豪雨が降り注ぎ、雷鳴が木霊する。
およそ四百メートル上空で激突する護堂と一目連の戦いは、直接的な影響の出ないはずの地上にまで及んでいた。
大きく抉り取られた田は十数反を越え、農道は鉄杭に飾られている。朝を向かえた時の農家の嘆きを想像することは難しくない。
護堂も初めのうちはそういうことを考えて戦っていた。
しかし、やはり『まつろわぬ神』は強大な敵だった。少なくとも、周囲の被害を考えているうちは倒すことはおろか、戦いにすらならない。
だから、護堂はそこを割り切った。
申し訳ないが、ここで一目連を倒しきれずに霞ヶ浦を溢れさせることに比べれば、被害は少ないはずだから、壊されるのも仕方がない、と。
もちろん、農家の側からすれば、そんなことは理由にならず、被害なんて出さずに倒せと思うだろうが、無理なものは無理だったのだ。もしもそんなことを言う人がいるのなら、護堂は戦いを放棄するだろう。
誰かのために命を張ることのできるお人よしではあるけれど、人から強制されて戦うつもりはないし、自分の戦いに文句を言われる筋合いもないからだ。
護堂が他の王と異なり、一般人と同じような思考をすると思われているのは、偏に意志を貫くべき場面に遭遇していないからということ。
地面を叩く雨の音をドラムロールとするならば、吹き荒れる風は重低音のコントラバス。
響きを忘れた演奏の中に、ギチギチとした不協和音が紛れ込む。
言うまでもなく、鋼の鱗が軋む音だ。
視界は最悪で、音で状況を捉えることも容易ではない。
晶たちですら、辛うじて戦いの趨勢を見ることができているという状況下において、呪術に関わりを持たない者がこの饗宴を垣間見たところで、その細部はぼやけて霞んでしまう。
チカチカ、と暗闇に光る雷光は護堂が駆け抜けた名残。
その光が晶たちの目に届く頃には、護堂はまた別の場所へ移動している。
目で捉えることのできない超高速移動。
一目連の巨体は戦艦を思わせるほどに圧倒的外観を有し、それに比べれば護堂は大海の荒波に翻弄される小船のようだ。
それを見る限りでは、とても護堂に勝ち目はない。
小船にどれだけ多くの武器弾薬を積み込もうとも、戦艦を倒すには至らない。
「--------------大丈夫」
雨に打たれながら、晶は一人呟いた。
戦闘用の黒いレインコートが風に踊る。有事の際にはすぐに飛んでいけるよう、冬馬の車には乗っていない。
その少し離れたところに停まる冬馬の車には冬馬と祐理が乗車していた。
冬馬はいざというときの足であり、祐理は敵の策敵に力を注ぐ。まかり間違って神獣が現れたとき、真っ先に彼女の知覚がこれを発見する。
各々が、護堂に任された任を全うせんとしているのだ。
カンピオーネは超越者だ。
どれほどの逆境にあろうとも、必ずや活路を見出して勝利する。
そこに理由などない。
理由があれば超越者などにはなりえない。
傍目から見て、絶望的な戦力差や相性の悪さがあったとしても、草薙護堂は勝利する。
それが、机上の論理であり常識。だが、不安もある。護堂の勝利を確信しきれない自分がいる。
言ってみればそれは晶の願いであり、独り言は、口に出すことで不安をかき消そうとする代償行為でもあったのだ。
槍を握る手に力が篭る。
雨に濡れる指先の冷たさも忘れるくらいに固く柄を握り、空を見上げる。
■ □ ■ □
喉奥で生成され、ギロチンのような顎から繰り出された鉄杭の攻撃は、膜状攻撃ではなく、波状攻撃だった。
砲身を出鱈目につけたガトリングガンを何十も用意して一斉射を加えたかのような攻撃は、回避という考えが決して及ばない超広範囲をカバーし、護堂を襲った。
ソレを阻むのは黒い雷雲。
雷という事象を八つに分かち、それぞれの特性に合わせて手札を切るのが火雷大神の権能だ。
黒い雲は、そのまま雷雲を表し、同時に太陽や月を覆い隠された世界そのものだ。
雲であり闇である。
元来地下の国で悪鬼を従える雷神の力だからか、そこには一点の光も見出せない。
凝縮した闇の表面を走る雷光すらも、闇色に輝いて見えるのだ。
護堂を守る闇色の楯は、一目連の鉄杭の雨を完璧に防ぎきった。
鋼と鋼が打ち合う音が断続的に鳴り響き、護堂の逃げ道を封じていたその他の鉄杭は勢いよく大地に突き刺さって被害を増大させた。
舞い上がる粉塵は雨に打たれて固まって、風に流れてあさっての方角へ。
掘り返された地面には各所にクレーターが生じ、雨水と破壊された用水路からの水が流入してため池を作っていた。
「また、防いで見せるか! 見事なり、小さき者よ! それでこそ我が敵手。我が刃を振るうにふさわしき敵!」
護堂の楯に、一目連が体当たりをする。
全身の鱗は逆立ち鑢から剣山へと変じている。
その状態で、ドリル状に回転しているのだから、これはもう削岩機と同じようなものだろう。
垂直に大地に突き立てば、一気に三十メートルは穴が掘れる。
「いい加減にしろよ! やりたい放題やりやがって!」
黒雷神の楯を霧散させ、闇から顔を出した護堂は叫んだ。
「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」
そして、呪力を放出する。
源頼光から簒奪した『神便鬼毒酒』の権能。
ヴォバン侯爵の権能を混乱させ、戦いを有利に運んだ権能弱体と酔いによる知覚妨害の権能だ。
護堂の周りを酒の芳醇な香りが満たし、水塊となった酒が、いくつものコロニーを形成した。
「引導を渡してやるぞ、一目連!」
「ハハ! 飛びまわるだけで芸のないヤツと思っていたが、まだ何か隠し持っているようだな。おもしろい!」
神酒は護堂の意思に従って動く。
一目連の進路に沿うように並び、その突撃を遮るように壁となる。
さらに神酒はその量を増やしていく。
プールを五つは満水にできるほどの量の神酒が、壁とは別に展開する。
三本の柱となった神酒は渦を巻いて、蛇のように一目連の蛇体に巻きついていく。
元来は攻撃に使える権能ではない。
これは偏に質量を使った圧殺に他ならず、一目連の身体と力、この二つと比較するなら、その質量自体がたいしたものではなかった。
「フフフッ、なんだ、そのひ弱な力は! そんなモノでこの我を縛るつもりか? 舐められたものだな!!」
一目連は余裕を崩さない。
当然だ。
七十メートル近い肉体と、鋼の鎧に身を包み、その質量は数千トンになろう。
単純な質量勝負では酒と鋼では話にならないのも道理だ。
ただ、一目連は身体をスピンする。
それだけで、豪風を巻き起こし、身体中の鱗が無差別に大気を巻き込んで乱流をつくりだす。
ただの一回転で、神酒の触手は削り取られて散らされた。
一目連は大笑し、
「この我を縛るのに、風雨を司り鋼の身体を持つ我に、このような攻撃。フン、たかだか水では話にならん!」
叫ぶだけでも大気が震える。
余裕の体で振り払った一目連は、そのまま神酒の壁を突き崩す。
所詮は液体の塊。
鋼の突進にはなす術もなく。
そして、またさらに四散した神酒の雫は、一目連の全身に纏わりついていた。
じわりじわりとその鋼の内側に侵入している神酒は、一目連にとっては警戒すべきものではなかった。
ゆえに、その無粋な干渉を見逃してしまう。
「まだまだ!」
神酒をさらに呼び出した。
そこなしの酒地獄。
呪力さえ尽きなければ、護堂はいくらでも神酒を量産できるのだ。
今度は纏めて一つの柱にする。
より密度を高め、いかにも『武器』に見せて叩き込む。
高速回転する螺旋槍。
元が液体であったことなど、もはや意味を成さない。たとえそれが水であったとしても、必要な速度と鋭さを持たせれば十分に岩盤を砕くだけの威力を出すことはできる。
科学をもってしてそれなのだ。
神酒を自在に操る権能で、それ以上の破壊力をだすことくらい容易にできる。
敵は武神ではないものの、戦いを好むタイプの神であり、真っ向勝負を得意としている。
とはいえ、相手の土俵で戦う必要もない。体格面での不利を考えれば策を弄するのも戦の習い。
『砕け!』
交錯の中で砕けた外皮は、確かな手応えを護堂にもたらした。
効いている。
「く、威力を上げた---------いや、これはまさか」
そして、自らの身体が知らず汚染されていることに今さらながらに気がついたのか、重厚な声で唸る。
雨を強めて身体を清めようとしているのか。
一目連が標的である護堂から目を逸らしたその瞬間に、護堂は雷光となって雨雲の中へ飛び込んだ。
それは風雨を操る一目連が呼び出した雷雲であり、それは敵の広げた口の中に進んで身を投げるのと同じ行為だった。
が、しかし。
敵との相性を加味するに、一撃大きい攻撃を与えなければいつまで経ってもこの戦いは終わらない。
打って出るべきところではリスクを度外視した暴挙も神との戦いでは必要だ。
そしてギャンブルには滅法強いのが草薙護堂であり、神酒の力で一目連の権能を弱めているのだから、これは勝利の確定したイカサマギャンブルだった。
テーブルについたその時点で、勝利は確定していた。
『払え!』
高めに高めた呪力を解放する。
四方八方に力が流れ、雷雲そのものに命令を下す。
この場から立ち去れという強制命令によって、護堂を中心にして雲が押し広げられていく。
波紋が水面を行くように、退けられた雨雲は、さらに他の雲を追いやって遠くに行けば行くほどに分厚くなりながらも、ほんの僅かの時間だけ、この一帯に晴れ間を作り出した。
雲が失せ、雨が失われた。
ソレはつまり、護堂の神速が消えるということだ。
雨が止んでも、大気中には多分に湿気が残されている。すぐに神速が解除されるわけではないが、
「むう、いったい何のつもりだ!?」
得心がいかないという一目連は、自由落下する護堂を片目でにらみつける。
ただ地球に引かれるままに落下する護堂を一目連は攻撃しなかった。
護堂がなぜわざわざ雨雲を払ったのか、なぜ、神速を解いたのか。そうした一連の謎が脳裏を過ぎったからだ。
「南無八幡大菩薩!」
はるか下方で、呪力が唸る。
風を切った銀の閃光が下から上へ駆け抜けていく。
弓矢の神である八幡菩薩の加護を得て放たれた槍は、ちょうど護堂の正面で失速した。
一瞬の滞空を見逃すことなく手にとって、護堂は空を踏みつける。
「いくぞ、一目連!!」
「よかろう。何を企んでいようと打ち砕くのみ!」
護堂が正面から戦うことよりも、手数と戦術、隙を見つけての一撃に特化していることは一目連も承知していた。だから、そんな護堂が神具でもないただの槍を持って向かってくることがそもそもの不自然であった。が、しかし、一目連には一目連の戦い方がある。強靭な肉体は、如何なる姦計をも打ち砕き、カンピオーネを破砕する。その確信があった。ゆえに、ここで勝負を受けて立つのは油断でもなんでもない。己のもっとも得意とする分野での決戦なのだ。これで負けるのであれば、他の何で挑もうとも負ける。それだけだ。
護堂が翔ける。
神速を失いながらも、言霊によって空間及び風に干渉し神速に勝るとも劣らない速度で走り抜ける。
神速が迅雷であるならば、それはまさに疾風。
護堂もまた、一目連の性格を理解していた。槍を持ち、正面から向き合えば自ずと受けてたつだろうと。 以前戦った
愚直にして頑固。己の武器を試さずにはいられず、挑戦には背を向けられない職人気質。
巨体が真っ直ぐに護堂に向かう。
あの身体が動く、ただそれだけで大気は細切れにされ、その身体を乱流が覆う。
それは全身にカマイタチを纏っているのと同じことだった。
掠めるだけで肉を削り取られる。
『弾け!!』
それを身を持って知る護堂は、まずその突進を受け止める。
『弾け!!』
二段構えの言霊の壁。
鼻面に向かう不可視の強制命令は、こともあろうにあっさりと突破を許す。だが、効果がなかったわけではない。一目連の速度を緩めることはできた。
「は-------は、ふッ!」
上がった息を整えて、僅かのタイミングを図る。
神速でない以上は、かわすタイミングがずれた時点で敗北だ。
遅すぎれば粉みじんにされ、速すぎては対応される。
双方が距離を縮めながら考えていることは同じ。
----------------草薙護堂が仕掛けるとすればイツだ?
一目連が護堂を凝視する。
護堂も一目連を凝視する。
彼我の距離は二十メートルを切り、護堂は終に、
『縮!』
可能とする限り最大の空間圧縮を行って、高速移動に突入した。
圧縮空間に飛び込んで、世界はゴムのように伸びる。
一目連の斜め上方。蛇でいうなら鼓膜のあるあたりを狙って加速する。
この局面に及んで、護堂の力は衰えるどころかむしろ強くなっていた。
血液は呪力となって血管を駆け巡り、脳が沸騰しているのではないかというくらいに熱くなっている。
心臓は二倍くらいに膨らんでいると感じられるし、鼓動は平時の何倍にも加速している。
「痛ッ----------------!」
声にならぬ声が喉から漏れる。
刺すような痛みが襲い掛かってきたのだ。
右腕が熱い。脇腹もだ。足もやられた。鮮血と削り取られた肉が舞い落ちる。
空間圧縮による移動は相対的に見て高速。しかし、あくまでも空間を縮めているに過ぎず、その領域内にいれば護堂の移動速度と対象の移動速度は同速になる。
また、圧縮空間に飛び込んだとき、護堂からみても相手が加速しているように見えてしまう。
当然である。
空間を縮めるということは、それだけ
言ってみれば、これは超音速戦闘機同士のドッグファイトと同じなのだ
相手が見えた次の瞬間には、すでにすれ違っている。
時間を操り、相手の動きがスローになる神速とはまったく異なり、これは単純明快なまでにただ加速するだけなのだった。
「く、くう----------------」
だからこそ、このようにカウンターが決まってしまうことも可能性としてはある。
護堂が現れるであろう場所。通り過ぎるであろう場所に設置物を置いていくこともできる。圧縮空間に入った時点でそれも護堂が反応できる程度の速度になるが、それでも突然物体が現れたように見えてしまう。
今回は、すれ違いざまを狙った護堂に対して、一目連は全身の鱗を一気に逆立てて応戦した。
加速するまさにその瞬間、蛇体の鱗は剣と化したのだ。ウニかハリネズミか、いや、細長い胴体に大量の毛とくれば毛虫が近いか。
直感にしたがって避けたものの、かわしきるには速度が速すぎた。
切っ先に引っ掛かり、もんどりうってバランスを崩したのだ。
「こんのォ。だからどうした!」
こればかりは本当に賭けだった。
『穿て』
穿孔の言霊を乗せ、右手を突き出した。
神酒で切れ味、強度が落ちていたことも助けてくれた。
剣山を砕き、その皮膚を貫いて、護堂の腕は肉の温かさを感じたのだ。
「グゥ!」
歯を食いしばり、落下を阻止する。右手一本で体重を支えるのは至難の業だったが、言霊で素早く足場を作って難を逃れた。
一目連の血液が、腕を伝って護堂の服を染めていく。気味が悪いくらいに生温かい。
一目連が痛みにうめく、その間に、左手に握る晶の槍に呪力を流す。
一瞬にして、術は完成した。
護堂の力ではなく、晶が用意した式に燃料をくべただけなのだ。それであれば呪術の心得のない護堂でもできる。
淡く光る御手杵。
護堂は急速に喉の渇きを覚えた。
それが始まり。
眼に見えない変化が進んでいる。
槍は大気中の水分を吸い上げているのだ。
五月に使用した雨避けの呪と同じ系統の呪術。水を司る神の加護を込めた槍は、その刃先に多量の水分を吸収してしまう。
一目連の雨で上昇した湿度が平均を大きく下回るまでに低下する。
水分がなければ神速は使えない。だが、それはデメリットだけではないのだ。
「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり----------------」
護堂は聖句を唱える。
射出は突きこんだこの右手から。
熱した鉄でできているかのように熱を持つ右手には、強大な呪力が篭められていた。
「ぬ、う!」
危機を察して身を捻る一目連。だが、それはあまりにも遅すぎた。
「全てを灰に。それは新たなる門出の証なり!」
そして、聖句は完成する。
もはや、灼熱にもなる右手の熱は、それを引鉄に解き放たれた。
「ウグアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
一目連の大絶叫が響き渡る。
この戦いが始まってから、一度として苦痛の叫びを上げたことのない竜蛇が空中でのた打ち回っている。
それは一瞬の出来事。
聖句の完成とともに護堂の右手は強烈な火炎を吹き上げた。
神聖にして邪悪な破滅の炎だ。
数少ない雷撃を伴わない力であり、大雷神に並ぶ大火力攻撃。
それは落雷によって生じる大火災の神格化。落雷による火災。その多くは森や山であったろう。山火事は土砂降りの中では生じにくく、乾燥しているほどに発生しやすい。この権能の条件は雨を初めとする大気中の水分濃度が一定以下にならなければならないというもの。神速の伏雷神とは対極に位置しているといえよう。
体内を焼かれ、それに留まらず炎は一目連を包み込み、紅蓮の火柱と変えた。
この炎は山火事と同義。一度火がついたら早々消えることはない。
鋼の鱗も、灼熱に晒されて融解している。神酒による防御力の低下が大きく響いているのだ。しかも、内側からも炎が襲い掛かっている。
「鋼の弱点は超高温の熱だったな。効果抜群ってとこだ」
この神格を《鋼》と受け取ってよいものか。一説によれば天叢雲剣を打った神とも伝えられているし、農耕から水との関わりもあるが、やはり《鋼》には乏しいか。
それでも、身体が金属製であることに変わりなく、紅蓮に包まれてはひとたまりもない。
空中でもう一度うごめいてから、一目連は力なく落下した。
□ ■ □ ■
あまりに体重がありすぎる巨体なので、そのまま落下させては震度ゼロの地震が起きてしまう。
護堂は呪力に鞭打って言霊を発し、その落下速度を低下させた。
それでも、ズウウゥン、とゴジラが横倒しになった時とまったく同じ音でその巨獣は倒れこんだ。
周囲が農村地帯でよかった。これが都市部であれば一区画がまるまる消滅していただろう。
その護堂の勝利に晶と祐理は手を叩いて喜んだ。
地面に横たわる竜の身体はシュウシュウと煙を放ち、肉が焼け焦げたにおいと、鉄が溶けたにおいが混ざり合った悪臭が立ち込めている。
遺骸は火炎に覆われたために損傷が激しく、半分が焼けてなくなっているという有様だった。火雷神の火力の凄まじさを如実に表現している。
地に膝をつく護堂はまさに満身創痍。動くにも支えが必要そうだ。
大蛇を打ち倒す英雄の凱旋を祝福しようと晶は駆け出した。
支えがいるなら自分がなればいい。
不安で張り裂けそうだった胸は、その反動からかまた別の方向で脈打っていた。
一秒でも速く、あの場所に駆け寄りたい。
その晶の手を後ろから祐理が掴んだ。
「いけません、晶さん!」
切迫した空気に、肩透かしを食らった晶は文句を言うことができずに立ち止まった。
なにがそんなにいけないのか。
祐理が言うのだから相応の理由があるはずで、その理由はすぐに明らかになった。
鉄と鉄を打ち合う音と、鉄骨が捻じ曲がり砕ける音。
「ッ!」
音源は言わずもがな、蛇体だった。死した『まつろわぬ神』は九割方この世から消えてなくなるのが常である。
一部竜骨として残ることもあるがそれはまれだ。
そういう原則に従えば、あれほど大きな竜骨が残るはずもなく、呪力もかすかながら存在する。それはつまり、アレは、まだ生きているということになる。
「草薙さん。後ろです!」
祐理が、力いっぱいに叫んだ。
平時の彼女ならばこのように声を張ることもないだろうが、今は火急の時。努めて冷静に判断した結果がこれだった。
「先輩!」
晶が悲鳴のような声を出す。
死力を尽くした戦いだった。護堂の呪力も見るからに目減りしていて、体力も限界に近い。その状態で戦えるのか。
護堂は、祐理と晶のほうを向き、手で制止してからゆっくりと立ち上がった。
護堂の目はいまだ戦意に燃え、敵の復活を待っている。
鉄を打つ音が静寂の中に響く。
赤く燃え立つ蛇体の熱が引いていく。黒く変わる鉄の身体。熱を帯びる赤は一点に追いやられ、その部分だけが盛り上がった。
ギチギチと、盛り上がる溶鉄は、吹きガラスでつくる工芸品を思わせる。
「なんて、生命力……」
晶は唖然として、その様子を見つめた。
そして、慄然とする。『まつろわぬ神』のその執念に。
「くく、してやられたぞ。まさか、我が身を砕くのではなく、溶かしにくるとはな」
溶解した鉄の塊は発声器官などないにも関わらずに言葉を発している。
灼熱の溶鉄は、地面に落ちると土を焼きながらその形を変えていく。縦に伸び上がり、下の部分は二つに分かれ、二股となったら今度は先端が三つに分かれた。それぞれが頭と腕を創り上げる。
「身体を再構成したですって?」
「そんな出鱈目が!」
祐理と晶が息を呑む。
護堂もその規格外さには憤りを通りこしてあきれ果てた。
「くく、驚くことはあるまい。我は蛇にして製鉄神。皮を脱ぎ捨て命を回す蛇と火炎の中から生まれ変わる鉄の力を持っているのだ。とはいえ、今回は失うものが多すぎた。あそこまで我が自慢の身体をくず鉄に変えられてしまえば完全な新生も難しい……神殺し、貴様との決着を後回しにして傷を癒そうとも考えたが」
そして細部の形状が定まっていく。
その姿は鎧武者であった。
鉄兜を被り、鬼のような面をつけ、無骨な赤糸縅の甲冑がガシャンと音を立てた。
「それではつまらぬ。これほどの戦。また次回も行えるかどうかわからぬ。ゆえに、我は決めたのだ。今ここで全霊を傾けた力で持って貴様を屠ってくれようと。たとえ、我が大いなる蛇身からこのような小さき姿になろうともな!」
小さき姿。その言葉に自らを卑下する響きは一切ない。
むしろ、それを誇りに思っている。
なぜならば、あの鎧兜は一目連。いや、ここはもはや天目一箇神と言ったほうがいいだろうが、製鉄の力を最大限にまで高め、生存本能と闘争本能に従って創り上げた芸術的逸品であり、自分自身を宿す本体でもあったのだから。
戦うための武具を作ることが、製鉄の神の宿業だ。鎧も兜も彼の手にかかれば最高の状態で誕生しよう。それを、最高の敵を相手に振るえるならば尚一層よいではないか。
「さあ、今こそ決着をつけようではないか。我が全霊を込めて打ち出したこの剣で貴様を討ち取ってくれようぞ!」
サラリ、と抜き放った大太刀は刃渡り実に一メートル三十はありそうだ。あまりに長大な日本刀ながらも、背の高い鎧武者が握るにはふさわしい造詣だ。
驚くべきはその呪力。
あれは下手をすれば神具を越えうる代物だ。
なにせ、あの鎧兜と同じく鋼の蛇体から取り出された鋼を使用して創り上げたものなのだ。文字通り身を削ってまで打ち出した刃は、神の分身ともいえた。
「そうかよ。だったら迷わず冥土に行きやがれ!」
護堂は足に力を込めて地面を踏みしめて、言霊を放つ。
「ぬうん!」
空間を捻じ切る言霊の干渉を受けて一歩後退した天目一箇神。
が、下から上への切り上げで、あっさりとその力場を斬り捨ててしまった。
「なんて厄介な!」
護堂は天目一箇神と距離をとろうとバックステップを踏む。
『まつろわぬ神』の強さはその自我の強さに比例するというが、それならばこの神の生命力はいかほどのものか。
しかもあの刀は《蛇》であり《鋼》の特質を持つもの。
《蛇》から生まれた《鋼》の剣。それはまさに天叢雲剣のモチーフだ。
天目一箇神は一部の伝承では天叢雲剣の製作者だ。ゆえに、彼には《鋼》の剣を生み出す力があるのだろう。
「フフフ。我が剣の切れ味はどうだ?」
刀を構える鎧武者は得意げになって笑う。
「ああ、そうだ。神殺し。貴様の名は何というのだ? ここまで殺し合っておきながら相手の名も知らぬのでは武名の一つも上げられぬ」
そんなものを上げさせるわけにもいかないが、護堂はあえてその問いに答えた。
会話が長引けば、護堂の体力が快復する時間を稼ぐことができると踏んだ。
「草薙、護堂。草薙、草薙だと? クク、グアハハハハハァ! おもしろい。偶然にしても出来すぎているな! よもや我に立ちはだかる強敵が草薙の姓を持つとは! 傑作ではないか!」
と、一頻り笑った後で、
「ますます手が抜けぬ。草薙の名を持つ者に不名誉な死を与えるわけにも行かぬからな」
「冗談きついな。死ぬのはあんたのほうだ」
「クク、さすがに益荒男。あらぶる神殺しよ」
鉄がこすれる音がする。
鎧武者が切っ先を護堂に向けたのだ。
天目一箇神の敵意は壁のように重厚で、しかしその手に握られた刀からは針のように鋭い殺気が漏れ出ている。
「では、行くぞ!」
天目一箇神が駆け出した。
護堂はその場から動かず、聖句を唱える。
「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ。大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」
朗々と一切の迷いなく紡がれるそれは、大雷神の聖句。火雷大神の化身の中で、最大の破壊力を持つ化身だった。
この時、護堂の腕は砲身だった。
突き出す右手は赤く血に汚れていたが、主砲を放つには何の問題もない。
「ぬ!」
天目一箇神は警戒しても対処できない。
目を覆う青い閃光が駆け抜ける。
収束し、荒れ狂う雷撃の光線。
放たれる衝撃に、護堂すらも吹き飛ばされそうになる。のけぞる身体を必死に押さえ、照準を絶対に逸らさず雷撃を続ける。
なぜならば、天目一箇神は依然として立っているからだ。
地面を蒸発させる光の奔流に晒されてなお、鎧武者は倒れない。
「オオオオオオオオオオオ!!」
護堂が咆哮する。
右手首を左手で押させ、反動を押さえつける。
「ヌアアアアアアアアアア!!」
天目一箇神も己の愛刀にして自分自身を楯にこれを防ぐ。
表情のない鬼面の奥で、にわかに天目一箇神が笑うのを護堂は感じた。
すでに大地は焼き払われている。膨大な熱量は射線上のあらゆるものを焼き尽くし、蒸発させる。
だが、あの武者だけが倒れない。
ただ天目一箇神が異常なタフネスを持つというだけでは説明ができない。
これは、護堂にとっては運の悪いことに相性がよくなかったのだ。
護堂の振るう火雷大神は雷神であり蛇神だ。一方あの刀は日本最大級の神剣にしてレガリア。最凶の魔竜から生まれた天叢雲剣とルーツを同じくする《鋼》の無銘剣。
さらには東洋呪術でいえば木気の雷は金気の鉄に相克される運命にあり、鉄は電気をよく通す。
どの視点からみても、相性は最悪だった。
とはいえ、熱量は尋常ではなく、相性が悪くとも、呪力で押し切ることもできる。肉体の大半を失い緊急回避的に生み出した鎧と刀だ。あれがかの神が精魂込めて作ったものだろうと、護堂が押し切られる道理はない。
閃光は細くなり、やがて消えた。
後に残ったのは煙る大地と二本の足で立つ二つの人影だけだった。
あまりに鮮烈な輝きゆえに、晶たちは視力の快復に手間取った。
「耐えた、か」
護堂は呟き敵をにらむ。
そう、全霊を込めて打ち出したと嘯いた刀と鎧は、ついに雷光から持ち主を守り抜いたのだ。
その五体の一部は崩れかけ、白熱し凄惨な状態に陥ってはいたものの、この神は戦うことをやめないだろう。
「いざ……決着を」
天目一箇神が駆け出した。
速くはなかった。がたがたの鎧を揺らし、愚直に突き進んでくる姿は、何故か胸に来るものがある。
その在り方に敬意すら表したくなるほどに、ただ愚直。
だから、護堂も正面から戦わなくては後味が悪くなってしまうだろう。
あえて言霊は使わなかった。
ガブリエルの『強制言語』は、自分の第六感を高めることにのみ使用する。
あの真っ直ぐな突進を止めるべきは、唯一つ。
「いざ、いざ、いざ!」
彼我の距離は僅かに十歩ほど。
一息で詰めるには遠すぎる。
「鋭く、速き雷よ! 我が敵を切り刻み、罪障を払え!」
付近に生き残っていた送電線の鉄塔が袈裟切りにされた。
咲雷神の化身は、生贄として背の高い建物を両断する。ヴォバン侯爵のときはホテルを犠牲にしていた。
護堂は晶の槍に咲雷神の雷撃を込めた。
ヴォバン侯爵と戦ったときの感触から、刃物に力を込める方法を生み出したのだ。これで、リーチを稼ぎ、切れ味の鋭い神槍として扱える。
「オオオ!」
天目一箇神が踏み込み、剣を振るう。上段から篭手、突きと断続的に繰り出される剣技を、護堂は繰り出されるよりも前の段階から避けていた。
直感が冴え渡る。
腕の動き、足運び、視線、殺気、空気の流れ、それらの情報から次の行動を先読みする。研ぎ澄まされた第六感は一秒後を予測する未来予知の領域にまで到達する。
自分でも驚くほどに、相手の動きが見える。敵が武神ではないからか。それとも弱りきっているからか。
「もうボロボロじゃないか。そんなになってまで、なんで戦う?」
つい、聞いてしまった。彼が戦う理由など、分かりきっていることなのに。
「目の前には自らを地に落とした神殺しがいて、振るうべき刀がある。そのことに疑問を差し挟む余地などない!」
楽しそうだ。
武具を振るい続けることを楽しんでいる。
自分の作った武器がどこまで通用するのかを精一杯ここで試そうというのだ。
無論、試された瞬間に護堂は死ぬことになるだろう。
身体にガタが来ていることは戦いを止める理由にはならない。『まつろわぬ神』が戦いを止めた時は、それは『まつろわぬ神』として死んだ時である。
「ゆえに、我は今、かつてなく最高の状態なのだ!」
横薙ぎの一閃を護堂は飛びのいてかわした。咄嗟に楯にした御手杵の柄が、わずかも持ちこたえることができずに両断された。
「うわッ」
晶にどやされる。
護堂はうめき、宙を舞う穂先を見た。
「フッ」
振りかぶる大太刀と槍の穂先が視界で踊る。
この瞬間の閃きはまさに雷光。瞼の奥で光る一筋の輝きだ。
あらゆる思考を凌駕して、身体が動いた。
極限まで研ぎ澄まされた集中力は、擬似的に剣速を遅くした。太刀筋まではっきりと読みとれる。
護堂は銀の一閃を、一歩だけ前に出てかわした。
「----------------ッ」
天目一箇神の驚愕が空気を通して伝わってくる。
刀を返して切りつけてくる前に、護堂は兜の頭を掴んでまるで鉄棒の上に上るように身体を持ち上げ、勢いままに地面を蹴った。
視線は一点に固定されている。
すなわち穂先。
手を伸ばし、綺麗に切れた柄を掴む。
短剣のようになった槍には、それでも咲雷神の権能が籠もっている。
「オオオオオオオオオ!」
護堂は着地を捨てる。
切り上げてくる腕を蹴り、前のめりに倒れこむように天目一箇神の頭上を転がって乗り越える。
そして、落下する中で、がら空きとなった背後から、その首に刃をつきたてた。
「咲雷神!!」
解き放つ雷撃。
閃電は他の追随を許さない矛であり、剣。
喉を刺し貫かれた天目一箇神の身体の中を、膨大な電流が流れ、焼きつくし、そして、雷撃の刃がその大鎧を両断した。