カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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中編 古の女神編 Ⅴ

 その日、幸運にも天気に恵まれた。

 青く澄んだ空に、白い雲がゆっくりと流れている。それが、石造りのトリノの街によく映える。戦いを控えていなければ、思う存分に観光をして回ったところだ。

 マイクロバスに積み込むのは最低限の物資。目標地点のイズラン峠は近辺は、まだ真冬で、春には遠い。防寒具と登山用の保存食は必須だ。しかし、あまり余計な荷物を持ち込んでも邪魔になる。最終的にはバスを降りて着の身着のまま、とは行かないまでも軽装でイズラン峠まで飛ばなければならないのだ。マイクロバスはあくまでも護堂たちを可能な限り現場に近づけるための手段として使用する。送り届けた後は、その役目はほぼ終わりである。

 トリノを出た一行は、国道をフランスに向けて進んだ。

 出発当初はいつも通りに年相応の賑やかさを見せていた護堂たちであったが、『まつろわぬ神』がいるであろうイズラン峠に近づくにつれて次第に口数が減っていった。

 『まつろわぬ神』との戦いに明け暮れた一年の間に、ずいぶんと耐性がついた。護堂だけでなく、ただの人間である祐理ですら、恐怖を感じながらもしっかりと『まつろわぬ神』と戦うという覚悟を抱くことができるほどにだ。

 しかし、だからといって、護堂と『まつろわぬ神』との戦いが生やさしいものであるはずもなく、一つのミスで全員が帰らぬ人になる可能性は少なくない。いや、相手が曲がりなりにも神である以上、戦って生きて帰るということは前提から除外すべきなのだ。

 護堂という大きな力を仲間としていても、祐理も恵那もリリアナも人の範疇でしかないのだ。

 視界いっぱいに広がる大自然。

 イズラン峠への最短ルートは雪に覆われて通行止めになっているらしい。

 アルプス山脈と一口に言っても、非常に広大な山脈なので様々な区分が存在する。例えば、イタリアのコモ湖とスイスとドイツの国境近くにあるボーデン湖を繋いだ線の西側と東側で東西アルプスを分ける。また、西アルプス山脈のうち、イタリアのトリノとフランスのグルノーブルを繋いだ線を境に南西アルプス山脈と北西アルプス山脈に分けるのが一般的だ。

 護堂を乗せたマイクロバスは、ちょうどこの南西アルプス山脈と北西アルプス山脈の間の通り、フランスまで迂回する道を選んだ。

 リリアナが使う飛翔術は人間が用いる呪術の中でも突出して秀でた移動手段ではあるが、目標地点に直線的に移動するという性質上、空中では無防備になるという弱点がある。

 神獣が蠢くアルプスの上空を飛行するリスクはできる限り小さくしたい。

 そのため、例え遠回りになったとしても、マイクロバスで近づけるだけ近づくことにしたのだ。

 ぐるりと回り、アルプスの山々を右手に眺めながらイぜール川を遡るように車を走らせる。田畑が広がる田園地帯を抜けると、市街地に出た。

 アルベールビル。かつて、冬季オリンピックの主催地にもなった、自然豊かな町である。

「休憩にしましょう」

 リリアナが言った。

 さすがにカンピオーネを乗せているだけあって、スーパーマーケットの駐車場に停車して休憩などという庶民的な対応ができるはずもなく、ほんの少しの王の休憩のためだけに小さな宿を借り上げていた。

「あー、疲れた。腰痛い」

 バスを降りた恵那が大きく背伸びをした。

 山奥に引きこもって厳しい修行に明け暮れる恵那は、普段から何時間も乗り物に揺られることに慣れていないので、精神的にも疲れたようだ。

「やっぱり、なんだか空気が澄んでるな」

「これだけ山が周りにあるとそうですよね。うーん、青梅と奥多摩の間くらいの感じ」

「なるほど、まあ、確かにそんな雰囲気もあるなぁ」

 晶の例えに護堂は頷いた。

 山のど真ん中ではないが、周囲を山々に囲まれた盆地に近い地形だ。地平線は見えず、どこを見ても壮大な山脈が壁となって視界を限定している。

「…………あっち、だな」

 不意に護堂の脳裏に強い違和感が生じた。普段は感じることのない「何かよくないものがある」という感覚だ。

 まだ遠い。しかし、確実に仇敵の存在を感じた。

 アルプスの方角に強い力が蟠っている。ぼんやりとだが、そう思ったのだ。

「王さま、鋭いね。さすが」

「清秋院もか。じゃあ、勘違いじゃないな」

「あはは、こういうのなら王さまのほうが恵那より鋭いじゃん。うん、あっちのほうにいるのは間違いなさそう。ねえ、祐理?」

 恵那が祐理に話を振ると祐理は緊張した面持ちで頷いた。

「はい。『まつろわぬ神』の力が根付いているのを感じます。非常に強い……大地と命の神、のように思います」

 祐理は目を閉じて精神を集中する。

 じっと十秒ほどそうしてから、小さく頭を振った。

「申し訳ありません。ここからですと、これが精一杯の情報です」

「イズラン峠だっけ。そこまで、まだ五十キロくらいあるはずだし、それだけでも分かる祐理がすごいんだよ」

「いえ、ですがこの程度はすでに分かっていたことですから。これだけでは、まだ何もお役に立てていませんし」

 謙遜する祐理を恵那が構う。

「大地と命の神様か。やっぱり《蛇》の仲間なんだろうか」

「本人がどうかは分かりませんが、そういった女神と習合しているかもしれませんし、属性的に大地も命も《蛇》に関わりますからね」

 晶がじっとアルプスの山並みを見つめながら答えた。

 それだけで断定できるものでもないが、世界的に見ても多くの《蛇》の神格が生と死のサイクルを司っているのは事実だ。それは古代人にとって脱皮をして成長する蛇が、死と再生を彷彿させたからだとも言う。

「神様がいなければ、絶好のロケーションなんだよな」

「本当ですね」

 美しい山の連なりではあるが、その向こうに『まつろわぬ神』がいると思うと、素直に景色を楽しめない。

 それに、五十キロ近くの距離を隔てていながら、その呪力を感じることができるというのが、降臨した神の強大さを物語っている。

 神の呪力という余計なエッセンスが混じっているが、自然の空気としては上々。そう思うことにして、東京とは異なる空気を味わいながら、護堂はホテルのレストランに入った。

 護堂たちはそこで早めの昼食を摂った。

 これから戦闘になる可能性が高いので、あまりがっつりしたものは食べないようにする。唐辛子を利かせたトマトソースを絡めたスパゲッティアラビアータとオニオンスープだけで、腹八分に留める。

「アラビアータって聞いたことあったけど、日本では食べなかったな」

 唐辛子の辛みとトマトの酸味と甘みが絶妙に絡み合った逸品だ。ほどよい辛さが身体に渇を入れてくれるようでもあった。

「恵那、アラビアータって食べたことないなぁ。美味しい?」

「ああ、めっちゃ美味いぞ」

「そうなんだ、王さま、一口ちょうだい」

「ん? ああ、いいぞ」

 対面する恵那がスプーンで護堂の皿からトマトソースを取った。

「恵那さん、お行儀が悪いですよ」

「ごめんごめん。んん! ほんとだ、これ美味しい! 帰ったら、作ってみようかな」

 恵那はけらけらと笑いながら、今度は祐理のスープにスプーンを伸ばした。気心の知れている相手にはとことん距離を詰めていくのが恵那のあり方だ。それでいて、相手が不快に思うようなところは踏み込まないように配慮もできる。自由闊達な自然児ではあるが、これでも日本有数のお嬢様なのだ。生活力も実はかなり高い。

 食事を終えた頃合いを見計らってリリアナがそっと護堂の元にやって来た。

「みなさん、少しよろしいですか? 今後のことについて、なのですが」

「ああ、リリアナ。何かあったか?」

「はい。実は、プール=サン=モーリスの手前で雪崩があったようで、道が寸断されているとのことなのです。もしかしたら神獣の影響かもしれませんが、車での移動はその手前までになりそうです」

 この先、入り組んだ山道を進んでいかなければならない。ロードレースなどでも人気の山道だが、それだけに長く険しい道のりだ。

 雪崩による道路寸断は、山深い地域ならば珍しくはない。それ自体に驚きはないが……。

「イズラン峠までの距離ってどんな?」

「直線距離で、三十キロ前後といったところでしょうか」

「リリアナ、飛べるか?」

「可能です。しかし、ひとっ飛びというわけにはいかないでしょう。術の特性上、一気に目的地まで移動することも可能ですが、移動距離が長ければ長いほど危険は増します。そうですね……四回、いえ、三回は着地して、目的地の再設定をするべきかと」

「移動ができるんなら、それでいいかな。他のみんなはどう?」

 リリアナの飛翔術で運ばれるのは、護堂を除く三人だ。護堂よりも彼女たちの意見のほうが重要であろう。

「恵那は大丈夫だよ。高山は慣れてるしね」

「わたしも問題ありません。身体は一番頑丈ですからね」

「わたしも大丈夫です」

 三人とも異議はなかった。

 恵那と晶は人並み外れた耐久力の持ち主だからいいとして、祐理はそうでもない。肉体的には一般人よりも脆弱とすら言えるだろう。

 リリアナはそんな祐理のことをよく知っていたので、心配そうに尋ねた。

「万里谷祐理、本当に今更だが、身体は大丈夫なのか?」

「はい。こういうときのために護身の術も学んでいるのです。自分の足で登山となると、確かに辛いところですが、リリアナさんに送ってもらえるのですから大丈夫です」

「そ、そうか。分かった。なら、いいんだ」

 リリアナが祐理を心配するのは、彼女の身体の弱さを知るからだけではない。四年前にヴォバン侯爵が行った『まつろわぬ神』を招来する儀式でリリアナと祐理は顔を会わせている。祐理はリリアナがそこにいたことを知らなかったが、リリアナは祐理のことをずっと覚えていた。四年後、このような形で再会するとは思っていなかったが、かつて祐理が身を挺してリリアナたちを救おうとした事実は、リリアナにとって非常に大きなものであった。

「それでは、準備ができ次第出発しましょう」

 ここから先は、ほぼ休みなしだ。アルプの山に陣取る『まつろわぬ神』とその領域に向けた進軍と言ってもいい。

 マイクロバスに乗り込んで、東に向かって走る。山と山の間を流れる川に沿って、谷間の道を行くのだ。

 小さな集落が転々と存在する。この辺りはスキーの名所でもある。観光業が盛んなのだ。ただし、『まつろわぬ神』の出現と神獣の活性化で、危険地帯と化している。残っているのは、避難指示に従わなかった住人か、呪術師だけだ。

 

 

 

 しばらくして、マイクロバスが停車した。

 気温は低く、辺り一帯はいつの間にか残雪に囲まれていた。

「どうかした?」

「車はここまでのようです」

 前方を見ればは雪崩によって大きな雪の壁ができていた。木々も倒れていて、道は完全に寸断されている。

「予定地点よりかなり手前ですが、ここから飛翔術を使うことにします」

 と、リリアナは言う。

「分かった。じゃあ、適当に暴れるから、二十分したら出てくれ」

「承知しました」

 護堂はコートを着て、マイクロバスの外に出る。

「晶、清秋院。祐理とリリアナの護衛は頼んだぞ」

「先輩、気をつけて」

「こっちのことは任せてくれていいからね」

 晶と恵那が窓から顔を覗かせる。

「護堂さん、峠でお待ちしています」

「おう」

 少女たちに見送られて、護堂は閃電に化身する。土雷神の化身を使い、雷光の速度で大地を駆け抜けるのだ。ただの人間には護堂は消えたようにすら見えるだろう。まっすぐにイズラン峠に向かえば、リリアナが飛翔するよりも早くたどり着ける。

 だが、護堂が別行動を取ったのは、峠を守っていると思われる神獣たちの気を逸らすためだ。

 まっすぐにイズラン峠に向かったりはしない。

 ヴァノワーズ国立公園で護堂は姿を現した。イズラン峠の南側に位置する国立公園だ。二千メートル台山々が連なる場所で、木々は生えておらず、雪がない時期に来れば、石と僅かな下草の荒涼とした景色が広がっているはずの公園だ。

 起伏の激しいアルプの峻険な岩山が、どこまでも連なっている壮大な光景がそこにある――――はずだった。

「ここ、もうおかしいだろ」

 現出した護堂は、一瞬まったく違うところに来てしまったかと思った。そこは森だった。アルプス山脈といえば、雪と岩山が定番だ。高山の頂上付近で、数十メートル級の木々からなる森が形成されるはずがない。

 おまけに森の中は温暖だった。残雪はまったくなく、どこからか鳥の声が聞こえてくる。アルプスの生態系から、大きくかけ離れた大自然が作り出されていたのだ。

「よし、考えても仕方ないな」

 自然環境を作り替える『まつろわぬ神』は珍しくない。火の神が降臨すれば、その周囲は燃え上がり、嵐の神が降臨すれば、そこに大嵐がやって来る。生命の神や植物の神がいるのなら、どこだろうとこうした景色になるに違いない。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ」

 護堂は相手が《蛇》であると仮定して《鋼》の属性を持つ剣を作り出して四方に射出した。 

 神剣は木々を貫通し、切り倒し着弾と同時に大きな土煙を上げた。無礼な《鋼》の不意打ちは開戦の狼煙となって、国立公園中に響き渡った。

 

 

 

 護堂の戦いをリリアナは魔女の目を通して見ていた。

 森林化した国立公園の中を駆け回りながら、巨大なライオンを三頭ばかり仕留めたところだった。上空に目を移動し、高所から俯瞰すると護堂を取り囲むように神獣や猛獣が移動しているのが分かる。

 それはライオンであったり、熊であったり、アナコンダを遥かに上回る巨大な蛇だったりした。

 その悉くが、護堂の前に討ち果たされていく。

 倒れた神獣は血を流すことなく塵になる。通常の動物であれば、血を流して倒れる。護堂は自分に向かってくる敵は、神獣であろうと、普通の獣であろうと関わりなく打ち倒した。

「王さま、どうしてる?」

 恵那は興味深そうにリリアナに尋ねた。護堂を心配しているそぶりは見せない。『まつろわぬ神』が相手ならいざ知らず、ただの神獣が相手ならば護堂が後れを取るはずがない。

「予定通りに進んでいる。護堂さんを中心に二キロ四方から神獣が集まっている」

「護堂さん……大丈夫ですよね?」

 祐理が心配そうに尋ねた。こちらは護堂が負けるはずがないと思ってはいても、不安にならざるを得ないといった心境だろうか。

「ああ、問題はなさそうだ。今のところかすり傷一つついていない。圧倒的だ。あのライオンの神獣を相手に、一方的に戦えるなんて、さすがはカンピオーネといったところか」

 見る限り、護堂に不安要素はない。一方的で圧倒的な蹂躙だ。ライオンも熊も狼も、関係なく槍と剣に貫かれている。

 護堂に倒されたライオン一頭だけでも、リリアナたち大騎士クラスの呪術師を何十人と動員しなければ勝負にすらならない。

 改めてカンピオーネの規格外さを見せつけられた。

「不幸中の幸いというべきか、『まつろわぬ神』によって環境が書き換えられたようだから、イズラン峠で凍える心配はなさそうだ」

「でも、飛んでる間は寒いよね?」

「ああ、だから防寒対策は変わらず続けて欲しい。もう護堂さんの戦いに巻き込まれないように、迂回して飛ぶ」

 本来、高度二千メートルを越えた辺りの気温は零度以下だ。飛翔術は高度も関係なく目的地に到達できるが、飛行中の温度変化にまで恩恵を与えてくれるほど利便性のある術ではない。防寒対策は個々人でしっかりとしなければならない。

 やはり、ここで心配になるのは祐理だ。人ではなくなった晶や奥多摩の山奥での生活に慣れている恵那とは違い祐理は都会育ちだ。媛巫女の修行で厳しい環境を経験したこともあるが、普段の住まいは東京都心である。

 同様の心配を恵那もしていたのだろう。

 祐理の背中を擦って、何やら呪文を唱えている。

「ま、こんなとこかな」

 と、恵那は言う。

「ありがとうございます、恵那さん」

 祐理は何枚も重ね着をして、フードをかぶり厳重な寒さ対策をしている。コートの下には保温用の呪符を何枚も張ってカイロ代わりにし、さらに恵那が修験者御用達の防寒呪術を施した。

「気温がマイナスだろうが、ぽかぽか陽気に感じるくらいにしっかり術を掛けといたよ」

「とても暖かいです。これなら、冷凍庫の中でも一夜を明かせそうです」

「冷凍庫くらいなら余裕だよ」

 少しだけの軽口。

 第六感の囁きが祐理の視線を自然に山の向こうに向けさせる。

 山の上の方から冷気が降りてくる。祐理は思わず身震いした。風の冷たさにではなく、その風が纏っている死の気配に恐怖したのだ。

「準備はできたようだな……よし、それでは、行くぞ――――アルテミスの翼よ、夜を渡り、天の道を往く飛翔の特権を我に与えたまえ!」

 固い口調でリリアナが言う。

 青い光がリリアナから放たれる。その光が恵那と晶と祐理をそれぞれ包み込むと、四人を連れ立って上空に飛び上がった。

 魔女の才能を持つ者が使用できる飛翔術。一キロほどの距離も、十秒前後で移動できる。人間が出せる速度としては、規格外と言っていいだろう。何せ、新幹線よりも速いのだ。

 飛翔術で上空まで飛び上がり、護堂が戦っている国立公園を迂回するため、戦場から十キロほど北西のモンプリ山のすぐ脇を抜け、シュヴリル湖の湖畔に着地する。

「う……く、はあッ!」

 リリアナが苦しげに吐息を漏らす。

「リリアナさん、大丈夫ですか!?」

「ああ、大丈夫だ。この距離と高度を一気に飛ぶのは久しぶりだったからな」

 祐理の心配を余所にリリアナはすぐに次ぎの飛翔に向けて呪力を練り上げる。今ので距離を半分ほど稼いだ。残り半分だ。リリアナは気を引き締めて、再び飛翔術の言霊を叫ぶ。

「アルテミスの翼よ、夜を渡り、天の道を往く飛翔の特権を我に与えたまえ!」

 風が轟々と音を立てている。

 視点が瞬く間に空高くに舞い上がり、恐ろしい速度で景色が遠ざかる。青い流星のように、アルプスの空を駆け抜ける。

 飛翔術で守られたリリアナたちは、風の影響を受けないが、そうでなければ人体が吹き飛ばされるだろうと思えるほどの強風が吹き抜けている。それもかなりの乱気流だ。太陽が出ているからか、あるいは「ごく一部」が温暖な気候に変えられているからか、暖かい空気が上昇気流となって空を乱しているようだ。

「このままだと、山の天気も滅茶苦茶になりそうだな……!」

 水と大地の精と相性のよりリリアナは、強大な神力で強引に変質したアルプスの山肌を眺めて呟いた。

 雪で閉ざされた高山のまっただ中に唐突に現れる大森林だ。気温が急激に上昇し、気圧も上がった。春を迎えた地上と大差ない気候である。

 これはかなり由々しき事態である。

 アルプス山脈はヨーロッパ各国の水源になっている。冬の間に降り積もった大量の雪が、雪解け水となってドナウ川やライン川といった大河川を潤すのだ。

 もしも、アルプス山脈が常春の気候になってしまえば、ヨーロッパ全域で水不足になってしまう。

 危機感を抱きながらも、リリアナは妨害に遭うことなくイズラン峠に降り立った。視界はほとんどない。大量に降り積もっていたはずの雪は、どこにもなく鬱蒼とした森になっている。

「あっつ」

 恵那が額の汗を拭い、上着を脱いだ。

 麓との気温差は、三十度以上になるだろう。半袖でも十分に活動できるほどの暖かい気温だ。

「こんなになってるなんてね」

「想定以上に森林化が進んでいるみたいだ。エリカがいる異界とここが繋がっているのは間違いないが……」

 ここはほんの入り口にすぎない。エリカが取り込まれた異界は、現実世界とは位相を別にする妖精の国と言うべき場所である。

 歩いてたどり着ける場所ではない。

「と、するとここにこれほどの森が広がっているのは、どういうことなのでしょう。『まつろわぬ神』は、異界にいるわけですよね?」

「もしかしたら、こっちを森にする意図はないのかもしれない。『まつろわぬ神』はそこにいるだけで、周囲に影響を与える。異界への入り口がこの辺りにあるのなら、そこから漏れ出した神気に当てられて環境が変わってしまったのかもしれない」

 リリアナは頤に手を当てて、周囲を見回している。樹木の種類は多様だ。リリアナが注目したのは、太くしなやかな大木。

「なんだこれは……まさか、レバノン杉か? こんなところに?」

 樹皮を擦り、リリアナは興味深そうに木を眺めている。

「レバノン杉って、中東のほうの木ですよね?」

 晶がリリアナに歩み寄って話しかけた。

「ああ。それこそ、メソポタミア神話の時代から生活に利用されていた良質な木材だ。ギルガメシュ叙事詩にも、レバノン杉の森を征服するギルガメシュとエンキドの話があるくらいで、人類の歴史上かなり重要な木材と言っていいだろう。それがここにある、ということは……」

「降臨した神様は、中東に縁のある神様ということですか?」

「可能性は否定できないな。もっとも、ヨーロッパ圏の神々は中東やインドの神性と深く関わっているから、どの神格なのかは一概に特定はできないし、いろいろと混ざっていることもあるだろうし」

 リリアナは深く空気を吸い込んで、目を瞑る。

 大気に満ちあふれる生と死の神気に心を寄り添わせるように、自然の中に自分の精神を溶け込ませる。

 ふっと湧き上がるイメージがあった。荒涼とした大地に照りつける太陽の輝き。あらゆる生命を支える光と熱は同時に多くの命を奪う灼熱そのものでもある。

「ッ……ダメか」

「リリアナさん?」

 晶が心配そうにリリアナの顔を覗き込む。

「今、少しだけ視えた。だが、足りない」

 悔しげにリリアナは顔を歪ませる。

「万里谷祐理、そちらはどうだ?」

「すみません、こちらも同じです。僅かな手がかりは見えましたが神の御名には届きませんでした。権能なのか、何かが霊視を阻害しているような……はい、そのように感じます」

「霊視対策は意図的なものではないのだろうが、厄介な。信仰上、名前を伏せることで神性を高めた逸話があるのかもしれないな」

 リリアナだけでなく、祐理の霊視でもはっきりとしたことは分からなかった。これだけ神力に満ちた土地にいるのに、肝心なところが読み取れないのは珍しい。偶然ではなく、作為的なものを感じる。

 事前調査の段階から疑われていた、「名前を隠す」という方向性なり逸話なりを持つ神格なのだろう。

 薄暗い森の中に紫電が走った。

 一瞬の電光の後で現れたのは護堂だ。

「みんな、無事か?」

「大丈夫。王さまのおかげでピンピンしてるよ」

「そうか、よかった」

 彼女たちの実力を疑うわけではないが、神獣が多数生息している未知の森の中だ。やはり、心配はする。

「それで、どうだった?」

 と、護堂は尋ねる。

「すみません。やはり、はっきりと読み取ることはできませんでした」

「予想通りではあります。霊視の類を遮断し、自らの名を隠す力をお持ちのようです」

 祐理とリリアナが口々に言う。

「ですが、わたしと万里谷祐理で僅かながらも読み取れたことがあります」

「視えたのか」

「少しですが。わたしが見たのは荒涼とした荒野、それから太陽のイメージです。周囲の植生からも、中東の神性を取り込んでいる可能性はあると思います」

 と、リリアナは言い、

「わたしが視たのは、海でした。いえ、島でしょうか。多くの人が行き交う小さな島国で、篤く信仰されている、そのように思います」

「荒野と島国?」

 一見してそこに繋がりがないように見える。

「珍しいことではありませんね。神々の信仰は人の流れに乗る者です。古代の人々にとって船は最大の移動手段ですから、島国に信仰が持ち込まれるのはありえます。護堂さんが今まで戦ってきた神々の中にも、そうした来歴を持つ神格があったのではありませんか?」

 リリアナの問いに、護堂は頷いた。

「メルカルト、とかな。あれは、確かフェニキアの神様だったか。バアルとか、地中海の嵐の神様と習合したんだったっけ……」

 島国の神様と聞いて、筋骨隆々な嵐の神を護堂は思い出す。ガブリエルを倒し、カンピオーネとなった後で戦った『まつろわぬ神』。護堂にとっては初戦の相手だ。そのときは、エリカが一緒にいた。メルカルトは島国発祥の神格ではないが、戦った場所がシチリア島だったので、護堂の中では島と聞いて思い浮かべる神格であった。

「神さまの名前が掴めないのでは、ウルスラグナの剣を研ぐことはできませんね。どうしますか?」

 晶が問いかける。

 彼女の右手には大きな槍が握られている。護堂が渡した神槍は、今では晶のメイン武装となっている。禍々しい神気を帯びた神槍は、存在だけでまっとうな人間を威圧するだろう。

「エリカがいるっていう異界は、この辺なんだよな?」

「そうですね。この辺というよりは、ここと重なる別の場所になりますが、間違ってはおりません。入り口はありませんが、異界は確かにここにあります」

 最も巫力の強い祐理が断言する。

 目には見えないが、『まつろわぬ神』の息吹を強く感じるのだという。

「だったら、俺と祐理でこじ開けるしかないな。いけるか?」

「はい、可能です」

 毅然とした態度で祐理は言う。

 そして、護堂がガブリエルの聖句を唱える。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり」

 精神感応の権能が祐理の巫力を最大限に活性化させる。

「御巫の八神よ。和合の鎮めに応えて、静謐を顕し給え」

 静かに祐理もまた自らの力を練り上げた。清らかな祐理の和魂が真っ白な輝きとなって放射される。高位の巫女のみが扱える御霊鎮めの法であった。

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ」

 重ねて源頼光の権能を使う。

 周囲に満ちる酒気は神々の権能すらも酩酊させて力を失わせる破邪の酒だ。おまけにその性質は《鋼》である。御霊鎮めの法と神便鬼毒酒の権能が『まつろわぬ神』の作り出した異界とこちらの世界との境を曖昧にする。

 護堂の眼前で空間が揺らめき、うっすらと別の世界が見えてくる。

「よし、もう少しッ……!」

 と、思ったときだった。

 ぞっと背筋を走る悪寒に護堂は震えた。咄嗟に祐理を抱えて飛び退く。そこに異界の出入り口となった穴から、大きなライオンが飛び出してきたのだ。判断が遅ければ、祐理が犠牲になっていたかもしれない。

「怪我はッ!?」

「おかげさまで、ありがとうございます」

 護堂に抱きかかえられた祐理は照れくさそうに笑みを浮かべる。

 護堂を目がけて飛びかかってくるライオンの横っ面を、晶の神槍が強かに打つ。

「万里谷先輩、結構余裕ありますね」

「そんなこと、ありません。少し驚きました」

「少しですか」

 もともと危機察知能力が高い上、ガブリエルの権能で第六感がいつも以上に研ぎ澄まされている。護堂並みの早さで自分の身の危険を察したのだろう。その上で余裕があるのは、護堂が助けてくれることも織り込み済みだったからか。護堂と祐理の独特の信頼関係の築き方を少し羨ましく思いながらも、晶はその気持ちを力に変えてライオンの首筋に刃を突き立てる。

「まず一匹ッ!」

 神槍で貫いたライオンの巨体を、晶は神槍を振り回して投げ飛ばす。その先には、敵の第二陣が控えていた。

「南無八幡大菩薩!」

 ライオンの死骸を盾に、走ってくる虎と狼を足止めした晶は、団子状になった集団に向けて神槍を投じた。

 ミサイルのように神槍は疾駆し、神獣と獣の混成部隊を粉みじんに粉砕する。

「オオオオオオオオオッ」

 大木の影から躍り出た巨大ゴリラが吠える。この森の生態系はもはや何でもありだ。普通のゴリラの二倍近い巨体で仲間を葬り去った晶に復讐しようと襲いかかる。

 それでも、カンピオーネの使い魔として絶大な恩寵を受ける晶の敵ではない。ゴリラの大木のような腕の一振りを姿勢を低くして躱し、空振りをしたゴリラの肘に肘打ちをたたき込む。ごきり、と骨が砕ける音がして、ゴリラは苦痛に叫ぶ。

 身体の頑丈さも筋力も晶のほうが格段に上だったのだ。

「セイッ!」

 そして、もちろん速さもだ。

 ゴリラが次の行動に移る前に晶は飛び上がってゴリラの頭を蹴り飛ばした。

 まるでサッカーでもするように胴体から首が離れて飛んでいく。神獣の頭が地面に落ちる前に、身体も頭も塵になって消えてしまった。

「護堂さん、わたしにも武器を!」

「リリアナ、頼む」

 護堂がリリアナに渡したのは矢であった。

 無骨で彩りのない鉄の矢である。これが、恐るべき神気を帯びて、禍々しく輝いている。

「感謝します、護堂さん!」

 気づけばリリアナの手には青く輝く弓が握られていた。そこに、護堂から受け取った鉄箭を番える。

「ヨナタンの弓よ。鷲よりも速く、獅子よりも強き勇士の器よ。疾く汝の敵を撃て!」

 射出された矢の勢いはこの世の物とは思えず、威力もまた絶大だった。

 物悲しい哀悼の呪いを帯びた矢は、『まつろわぬ神』の身体にすら傷を付けうる呪詛を内包している。それが、護堂の権能で作られた神具に重ねられれば、神獣すら絶命させる必殺の一撃となる。

「ク、オオオオオオオオオオオオッ……」

 胸に矢を受けたゴリラが倒れ、さらに狼と虎が射貫かれた。一矢一殺のペースで的確に大地の獣を仕留めている。

「アッキーもリリアナさんもすごいねぇ、これは、恵那も負けてられないねッ」

 恵那は颶風を纏って大木を蹴り、三次元的な動きで神獣を翻弄する。

 天叢雲剣を持って、虎を斬り、風を鉄槌のように叩き付けてライオンを跳ね飛ばす。

 スサノオから引き出した呪力は、本来の神懸かりの三分の一ほどだ。完全な形で神懸かりをすれば、一気に体力を消耗する。

 ペース配分を考えて神懸かりを使用することで、長期間の戦闘行動が可能となるのだ。

「清秋院、そっちはもういい。こっちに一押ししてくれ!」

「分かったッ!」

 恵那はライオンの爪と牙を掻い潜り、晶が恵那に変わってライオンを斬り捨てる。

 護堂の元に駆けてきた恵那は漆黒の天叢雲剣を構える。

「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし、今は吾が名の惜しけくもなし。やああああああああッ!」

 ゆらゆらと揺れる異界との境目に恵那が天叢雲剣を突き刺す。ずぶり、とゼリーを斬るような手応えがあった。

 恵那が力を込めて剣を縦に一閃すると、切り口がぱっくりと開いて異界が顔を覗かせた。温暖な風が吹き込んでくる。向こうもこちらと同じような自然環境であるらしい。

「リリアナ、晶、祐理は任せたぞ」

 護堂は神獣と戦う仲間に声を掛けた。

 未知の異界での探索に体力のない祐理が同行するのは危険。むしろ、こちらに残って優れた霊視による後方支援をしてもらったほうがいいと判断したのだ。

 そのため、祐理の直接の仕事は異界への入り口を見つけ出すところまでだ。リリアナの飛翔術と晶の護衛で安全圏まで一気に離脱してもらう。

「お任せください、先輩。早く帰ってきてくださいね!」

「すみません、後はお願いします」

「エリカのこと、よろしくお願いします」

 リリアナが青い光に包まれる。祐理と晶を飛翔術に取り込み、空高く舞い上がる。追撃しようよする神獣を護堂は酒の濁流で押し流した。辺り一帯に酒気をまき散らして、『まつろわぬ神』の権能を弱体化させるのだ。 

「行くぞ、清秋院」

「うん」

 そして恵那は頷き、護堂とともに『まつろわぬ神』が作り上げたという異界に足を踏み入れた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 

「ふむ?」

 洞窟の奥で玉座に腰掛けるアグディスティスは、奇妙な胸騒ぎを覚えて目を開けた。傍らに控えるライオンの神獣が唸り声を上げる。

 自らの領域が、自分とは縁もゆかりもない権能で侵されている。人間的に言えば、丹精込めて作り上げた新築の家を土足で踏み荒らされているような感覚だ。

「サルバトーレ・ドニ、ではないな。新たな神殺しか。ふふふ、この地に腰を落ち着けたかと思えば、数日の間に二人も神殺しがやって来るとは、ままならぬものだな」

 そう言いながらも、アグディスティスは楽しげだ。

 大いなる大地の母であるアグディスティスにとっては、この世に生きるあらゆる生命は自らの管轄であると言える。神への反逆をなし得た神殺しは「不出来な息子」であって、叱責の対象にはなるが、憎しみを持って当たる相手とは思っていない。

「顔くらいは見に行ってやろうか。子の帰省を出迎えるくらいの度量は必要だろうからな」

 ゆったりと玉座を立ったアグディスティスは、絹の衣を纏って洞窟を出た。

 外は朗らかな陽気で、これから破壊の嵐が吹き荒れる前兆すらない。

 二頭のライオンを繋いだ戦車に乗り、アグディスティスは軽快に空へ舞い上がっていった。


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