地上に降り注いだ灼熱の雨は太陽フレアにも似て、着弾点を中心に半径五百メートルを無残な焦土に変えてしまった。熱波はさらに遠方まで届き、大気は焦げ、クレーターには川の水が注ぎ込んだ。あと二、三時間もすれば、立派な湖ができあがるだろう。
「死と再生の神とはよく言ったものね」
その惨状をエリカは視力を強化して眺めていた。
護堂がこの異界に突入した時、エリカはそれを察知していた。しかしすぐに行動に移さなかったのは、まさにこの『まつろわぬ神』の襲来を恐れてのことだった。
護堂が、ではなくカンピオーネが騒動の火種になるのはいつものことで、『まつろわぬ神』は基本的にカンピオーネを敵対視している。
自分のテリトリーにカンピオーネが乗り込んできたことを察知したアグディスティスが、どのように対処するのかを確認しなければ、合流することはできない。
エリカが如何に護身の術で身を守ったとしても、あの太陽フレアに晒されれば、一秒と持たずに蒸発するしかない。
護堂はエリカが異界から脱出する唯一の道ではあるが、同時に非常に危険な火薬庫でもあるのだ。
火遊びは好きだが、確実に爆発すると分かっている火薬庫に飛び込む馬鹿ではない。
黒焦げになった大地に緑が芽吹き、みるみるうちに大きく成長していく。
形作られた湖を中心として、新たな生態系が構築されるのだろう。
本来、百年かけて行われるはずの自然再生が、ものの一分足らずで成し遂げられた。
死と再生を司る命の母の国だけあって、その力は桁外れだ。
「あれを食らって、よくあなた生きてたわね」
振り返るエリカの前には、護堂と恵那がいた。
護堂も恵那も目立った外傷はない。
太陽フレアの着弾点にいたとは思えないくらいにピンピンしていた。
「清秋院が太陽の権能だって気づいてくれたからな。おかげで、何とかなった」
「……ああ、そういうこと。確かレポートに載ってたわね。日本神話に登場する黒雷神は、太陽を覆い隠す黒雲の化身だって話。あなたの権能も、それに由来するから、あれを受けて生き延びるのは当然というわけね」
エリカは得心したとばかりに頷く。
護堂の居場所を探すのはエリカからすれば難しくはなかった。何せ莫大な呪力の塊だ。しかるべき手順を踏めば居場所を特定することはできる。普段と違い、護堂もエリカから見つけてもらうためにガブリエルの権能を意識的に弱めていたことも奏功した。
ともあれ、一戦して護堂が撤退したという形にはなったが、アグディスティスも追撃する気配はなく、ここまで来れば護堂と合流しないという手はなかった。
「でもまあ、そうはいっても信じがたいわね」
「何が?」
護堂は地面に座り込んで、水筒の水を飲んでいた。
喉がカラカラだ。
『まつろわぬ神』との戦いは気力と体力を一気に消費するのだ。一歩間違ったら死ぬという極限状況で、最高レベルの集中力で挑まなければならないのだ。疲れるものは疲れる。それが道理だ。
黒雷神の化身で太陽フレアの矢を凌いだ後、恵那を連れて戦線を脱した。アグディスティスは護堂を倒したとは思っていないだろうが、追いかけてくることなく撤退していった。
カンピオーネの桁外れの生命力は欧州の呪術師であれば誰であれ一般教養として知悉していることである。
しかしエリカからすれば自分と同い年の男子が、これほどまでに規格外な力を持っていると言うことに言い知れぬ違和感を持たずにはいられなかった。
「普通、あの爆発の中を生きられるとは思わないでしょう。このわたしですら、骨の一欠片も残さずに消し飛ぶ攻撃だったのに」
「そんなもんなんだよ、俺らの戦いって」
「分かってるわよ、頭ではね。メルカルトとの戦いも、まあ、そんな感じではあったけれどね」
エリカは心底から呆れたとばかりにため息をつき、そして面白そうに笑みを浮かべる。
エリカは護堂のカンピオーネとしての最初の死闘を見届け、その活躍を欧州呪術世界に紹介した人物でもある。
《赤銅黒十字》の大騎士を担う以上、カンピオーネとも『まつろわぬ神』とも何らかの形で因縁を持つことになるとは思っていたが、こうも身近なところにカンピオーネが現れるというのは予想外であった。
「エリカのほうこそ、無事でよかった。思ってたよりも元気そうだ」
「当然でしょう。このエリカ・ブランデッリが、ほんの数日のサバイバルでどうにかなるはずないじゃない。見くびらないで欲しいわね」
得意げにエリカは腰に手を当てて胸を張った。
彼女はいつもの紅いケープを身に纏った戦闘装束だ。この異界に囚われてそれなりに時間が経過しているようだが、彼女の美貌は衰えることがなかった。
「エリカさんって、野性味がある感じじゃないけど、タフだねぇ」
「ま、エリカのことだから万に一つもないとは思ってたよ」
恵那と護堂がそれぞれ感想を口にする。
とはいえ、常識が通じない異界でのサバイバルだ。普通の人間ならとうの昔にギブアップしていただろうから、こればかりはエリカの天賦の能力と日々の努力が引き寄せた幸運と言うほかない。
「さて、と。エリカと合流できたし、目的の八割方は達成できたな」
「ねえ護堂、もしかしてあなた、わたしを救うために異界に突入した、なんて言うんじゃないでしょうね?」
「そうだが?」
頭に疑問符を浮かべたエリカの問いに同じく疑問符を浮かべて護堂が答える。
「……はあ、いいえ、分かったわ。その可能性がないとは思ってなかったし」
「何だよ、可能性って」
「『まつろわぬ神』が出た以上、この事態の解決にはカンピオーネの力が必須よ。サルバトーレ卿が、この異界に再挑戦するって筋書きが一番可能性があったのだけど、その次くらいに可能性があるのは護堂が乗り込んでくることだから」
「なんで?」
「だって他にいないじゃない。侯爵はサルバトーレ卿が絡む案件に首を突っ込んでくるとは思えないし、この異界に黒王子がどこまで興味を持つかは未知数。他の方々も自分の所領から出るなんてよほどのことがない限りないでしょうから、無駄にフットワークの軽い護堂がサルバトーレ卿の次にあり得るとは思ってたわ」
『まつろわぬ神』との戦いでカンピオーネが出てくるのは当たり前の話ではある。そもそも、カンピオーネ以外では戦いにすらならない。ただの人間では一方的に蹂躙されるのがオチだ。何万人の呪術師を集めたところで、たった一柱の『まつろわぬ神』も倒せない。傷付けることすら、満足にできないだろう。
だから、もしもこの事件を解決する者がいるとすれば、それは現存する七人のカンピオーネのうちの誰かに絞られる。
状況から考えて、第一候補がサルバトーレなのは揺るがないが、つい最近までイタリアにいた護堂も選択肢には入る。
「まあ、ともかく感謝はしているわ。助けに来てくれたことにはね」
高飛車な台詞を言ってのけるエリカ。しかし、その表情には隠しきれない安堵の色があった。状況によって態度を変えないというのもエリカのエリカらしいところで、むしろ微笑ましいとすら思えた。
「あら、何か変なこと考えてなかった? こう、わたしの尊厳に関わる重大なこと」
「考えてねえよ」
巫女でもないのに妙に察しがいいのも、実にエリカらしい。
「エリカさん、こっちでずっと暮らしてたみたいだし、キャンプみたいなことしてた?」
と、恵那が聞いた。
「ああ、それね。大切なことだから、きちんと整理しておかないとダメね。いいわ、案内してあげる。わたしの秘密基地にね」
■ □ ■ □
護堂と恵那はエリカに従って山深くに入っていく。
地形は平坦ではなく、険しい山々の連なりだ。護堂が『まつろわぬ神』と戦ったところは川が流れている谷間であって、エリカが拠点を設けたのは山の中腹だった。
戦いでできたクレーターからは直線距離で五キロほど離れたところである。
およそ三百メートル程度の標高の山の中腹に、ぽっかりと開いた洞窟があった。
「この穴、エリカさんが掘ったの?」
「その言い方は適切じゃないけれど、わたしが作ったという意味では正解。粉砕の術を使って斜面に穴を開けたのよ」
「こんな洞窟、一人で作れるんだから呪術って反則だよな……」
神を殺したわけでもないただの人間であるエリカですら、これだけのことを成し遂げられるのだ。呪術の性能は個々人の天性の資質に左右されるものではあるが、個人でなし得る限界を優に超えられるというのは、非常に大きな意味のあるスキルであろう。
火を熾すのも拠点を作るのも、自分の身一つでできてしまう。
獲物さえいれば十分に生活できるだろう。
そこまで見て、恵那は怪訝そうな顔をしてエリカに尋ねた。
「エリカさんさ、もしかして肉とか食べてないんじゃない? 脂の匂いがしないよ。焚き火はしてるみたいだし、食べられる動物がいないわけじゃないし、何か理由があるの?」
尋ねられたエリカは驚いたように目を見張る。
「すごいわね。そんなことまで分かるなんて」
「恵那って割と鼻が利くほうなんだよねぇ。それに、サバイバルも多分エリカさんより経験してるからね。普通、火があって技術があって洞窟みたいな拠点があるんなら、肉を焼いた気配くらいは残るもんだよ。それに骨も落ちてないみたいだしね」
「鼻だけじゃなくて目もいいのね。まさに野生児ってヤツなのかしら?」
「慣れだよ、慣れ。まあ、奥多摩とは比較にならない秘境みたいだし、恵那の経験が役に立つのか分かんないけど」
「謙遜はいらないわ。中途半端な経験者ならともかく、あなたは本物でしょう? わたしよりもずっと、この手のことには強いじゃない」
エリカの長所は、事実は事実として受け止めることだ。高いプライドを持ち、それを裏打ちするだけの実力を持つエリカだが、自分よりも優れている人間を頭ごなしに否定するような小さな器ではない。
恵那は間違いなく西洋でも通用する実力者。
剣術ではほぼ互角だろう。呪術師としても、負けてはいない。しかし、神懸かりという反則技は、世界中でも今となっては恵那だけが使えるもので、これを使われてはエリカであっても不利は否めない。
本気になった恵那は、エリカどころか欧州最高の騎士と称されるパオロ・ブランデッリらの位階にすら並ぶ別格の存在だ。
高い実力と野山で生きる知恵を持つ恵那がいるというのは、それだけで心強い。
「さて、と。とりあえず、休憩にしましょうか。護堂たちも戦ったばかりで疲れてるでしょうし」
「そうだな。ひとまず休憩」
二つ返事で護堂は頷いた。
今後の方針を考えるにしても、身体を休めて体力を回復したいところだ。
休息は次の戦いに備えた身体作りの一環だ。適切な休みを取ることで、心身の健康を保ち本当に必要な時に必要な力を発揮させる。疲れたときにきちんと休めるかどうかはその後に大きく影響するものだ。これから命のやりとりが控えているのだから、尚のことである。
洞窟の中に残された焚き火跡の炭はうっすらと赤い。熾火の状態だ。そこに燃えやすい松葉を入れて火を強め、その火に薪を入れて火力を上げた。
パチパチと火が爆ぜて、洞窟の中にほんのりと熱が籠もる。岩壁に熱が反射するので、外にいるよりもずっと暖かいのだ。
「冬じゃないから、暖を取る必要はないけど、火があると落ち着くわね」
「分かる。蝋燭の火とか、落ち着くよね」
恵那は枝を二つに折って、焚き火にくべた。焚き火を囲んで、三人で座っている。炎の揺らぎで、影がゆらゆらと揺れる。
護堂はリュックサックの中を漁った。
『まつろわぬ神』との戦闘中に投げ捨てたものだが、川に流されて下流の岩に引っかかっていた。失せ物探しの呪術を使った恵那が無事に発見し回収できたのである。
この中にはサバイバルに必要な最低限の装備が入っている。護堂の生命力を考慮した上での最低限なので、一般人からすれば心許ない装備だが、戦いの場に持ち込めるものはそう多くない。邪魔にならないように少ない荷物にするしかなかった。
「ほら、エリカ」
と、護堂はビスケットの缶を開けてエリカに見せた。
「いいの?」
「しばらく、こういうの食ってないだろ」
「そうね。じゃあ、ありがたくいただくわ」
エリカは護堂のビスケットを受け取って口に運んだ。
護堂と恵那もそれぞれがビスケットでエネルギーを補給する。
「うん、砂糖の甘さはやっぱりいいわね。山菜と木の実ばかりだったから、文明のよさを忘れかけていたわ」
と、エリカが感想を述べた。
「あ、そうそう、その話。なんでエリカさん、山菜ばっか食べてたの?」
「それはもちろん、血を流さないためよ」
二枚目のビスケットを手に取って、エリカは言う。
「血? 穢れとか、そういうことかな?」
「穢れ? 日本独自の思想はよく分からないけど、ここはまつろわぬアグディスティスの聖域ですもの。迂闊に命を奪うようなことはできないでしょう?」
確かに、と護堂は頷いた。
この異界は一から十まですべてが『まつろわぬ神』によって形成された世界だ。そこに息づくすべての命は、その神によって創造されている。
その命を奪うのは、神の創造物を破壊するのと同じことだ。
と、そこまで納得してから護堂は、さも当然のようにエリカが重要なことを口にしたことに気づいた。
「待て、エリカ。今、神様の名前を言わなかったか?」
「ええ、まつろわぬアグディスティスと言ったわ」
「アグディスティス?」
護堂は首を傾げる。聞いたことのない女神だった。恵那に視線を向けたが、恵那の反応も薄い。日本の媛巫女がピンとこないということは、あまり日本で有名な神格ではないのだろう。
「聞いたことないって顔ね」
「ああ、まったく聞いたことない」
「恵那はうっすらと。でも、よく分かんないな。西洋の神様でも、有名どころじゃないんじゃない?」
呪術に関わる恵那ではあるが、彼女の知識は東洋圏が中心だ。有名な神ならばまだしも、そうでないもの来歴まで深く知識を求めているわけでもない。
「まあ、そうね。今現在も信仰が継続しているかというとそうでもないわ。特に割と早い段階でキリスト教に目を付けられてしまっているしね。逆に言うと、西暦以後数世紀は無視できない影響力があったってことでもあるけれど。もっとも、このときはキュベレーという名前が一般的だったわ」
「ああ、キュベレーなら、聞いたことあるぞ。ギリシャ神話の神様だろ」
日本でもキュベレーならば知る人はいるだろう。
ギリシャ神話に登場する女神で、名前だけならアニメなどにもよく使われている。
「でも言われてみればキュベレーって何した女神かはよく知らないな」
「ギリシャ神話の有名どころはオリュンポス十二神だものね。キュベレーは後から入ってきた女神だから、古いギリシャ神話には出てこないわ」
「そうなのか……。それがアグディスティスだったっけ。関わりがあるっていうことなんだな」
「ええ。関わりがあるって言うか、ほぼ同一の神様ね。アグディスティスの信仰地は、プリュギア、今のトルコの西側ね。アナトリア半島の辺り。アグディスティスは両性具有の地母神で、ライオンを従える姿で信仰されたとされるわ」
「ライオンか。そういえば、何度も出てきたな」
「ライオンは大地の化身の一つ。特にこの系統の女神はライオンを自分の聖獣としている場合が多いの。昔はアジアにもたくさんいたみたいで、メソポタミアの王はライオン狩りをしていた記録もあるわ」
ライオンといえばアフリカのイメージがどうしても拭えない護堂にとっては、違和感のある話だが、ライオンのモチーフは日本にも中国を介して昔から伝わっている。
古代の世界で大地を象徴する聖なる獣がライオンならばそれを従える女神は必然的に大地の属性を強く表現していると言える。
まつろわぬアグディスティスは、多くの獣を護堂に差し向けたが、その中には確かにライオンの姿があった。
「神話の中でアグディスティスは両性具有であることをゼウスに恐れられて、去勢されるの。その結果、完全な女神として生まれたのがキュベレー。切り離された男性部分はアッティスという別の豊穣神として信仰されることになる……」
「去勢……」
「ええ、変なこと考えないでね。これ、神話的にセクシャルな想像を持ち込むのはタブーよ、いい?」
「もちろん」
エリカはにこやかに、しかし反論を許さない口調で護堂に告げる。
護堂は頷くことしかできない。
「ギリシャ神話のアグディスティスとしてはこの程度。キュベレーとなってからは、アッティスとは夫婦だったり、親子だったりするわね。ただ、もともとの信仰としてはキュベレー単独だったとも言うわね」
「アッティスが後から信仰されるようになったってことか」
「可能性としてはね。この両者を繋いで、アグディスティスという女神が生まれたのかもしれないわ。キュベレー信仰がギリシャに持ち込まれたのは紀元前八世紀頃っていうけど、実はクレタ島にはもっとずっと昔に持ち込まれていて、レアーと同一視されたようだし、ギリシャ人にとっては古くて新しい女神ってとこかしらね」
紀元前八世紀。
確かに、ギリシャ神話としては新しい部類になるのだろう。同時期に成立したホメロスの『イリアス』は、それ以前から語り継がれてきた伝承を纏めたものである。
「そういえば、太陽はどこから来たんだ?」
「太陽? そうね確かに」
と、エリカは口を噤む。
「アグディスティスもキュベレーも太陽神としての性質は持たないわ。強いて言うとアッティスかしらね。あの神様は、確かミトラスとも繋がりがあったはずだし」
「ウルスラグナの上司じゃないか」
「ああ、ちょっと苦手意識があるかもね。あなた、ウルスラグナの権能も持ってたものね。でも、ミトラスなんてそれこそマイナーな神格、よくミスラと繋げたわね」
「ペルセウスのときにちょっとな」
「そう。そういえば、そうだったわね」
ペルセウスもまたミトラスと関わりがある英雄神だった。今となっては懐かしい強敵であった。戦ったのはサルバトーレだったが。
「まあ、本質としては遠いわね。ああ、でも、そうね……実際に見てもらった方が早いかもしれないわね」
ぶつぶつとエリカは独り言を言って思索の海に沈んでいく。
「どうした、エリカ?」
「ええ、ごめんなさい。太陽という権能について、アッティス以外の別のアプローチもあり得ると思って。ちょうど恵那さんもいるし、後で見てもらいものがあるのよ」
「恵那に? それってどんなの?」
恵那は不意に名前が上がって前のめりになった。
「それは、見てのお楽しみ。もう少し休んだら、出かけましょう。ちょっと、距離があるし、それを見れば、あの神様、いえ、その前身となる神がどれだけ広範囲に影響したかが分かると思うの」
エリカは悪戯でもするような挑発的な笑みでそう言った。
□ ■ □ ■
プルディア。アナトリア半島で崇拝されたという強力な地母神であるアグディスティスについて、エリカから簡単な講義を受けながら護堂たちが向かったのは、山の反対側だった。
当然、登山道が整備されているわけではない。普通ならば何の目印もない山道を歩くのは危険なだけだが、護堂たちはそういう意味では普通ではない。
道なき道に自分の道を通していくのが護堂の生き様だ、というと少しは無軌道な生き方も格好良くなるだろうが。
最初は獣道を通り、それからエリカが見つけたという近道に踏み込む。なかなか険しい道で、湿った岩が滑るし、降り積もった落ち葉は足場の悪さを覆い隠す。倒木を跨ぎ、時に急斜面に手を突いてまで何とか山を上っている。
「王さま、ちょっと斥候してくるよ」
と、恵那が言う。
身軽にひょいひょいと恵那は山を駆け上がっていく。木々を蹴って飛び移る様は、さながら忍者だ。
「さすがね、恵那さん。わたしも、この道は三度目だけど、あそこまで軽快に飛び回れないわ」
生来の身軽さと身体能力をこれでもかと活かす恵那は、かつてないほどに充実してそうですらあった。
「俺も小さい頃から呪術囓ってれば、ああいうのができるようになったのかな?」
「あれは天性の才能を良質な環境で伸ばしてやっとってくらいのものだから、まあ、無理でしょうね。ところで、あなたも律儀に上ってるけど、別に権能で移動してもいいのよ?」
「便利な力だしできなくもないけど、そんな気分じゃないからいいや。山登りは上ってる最中が一番好きなんだよ」
「努力する過程が好きってこと?」
「別にそういうほどでもない。ただ、身体を動かすのが好きってことだよ」
かつて運動部に属していた護堂は、カンピオーネになる前からそれなりに体力があった。数々の死線をくぐり抜けた今となっては、足場の悪い玄人向けの斜面をよじ登るのも難しいとは思わなくなった。直感が研ぎ澄まされたことで、適切な登り道が分かってしまうということもあるのだが。
「お、おお……王さま、なんかすごいよ!」
と、一足早く頂上に辿り着いた恵那の声が聞こえてくる。
「マジ? どんなん?」
「とにかく、早く来て! すごい綺麗!」
綺麗という言葉を不思議に思いながら、護堂は足早に山を登っていく。
そして、やっと山を登り切った。
ひりつく喉が酸素を求める。
大きく深呼吸をして顔を上げると、眼下に広がっていたのはうっすらと立ちこめる淡い霧であった。その霧の中の森には、うっすらと桃色の花をつけた木々が混じっている。
「桃の花だよ、王さま」
「桃? 季節外れにもほどがあるなぁ」
今更ながら滅茶苦茶な世界だ。
厳冬のアルプスに桃の花である。
今のこの景色にアルプスらしさはどこにもない。緑豊かな森に、ほんのりと霞がかかり、桃の花が咲いている。
桃の木が密集しているのは、山間の低いところだが、山頂付近にも疎らに桃の木が生えていて、手近ならところだと護堂から十メートルほどのところにある。
「もしかして、もう桃が成ったのか?」
桃の花は綺麗な満開だ。それがみるみるうちにしぼみ、散って、実が成った。
信じられない成長速度だ。
いや、似たような現象を護堂は見たことがある。
晶がクシナダヒメの権能で育てた林檎がこのような感じで育っていた。早送り映像のように、桃が結実したのだ。
さらに成った桃を食べに鳥が集まってくる。山腹から山麓にかけて広がる桃の木にも、多くの動物が集まっている。中には神獣クラスの怪物も混ざっているようだ。
「驚いたでしょう。この世界の生態系を支えるのは、無限に生産される森の恵みというわけね」
エリカが得意げに言う。
確かに、この幻想的な景色は値の付けられない宝と言ってもいいだろう。
「それで、護堂。感想は?」
「そうだな。まあ、めっちゃ綺麗な景色だと思う」
「そうね。でも、それだけじゃないでしょ? 顔に出てるわ」
「その鋭さ、ちょっとどうなんだよ」
「あなたが分かりやすいからでしょうね」
自覚はないしエリカの洞察力が高すぎるのが問題なのだ。
護堂は図星を突かれてため息をつく。
「正直言って、なんか気持ちが悪いな。うまく言えないけど」
「それだけ分かれば十分だわ。やっぱり、ガブリエルの権能はこういうとき便利よね」
「俺を毒味役にしたのかよ」
「仕方がないじゃない。試しに食べてみるわけにはいかないし、ここの桃だけ不自然に美味しそうに見えるんだし、何かあると思うじゃない」
否定はしない。
木に成っている桃は異様に芳醇な香りがする。とても美味しそうで涎が出る。
「なんだか、誘われてる感じがするよね」
というのは恵那の言葉だ。
護堂だけでなく恵那も何らかの異常を感じ取っているのだ。
「エリカはこれを俺たちに見せたかったんだろ? 狙いはなんだ?」
「もちろん、アグディスティスに対処するために、彼女の力の源泉を突き止める必要があるでしょ? アグディスティスは、彼女が持つ多くの名前の内の一つでしかない。あの神様が内包する神性は、多岐にわたるのよ。これもきっとその一つね」
「桃が?」
「ええ。だって、それ以外に考えられないもの。わざわざ、ドングリとかじゃなくて桃を用意するのなら、何らかの形で縁があるものだし」
確かに、と護堂は思う。
アグディスティスが用意した森の恵みが桃であるということに何らかの意味があるのなら、それはあの『まつろわぬ神』の力を解き明かす重要なファクターと言えるだろう。
「じゃあ、戻りましょうか」
「え、戻るの。せっかくの桃の花だし、もう少し見てたいなぁ」
「ダメよ、恵那さん。あなたならともなくわたしはそろそろ限界だし。正直、かなり桃の誘惑を受けているのよ。あまり近づくとうっかり口にしてしまいそうだわ」
「なるほど、確かにそれは不味いね。じゃあ、王さま、帰ろうか」
あっさりと恵那は引き下がった。
桃の魔力がエリカの精神に影響を与えているのなら、そのうち恵那も囚われる可能性もある。長居は無用だ。ここはあくまでも敵地なのだから。
帰りは護堂の権能を使って楽に移動した。日が暮れかかっていて、歩いて下山しては夜になってしまうかもしれなかったからだ。
洞窟に戻ってから、今後の方策を話し合うことにした。
また火を囲む。
夕食はビスケットと自衛隊のレーションだ。戦闘糧食II型。ミリタリー好きには堪らないレトルト食品である。晶がいろいろと語っていたが、ほとんど頭には残っていない。
そして意外にもこれにエリカが興味を示した。
「ジャパニーズレーション。噂には聞いていたけれど、ついぞ食べる機会がなかったのよね」
「エリカさんの口に合うかなぁ」
「わたし、こう見えてゲテモノ類もイケる口よ。スリリングな味わいも旅行の醍醐味だもの。でも、日本のレーションは割と評判もいいし、そういう意味での期待はしてないわ」
木を組んで鍋を釣るし、十分ほどレーションのパックを湯煎する。たったそれだけで、十分過ぎるほどのキャンプ飯が誕生する。
「うん、美味しい。普通にイケるわね」
「恵那もこれは初めて食べるけど、思ってたよりいいね」
口々に高評価。
一流レストランでの食事とは比較するものではないが、食べる分には何の問題もない。日常生活でも夕食に並んでいてもおかしくはないだろう。
空腹だった護堂はあっという間にご飯と肉じゃがを平らげた。
「今後の方針だけど、エリカはこのまま帰って大丈夫か?」
と、護堂は尋ねる。
「驚いた。気づいてた?」
「何となく、そんな感じがした。今のエリカは何というか、幽界にいた人たちと同じ雰囲気なんだよな」
護堂は幽界で出会ったかつて人だった者を思い浮かべる。
外見は似ても似つかないが、この世の者ではない、少しずれた雰囲気が似ている。今までのエリカとは少し違っている。
「そうね。正直、どうなるかは分からないわね」
深刻そうな顔でエリカは言う。
「ちなみに理由は?」
「この異界の中でそこそこ過ごしちゃったから、ね。この世界を構成するのはすべてがあの女神の権能。水も空気も動物も植物も。キュベレー信仰の血生臭さがあるから、血を流さないようにしてたけど、山菜とか木の実とか、食べないとダメだったし水も飲んだし、少しずつこっちに慣らされてるのよ、わたし。あの桃なんか食べちゃった日にはどうなってしまうか、見当もつかないわね」
「ちょっとずつ毒を盛って耐性を付ける忍者みたいな感じだね」
恵那は以前からの知り合いを思い浮べて言った。
忍者と言えば甘粕冬馬である。彼もそういう毒耐性のトレーニングを積んだのだろうか。もっとも、エリカの場合は耐性をつけるどころか、少しずつ毒に侵されているという状態なのだが。
「なるほど、つまり今ここからエリカを逃がすって手はないか」
「逃がしてくれるのならありがたいけど、あっちに出た途端に呼吸困難になって倒れるかもしれないわね」
「黄泉の食べ物を食べると、あっち側の存在になるって日本の神話にもあるもんね」
イザナギの黄泉下りの説話のことを恵那は思い返した。
「じゃあ、どうするかって、もう一択か」
「そうね。あなたがまつろわぬアグディスティスを倒し、この世界を崩壊させる。それしかないわ。そうしないとこの世界からわたしが出られないし、それに、きっとヨーロッパ全域が大変なことになるでしょうね」
「全域が?」
「当然。アルプスの水がなくなるのだから、記録的な災害になるわ。異界の外も見事な森林だったんでしょ?」
「そうだな。あれ、広がったりするかな」
「広がる可能性は否定できないわね」
「まあ、仕方ないか……」
好き好んで戦うわけではないが、戦わなくてはならないのなら戦う。もともと、この異界に踏み込むと決めた時点で『まつろわぬ神』との対決は覚悟の上だ。攻め込んでおいて、戦う気はありませんなどという理屈が通じるはずもなく、向こうはすでに護堂を敵と定めている。
「ところで、あのアグディスティスはどうして攻めてこないんだ? ここはあいつの土地なんだから地の利もあるだろ」
「サルバトーレ卿とあなたとの連戦に疲弊している、あるいは、そういう性格だから。もちろん、今まさに何か仕掛けてるかもしれないけど」
「実際、次に会ってみないと分からないってことか」
次にアグディスティスに会うときは、間違いなく最後まで殺し合うことになるだろう。一度目は見逃すが二度目ない、といったような感じがする。直感だが。
「それで、恵那さんに質問なのだけど」
エリカは恵那に話を振った。
「何?」
「あの桃、どう思った?」
「ああ、あれね。うーん、多分道教系な気がするんだよね」
「やっぱり、霊力のある桃といえばそうだものね。タオイズムの系譜だと思ったのよ。ただ、わたしは門外漢だから、恵那さんが見てくれてよかったわ」
護堂を蚊帳の外に置いて、呪術師二人は話を進めている。
タオイズム、道教、それは古代中国で発生した思想だ。護堂もそれくらいは知っているし、桃が仙人の果実だということも理解している。
「待ってくれ二人とも、話が進みすぎてよく分からないんだが、アグディスティスってのは、ギリシャの神様だろ? 何で道教なんだ?」
護堂は当然の疑問を口にする。
中国大陸で発生した道教と古代ギリシャを席巻した大地母神。これがどのように繋がるのか見当もつかない。強いて言えばシルクロード辺りが絡むのだろうか。護堂の知識などそれくらいだ。
「さあ、何でかな」
と、恵那は困ったように笑った。
「分かんないのかよ」
「まあ、恵那はアグディスティスのことは詳しくないからね。エリカさんは?」
「まだ確信は持ててないわ。それこそ、恵那さんの力を借りたいところなのよ。アジアの歴史には詳しいでしょう?」
「そうだね。そっちでよければいくらでも聞いてよ。これでも、結構勉強してたからさ」
「心強いわ」
今まで学んできたことを確認するようにエリカと恵那は洋の東西の知識を重ね合わせる。それは完成図の分からないパズルを形にしていく作業に近い。ただ、エリカ曰く方向性だけは分かっているとのこと。二人の才媛が力を合わせれば、霊視がなくても神の素性を解き明かすことはできるだろう。そういう信頼感を護堂は兼ねてからこの二人に抱いている。
■ □ ■ □
火の爆ぜる音に気づいて護堂は目を開けた。
背中を壁に当てたまま、胡座をかいて寝ていたらしい。
腕時計を確認すると、最後に時計を見てから二時間ほど経っていた。思っていたよりも疲れていたらしい。身の危険が迫るとすぐにそうと分かる体質なので、転た寝できるということは、この洞窟は当面の危険はないということだろう。
それはそうとして、二人の姿が見えない。
焚き火は小さくなっている。エリカと恵那は洞窟を出て、何をしているのだろうか。
「危ないってのに」
外には多くの獣がいるだろう。
当然、そのすべてが格の違いこそあれ、アグディスティスの子どもも同然の神秘の怪物たちだ。
あの二人なので、不用意に危険を冒したりはしないだろうという信頼はあるが、心配は心配だ。
護堂はふらりと洞窟の外に出た。
夜目の利くカンピオーネは真っ暗でも昼間と同じくらい物がよく見えるのだが、今日はそういった能力は必要なさそうだ。
空に浮かぶ満月が、青い月光で地上を照らしている。遮る物が何もない。空気も東京よりはずっと綺麗だろう。だからだろうか。月の光はとても綺麗で、夜闇という言葉が嘘だと思えるくらいに明るいのだ。
「顔でも洗ってくるか」
護堂は気配を消して、そろそろと歩き出した。
この近くに小さな泉があるのだ。
この世界の水ではあるが、カンピオーネの護堂が顔を洗ったところで何か影響が出るはずもない。
夜行性の動物がいると厄介だ。できるだけ物音を消して、森の中を進んだ。立ち並ぶのは低木の広葉樹たちだ。茨も大量に生えていて、これは利用価値があるので洞窟の前に動物避けの柵として設置していたりする。
泉はエリカが何度か利用していたので、人が通れる道ができている。護堂はそれを通って、木々の間を通り抜けた。
唐突に視界が広がる。
薄暗い森を出ると、真っ青な月光に照らされた小さな泉に出る。円形の泉は、直径が十メートルばかりになるか。
泉に流れ込む川はなく、湧水で形成されたと思われる。ここから少しずつ水が染み出て、山麓の川の水源の一つになるのだ。
湖面にゆらゆらと満月が映っている。
涼やかな風が吹き渡り、さわさわと梢を揺らす。
護堂は地面に膝をつき、冷たい泉に手を浸して、顔を洗った。冷たい水は眠気覚ましには最高だ。
「はあ、すっきりした」
持ってきたタオルで顔を拭く。
一息ついて、ふと右側に目を向ける。何となくだ。月光を反射する泉の中に、腰まで使ったエリカと恵那が愕然とこちらを見ていたのだ。
降り注ぐ青い月光を反射する黄金の髪。そして、西洋人らしい白磁のように白い肌が月明りで強調されて美しい。月と泉、そして夜の森という背景がエリカの美しい肢体をこれでもかと強調しているようであった。
対して恵那はエリカとは逆の方向性だ。黒い森に溶け込むような漆黒の黒髪が肌に張り付いているのが艶めかしい。
エリカが月光をスポットライトとして使うのなら、恵那は黒い森を背景にすることで自分を際立たせている。
「お、王さま?」
「う、と……その、すまん」
とりあえず、護堂は回れ右をした。いつまでも見ていたいという衝動もあったが、それを堪えての行動だ。
護堂のすぐ隣の木を鋼鉄の刃を貫いたのはその直後であった。
「うおッ!?」
鋭いレイピアがものの見事に木の幹を貫通している。
「あ、危なッ、いきなり剣を投げつけるヤツがあるかッ」
「当てなかっただけマシと思いなさい。どうせ、あなたの周りには、こういうアクシデントに怒る女はいないのかもしれないけど、神話の昔から乙女の裸体を無断で見るのはタブーなのよ」
「本当に悪かったって。いるとは思わなかったんだよ」
護堂は両手を挙げて不幸な事故を主張する。
エリカは身体にタオルを巻き付けて、護堂の元に歩み寄ってくる。
「ギリシャ神話にアクタイオーンっていう英雄がいるの知ってる?」
「いや、全然」
ひやりとした感覚が背筋を走る。
「賢者ケイローンの教え子で狩りの名手。五十匹の猟犬を連れて狩りに出たある日、迷い込んだ泉で女神アルテミスの沐浴を覗き見てしまう……」
「おいおい……」
エリカは木に突き立ったクオレ・ディ・レオーネを引き抜いた。
「哀れ英雄は女神の怒りを買い、鹿に変身させられた上に自分の猟犬たちに食い殺されたと伝わるわ」
「しゅ、趣味が悪いな」
護堂はぞっとする。
沐浴を覗き見てしまったのは護堂も同じだ。
「乙女の素肌を覗き見ることはそれだけの罪だっていうことよ。覚えておきなさい」
エリカは護堂の太ももの裏側を抓った。
「痛てて、痛ッ、分かってるよ。悪かった。ほんとに」
「ふん、あなたじゃければこの泉を血に染めていたところだわ。そういう血の流し方なら、アグディスティス女神もさぞ喜ばれるでしょうしね!」
ぷい、とエリカはそっぽを向いた。
血と狂乱と生け贄を好む恐ろしい側面があるというアグディスティス。その後を継ぐキュベレー崇拝の逸話はかなり強烈だ。
「あ、はは……ごめんね、王さま。何も言わないで出てきちゃって」
「い、いや、こっちこそごめん。その水、大丈夫か?」
「天叢雲剣で水の呪力は中和したから大丈夫。もともと、水そのものにはそこまで外との違いはないしね」
「そうか。うん、それじゃ、俺は先に洞窟に行ってるから。二人とも、気をつけて帰って来いよ」
照れくさそうにする恵那の気配を感じるが、迂闊に振り返るわけにもいかないので、護堂はそのまま足早に洞窟に戻ることにしたのだった。
キュベレーの関係者にアタランテがいますが、人生の最初から最後まで神に振り回されてて逃げ道がないのはある意味すごいと思った。
処女神に助けられたので処女を通していたら愛の女神に狙われるとかどうしたらいいのか。
処女を捨てる→アルテミス怒る。
処女を守る →アプロディーテ怒る。
最終的に →キュベレー怒る。