日は沈もうとしている。
ペルセウスとアテナを相手に条件を提示したあの時から早くも二日が経ち、約束の時間が迫ってきていた。
表通りだというのに、人気は少ない。《青銅黒十字》が手を回して、人払いをかけたからだ。呪術的なものではなく、ガス爆発事件を理由に避難勧告を出させたのだ。メディアにも報道規制がかけられているはずだ。
今、斑に人が見えているのは、呪術関係者か、避難を拒否した人だけだ。
「最低限の人払いはできましたが、完全とは言いがたいです」
「いいさ。これだけやってくれれば、心置きなく戦える。リリアナさん、ありがとう」
「礼には及びません。わたしは騎士として当然のことをしたまでですから」
護堂の隣をリリアナは硬い表情で歩いている。後ろをついてくる祐理や晶も緊張感を漂わせている。
決戦が近い。
二日前から、この戦いだけを考えてきた。
『まつろわぬ神』が目の前にいるわけではないのに、不思議と身体の調子がいい。護堂の戦意の高まりが、身体の調子を整えているのだ。
そして、おそらくは、目の前にいるあの男もそうなのだろう。
「やあ、護堂。二日ぶりだね!」
陽気に微笑むサルバトーレ・ドニ。『剣の王』。当代最強の剣士であり、イタリアのカンピオーネだ。
今回の事件の発端ともなった男だけに、サルバトーレ以外の面々は、警戒心を抱きながらここにいた。
「ずいぶんとテンションが高いんだな。あれだけのことをしでかしたんだから、まずは謝るのが筋じゃねえのかよ?」
「なんで? そのおかげで神様が出てきたんだから、後は戦うだけなんでしょ。ほら、問題なんて、まったくないじゃん。それに、君のほうこそずいぶんとやる気に見えるよ」
「一緒にしないでもらいたいな」
不快という感情が存在しないのではないかというくらいに笑っているサルバトーレとは対称的に、護堂は渋い顔をしている。
今回の戦い、何から何まで苦肉の策ばかりだ。
「それで、ここに来たってことは条件は飲んでもらえたのか?」
護堂は尋ねた。
エリカを使いとして、護堂はサルバトーレに連絡を取った。ただ一回だけ。それ以上は関わらないように、こちら側の用件は全部突きつけた。
「うん。まったく問題ないね。僕は戦えればそれでいいからさ、神様と戦えて、君とも戦えるって言うのなら文句はないよ」
「俺は、できれば遠慮したいけどね」
サルバトーレに出した条件の一つに、護堂自身がサルバトーレと決闘するというものがあった。今回のように不意を打って突然、なし崩し的に戦うよりも、こちらから場所を指定して戦う決闘という形式をとったほうが後々楽になると踏んだのだ。
「じゃあ、短い期間だけど、よろしく」
「こちらこそ」
そして、護堂とサルバトーレは握手を交わした。
この日は風が強い。
日の出ているうちは漣程度であった海も、来るべき戦いの予兆を感じているのかその波を大きくしていた。
空を流れる雲は、一時たりとも月を隠すことができずに流れていく。
波止場のコンクリートを踏みしめながら、護堂とサルバトーレは一言も発することなく潮風に身体を晒していた。
ジリ、と肌を焼くような緊張感。細胞の一つ一つが粟立つような感覚は、『まつろわぬ神』の出現と共に全身に広がり身体を強制的に戦士へと変える。
今まさに、護堂とサルバトーレの肉体に起こった変化はそれだった。
「約束どおりやってきたな神殺しの少年よ!」
眩い太陽を思わせる粒子が眼前に現れたのは、ちょうど深夜零時になった時だった。
光の粉は人型となって、ペルセウスという神を形作る。
威風堂々たる様は、まさに英雄にふさわしい。快活にして剛直。それでいて稚気を感じさせる笑み。純粋無垢の戦士の顔で、護堂とサルバトーレの前に姿を現したのだ。
「すると、君があのアテナに一太刀を与えたという神殺しだな」
「そうだね。ペルセウス。……僕でも知ってる有名な英雄と戦える機会を逃すわけにもいかないからね」
うむ、とペルセウスは頷いた。
戦うことに異存があるはずもない。サルバトーレは自分と同じ戦士の素質を持って生まれ、その生き方を貫き通しているに違いない。それはペルセウスの好むところだ。
ペルセウスとしては、アテナも含め各個と戦いたいとも思うのだが、こういう趣旨の戦いは珍しい。一度くらいは、経験しておくのもいいだろう。
「相変わらず、戦うことしか考えられぬ愚者よな。サルバトーレ・ドニ」
「お、アテナだ。久しぶりだね。もうあの時の傷は癒えたのかな?」
「舐めるな、と以前言ったはずだがな。あの程度の傷でどうにかなる妾ではないわ」
いつの間にやってきたのか、目を細めてサルバトーレをにらむアテナは、以前の遺恨があるということで、戦意も高い。ペルセウスとは正反対の闇色の輝きをまとう肢体には力が漲っている。察するに、この中で一番戦う理由を持たないのは、他ならぬ護堂なのではないだろうか。
だが、目前に二柱もの『まつろわぬ神』がいて、奮い立たなければカンピオーネなどとは呼ばれない。
不本意ながらも、護堂は内心で猛っていた。
死ぬかもしれない? 街が壊れるかもしれない? 人に迷惑がかかるかもしれない? それは分かる。分かるけれども、だからといって拳を止める理由にはなり得なかった。
カンピオーネの仕事は、究極的にはただ一つ。『まつろわぬ神』を討伐することだけなのだから。
護堂とサルバトーレは並んで敵を見る。
大海原を背にしたペルセウスと、卵城を背にしたアテナ。神殺しを中心にして九十度の扇形で挟んでいる。
殺気はなく、ただただ戦意だけが渦巻いている。
神を殺し、その権能を簒奪した究極の愚か者は、人類最強の戦士。対するは、遥か神代で蛇妖メドゥサを討ち果たし、大海獣から生贄のアンドロメダを救い出した蛇殺しの英雄と、生と死、そして知恵と戦いを司るオリュンポスが誇る最強の戦女神。
眼に見えない重圧が、ドーム状に拡散していく。
ただ一柱の『まつろわぬ神』と行き会っただけでも、人間の精神は耐えられない。それが二柱。さらに、神殺しが二人。常人がこの場にいたならば、この緊張感だけで正気を失い、命を落としていただろう。
「よい頃合だ。そろそろ、戦を始めようではないか」
ペルセウスが豪刀を呼び出した。
分厚く、反りの入った武具は、まさに怪物殺しの武器にふさわしいといえた。
「ふふん。剣使いか、いいね。それじゃあ、先手は----------------」
「俺が貰う」
サルバトーレに先んじて、護堂がペルセウスに向かって駆け出した。
□ ■ □ ■
カンピオーネと『まつろわぬ神』の戦いに、人間は基本的に介入することができない。それは、比べることすらもおこがましいほどの戦闘能力の差があるからだ。
カンピオーネも『まつろわぬ神』も、その戦闘力は一国の軍隊を上回る。『まつろわぬ神』に関して言えば、そもそも物理攻撃が通じないという破格の防御力がある。そんな敵を相手に戦うカンピオーネもまた、破格の存在だ。よって、人間の呪術者ができることは、最低限のお膳立てである。
巻きこまれては命はない。
一旦ことが始まった後は、ただその背中を見守ることだけしかできないのだ。
理解はできても歯がゆいことである。
「……凄い」
三百メートル先で行われる『大戦』を見ている晶は、その程度の月並みな感想しか出てこなかった。そもそも、思考が働かない。それほどの死闘であり、だからこそ、惹きつけられた。
二柱の神は互いに別個に神殺しを攻撃している。それは当然だろう。ペルセウスとアテナ。ギリシャ神話だけでみれば友好関係にあるこの二柱も、その根底は征服する者と征服された者である。互いに外来の神であり、勝者と敗者に別たれたときから、この二柱に協力という概念は存在しなくなった。
一方の神殺しのほうだが、これが存外に上手く連携が取れている。そこは意外なところだったがそのおかげか危なげなく戦いを進めることができている。
「それにしても、護堂がたったの四ヶ月ほどで、ここまでになるとは思ってなかったわ」
エリカが戦況を眺めながら呟いた。護堂がメルカルトと戦ったのは、僅かに四ヶ月前のことだ。そのときは、権能を一つしか持っていなかった護堂が、すでにして先達の王と肩を並べるまでになっているのは驚くべきことだろう。成長速度は、歴代のカンピオーネでも一、二を争うかもしれない。
ペルセウスは光を纏って高速で移動している。交錯の最中に剣を振るっているのだろうが、武芸を修めた晶やエリカ、リリアナの目を持ってしても、光の軌跡を追うことしかできず、詳細は分からない。その高速移動を護堂は直感で、サルバトーレは目で捉えて迎撃する。護堂とサルバトーレの周囲に滞空するのは十の楯と同数の槍だ。その一つ一つが神を殺める力を持つ呪力の塊であることが遠くはなれたこの場所からでも感じ取れる。
一目連から奪い取った能力は、鍛冶と製鉄の権能だったわけだ。そのすべてに嫌な気配---------------《鋼》を感じて、晶は総身が粟立つのを感じた。
《蛇》であった一目連だが、彼と習合した天目一箇神は原初の製鉄神。《鋼》の代表格である天叢雲剣を打ったとも伝えられるだけに、生み出される武具には《鋼》の性質が宿るらしい。
そもそも、《鋼》は《蛇》から生まれるもの。なぜならば、《鋼》の軍神は《蛇》を討つことで英雄への階段を登り始める。その際に《蛇》が本来持つべき力の一部を継承することもあるという。
アテナが無数の矢を放ち、護堂の楯をひきつけている隙をついて踊りかかったペルセウスとサルバトーレが激突した。
速度と力で勝るペルセウスと技で勝るサルバトーレだが、ここではペルセウスに軍配が上がった。
ガツン、と鉄と鉄をぶつけ合う音が響き、サルバトーレがたたらを踏んだ。ペルセウスの豪刀が彼の首を斬りつけたのだ。
「あれが、サルバトーレ卿の『
「ああ。ジークフリートから簒奪した無敵の身体だ。ただの斬撃では小揺るぎもしない」
晶の呟きにリリアナが返した。
サルバトーレの肉体はルーン文字の輝きに覆われ、ペルセウスの攻撃を無力化していた。とにかく硬い。それが彼の不死性の能力の正体だった。逆に攻撃を仕掛けたペルセウスのほうがバランスを崩していた。サルバトーレは硬いだけでなく、その重量も鉄塊並みになっているのだ。勢いよくぶつかったペルセウスが体勢を崩すのも無理のない話だ。そして、その隙を、見逃す護堂ではない。素早く三つの穂先をペルセウスに向けて、放った。閃電を思わせる槍は、その槍を上回る速度で飛びのいたペルセウスの足元を穿ち、コンクリートに半ばまで埋まっていた。
「なんでしょうか。草薙さん……」
祐理は、胸に手を当てて息が詰まっているように苦しげだ。そんな祐理が訝しげに目を細めた。サルバトーレと背中合わせに戦っている護堂の顔がその場から見えた。三百メートルくらい、呪術者の前では大した距離ではない。
「笑っていますか?」
護堂は戦いの最中にあって笑っているようにも見えた。懸命に歯を食いしばり、敵の攻撃に耐えているのはわかるが、それでも、どこかに戦いを楽しんでいるかのような空気を感じたのだ。
「さすがの護堂もカンピオーネに毒されてきたってところかしら。いえ、そもそも、そういう気質がなければカンピオーネにはならないものね。今の状態が、一番自然な姿なのかもしれないわ」
エリカの呟きは誰に聞こえるものでもなかった。
呪力と呪力の鬩ぎあい。武具と武具の打ち合う音。それがひたすら続いていく。この世界にはそれ以外の要素が存在しないかのように、神話を再現するこの戦争は、終幕を予感させることなく続いていく。最期の最期まで減速することなく走り続ける暴走列車のように、神と魔王の逢瀬は、唐突に始まり、唐突に終わる。
闘争を燃料に、闘争を生み出し続けるスパイラル。美しいサンタ・ルチアの波止場も、いまや血で血を洗う戦場と化し、隣接する道路も、逸れた矢や刀剣でクレーターを作り出している。
だが、これでもまだ前哨戦に過ぎない。今はまだ小手調べの段階だ。ここから、戦闘は果てしなく加速していく。
■ □ ■ □
ペルセウスは驚嘆していた。
敵の技量や胆力にではない。このような二対二という、およそ『まつろわぬ神』とカンピオーネの関係を推し量ればありえない組み合わせでの戦いが成立していることにだ。
しかも、自分が背を預けている、とまではいかないまでも共通の敵を前に武器を携えたのはこともあろうにあの女神アテナである。これで燃えなければ男ではない。
「ハハハ、まずは感謝するぞ神殺しの少年よ。このような戦は神代にもなかった。この場を提供してくれたこと、ありがたく思うぞ!」
生粋の戦人にとっては、武勲を挙げることこそが人生の目的であり、それをオリュンポスの神々に示してこそ存在意義が認められるというものだ。女神の目前で女神にいっぱい食わせたカンピオーネの首兜を取れるのであれば文句のつけようがない。
剣を振るい、矢を放つ。敵よりも速く大地を駆け抜け、その首に刃をつきたてる。そうして何合打ち合っただろう。
この身に怪我は一つとしてなく、敵にも目立った外傷はない。己の攻撃が、悉く受け流され、受け止められている。神代の世ではありえない光景だった。おまけにあの剣士の剣は、あらゆるものを切り裂く剣であり、あの身体はあらゆる攻撃を弾き返す無双の肉体ときた。肉を切らせて骨を断つ、という戦法はまったく役に立たない。もっとも、そのような手に出なければならぬほどに追い詰められているわけでもない。この生と死を綱渡りしている感覚は、紛れもなくメドゥサを討伐したあの戦いのもの。久しく感じることのなかった死の実感に、ペルセウスは武者震いを隠せなかった。
そして、一つはっきりしていることは、目前の二人が名実ともに、このペルセウスの乗り越えるべき試練だということだ。
二本目の剣の切っ先をサルバトーレに斬り落とされて、ペルセウスは後退する。それ以上踏み込んでは、己の半身と別れを告げることになってしまう。
アテナが護堂を弓矢で狙撃する。その数は三。戦神たるアテナに扱えない武具はなく、弓術においても超一流だ。狙いすました矢は、護堂の操る楯と楯の間をすり抜けた。
「う、と」
護堂は近くにいたサルバトーレのアロハシャツの襟首を掴むと、
「すまん」
全力で引っ張った。
サルバトーレは権能のせいで異常なほどに重量があるので動かせない。護堂が自分の身体をサルバトーレのほうに引き寄せて、その後ろに隠れる形となる。
「イタタ!」
アテナの矢のうち、一本は地面に突き刺さり、二本は護堂の身代わりとなったサルバトーレの身体に当たった。無論、『鋼の加護』によって、その矢は無効化されて地に落ちる。サルバトーレ自身には傷一つつかない。
「楯にするなんてヒドイじゃないか、護堂!」
「悪い、咄嗟のことで……」
護堂が謝ろうとしたその瞬間だった。
サルバトーレが護堂に視線を向けた隙を突いて、ペルセウスが鋭い踏み込みをした。対応できるのは護堂だけだ。反射的に護堂が言霊を投げかける。
『弾け!』
放たれた呪力は壁のようにペルセウスの前に広がって、その身体を強制的に十メートルほど後退させた。
攻めあぐねるペルセウスは、しかし、苛立ちとは無縁の清清しい表情で笑っている。
「すばらしい。この世に降臨して最初の敵が、これほどの勇士であったことを喜ばしく思うぞ!」
敵が打倒するに足るものならば、全力で戦わねば非礼に当たる。
「私も最高の状態で君たちに当たらねばならないな。ふふ、私が数多ある名の中から何ゆえペルセウスを名乗ったのか、その理由をとくとご覧あれ!」
ペルセウスは凶悪な笑みを浮かべて大きく後退した。その距離は二十メートル。神速でも使わなければ一足で踏み越えることはできない距離。
「む?」
アテナですら、ペルセウスの呪力の高まりを警戒して距離をとった。
「なんか来るぞ!」
「みたいだねッ!」
焦りを浮かべる護堂と楽しげに笑うサルバトーレ。
その二人を目掛けて―――――――――――――――雷撃を纏った白い巨星が襲い掛かった。
■ □ ■ □
その一撃は小惑星の衝突を想起させた。
それほどの破壊と熱量を、ペルセウスが放った攻撃は持っていたのだ。
「おお、さすがはギリシャの英雄だ。そうこなくっちゃ面白くない」
「のんきだな、おい。あれ見ろよ。道路が消し飛んでやがる。直撃はさすがのお前でもやばいんじゃないか?」
「どうだろう。多分大丈夫なんじゃないかな。だめな気がしないからいけると思うけど?」
「頼むから、試しに受けてみようとか思わないでくれよ……」
サルバトーレの頑丈さは知っているからいいとして、護堂はアレを受けて無事でいられるとは思っていない。
鼻を突く異臭はまるで毒ガスだ。焼け焦げたアスファルトや木々から出ているのだろう。風があるというのに漂ってくるほどの量が大気にばら撒かれてしまったのか。今、目の前に広がるのは瓦礫と土。白い港はたった一撃で大きく抉り取られ、地形すらも変わってしまった。大地に刻まれた溝は横に三メートル、長さ三十メートル、深さ一メートルといったところか。爆弾でもこれほどの被害は出せないだろう。
ペルセウスが必殺を放つ僅か零コンマ一秒前に、護堂はサルバトーレの首を掴んで土雷神を発動した。とにかく避けなければならないという危機感に突き動かされてのことだった。結果として、二人は難を逃れた。
そして、護堂は空を見上げる。
月を背景に、力強く雷を踏みつける白い馬。その背には主であるペルセウスを乗せ、天使を思わせる一対の翼を羽ばたかせている。一歩前に出るごとに雷鳴が轟き、閃電が奔る。
「ペガサスか。ペルセウスだからな」
ペガサスは世界中でその名が知られる天馬だ。
ギリシャ神話ではペルセウスとベレロポーンの二人の英雄の武功を支え、天に昇ってゼウスの雷を運ぶ役割を担っているとされる。
ギリシャ神話は様々な国の神を取り入れて成立した神話だ。
主神であるゼウスはインド系、アテナは北アフリカ、ペルセウスはペルシャを起源とする。このペガサスも多分にもれず異国の神であった。
当然、明確な出生は古すぎてわからない。だが、一つの説を挙げるとすれば、ルウィ語からやってきたというものがある。
紀元前一千年前後、アナトリア半島西部にはルウィ人の王国であるアルツァワ王国が存在していた。絶頂期は紀元前一千五百年ごろとされる。
アルツァワ王国は紀元前一千三百年ごろ、ヒッタイトの大王ムルシリ二世によって滅ぼされ、四つに分割される。このムルシリ二世は、カデシュでラムセス二世と戦ったムワタリの父であり、疫病や反乱に悩まされながらもオリエントにおけるヒッタイトの最盛期をつくった英雄である。
ルウィ語は、そのアルツァワ王国で話されていた言葉である。
アルツァワ王国で信仰されていた神の中に、天候を司るタルフントという神がいた。この神は、雷を意味する『ピハサシ』という形容詞をつけて信仰され、時にはヒッタイトでも信仰されるほど強い影響力をもっていた。また、暴風神の戦車を引くのは、ルウィにおいては馬である。これらのことから、『ピハサシ』がギリシャ神話に取り入れられて『ペガサス』に変わるというのは、説得力のある説だ。
ルウィ人はギリシャに度々攻撃を行っていたようだし、トロイからはルウィ語の痕跡が見つかっている。
トロイと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、ギリシャ神話で最も有名な戦争であるトロイア戦争だろう。
考古学的には、紀元前一千二百五十年ごろにトロイで大規模な戦いがあったことがわかっている。この時期、トロイ近隣はヒッタイトの属国で、そのヒッタイトはアルツァワ王国を滅ぼした国だ。そして、トロイア戦争があったとされる時期は、アルツァワ王国が歴史から消えておよそ五十年後のことだ。ルウィ語がトロイで発見されるのもおかしな話ではない。
ルウィ語は、母国が滅んでも死ぬことがなく、紀元前七世紀までは使用されていたらしい。その時代まで来れば、最初にトロイア戦争を描いた『イリアス』も生まれている。
そうした栄枯盛衰の中で、生き残った国がギリシャであるから、ルウィの神々がギリシャの神と集合しても不思議ではない。
とにかく、厄介なのは空を駆けるという特性と、強力な雷を纏う突撃だ。
ペルセウスにはこちらの攻撃は届かない。そして、敵は自由にこちらを狙い打つことができる。
「上手く避けたな神殺し!」
ペガサスを駆る英雄ペルセウス。それが、彼の本来の姿か。伝承をなぞれば、それ以外に多くの武具を隠し持っている可能性は高い。
未だにメドゥサの首を刎ねた鎌剣を持ち出していないところも怪しい。
「さて、どうする。サルバトーレ」
上空を疾走するペルセウスと、地に足をつけて死の鎌を構えているアテナの両方を相手にするのは、難しい。意識しなければならない領域が広すぎるのだ。空と地に同時に気を払うのは大きな隙を生みかねない。
「獲物を分け合おう。僕はペルセウスをやる。アテナとはこのまえ戦ったしね」
「それがベストか。空の敵と戦えるのか?」
護堂の気がかりといえばそこだ。空戦能力のないサルバトーレが、天空を疾走するペガサスとその主に対抗する手段を有するかどうか。
「当然。僕の剣を舐めないでもらいたいね」
だが、サルバトーレはそんな護堂の心配を一笑に付した。
敵が空の果てだろうが、地の底だろうが、斬り捨てる。それがサルバトーレ・ドニだといわんばかりの自信を持って、そう言った。
「じゃあ、それでいい。ここから先は個別の戦いだな」
「そうだね。なかなか、楽しかったよ。連携っていうのも、面白いものだね」
「だな」
お互いが微笑みあった。
護堂にとって意外だったのは、誰かと一緒に戦うということが、とても楽しく思えたということだ。
これまでは単独での戦いが主で、晶たちもいてくれたが、対等に死線を潜るという場面はなかった。この戦いは、護堂がカンピオーネになって初めての共同戦線であり、それゆえに新鮮さを感じたのだった。
「そうと決まれば、早いところ片付けてしまおう。護堂との戦いもあることだし、疲労回復は早く帰って寝るに限る」
「概ね賛成だ。つまらないところでくたばるなよ」
「護堂こそ」
そうして、二人は背を向けた。
サルバトーレは銀色に輝く腕と剣を彗星とも思える天馬に向け、護堂は十の切っ先を大地の女神に突きつけた。
空と地で二柱の神が笑う。
彼らもこの戦いに愉悦を感じていたのだろうか。
第一ラウンドはここで終幕。
戦いの流れは、カンピオーネにも『まつろわぬ神』にも傾くことなく変化した。
第二ラウンドからは一対一の真っ向勝負が繰り広げられることになる。