このままでは、危ないという実感があった。
「エリカも俺の友達なのは変わりないしな。探すのは、構わないよ」
「あ、ありがとうございます」
リリアナは深く頭を下げる。
その後ろで、仲間たちが呆れたような分かっていたと言わんばかりの表情を浮かべている。馨に至っては面白そうに笑みを浮かべている始末だ。
「それでは、早速飛行機のチケットを手配します。行き先はトリノでよろしいですね?」
馨はこうなることを予期していたのだろう。初めから分かっていたように手早く手続きを進めてしまう。
『まつろわぬ神』の出現だけなれば、護堂は動かなくてもいい。サルバトーレもヴォバン侯爵もいるのだ。放っておいても彼らが何とかするだろう。しかし、知り合いが危機的状況であるとなれば話は別だ。助けに行くというのは烏滸がましいが、助けになりたいと思うのは自然な流れだ。まして、それが護堂にしかできないことならば、断っては寝覚めが悪い。
エリカが危ないという時点で、護堂がリリアナの頼みを受けるのは確定事項ではあったのだ。