翌朝、洞窟の外はどこまでも続く抜けるような青空が広がっていた。山の中腹から見える景色は絶景の一言だ。緑の木々が延々と、地平線の果てまで連なっている。東京育ちの護堂はおろか山奥で暮らす恵那であっても、ここまでの原生林の森を見る機会はないだろう。もちろん、大都会育ちのエリカも同じだ。神気の漂う異界では、これが普通だ。そして、その影響は確実に外にも漏れ出ている。
その内、アルプスそのものが常春の原生林に覆われる。
あり得ないと笑い飛ばせるのは、『まつろわぬ神』の恐ろしさを知らない者だけだ。
生と死の神であるアグディスティスがその気になれば、地上は瞬く間に彼女の支配する森に置き換わるだろう。
影響の範囲は想像することもできない。
カンピオーネが引き起こす異常現象すら、場合によっては一国を覆い尽くすのだ。純然たる『まつろわぬ神』が振るう権能の効果範囲が果たしてどこまでになるのか。ヨーロッパの経済機能が、著しく低下する未来が、今まさにすぐそこまで迫っていると言っても過言ではなかった。
これを解決するには、護堂がまつろわぬアグディスティスを倒すしかない。ただの人間では、万単位で数を揃えたところで十把一絡げに殺戮されるのがオチである。
レーションを朝食として、空腹から逃れた護堂は精神を集中するように深呼吸をした。
死力を尽くすべき戦いが目の前にあるのを感じている。野性的な直感というのだろうか。かつてサッカー部に所属していた護堂にとっては馴染みの精神状態だ。まさにグラウンドに入場する直前の張り詰めた緊張感。
それに酷似した胸の高鳴りがある。
そんな感想をエリカに話したら、彼女は呆れたように苦笑いを浮かべた。
「神様との戦いをサッカーの試合と同じ次元で語るなんて、ちょっと信じがたい感性だわ」
と、言ったのだ。
確かにその通りだと、護堂は頷いた。
自分でも自分の感覚に驚いたくらいだ。いつの間にか、『まつろわぬ神』との戦いをその程度のものにしか感じなくなってしまっていたのだ。『まつろわぬ神』は驚異ではある。命を失う可能性も低くはない。それでも、やってやれないことはないだろう、という気持ちはどこかにあるのだ。絶望的な気分にならないのは、カンピオーネだからだろうか。それともあるいは、生まれついての価値観がそうさせるのか。
「ま、神様との戦いを前にしての感想としては酷いものだけど、サッカーの例えは悪くないわ。あなたたちの価値観は分からないけど、試合前の精神状態なら想像できるし」
「恵那はサッカーは知らないけど、試合前の盛り上がった緊張感は理解できるなぁ」
神様と戦う前の緊張感の表現としては、不適切だったかもしれないが、今の護堂の精神状態を言い表す例えとしては最良だった。意外にも、これでスポーツ好きの少女二名の共感を得ることができたらしい。
「じゃあ、護堂、確認なんだけど、いいかしら?」
「何だ、改まって」
「今日、これからの方針をしっかり明らかにしておかないと」
「もちろん、あの神様を倒しに行く。そうしないと、エリカはここから出られないし、外も滅茶苦茶になるみたいだからな」
「そう、女神アグディスティスと戦うのね」
護堂は頷いた。
ここから直線距離にして十五、六キロは離れているところに聳える山にアグディスティスはいる。もともと彼女は山の神だというから、拠点に山を選ぶのは当たり前だ。そこに、護堂は乗り込むつもりでいたのだ。
「護堂って、そんなに好戦的だったかしら」
「別に好戦的じゃないぞ。ただ、やることをやるだけだ。外で待ってるヤツもいるし、連れて帰らなくちゃいけないヤツもいる。それだけ」
言ってみれば、これは成り行きだ。護堂とアグディスティスの間にはなんら因縁はない。神殺しと神と言っても地球の裏側の話なのだ。エリカが関わらなければ、護堂はアグディスティスに用事はなかった。だから、お互いに運がなかったのだろう。こうして関わった以上、戦いは避けようがない。まして、こんな異界にエリカを放置するわけにはいかないのだから。
「じゃあ、護堂。アグディスティスと戦うという方向性で、もう一つ確認なんだけど……あなたの権能、どこまでまつろわぬアグディスティスに通用すると思う?」
「どこまで? そうだな……」
エリカの妙な質問の意図を護堂は何となく察した。
これまで通りに戦うことができるかどうかを考えると、落ち着かない気持ちになるのだ。この感覚は直感的に自分の不利を察しているということだろう。
「よく分かんないんだけど、ちょっと危ない感じはするな。相手は神様だから、もともと不利なのは当たり前なんだけど、違和感があるのは確かだな」
こういうとき、思考のドツボに嵌まって動けなくなるのが一番怖い。だから、時に思い切った行動で状況を好転させるというのがカンピオーネの資質の一つではあるが。
「まあ、そこは人間らしく状況を精査するべきよ。護堂だって、このままヤケッパチとは行かないけど、手を尽くさないつもりじゃなかったでしょう?」
「ああ、もちろん。けど、事前準備がいるのはウルスラグナくらいだしなあ」
ウルスラグナの権能は強力だ。『まつろわぬ神』に対する切り札になり得る。しかし、使用するためには斬り裂く対象となる神の来歴までを深く理解する手間がいる。
アグディスティスの由来を恵那は知らない。そのため、ウルスラグナの黄金の剣は研がないでいた。エリカに頼むかどうか、今の今まで悩んでいるところではあった。それに、あれがアグディスティスのみで成り立っているわけでもないようだ。となると、ウルスラグナの剣がどこまで通じるのか。
「そのウルスラグナももしかしたらアグディスティスには通じないかもしれないわよ」
「どういうことだよ?」
「わたしと恵那さんの推測を護堂の勘が裏付けてくれたことだけど、あの女神とあなたの相性はよくないわ。サルバトーレ卿もきっとそれで苦戦したと思うのよね。つまり、《鋼》の権能に対して、何らかの優位性を持っているはずってことなんだけど、どうかしら?」
「あれはどっちかって言うと《蛇》の神様じゃないのか?」
護堂は首を傾げた。
《鋼》と《蛇》は『まつろわぬ神』の属性の一つである。大地と水と関わる地母神を征服し、その力と権威を奪う英雄神の逸話を背景にした神々の関係性を表している。
征服される神を《蛇》、征服する英雄神を《鋼》として類型化したものだ。《蛇》に属する女神たちは《鋼》の神に頗る相性が悪い。
まつろわぬアグディスティスを《蛇》の女神とするのなら、《鋼》の権能のほうがむしろ優位であるべきではないのか。
「そうね。その疑問ももっともだけど、《蛇》と《鋼》の関係って、突き詰めるとそう単純じゃないのよね。それが、きっとあの女神の神性の特徴で、だからこそ、あなたの《鋼》もサルバトーレ卿の《鋼》も苦戦したんだと思う」
「王さまがここであの神様と戦うのは、結構大事なことだと思う。今度もああいう女神様が出て来るかもしれないからね」
エリカと恵那が口々にそう言った。
「かなり特殊な女神なんだな」
「もちろん。厄介なことに、アグディスティスっていうのは、あの女神を構成する一要素でしかないわ。本質はもっと深いところにあって、そこをどうにかしない限り、あなたの苦戦は確実よ」
「ウルスラグナも《鋼》だしね。あ、確か、ミトラスだっけ。あの女神なら、そっちからも力を引っ張ってくるかもしれないよ」
「エリカも清秋院も、試合前にマイナスから入るのやめてくれ。そこまで言うんなら、もう分かってるんだろ?」
護堂は投げやりな口調で尋ねた。
まつろわぬアグディスティスの本質に迫る謎に対する回答を、エリカと恵那は持っているのだ。
「ええ」
と、エリカは頷いた。
「正直難しかったわ。リリィか万里谷さんがいれば確信が持てたんだけど、恵那さんとお互いに知識を突き合わせていくしかなかったから」
「それでも、かなりいいところまで行ったと思う。きっと、ウルスラグナの剣を研ぐだけの解答になってるはずだよ」
祐理やリリアナのような優秀な霊視能力があれば、あるいはもっと確実にアグディスティスの謎に迫れたかもしれないが、無い物ねだりはできない。
エリカと恵那という希に見る才媛は、これまでに積み重ねた洋の東西の知識を組み合わせることで、霊視で素性を読み取るのと同じだけの精度でまつろわぬアグディスティスの力の正体を紐解いたのだ。
「だから、後はあなた次第ね」
と、エリカは言った。それが何を意味しているのかを理解しない護堂ではなかった。しかし、
「お前はいいのかよ、エリカ」
護堂はエリカに尋ねた。
ウルスラグナの剣を研ぐということは、護堂に教授の術を施して知識を与えるということである。そのためには経口摂取――――キスが必要不可欠である。
恵那はそれを受け入れている。
彼女と出会ってから半年ほどではあるが、恵那は本気で護堂と一緒に死線をくぐり抜け、そして男女の仲を深めようとしている。
しかし、エリカはどうか。
エリカは、護堂の愛人というわけではなく、一定の距離を保ってきた。どちらかと言えばビジネスパートナーといった立ち位置だったはずだ。
「言ったでしょう、護堂次第だって」
エリカは頬を染めて言う。
「この件については恵那さんとも話し合ったわ。わたしだって、こう見えて淑女ですもの。いろいろと思うところもあるし、恵那さんに教授をして、それから恵那さんが護堂に教授をするという選択肢もあるわ。けどね、そんな自分にもできることを他人に丸投げしてしまうのは、わたしの矜持に反するの」
胸を張ってエリカは言い切った。
今のエリカは助けに来てもらったという立場でもある。何もせずにおんぶに抱っこでは、『赤い悪魔』の名が廃る。
「恵那はどっちでもいいよ。王さまを独り占めっていうのも魅力的な話だけど、エリカさんの知識がないとどうにもならないとこもあるしね。知ってると思うけど、清秋院は、そういうのには寛容な家なんだ」
英雄色を好むというのを当たり前のように受け入れる家柄が清秋院家だ。恵那もその家の長女らしく、護堂の周りに多数の女性がいるのは許容している。むしろ、こういうことについては最も許容値が高いとも言えるだろう。
ウルスラグナの剣を研がなければアグディスティスとの戦いで苦戦するのは明白だという。かの女神と護堂の権能との相性がよくないのだ。
勝利するためには教授を受けるべきであって、護堂の勝利は護堂だけのためにあるものでもない。
すべての条件が、護堂に教授を受け入れろと命じている。
「分かった。エリカ、清秋院。俺に、アグディスティスの知識を教えてくれ」
目の前に勝利の鍵があるのなら、手を伸ばさないわけにはいかない。いかなる理由があっても、護堂はカンピオーネなのだ。勝利のために最善を尽くす本能が備わっているといってもいい。
「ええ、それじゃ……」
「先、エリカさん、いいよ」
恵那はそう言って、そそくさと洞窟の外に出た。
「人前でキスすることを忌諱するわけじゃないけど、初めてくらいは人目を避けたいわ。それとも、護堂は人に見られるのが興奮するタイプかしら?」
「そんな性癖はない」
「そう、ならいいわ。……まったく、せっかくこのわたしが唇を許してあげるというのに、この次に恵那さんが待ってるというのは度しがたいことだわ。本来なら、許されることじゃないの。特別だからね」
すねたような口ぶりでエリカは言う。
当然のことだろう。
気位の高い彼女だからではなく、恵那のような特殊な家庭事情でもない限り、複数の女性と関係を持つのは批判されるべきことだ。
それを理解した上で護堂は教授を求め、エリカにキスをする。
「んんッ」
驚くエリカを宥めるように唇を合わせて、抱き寄せる。少し強引すぎたかと思いもしたが、ここまで来て引き返すことはできない。
「はあ、ん……こんないきなり、仕方ない人なんだから。もう……」
唇を離して抗議しながらも、エリカはキスの続きを受け入れる。そして、教授の術が護堂に吹き込まれる。
「前にも説明したと思うけどアグディスティスは、両性具有の神。ゼウスに去勢されて女神キュベレーと豊穣神アッティスに神格が分割されてしまう神様よ。アグディスティス=キュベレーの出身は、プリュギア。フリギア人が栄えた、アナトリアの中西部の山岳地帯とされるわ。この地域は古代からギリシャと交流が盛んで、フリギア人の文化はギリシャの文化にも取り込まれていく。当然、神話にも与えた影響は絶大……」
エリカの口づけはぎこちない。護堂がリードしながら、キスを続ける。吹き込まれるアグディスティスの知識が護堂の脳に焼き付いていく。だが、まだ足りない。あの女神の神髄を探るにはさらに広く深い知識が必要だ。
フリギア、聞き馴染みのない言葉だ。しかし、同時に流れてくる太陽神ミトラスやトロイア王子パリスの名前は護堂も知っていた。彼らはフリギア人の文化に由来するフリギア帽を被った姿で描かれる。東方からギリシャへ文化が流入する途中にあるアナトリア半島はギリシャ人にとって最も身近な外国であり、マクロな視点で見たギリシャ世界の東の果てだ。
「彼女の力を理解する上で重要なのは、二つ。アグディスティスの歴史とさらに広い視点からの《蛇》と《鋼》の関係性。これを押さえておかないと、ウルスラグナの剣すら封じ込められるかもしれない」
護堂とサルバトーレの主戦力としていた《鋼》の権能を尽く弱体化してみせた謎の権能の正体。これに対処しなければ、護堂は手札の多くを失ったままアグディスティスに挑むことになりかねない。
「代表的な《鋼》の神……ヘラクレス、アキレウス、それからバトラズ。この辺りの《鋼》なら例としては最適よ。後は日本のヤマトタケルも……後で恵那さんに教えてもらうといいわ」
存在そのものが剣を意味する征服者の神。女神を零落させその力と権威を奪うものであり、一説にはそれは父権性社会の到来を表すものとも指摘される。
しかし、それは《蛇》と《鋼》の関係性を説明する上では不完全だ。
やがて、エリカからの知識の伝達が終わり、身体を離す。名残惜しいとすら思える。まさか、エリカから今になって教授を受けることになるとは思わなかった。
「これで、必要な知識の三分の二くらいは溜まったんじゃないかしら」
「ああ、そんな感じだ。これだけでもアグディスティスを斬るには十分だ」
「ええ、けど分かってるでしょう。あなたが斬るべきはアグディスティスではないって」
「もちろん」
アグディスティスはあの『まつろわぬ神』を構成する神性の中で最も色濃く出ているものではあるが、本質はそこではないのだ。ペルセウスが竜殺しの英雄であると同時に太陽神ミトラスであるように、アグディスティスもまた広く神々の性質を撚り合わせて降臨した混淆神なのだ。
「じゃあ、そろそろ恵那の番ってことでいいよね?」
席を外していた恵那がやってくる。
「それじゃ、交代ね」
エリカは腰を浮かせ、それから護堂の脇腹を抓った。
「いてッ、何だよいきなり」
「これくらいの意趣返し、大目に見なさい。リリィを手籠めにした辺りから分かっていたけど、あなたって本当にドンファンなんだから」
エリカは気が済んだのか、それだけ言って恵那と交代した。
「清秋院、悪いな」
「気にしないでいいよ。あ、それとさ、お願いがあるんだけど」
「何だ?」
「恵那って呼んでよ。恵那だけ名字なの、ちょっとやだし。ダメ?」
「そんなことない。清秋……恵那」
「うん」
恵那は嬉しそうに笑う。ただ名前を呼んだだけなのに、距離感がもっと近くなったような気がした。
恵那は護堂の隣に腰掛けて、身体を護堂に預けるように垂れかかる。
「また沐浴してきたのか?」
「うん。汗くらい流しておかないとって思ったんだ」
恵那の身体は少し濡れている。
エリカが護堂に教授している間に、恵那は昨日の泉にまた行って、身体を清めていたのだ。
「じゃ、エリカさんの続きするね」
エリカでは補いきれなかった部分を恵那が補完する。そのための教授だ。恵那の柔らかな唇が護堂の口を塞ぐ。
「ふふ、王さまとするの久しぶりかな」
「そうだったかな。ああ、確かにそうかもな」
「正直ね、ちょっと期待してたんだ。今回はみんな付いて来られなかったでしょ。だから、恵那がこれする機会あるかもって」
ちゅ、と軽く音を立てて恵那とのキスが深まる。
「アグディスティスは分からないけど、あの神様との縁を東に辿ることは恵那にもできる。王さまも見た、桃……あれはあの女神様の影響が中国まで届いていたから現れた光景なんだ」
「中国……道教系だって話の」
「そうそう。中国で桃は聖なる果実。特に仙人と絡んで不老長寿の果物として有名だよ。斉天大聖様が不死を得たのも、初めはこの不老長寿の桃を盗み食いしたのがきっかけだったんだしね」
かつて護堂が死闘を繰り広げた日光の『まつろわぬ神』。極めて強大な《鋼》の軍神で鋼鉄の肉体を持つ竜蛇殺しの英雄神だった神の名を久しぶりに護堂は聞いた。
「斉天大聖様が桃を盗んだのは蟠桃会。天上の神々と仙女の宴会でのこと。この宴会の主催者は仙女の女王、西王母。この女神を両性具有的な神とする研究もあって、後に東王父という対になる男性神が生み出されて女神として確立する。アグディスティス様みたいに、女性と男性に神性が引き裂かれた女神なんだ」
西王母は最も古くから中国で信仰された女神の一柱だ。古くは西母と呼ばれ、殷代では半人半獣の姿で描かれた死に神だった。周代になると人の姿を獲得し、春秋時代には西王母として知られるようになった。
「西王母の逸話で有名なのは周の穆王の伝説。多くの異民族を討ち取った英雄である穆王は、周の西方にある崑崙山で西王母と面会し、三年間崑崙山で過ごした後で帰国したって話。ここに出てくる崑崙山は洛陽から西にだいたい千キロくらいのところにあったって伝わってるんだ」
より深い口づけを交わす。
エリカの担当外だった西アジアの知識が流れ込んでくる。
エリカの知識と恵那の知識が混ざり合い洋の東西の伝播した女神の神性が見えてくる。
無数に枝分かれした系統樹を遡り、人類の歴史を閲するような作業が護堂の頭の中で行われているようであった。
「実際の距離はあんまり関係ないかな。紀元前の記録だし。ただ、西方の影響を受けてるのは間違いない。殷代では死に神だった西母が、周の頃には天上の女神にまで出世したのは、きっと西から伝播した神話の影響を受けたからだよ」
輝く太陽のイメージが脳裏に浮かぶ。
暗い地下世界の住人だった女神を作り替えた天上の女神の姿だ。
「恵那たちは今まで汎ユーラシア的な《鋼》としてラーマ王子を追いかけていたけど、この女神様はもっと古く広範囲に影響した汎ユーラシア的な《蛇》と言ってもいいかもしれないね」
そうして恵那は教授の最後を締めくくった。
□ ■ □ ■
エリカと恵那から知識を与えてもらった後だと、この異界についての見方も変わってくる。
ウルスラグナの戦士の権能が使える。だからなのか、アグディスティスの所在が今まで以上にはっきりと視えてきた。
エリカが調べた通りであった。
護堂たちが拠点としていた洞窟からもよく見えたひときわ大きな山からアグディスティスの神気が流れている。
間違いなく、そこがこの異界の中心地点だ。
「キュベレーもアグディスティスも山の神様。特に洞窟を住居としているとされているわ。本質は冥府神だから、太陽の下にはいないっていうことなのかもしれないわね」
と、エリカは言う。
『赤と黒』のケープを身につけた戦装束だ。
エリカと恵那が足を止めた。
ここから先は護堂が単身で乗り込むべき場所だ。
「王さま、気をつけてね。手伝うことがあったら呼んで」
「ああ、そのときは頼む」
「うん」
恵那は頷いて、それからエリカも口を開いた。
「わたしの唇を奪った以上、負けることは許されないわよ」
「分かってる。負けるつもりで戦うことなんて万に一つもない。これだけしてもらったんだ。必ず勝つよ」
「そう、ならいいわ」
護堂の返事に気をよくしたエリカは艶然と微笑んだ。
少女二人の背中を押されて護堂はアグディスティスの姿を求めて山を登った。最早、『まつろわぬ神』に気を遣うこともない。ガブリエルの言霊で距離を縮めて一気に目的の洞窟近くに移動する。
山腹に設けられた神殿が厳かに佇んでいる。
山腹が切り取られて台地となり、削り取られた山肌に洞窟がある。その入り口を固めるように神殿の入り口が設けられているのだ。
「アグディスティス、いるんだろ? 出て来い!」
護堂は声を張った。遠く響き、山彦となるくらいの大声だ。
しばらく答えはなかった。
やがて、神殿の奥の暗闇から一頭の巨大なライオンが飛び出てきた。
『拉げ』
飛びかかってくるライオンの巨大な顎が空中で止まる。そのままギリギリと空間が捻れて、首がぐるりと回転した。血反吐を零してライオンは倒れ、塵に帰った。
一陣の風が吹き、ライオンの身体だった塵が流れていく。そして、いつの間にかそこに美しい女神が佇んでいた。憂鬱そうな顔をして、ギリシャ風の衣装を身に纏う女王だ。護堂の身体に力が漲っていく。
「嘆かわしい」
と、女王は言う。
「お前も今のライオンも、等しく我が子も同然。言わばお前たちは兄弟だろうに」
「牙を剥いてきたのはそっちだぞ」
「敵意を持って我が神域を侵したお前が言うことか。神殺しの大罪、如何にして雪がせるべきか、正直に言って悩みどころではあったが……」
アグディスティスは深く苦悩したとでも言うように頭を振った。
「時の果てに生まれた我が息子といえど、罪には罰を持って当たるのが神代よりの倣い。お前の罪を命を以て購う他にない。お前に従う巫女とエリカは、我が随獣としよう。かつての英傑がそうであったように」
「勝手なこと言うなよ」
交渉で解決するとはとても思えない。
ウルスラグナの剣を研いだので、異界から脱出することはできるだろうが、この異変の解決には繋がらない。
「あんた、アストラル界ってとこに隠居する気はないか?」
ダメ元で護堂は提案してみた。
アグディスティスが地上を去れば、問題の大半が解決するし護堂も戦わなくてもいい。しかし、女神からの返答は拒絶の意図を明確にしたものであった。
「女王は現世にこそ君臨すべきであろう。わたしが君臨すれば、地上の人々は安寧と喜びの内に生涯を終えることができるぞ。これは、我ら神が地上を去る前の分を弁えた人間たちの世界を取り戻してやろうという親心だ」
「余計なお世話だ。じゃあ、あんたまさか外のあの森、もっと広げていくつもりなんじゃないだろうな?」
「何を言うかと思えば、当然だろう。あれは我が力の一端であり、いずれは人の子を守り慈しむためのものだ。天上の女王の支配を以て人々の心身は真に救われるものと知れ」
アグディスティスの左右にライオンが現れた。
まるで彼女の影からにじみ出るような唐突さで、筋骨隆々の自然界ではお目にかかれない巨体のライオンである。
「いずれにしてもだ。お前への罰を下さなければ、女王の顔が立たぬ。不肖の息子とはいえ、放任してはその責を問われよう」
「勝手に母親面するなよ。別にあんたと俺はまったく関係ないだろうが」
大地の母であり、大いなる地母神である彼女は懐の広さを示すようにカンピオーネすらも息子と呼ぶが、護堂からすれば赤の他人以外の何者でもない。
いくら神々の母と謳われた神であっても、現代に通じるものでもない。
戦って、討ち果たす。
それ以外に、護堂の選択肢はない。アグディスティスもまた護堂を敵と見定めた。もとより、神殺しを見逃すのは、『まつろわぬ神』としてあり得ないことだ。とりわけ、彼女なりの秩序を世界に敷く支配者たる神格ならば尚のことだ。
それぞれの思想はどうあれ、行き着く先は死力を尽くした命のやり取り以外にないのだ。
護堂とまつろわぬアグディスティスの神力が一気に上昇し、そしてぶつかり合った。