カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

131 / 132
中編 古の女神編 Ⅸ

 灼熱が空から降る。

 鉄をも融かす高熱の矢が、護堂に向けて放たれている。

 太陽神に由来する太陽の権能だ。ただの火ではない。およそ考え得る限り最高の灼熱と言ってもいい。直撃すれば、カンピオーネの肉体もただでは済まない。

 護堂は体内の呪力を全力で高める。

 呪力耐性を引き上げることで、アグディスティスの熱線を軽減するためだ。直撃だけでなく、その余波だけでも普通の金属は融解する。護堂の身体も、溶鉱炉の前に立っているかのような熱に晒されているのだ。

『弾け』

 言霊が胸に飛来する矢を逸らす。森の中に落ちた矢は大爆発を起こして、周囲を消し炭にしてしまう。そして、クレーターから急速に木々が生えて、自然をあっという間に再生する。

「火事にならないのはラッキーだったな」

 護堂は太陽矢を躱しながら呟いた。

 森林火災も、大きな視点に立てば自然環境のライフサイクルの一つではある。しかし、この世界では火が燃え広がるよりも木々の更新のほうが早く進むようだ。

「なかなかにすばしこい。意気軒昂、実によろしい!」

 楽しげに上空を駆ける戦車の御者台でアグディスティスは声を張っている。手には太陽の光を凝縮したような眩い弓が握られている。ここから放たれる矢は空中で十重二十重に分裂して雨のように襲いかかってくる。

「逃げ回るだけが能ではないだろう? どうだ?」

 爆撃音を背中に聞きながら、護堂は山を滑り落ちる。流れに逆らわずに十メートルばかり転がって、跳ね起きた。普通ならば身体を木や岩に叩き付けて重傷を負うところだが、言霊の力で距離を伸ばし、滑落速度を緩める時間を確保した。

「初めての使い方だけど上手くいくもんだな」

 我ながら感心してしまう。

 距離を縮めるのは何度もやって来たが、距離を引き延ばすのは初めてではないだろうか。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ」

 一目連の権能で槍を生成、空を駆ける戦車に向けて放つ。

 戦車の移動速度を計算した一撃は、そのまま行けば直撃するはずのものだったが、

「同じことが、通じるものか」

 当然のように防がれてしまった。それどころか、雄叫びを上げたライオンは飛来する神槍を物ともせずにかみ砕き、打ち払っている。

 案の定、《鋼》というだけでアグディスティスの前では力を封じられてしまうのだ。

「ははは、お前の槍、砕くには惜しい逸品だ。だが、相手が悪かった。他の《蛇》ならばまだしも、わたしにはそよ風のようなものだな」

 自由に空を駆ける戦車の足を止めるには至らない。

 前回よりもさらにアグディスティスの力が上がっているようにすら思う。

「どう防ぐ、神殺し。この試練、お前はどう乗り越えるのだ?」

 弓の弦が甲高い音を立てる。

 放たれた矢が弧を描いて護堂を狙う。

 『強制言語』による空間圧縮。それを利用した高速移動の先を読まれた。

「く……ッ」

 土雷神の化身を使おうとして、気づいた。使えないのだ。土雷神の化身が反応しない。咄嗟に護堂は呪力を高めて、一目連の権能で盾を何枚にも重ねた。

「陰陽の神技を具現せよ。鬼道を行き、悪鬼を以て名を高めん」

 さらに式神の権能を使い、墨絵の怪物を壁とする。

 爆発が生じて護堂の身体を熱波が焼いた。

「うわあああああッ」

 視界が回る。ぐるぐる回って、今度は強く身体を打ち付けた。岩なのか木なのか、自分が背にしているものが何かも分からず、とにかく護堂は身体を起こして真横に飛んだ。一瞬前まで護堂がいた場所を太陽の矢が射貫き、蒸発させていた。

「危なかった。今のはびっくりしたぞ」

 頬の擦り傷がヒリヒリする。

「やっぱり若雷神の化身も使えてないな」

 権能を使おうとすると妙に重い。ずっしりとした違和感があったのだが、気のせいではなかった。今の状態で万全に使えるのはガブリエルの権能と法道の権能、それとアテナの権能だ。それだけあれば十分と胸を張りたいところだが、使い慣れた権能が使えないのはただただやりにくい。おまけにこの異界はアグディスティスの権能で形成された彼女の土俵だ。だったらまずはそこを何とかするべきだろう。

 護堂は腹をくくった。

「聖なる桃の権能。俺の火雷大神(けんのう)を封じたのは、あんたの中にある西王母の権能だな」

 恵那からもらった知識が謎をすぐに解き明かしてくれた。

 周囲に立ちこめる桃の甘い香り。

 それが火雷大神を著しく弱らせている。

「察しがいいな、神殺し。自分の権能故、すぐに分かったのか? 如何にも、わたしの遥か遠い末たる西王母の仙桃こそ、お前が殺めた冥府の蛇を封じる一手に他ならぬ!」

 土雷神が使えなければ土中を移動する雷に顕身できない。相手は神速の戦車だ。機動力で負けるのは不利。そこから突き崩していく。

「古代中国で桃は不老長寿の薬であると同時に厄除けの果実だった。それが伝わった日本でも、弥生時代には桃を魔除けに使っていたくらい、重視された果物で、神様にまでなっている。ただの桃が、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)という神名を与えられたのは、黄泉の国でイザナギを追う火雷大神を退散させた功績によるものだ」

 護堂の周囲に光の粒が浮かび上がる。

 少しずつ輝きを増す光は、徐々に数も増やしていく。

「何やら奇妙な技を使う……。む?」

 怪訝そうな顔をするアグディスティスがいよいよ眉ねを寄せた。

 光の剣が、桃の権能をかき消しているからだ。

「魔除けの桃の管理人である西王母は、古代中国の西母にさらに西から伝わった様々な神話的エッセンスが組み合わさって形成された神格だ。あんたが西王母を自分の末裔だと言ったのは、この西から中国に伝わった神格こそがあんたの末裔だからだ」

「よもや、神の来歴を解き明かし、神格を斬り裂く神殺しの剣か! そのようなものを隠し持っていたとはッ!」

 火雷大神の弱点である桃の権能から遡り、西王母を解き明かし、さらにその奥に向けて剣を研ぐ。今のままでは表皮を斬りつける程度にしかならない。西王母はおまけでしかないのだ。それでも、周囲の空間から冷たい風が流れてくる。

 ウルスラグナの剣が西王母の権能を傷付けている証拠だ。

 やはり運がよかった。

 アグディスティスを名乗るこの神の性質のおかげで、アグディスティスを斬る剣で西王母の権能にも傷を付けられる。

「この異界を形作るのも西王母の権能の影響が強い。西王母が暮らす崑崙山はこの世の果てであり、仙人が済む異世界だ。常人が辿り着くことのできない桃源郷(・・・)。それがこの異界の根幹だ」 

 光の剣が縦横無尽に駆けて桃源郷を斬り付ける。

 権能を消された部分からマイナスの冷気が吹き込んできている。

「わたしの世界すら斬り裂こうというのか! 度しがたい! 我が子らよ、賢しげな口を止めよ!」

 アグディスティスの命を受けて大地が脈打つ。木々が蠢く。呪力が鳴動し、ライオンや蛇、狼といった神獣が姿を見せた。

 あらゆる命を生み出す生命の母の権能だ。これは彼女の本来の力の一端だ。そこまで剣を研ぐには、もう少し時間がかかるのだが、まだ西王母までしか辿れていない。

「おおおおおおおおおおおおおおッ」

 狼が吠える。強力な衝撃が護堂を襲い、ウルスラグナの剣が弾き飛ばされる。

「その小賢しい剣、まだ未完成と見た。それに剣とは使えば使うほど摩耗する物だ。その言霊の剣で我が無尽蔵の子らをどこまで相手にできるか、試してみよう!」

 力に力をぶつける単純な思想だが、それが正解だ。ウルスラグナの剣は強力な切り札だが、ごり押しされると押し切られることがあるのだ。特に複数の神性を有する混淆神は苦手な部類である。

「頼むぞ、恵那、エリカ!」

 護堂はここで温存していた戦力を投入すると決めた。

「待ちくたびれたよ、王さま!」

「神獣を相手に大立ち回り、ぞっとしないわ。けど、ふふ、ちょっと燃えてきたわね」

 天叢雲剣を肩に担いだ恵那は、すでに神懸かっている。嵐の権能が彼女の内部に充溢しているのが分かる。

 エリカもクオレ・ディ・レオーネを分厚いロングソードに作り替えている。

「行くよ、エリカさん。ついて来れる?」

「もちろん、舐めないでちょうだい!」

 恵那とエリカが向かってくる神獣に突進する。

 飛ぶように駆ける恵那は驚異的な跳躍でライオンの頭上を越え、空中で回転して首を落とした。嵐の刃をまき散らし、周囲の神獣すら切り刻む。

 そして、エリカも猛然と駆ける。獅子のように猛々しく、狼の懐に飛び込んで、首元を貫いたのだ。

 今までのエリカとは動きがまるで違う。大騎士程度では、神獣とまともに戦うことは不可能だ。しかし、今のエリカは神懸かりをした恵那と同等の戦闘能力を有している。それどころか、恵那もエリカもいつも以上に強い。

「さすがに、圧巻だな」

 たった二人で攻め寄せる神獣を次々に倒している。他に余力のない護堂には大きな助けだ。

「当然だ。妾の加護を与えてやっているのだぞ。神の使いとはいえ、有象無象の輩などに後れを取るものか」

 自信に満ちあふれた声が傍らから聞こえる。

 護堂の隣に小さな人形のような少女が浮かんでいた。銀色の髪と闇色の瞳の妖精――――女神アテナと同じ姿をした身長十五センチ足らずの権能のアバターである。

 『女神の導き(ディバイン・ガイダンス)』を掌握しつつある護堂は、今まで自分一人に付与していたアテナの権能を他者に分け与えることに成功した。さらに指揮系統を分割し、アテナを独立させたのである。

 おかげで呪力の消耗はあるものの、そちらに意識を割かなくてもよくなった。

「その力、その姿、まさかアテナか? 天と大地の大いなる女神が、なんと小さくなったものか! 神殺しの手にかかっただけでなく、そうまで零落してみせたか!」

「耳が痛いな。ああ、如何にも今の妾はこやつの一権能に過ぎぬ。ふふふ、しかし英傑を育てるのはアテナの本懐でもある。神殺しであろうと英傑ならば育てるまで。あなたも似たようなものだろう?」

「減らず口を。いいだろう。神殺しの権能に成り下がったあなたをアテナとは思うまい。神殺しもろとも我が冥府(王国)に迎えよう!」

 アグディスティスが空高く矢を放った。真っ白に染まる天空にもう一つの太陽が昇る。

「く……護堂! さすがにあれは防げないわ!」

「王さま、お願い! 露払いはこっちで全部やるから!」

「巫女らの言うとおりだ。あなたは剣を研ぎ続けよ。今は妾の助けすら、ないものと思え」

「分かってるよ」

 護堂は周囲を回る剣の言霊を加速させる。

 西王母をさらに西に遡る。

「あんたが名乗るアグディスティスはプリュギアの山の神で、あんたを崇めたのはフリギア人だった。ギリシャ人はフリギア人と交流の中でアグディスティスをキュベレーと同一視し、さらに付属するアッティス信仰を取り入れて、アグディスティスをキュベレーとアッティスの二柱に分割した。けど、アグディスティスがキュベレーと結びつく前から、別のルートでキュベレーはギリシャに伝わっていた。古い時代、キュベレーはクレタ島のレアーだった。レアーは玉座に腰掛け、ライオンを従える神。キュベレーも同じ姿で伝わっている。これらは同じ女神を起源としている証だ」

「我が太陽を受けて、消えるがいい。その死を以て大罪を雪ぐものとする! 裁きの太陽よ、ここにあれ!」

 光が満ちる。極限の太陽光があまりにもまぶしくて、護堂の視界が真っ白になる。

 あれが落ちれば護堂はいいとしても恵那とエリカは間違いなく助からない。ゆえに、その来歴を斬り裂く。

「キュベレーはかつてクババと呼ばれた。紀元前二十世紀頃にヒッタイト帝国のカルケミシュの守護神だった女神だ。極めて古い神格だったあんたは、多くの神話伝承の中で様々な名前を手に入れた。特に出身地に近いアナトリアから中央アジアではそれが顕著だ。フルリ人はあんたのことを嵐神テシュブの妻ヘパトと呼び、フルリ人の影響を受けたヒッタイト帝国でもその信仰は維持された」

 黄金の剣が飛び交って、天に向かって上昇していく。落ちる太陽を受け止めようとしているのだ。

「あんたと縁深い太陽の神格は二つ、一つはアッティスと習合したミトラス。そしてもう一つが、ヒッタイトの太陽神アリンナ。太陽を象徴とするこの女神をヒッタイト人はフルリ人が崇めたヘパトと同一視した。クババにしてヘパトであるあんたは、こうして太陽の女神アリンナとも結びつけられた!」

 黄金の剣はアリンナの太陽を斬る剣であり、アグディスティスを斬る剣でもある。アグディスティスとアリンナの結びつきを斬り裂く言霊が、落ちてくる太陽と激突する。

 音はなかった。

 眩いばかりの白熱も一瞬で消失した。あまりにもあっけなく、アリンナの太陽は斬り裂かれて消し飛んだのだ。

「気を抜くな、草薙護堂!」

 アテナの叱責が飛ぶ。

「くッ」

 アリンナとアグディスティスの繋がりを斬った。これでしばらくは大丈夫――――かというとそうでもない。未だにアグディスティスは健在だ。神速の戦車が護堂に突進してきた。飛び退いて躱したが、二の腕を掠めたのか血が噴き出した。

 言霊の剣はあとどれくらい使えるか。

 桃源郷を斬りながらアリンナも斬った。いや、厳密に言えば他の混淆神と違いすべてアグディスティスに纏わる権能を斬ると言う方向性で一本化しているので負担は少ない。しかし、アグディスティスが先ほど見抜いたとおり、言霊の剣は有限だ。

「わたしとアリンナの繋がりを断ったか。見事なり。ふふ、不肖の息子もここまで驚かされると可愛らしく見えるものだな。ああ、だからといって加減はせぬがな」

「言ってろ、行け!」

 黄金の剣を空のアグディスティスに向かわせる。この剣はすでにアグディスティスを斬り裂くだけの鋭さを持っている。完成していないが、それでも深手を負わせるに足るものだ。

「確かに、それを受ければ苦しいが……引け、軍神よ。わたしに手向かうものではないぞ」

 アグディスティスがそう言うや、ウルスラグナの剣が鈍った。急激に重くなり、動きが緩慢になってしまう。

「《鋼》封じの権能……やっぱり、一番はそこか」

 おまけに、アグディスティスは太陽の弓を取り出して、矢を放ってくる。言霊の剣で矢を防いだが、太陽の爆発が消せない。言霊も弾かれてしまう。砕けることはないが、消すこともできず互いに弾き合っている。

 護堂は舌打ちをした。

 ついに取り出したアグディスティスのもう一つの太陽。どこかで使ってくると思っていたが、ここで出してきたか。

「アッティスと習合した太陽神ミトラスの権能。アッティスはあんたから生まれた豊穣の神で、あんたそのものだからな。アッティスが獲得した神性も多少は使えるってわけか」

「その通り。そして、お前の剣は東方の軍神ウルスラグナの権能と見た。なかなかよく行き渡っているようだが、ふふふ、わたしに《鋼》で挑む愚行にさらにウルスラグナとは!」

「そうは言ったって、あんたはミトラスそのものじゃない。アッティスの権能って言っても遠い親戚みたいなもんだからな。だったら、やりようはあるってもんだ」

 護堂はウルスラグナの剣をさらに加速させる。

 《鋼》封じの権能で大きく弱体化し、さらに上司のミスラに由来するミトラスの太陽がそこにある。ウルスラグナにとっては逆境だが、それを操っているのはアグディスティスの権能だ。護堂が狙うのはやはりその一点。この勝負はどこまでもアグディスティスを斬るか斬らないかに懸かっているのだ。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!」

「一太刀馳走仕る!」

 エリカが絶望の冷気を呼び、恵那がスサノオの嵐を呼んだ。二人の剣がライオンの心臓を抉り、狼の首を断ち、蛇を両断する。

 二人は人間ながら善戦している。しかし、顔色が悪い。長時間神気を宿すのはただの人間には厳しいのだ。

「護堂、神獣の動きが鈍ってるわ。間違いなく剣が効いてるのよ!」

「もう少しだよ王さま。恵那たちも、頑張るから!」

 身体を張って強敵と戦う少女に護堂は発憤する。ここで力を費やせなくては男が廃る。

「アグディスティス、あんたはエリカにメーテール・テオーン・イーダイアって名乗ったらしいな。イーデー山の神々の母を意味する名前だ。紀元前五世紀頃のギリシャ人がキュベレーを遠回しに表現したものだ」

 懸命に呪力を活性させる。《鋼》封じとミトラスに対抗するためにあらん限りの呪力を絞り出すのだ。

「《鋼》の太陽よ。我が敵を討て!」

 力を鈍らせた護堂にアグディスティスが猛攻を加える。爆撃もかくやの攻撃を凌げているのは、ミトラスの力を呼び出したのがアグディスティスの権能だからだ。

「あんたが古代世界で習合したクレタのレアーも神々の母だった。紀元前二百三年にハンニバルに対抗するためにローマはキュベレー信仰をプリュギアから輸入した。ローマでのキュベレーはマグナ・マーテルの称号を得た。諸神の母という意味だ。《鋼》封じの権能の真価はここにある!」

 少し言霊の剣が軽くなった。

 ウルスラグナの剣が、アグディスティスの支配を斬り裂き始めたのだ。

「わたしの支配を逃れるか、ウルスラグナ! 許されざることだ! わたしの加護を受け入れよ! お前は真に英雄たるべき軍神だろう!」

「生憎と、ウルスラグナはあんたには従わないぞ。そんなタマじゃないんだ」

 剣が舞う。空高くアグディスティスを追い立てる。少しずつ形勢が変わっていく。ミトラスの太陽がウルスラグナの剣を弾くが砕くには至らない。

「《鋼》封じの権能の正体は《鋼》と《蛇》の歴史にある。ペルセウス=アンドロメダ型神話に見られる代表的な《鋼》と《蛇》の関係。竜蛇に貶められた《蛇》の神を討伐しその力を簒奪する《鋼》の英雄。彼らは時に生け贄の乙女を救い出して妻に迎えるという典型的なストーリーは後世に誕生したものだ。古い時代、後に《鋼》と呼ばれる英雄と《蛇》の女神の関係はもっと親密なものだった。この代表格がナルト神話のバトラズであり、ギリシャ神話のヘラクレスやアキレウスだ」

 護堂は走る。

 走りながら神話を紐解き、真に斬るべき神格を引きずり出していく。

「バトラズの母は海の神の一族だ。赤く焼けた鋼鉄の身体を持って生まれたバトラズは、出産直後に海水で身体を冷やされる。成長してからは無敵の身体を得るために、鍛冶神クレダレゴンに頼み、竜の骸から作った炭の火で身体に焼き入れをして無双の勇者となった。ナルト神話はスキタイ系の神話なだけに、バトラズは典型的な《鋼》の英雄だ。これと似たような出生の英雄がアキレウスだ。海の女神テティスは生まれたばかりの我が子を不死身にするために冥府の川に浸したという。さらに古いバージョンには、聖なる火でアキレウスを炙って人間の部分を蒸発させたってのもある。どっちにしてもアキレウスは生まれた直後に死して蘇る神の性質を与えられていた。アキレウスを支えたのはテティスだけじゃない。テティスに救われた恩のある鍛冶神ヘファイストスもアキレウスの庇護者だった! バトラズもアキレウスも海の女神と鍛冶神の加護を受けた不死身の英雄だったんだ!」

「存外、厄介な権能だ! これはどうか!」

 アグディスティスが呼び出した巨大な蛇が牙を剥く。それが剣の言霊であっさりと斬り伏せられた。すでにアグディスティスを斬る剣として成立している。彼女の神獣は尽く斬り裂かれるだけだ。エリカと恵那を襲っていた神獣の群れも斬り裂かれた。アグディスティスの力に支えられていた桃源郷も崩壊を始める。

「ギリシャ最大の英雄ヘラクレスも不死身の軍神であり《鋼》の英雄だ。広く長く信仰されたせいで多くの伝説を手に入れた彼の最大のエピソードは十二の難行だろう。大地の化身である不死身のライオン殺しや水の化身であるヒュドラ殺し、冥府の番犬であるケルベロスの捕獲といった《鋼》らしいエピソードのオンパレードだ。けど、重要なのはこれらの難行の攻略を支えた力の源泉だ。ヘラクレスを不死身たらしめるもの。それは女神ヘラの存在だ」

 日本でも有名なヘラクレスとヘラの確執。ヘラクレスを受難の英雄としたのは、女神の狂気とも言うべき執拗な嫉妬であった。しかし――――、

「ヘラクレスは生まれてすぐにゼウスの策略でヘラの母乳を吸った。大いなる大地母神の母乳を吸ったヘラクレスは生まれたばかりでヘラが差し向けた神蛇を握り殺すほどの力を得たという。ヘラの存在はヘラクレスの人生にずっと付きまとい、ついに稀代の大英雄を破滅させるに至る。毒に侵されたヘラクラスは自ら火の中で死ぬことを決め、その生涯を閉じた――――というが、この後、ヘラクラスはオリュンポスの神の一員となって完全なる不死を手に入れ、ヘラとも和解する。だとすれば、ヘラクレスの人生は、女神ヘラが与えた不死に至るための通過儀礼と言える。だったら、それは呪いではなく女神の加護だ。ヘラクレスの名がヘラの栄光を意味するのも当然だ! ヘラクレスはヘラのための英雄だからだ!」

 アグディスティスの顔に焦りが生まれる。

 バトラズ、アキレウス、ヘラクレス。一見して関係のないように見える三柱の英雄神の来歴が、アグディスティスの根幹を揺さぶっているのだ。

 効いている。その確信が護堂にはある。

「この三柱の英雄神はすべてが《鋼》だ。竜蛇殺しの英雄ということじゃない。水と火と共生し、戦場における不死を表す英雄だからだ。そして、注目すべきは彼らの力の源泉。彼らの《鋼》の力は、《蛇》を討伐して奪い取ったものではなく、もともとは《蛇》から加護として与えられたものだった。これは《鋼》と《蛇》の古い関係性の一つだ。《蛇》である母から力を与えられることで《鋼》の英雄は不死身になることができるんだ。母権性社会の中では母こそが絶対者だ。その母を守るための剣が英雄であり、母なくして英雄は生まれない。日本でも近親の女性が英雄に与える力を「(いも)の力」と呼びヤマトタケルを大いに助けたってくらい、英雄にとって女性はなくてはならない存在なんだ。アグディスティス。あんたの《鋼》封じの言霊は、この《鋼》と《蛇》の最も古い関係性に由来する力だ」

 急激にウルスラグナの剣が速度を増した。

 軽い。

 今までで最も軽いと感じた。

「わたしの、大いなる母たるわたしの力を否定するのかッ!」

「親離れって言うんだよ、そういうのをな!」

 憤るアグディスティスだが、天秤は護堂に振り切れた。《鋼》封じの言霊は、もうウルスラグナには通じない。

 桃源郷が砕けて、外に広がっていた森も消しゴムで消されるように消えていく。気温が下がって、少しずつアルプスの本来の姿が戻ってくる。

「護堂、このまま一気にやっちゃいなさい!」

 エリカの声が聞こえる。

 言われずとも、ここまで追い込んで逃がすわけにはいかない。

「ローマの時代になってもキュベレーは大いなる母だった。キリスト教がローマの国教となり、キュベレー信仰が異端視されても、その信仰の痕跡を消すことができなかった。クババの時代からキュベレーの象徴だったザクロが聖母マリアの象徴の一つとされるほど、その信仰は根強かった」

 黄金の剣が煌めいて、神速の戦車を取り囲む。ミトラスの矢もその力を失いつつあった。アグディスティスの権能が剣で斬られたからだ。桃源郷などという如何にも斬ってくれと言わんばかりの異界を出したままにしていたのが運の尽きだった。

「本来は《蛇》となった時点で《鋼》には不利だ。それを覆せたのは、あんたには隠し属性として《母》というべき力があったからだ。考えてみれば当たり前なんだ。《鋼》が《蛇》に強いのは、父権性社会への移行を示すからだっていうのなら、それ以前の純母権性社会で崇拝された女神の権能には、属性も何もないんだろうからな」

 そうはいっても、現代にまでその超古代の力を持ち込める神格はまずいない。大抵は《蛇》としての属性に押し込められるし、アグディスティスもまた《蛇》の特性を有している。そういう風に人類の歴史は進んでしまったのだ。

 それでも、彼女が《母》であり続けられたのは、極めて希有な事例だろう。

「母に対するその愚行、看過できぬ! 神殺し、分を弁えよ!」

 太陽の矢と神獣召喚を同時に行うアグディスティスを護堂は相手にしなかった。

「あんたの母の権能、その力の出所は一つだ。玉座に腰掛け、ライオンを従える像は神々の母の象徴として受け継がれたものだ。その最も古い例、それはチャタル・ヒュユクで崇められた世界最古の地母神。八千年近く前の《鋼》も《蛇》もない時代に生まれ、洋の東西に分化しながら紀元後まで《母》であり続けた大地母神が、その力の正体だ!」

「あああああああああああああああああああああああああああ!!」

 黄金の剣が最古の大地母神に殺到する。

 その神格の核となる部分を斬り裂いた。

 これで、桃源郷が完全に消失した。荒涼とした雪と岩の大地が戻ってくる。あまりの寒さに凍えてしまいそうだ。

 アグディスティスが自分に関わりがあるからといって西王母などの遠い親戚の力すら持って来られた理由も母にして女王であるからだ。

 アグディスティスは自分の子とも言うべき派生先の神格に女王として命令を下していたのだ。

 これが護堂にとって幸運だった。完全に別の神性であれば、桃源郷を斬った剣でアグディスティスは斬れなかっただろう。すべての権能がアグディスティスと神性と絡んでいたからこそ、同一の剣が通じた。

「王さま、やったね」

「護堂、ともかく下山しましょう。凍えてしまうわ」

 天候はすぐに悪くなる。

 呪術の輩である三人が凍えて死ぬということはあまり考えられないが、アルプスの過酷な環境に進んで居座りたいとは思わない。おまけに今は軽装なのだ。権能でも何でも使って、素早く暖かい環境に逃げたい。

「ぐ、ふ……はあ……愚昧な、わたしを失墜させたと思ったか。はあ……」

 地に伏したアグディスティスがよろよろと立ち上がった。

 大きく消耗し、今はもうかつての恐ろしい力は感じられない。

 エリカと恵那が距離を取った。

 手負いの『まつろわぬ神』だ。何をするか分かったものではない。

「そんな状態で第二ラウンドしようっていうのか?」

「侮るな神殺し。母たるわたしに失墜はありえないのだ。それに、お前も大分消耗しているようだ。ふふふ、我が権能、ずいぶんと斬り裂かれたが、お前に神罰を下すだけの力、まだ残っているぞ」

 青くなった唇でアグディスティスはそう嘯いた。

 ウルスラグナの剣はかなりのダメージを与えた。しかし、完全には神格を斬りきれなかった。アグディスティスが混淆神だったこともあるだろうし、そこに辿り着くまでに剣が刃こぼれしていたこともあるのだろう。

 いずれにしても、次が最後。

「わたしは誓うぞ。この命を費やしてでも、大いなる母の怒りを示し、神殺しに正しき神罰を与えてみせると!」

 アグディスティスが剣を抜き、切っ先を天にかざすやぶつり、と嫌な音がした。アグディスティスの口から血が零れた。体内の重要な臓器がいくつも潰れたようであった。

「それは」

 護堂が目を見張る。

 今のは間違いなく、自分自身に対して呪いをかけたのだ。命を賭けて護堂を殺すという全力の誓いだ。

「我が最期を見届けよ。天と大地の神々よ。お前たちの母の勇姿を目に焼き付けるのだ。ああ、アッティスよ、我が恋にして我そのものたる太陽よ。母の敵を撃ち払うのだ!」

 大きく後方に跳躍したアグディスティス。その背後に真っ白な太陽が浮かび上がった。豊穣神ゆえに太陽の神格を得たアッティス=ミトラスの力だろう。すさまじい熱と出力を感じる。アルプスにせっかく戻ってきた冬と雪があっという間に消えていく。

「王さま、あれヤバい!」

「護堂!!」

「分かってる。下がってろ!」

 護堂は駆けだした。

 太陽を打ち落とすための最善を尽くす。

「恵那、天叢雲剣持ってくぞ!」

 恵那は二つ返事で手にある黒い剣を投げた。空中で天叢雲剣が消えて、護堂の手に現れる。

「天叢雲剣、行けるな!?」

『無論だ。母なる女神に最源流の《鋼》の矜持を見せてくれる』

 右手が熱い。 

 天叢雲剣が護堂の思いに応えてくれる。

「神罰の時だ、神殺し! 母の怒りをその身で味わえ!」 

 解き放たれる最期の太陽フレア。その規模は過去最大と言ってもいい。大いなる女神が残された命をかき集めて放った極大の一撃だ。

「闇よ来たれ、命のために。黒よここに、嵐を呼べ――――行け、天叢雲剣!!」

 護堂は黒雷神の聖句を唱えて天叢雲剣を投じた。

 ミサイルもかくやの速度で打ち放たれた神剣は、空中で漆黒の雲を纏った。それは嵐を導く積乱雲のようであり、どす黒い冥府の風であり、砂鉄を巻き込んだ鋼の竜巻だった。太陽フレアに対して、漆黒の竜巻が牙を剥いた。巨大な黒雲の蛇が太陽に食いついた。

「ぐ、おおお!」

 護堂は歯を食いしばった。呪力が一気に食い尽くされるようだった。女神の命がけの一撃は軽くない。太陽に対して耐性を持つ黒雷神の化身と天叢雲剣を融合させた黒雲の蛇がまるで焼かれているようだった。

 力は互角だ。

 太陽と黒雲の一騎打ち。

 護堂はありったけの呪力を注ぎ込んでいて、他の権能を併用する余裕がない。

 あるいはこのまま打ち負けてしまうのでは。そんな嫌な予感すらあった。焦る護堂のすぐ隣に、一筋の光が突き刺さる。

 銀色の剣だった。

 それが瞬く間に形を変えて一挺の槍となった。恐ろしく寒い冥府の毒にも似た気配を感じさせる槍の正体は、エリカが投じたクオレ・ディ・レオーネであった。

 ご丁寧に必中の術までかかっている。

 普通なら『まつろわぬ神』に人間の武器は通じない。

 しかし、神をも傷付ける呪いを付与した武器は別だ。それをカンピオーネが投じたのなら、十分に神殺しをなし得る刃となる。

 まして、今のアグディスティスは死力を振り絞っている最中だ。

 護堂は必死になって権能を維持しながら、槍を抜いた。

「神殺し、おまえはッ!」

「初めから仲間と一緒に戦ってるんだ、俺は」

 大きく振りかぶって、槍を投じた。

 後は護堂が何もしなくても、槍は一直線に女神に向かっていく。

「くはッ……!」

 クオレ・ディ・レオーネがアグディスティスの胸を貫いた。

 女神の生命の糸がプツンと切れた。

 太陽が力を失って、傾いていく。

 そして黒蛇が太陽ごと女神を飲み込んだのだった。

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。