陽気で明るく人懐っこい。そんなイメージを違えることのないサルデーニャ島の人々はしかし、この日ばかりは沈うつな雰囲気に呑まれざるを得なかった。
サルデーニャ島最大の都市カリアリの路地裏にある
朝からテレビのワイドショーを賑わせるのは、事件現場を取り囲む警察の様子と、恐怖に慄く周辺住民の姿だった。
そして、ショックを受けているのは、地元住民だけではなかった。
「先輩、この人って……」
テレビ画面に映されたのは、昨日の殺人事件の犠牲者達の名前。その中に、覚えのある名前を見つけて、晶は息を呑んだ。
殺人。
規模の大小はその時々で違うものの、こういった事件がワイドショーを騒がせるのは、世界的にも治安のよい日本でもよくあることだ。遠い異国の話と方をつければそれまでだが、今回ばかりは護堂も他人事というわけにはいかない事情があった。
「間違いなく、一緒にフットサルをしたあの人だ……」
この島に渡ってきたその日に親しくなり、ともにフットサルを楽しんだメンバーの一人が、殺されたという。状況からして、事件に巻き込まれたのだろう。多くの遺体が、損傷が激しい無残なものだったのに対して、彼の遺体は首を切られただけだったとも伝えられている。
殺害方法の違いから、ジャンは巻き込まれた不運な犠牲者という扱いで、その年齢もあって悲劇性を帯びた報道がされていた。
信じがたい、という気持ちは強い。
付き合いはほんの数時間。しかし、それでもともに楽しい時間を共有した友であることは間違いない。その命が、将来が、こんなにもあっさりと失われてしまったことが信じられない。
だが、同時に、冷静にその事実を受け止めている自分もいた。
この時、護堂の思考を占めていたのは、事件の犯人は誰なのかということ。
イタリア南部を騒がせている連続殺人事件の犯人と同一だとするならば、護堂だけでなく、祐理や晶にまで危害が及ぶ可能性がある。
すでに、敵は一時的にとはいえ、護堂を死の淵まで追い込んでいるのだから。
「この事件の犯人は、草薙さんを襲った方と同じなのでしょうか?」
祐理が、不安そうに言った。
「違う、とはさすがに言えないだろうな……問題は、手口が異なるってことだけど」
これまでの事件では、遺体から臓器が摘出されていた。護堂を襲った相手も、護堂から心臓を抜き取って、喰らうという猟奇的な行動をとっていた。
相手は、非常に高位の呪術師。もしくは、神祖か『まつろわぬ神』のなりそこないだ。あれだけの常軌を逸した行動をするからには、そこに呪術的意味合いがあると考えるのが当然といえる。
しかし、今回は、違う。
犠牲者は、二十三名にもなるが、その中の誰一人として臓器を抜き取られた痕跡はないという。その代わり、ジャンを除くすべての遺体は、徹底的に破壊されつくしているらしい。
「行動の変化が意味するもの、か」
「順当に考えれば、臓器を抜き取る必要が無くなった、ということでしょうけど」
それが妥当か。
晶の言うことが、最も理に適っている。そして、恐らくは、それが正しい。
とすると、問題はその理由。
なぜ、臓器を抜き取る必要がなくなったのか。
そして、なぜ、大量殺人を行ったのか。
臓器を喰らうという行為に呪術的な意味合いを求めるのなら、大量殺人にも何かしらの意味があるはずだ。
「段階を踏んでいる、という感じはあるけど」
「臓器を喰らうという行為から、発展しての殺人ですか」
もしも、この大量殺人にも呪術的な意味合いがあるのなら、この先も多くの人が殺される可能性がある。
「いくか、カリアリに」
護堂は、滞在日程を繰り上げて、カリアリに戻ると決めた。
■ □ ■ □
事件現場となったのは、本当に静かな裏路地だ。周りを、建物の石壁に囲まれた細い道は、昼でも薄暗く、太陽光を乳白色の淡い影に変換している。
事件現場となったバールの周囲は通行規制がかけられ、店の入り口は、黄色いテープで立ち入りを制限されていた。
「人払いってやつか」
店の周囲は、不自然なほど人気がない。
たゆたう呪力は、人の認識に作用して、この場に近寄らせないようにする人払いの一種だった。
この事件の解決には、すでに呪術師たちが動いていた。
なぜなら、今回の犠牲者二十三名中、ジャンを除く二十二名が、呪術師だったのだ。
「ここで、取引をしていたわけですか」
事件から一夜を明かした店の中は、ペンキを塗りたくったかのような血の痕がいまだに生生しく残っていた。
赤黒く、血臭漂う店内をぐるりと一望し、護堂が確認をとった。
「はい」
と一言。
背後にいる黒服の青年は、シチリア島の魔術結社《パノルモス》の一員だ。この事件を受けて、サルデーニャに派遣された。
「相手はそれを狙ってきたってことですか」
「我々の同朋が電話で救援を要請した際の会話から察すると、そういうことのようです」
淡々とした口調で、青年は語る。
「いったい何を、取引していたんです?」
「神具ですよ。とくに呪力を宿しているわけではないので、今は美術品程度の価値しかありませんから」
神具と聞くと、あまり良い思い出のない護堂は眉を顰めてしまう。
護堂がカンピオーネとなった事件にも、このイタリアで巻き込まれた騒乱にも、神具が関わっている。
「危険はないはずだったと?」
「はい。少なくとも、神具そのものには」
まさか、その神具を狙ってくる輩がいるとは思っていなかったのだろう。なにより、二十二名の呪術師が一堂に会しているところを強襲するなど、普通は考えないことだ。
「相手に心当たりはありませんか?」
尋ねられた青年は、首を横に振るばかりだ。
《パノルモス》はれっきとしたシチリアマフィアだ。敵の心当たりがありすぎて、見当がつかないということもあるだろう。が、今回ばかりは、本当に誰が何の目的で行ったのかまったくわからないのだそうだ。
「ただ……」
「ただ?」
「相手のことを、銀髪の女と。電話はそこで途切れてしまい、後のことは分からないままとなりました」
「銀髪の、女」
脳裏に浮かぶのは、一人の少女の姿。
鮮烈なまでに印象的な、銀髪の少女。
「エンナか」
ぽつり、と護堂は呟いた。
そんな気はしていたのだ。だから、驚かなかった。むしろ、納得したというほうが正しい。
「分かりました。それで、その神具は奪われたのですか?」
「いいえ。この場はあくまでも交渉の場。実物はここではなく、《パノルモス》の本部に封印処理をした上で安置してあります」
「なるほど、それは……まずいのでは?」
「はい」
《パノルモス》の本部は、シチリア島のパレルモにある。護堂も対メルカルト戦において、訪れたことがあった。
「敵が、何者であれ、二十二名の呪術師を一方的に葬るほどの実力者。狙いが神具だとすれば、本部が強襲される可能性もあります。しかし、敵の正体が不明だからこそ、迂闊に神具を手放すわけにもいかないのが現状でした」
「上は現状維持を選んだわけですか」
神具は基本的に破壊不可能。不滅不朽とも形容される物理的、呪術的干渉を受けず、時間の経過にすら影響されない永遠不変の神の遺物である。危険だからといって破壊することはできない。サルバトーレのように、切り裂いた例もあるが、あれは不滅不朽の概念をもたなかったのか、あるいはサルバトーレが異常だったのか、何れにせよ、カンピオーネだからできた芸当であり、一呪術師に神具の破壊は不可能だ。
「わかりました。協力、ありがとうございました」
現場担当の呪術師は、護堂に一礼して去っていった。
組織の末端にいる人間が、カンピオーネと親しくしすぎれば、背中が危うい。彼もマフィアの一員なので、そのことは肝に銘じてあったのだ。
「やれやれ、相変わらずの扱いだな」
苦笑しつつ、店内を一巡してきた祐理と晶に視線を向けた。
「万里谷、視えたな?」
護堂は、断定から会話に入った。
祐理の表情は固く、顔色は悪い。凄惨な事件現場に女子高生が足を踏み入れるというだけでも異常なことだ。祐理は精神的に同世代と比べ物にならないくらいに強いが、それでも血というものに対する忌諱感は当然ある。しかし、祐理を動かすのは、自分よりも他人を重んじる精神であり、この場に流れた血がさらなる惨劇の呼び水となるのであれば、目を背けることなどできはしない。
「はい、草薙さん」
祐理は、力強く、頷いた。
「相手は、エンナで間違いないか」
祐理と晶は、一瞬だけ目を丸くして、それから再び頷いた。
「そうか」
一時は親交を深めた相手と戦うのは、気が進まない。向こうがどう思っているかはわからないが、それでも、護堂は戦うのを避けたかった。
しかし、現実は甘くはない。
護堂が望もうが、望むまいが、エンナの行いを見過ごすことはできないという点は、動かしようのないことだ。エンナがこれから殺人を犯さないようにするためには、もはや戦うしかないということも分かってしまっていた。
「わかった。話は道すがら聞くよ。もう、ここには用は無い」
「次は、どちらに行くのですか?」
「パレルモ。シチリア島の魔術結社《パノルモス》の本拠地だ」
□ ■ □ ■
『死』は常に彼女とともに存在した。
数ある神々の中でももっとも残忍で、もっとも力強い女神として崇拝された女神。横暴でわがままで、宴会の最中に衝動的に兵士を部屋に押し込め、皆殺しにして悦に浸ったこともある。
命を奪うことに、罪悪感を抱くはずがない。
戦争と狩りの女神たる者が、相手を殺すことに躊躇するべきではないのだし、そういった思考そのものが存在しなかった。
――――あの時までは
罪の無い者が命を落とし、古の約束に従い、世界は七年の旱魃に襲われた。
手の平から零れ落ちる命を前に、慟哭するしかなかった。
欲した物は、自らの手に渡ることなく、永遠に失われた。
何もかもが、彼女にとっての不運。
生まれて初めての挫折と後悔は、未だに彼女の胸を仄暗い炎となって苛んでいる。
知らず、早足になっていた。
鼓動が高鳴り、身体は軽く羽のようだ。
シチリアは、彼女にとって特に縁深い土地だ。
この春、彼女の兄が『まつろわぬ神』となり、草薙護堂と火花を散らした地。
彼女の望みは唯一つ。失われたモノを取り戻し、かつての悔恨を雪ぐことだけである。
目の前には、漆黒の門。
門の向こうには庭園が広がり、左右対称の洋館が小山のように聳えている。
目的の物品は、あの洋館の中にある。
多くの血と肉を喰らい、力を取り戻しつつある彼女は、それが容易に理解できた。
「待ってて……今、行くから」
口角を吊り上げて、彼女は門を押し開けた。
固く閉ざされていたはずの門の鍵は、いとも簡単に開いた。まるで彼女こそがこの洋館の主であるかのように門は、彼女を迎え入れる。
そして、再び殺戮が始まった。
□ ■ □ ■
サルデーニャからシチリアまでは、飛行機でおよそ一時間かかる。
たいした時間ではないが、それでも、今の護堂からすれば大きなタイムロスになる。
公共交通機関は使わない。護道は、土雷神の化身と伏雷神の化身を使い、シチリアまで向かうことにした。
土雷神は土中を神速で移動する化身であり、伏雷神は、湿気の多さを条件に神速で移動する権能だ。どちらも神速であるが、その条件は限定的である。とはいえ、移動するだけならば、何の問題もない。問題はしばらく晴天続きのサルデーニャでどのようにして伏雷神を使用するかだが、水分量が多ければ使えるというところから、海中を移動するという方法で伏雷神を行使した。
ずいぶんと無茶な方法だったが、うまくいった。
根性のおかげか、それとも権能の掌握が進んでいるのか。何れにせよ、多少は無茶な使い方ができるようになったということらしい。
飛行機で一時間の道のりを、ほんの一秒以下に短縮した護堂は、パレルモの港に現れた。実に、四ヵ月半ぶりのパレルモ港である。まさか、このような形で再び足を踏み入れることになろうとは、思いもよらなかった。
パレルモは、シチリア王国の首都として栄えた良港を擁する都市だ。現在でもシチリア自治州の州都として機能している。
「うまくいきましたね、先輩」
「ああ。伏雷神の新しい使い方ってところだな」
長距離を神速で移動したのは、ゴールデンウィークのときに、東京から京都までを飛んでいったあの時以来のことになる。
護堂と晶が佇んでいるのは、真っ白な港の駐車場である。
「ここまで来たからには、突っ込むしかないぞ。いいんだな?」
「もちろんです。誰が来ようと、後れを取ることはありません」
事ここに至っては、戦うしかない。戦場に足を踏み入れる以上は、祐理をつれてくるわけにもいかない。祐理は不承不承ながらも、サルデーニャに残ることを了承してくれた。
晶は、この場にいない祐理の分も存分に働こうと、意気込んでいるのだ。
「ッ……」
少し離れた高台で、呪力が渦を巻いている。
『まつろわぬ神』たちと戦う日々を送ってきた護堂には、すぐにこの力が大地に結びつく力だということに思い至った。
「一足遅かったか! 急ぐぞ!」
護堂は晶の手をとって、土雷神の化身を発動する。
自らの身体を雷へと変化させ、呪力の発生源へと急いだ。
洋館の中は、悲惨な状態だった。
庭の中央にある噴水は、今や真っ赤に染まっている。ぷかぷかと浮かんでいるのは、人の身体の一部分に違いない。万力で引き千切られたかのような死体が、そこかしこに転がっている。
入口のドアは押し破られ、洋館全体を守護していたであろう結界は、完全に破壊されて消滅している。
「晶、大丈夫か?」
「はい……大丈夫です」
大丈夫なわけがない。だが、晶は気丈にも、そう言って引きつった笑みを見せる。偏に、護堂の足を引っ張らないようにするためだ。
それでも、手の平が汗ばんで、鼓動が早くなり、血の気が引くのを晶は感じていた。
護堂は、エントランスに入ると、真っ先に、血の海の中に横たわる男性の下へ向かった。片膝をついて、生死を確認する。
「クソ、やっぱりダメか」
洋館の中も、庭に負けず劣らず、ひどい有様だ。
ほんの少し前までは、花瓶、絵画、彫刻といった決して安くはない美術品の数々が、博物館のように並べられていたエントランスは、影も形もない。
十人余りの死体が無造作に投げ出され、多くの貴重な美術品が失われた。
それを惜しんでいる場合ではない。
屋敷の中は、静かで争う物音も聞こえない。それはつまり、この屋敷の中での戦闘が終結したことを意味している。
全滅か、逃亡か。
後者であれば、まだ救いようがある。被った打撃は大きいが、サルデーニャにも有志がいる。組織を再編する必要はあっても、瓦解することはない。
「まあ、《パノルモス》の心配をしても仕方ないか」
護堂は、右手に肉厚の刀を召喚する。中華刀の形状を模したそれは、分厚く、幅広の刀身で、楯としても機能するようにしているのだ。
晶も、両手に拳銃を召喚して、四方を警戒している。
狭い屋敷の中では、取り回しの利く拳銃が効果的だからだ。
「先輩、相手の……エンナさんの居場所は、わかりますか?」
問われた護堂は、瞼を閉じあわせて、少しだけ黙考する。
感覚の網を張り巡らせる。
超直感。感覚に干渉する『強制言語』の権能は、呪力を探ることに応用できる。
「地下だ。この真下。きっとどこかに階段か何かがあるはずだ」
■ □ ■ □
果たして、護堂の読みは的を射ていた。
一階の通路の途中、不自然に開いた大穴から、下方へ続く階段がのぞいていた。
おそらく、普段は大きな絵画で蓋をして、隠している階段なのだろう。入口には、引き裂かれた絵画が無残な姿で転がっていた。
オオオオオオオンン……
怪物の唸り声を思わせる風が、真下から吹き上がってくる。
らせん状の階段は、明かり一つ無く、真っ暗で、まるで異形の魔物が口をあけて待っているかのようだった。
一歩歩くごとに、足音が反響していく。
どこまでも響く音は、闇の中に吸い込まれて消えていく。
後は、それをひたすら繰り返すだけ。護堂も晶も、もはや何も言わなかった。
どれだけ歩いただろうか。暗闇はどこまでも続き、終わりなどないかのように思えた。それでも、終わりはやってくる。眼下に、ボウ、とした青白い光を認めたとき、晶などは思わず安堵の表情を浮かべたものだ。
階段の先は、大広間だ。古い聖堂を思わせるそこは、おそらく祭壇として扱われていたのだろう。
壁面はすべてが大理石。部屋の中央は円形の池で、くるぶしが浸かるくらいの浅さに維持されていた。そのさらに中央にひとつの祭壇が設置されていた。
青白く輝く祭壇に、すがりつくようにして、彼女はいた。
「来たの。早かったね、クサナギ=サン」
透き通った声が、大理石に反響する。
美しい顔をそのままに、エンナから漏れ出る力が、その質を大きく変えていた。
「エンナ、と呼んでいいのか、それとも、『まつろわぬアナト』と呼んだほうがいいか?」
「そう、マリヤね。あたしの来歴を視ることができるのは彼女くらいのものだから……」
アナト。
カナン神話に登場する、古き地母神で、バアルの妹、もしくは配偶者と考えられている女神だ。
司るのは、主に戦争と狩り。その性格は残虐で、傲岸不遜。衝動的に兵士を殺して、うっとりとすることもあれば、神々の盟主たるエルに対して、『願いを聞いてくれないのなら、その頭を叩き割って立派な髭を血に染めてやる』と脅したほどだ。兄バアルが宿敵モートに敗れた際には、バアルの肉を喰らい、血を啜り、モートに復讐の戦いを挑んでこれを倒した挙句に、モートの死体を八つ裂きにして箕でふるい、これを焼いて臼で挽き、畑にばら撒いたという。兄のバアルは、三月に護堂が倒したメルカルトの本地となる神だ。エンナが『兄の仇』と言ったのは、そこに起因するのだろう。
その行動から分かるとおり、アナトは非常に古い神格で、元となった女神は、遊牧民に信仰されたバアルがカナンやウガリッドにやってくるよりも前から信仰されていた。紀元前二千年からヘレニズムくらいまで、オリエントで信仰を集め、その神格は、シュメールのイナンナやアッカドのイシュタルとほぼ同一と見られている。また、その名で分かるとおり、ギリシャのアテナとも神格の一部を共有している。
シチリアをはじめとする地中海一帯は、古代の世界において商業の中心的役割を担ってきた。エジプトやギリシャ、ローマ、シリアなど、独自の文化を持つ国々の間に位置するこのシチリア島は、まさに文明が激突する島なのだ。
この地中海沿岸で崇拝された原初の地母神に、オリエントから伝わった女神や北アフリカの女神が組み合わさって生まれたのがアナト。ギリシャのアテナも、本来は都市国家の守護神だったものが、北アフリカやギリシャに侵入してきた異民族の影響を受けて誕生した可能性がある。何れにせよ、この地域の神々は似たような名を持ち、同じような成立過程を経て、独自の神話を持つに至ったのであり、言い方を変えれば、姉妹のような関係になるのだ。
祐理の霊視した通り、彼女はアナトの神格で間違いないようだ。銀色の髪も、幼さを残しながらも絶世の美少女と呼べる顔立ちなのも、どことなくアテナを髣髴させる。
「ふ、ふふ。でも残念ね。あたしは、まだ『まつろわぬ神』になってない……性を取り戻していないから」
なぜか、とても憔悴した顔で、うつろに笑っている。力なく祭壇に背を預け、足を投げ出して座る様は、まるで、病人だ。
「なら、エンナと呼ばせてもらう」
「そうね。それがいいわ」
「なぜ、偽名を名乗ったんだ? エンナは神としての名を覚えてはいたんだろう?」
「そのほうが動きやすいから。知ってる? あたしみたいな神としての性を失った神格は、自分の神話を再現することで、『まつろわぬ神』に戻ることができる……失った性を取り戻せるの……」
「それで、人を殺して回っていたってのか? 臓器を抜き取るのも、ジャンを……あんな風に、たくさんの人を殺すのも、神になるためだったってのか?」
「そうよ」
毅然とした声で、エンナは言う。
「あたしにとって、神に立ち返ることが何よりも重要だった。エンナって名前は、なんの捻りもなくあたしの別名から取っただけ。ちょうど、同じ名前の都市もあったから、そこ出身だと勘違いしてくれる人もいたっけ」
「アト・エンナ。確か、そういう名前でも呼ばれていたな」
「ええ、単純でしょ?」
「ああ、本当に」
気づいてみれば、あまりにも簡単で、隠そうという意思すらも感じられない。だが、まさか目の前にいるのが、カナンの女神だなどと疑う人間はいない。呪術師ならばまだしも、エンナが相手にしてきたのは、呪術の存在すら知らない一般人ばかりだ。もはや、一般には、聖書の中に出てくる悪魔としてしか名前の残らないエンナのことなど、誰も気づかない。
「それで、その手に持っているのが、エンナの欲しがっていたモノってわけか」
エンナが大事そうに抱えているのは、今にも朽ち果てそうな黒い木の棒だ。だが、それが持つ一種の神秘性は、それがこの世の物品ではないことを如実に物語っている。
「そう。これは、アクハトの弓。鍛冶の神が創り、あたしに届けるはずだった弓……永遠に失われた、彼の弓」
「天の弓ってやつか。それを、エンナはずっと探していた」
女神アナトと王子アクハトの物語。
今回の事件は、そこに端を発するものだった。
「本来なら、これは、あたしが持つべき弓だった。だけど、ちょっとした手違いからアクハトのものになってしまった……それ自体は仕方のないこと。あたしは弓を取り戻すために、アクハトのところに行った」
少しずつ、アナトは自らの来歴を語り始めた。
アクハトを訪ねたアナトは、初めに金銀財宝と弓を交換しようと提案した。ところが、アクハトは相手が女神アナトであることすらも信じなかった。欲深い、ただの少女だと思ったのだ。アクハトは、アナトに対して、弓が欲しければレバノンに行って自分でつくればいい。もしも本当に女神なら、鍛冶の神に頼んで作ってもらえばいいとアナトの要求を拒否。もちろん、アナトも黙ってはいない。負けず嫌いなアナトは、今度はアクハトに永遠の命とバアルの食卓に同席する権利を与えようとする。それを、またしてもアクハトは固辞する。人間は何れ死ぬもので、アナトの言っていることは子どもに語って聞かせるような夢物語だと一蹴したのだ。挙句、アナトのことを『若いご婦人』と呼んで子ども扱いだ。これにはアナトもカチンときた。
「それで、あたしは言ってやったのよ。『あんたが、あたしを若いご婦人と呼ぶのなら、あたしはあんたを見目良い王子様と呼んでやってもいい。けれど、いつかその見目良い王子様があたしの足元にひれ伏す時がくるでしょうね!』ってね。それで、あたしはアクハトを処罰するために父上のところに帰ったのだけど、父上が軟弱者で、頼りにならない。『その髭を赤く染めてやろうか!』って言ったらあっさりと折れてくれたけどね」
楽しそうに昔語りをするエンナ。その表情は心なしかほころんでいる。
それにしても、この女神、言動が目茶苦茶である。ツンデレなのかヤンデレなのか分からないが、現代のライトノベルのヒロインを思わせる言動が随所に見られる。
「そして、アナトはアクハトを殺すために動き回ったわけだ」
「そう。殺し屋のヤプタンってのを雇った。それから、アクハトのところにもう一度行って、彼を狩りに誘った」
その時のアナトの台詞は、『あなたがあたしの兄になってくれたら、一緒に狩りに行けるわね』である。なぜ、アナトがいきなりアクハトの妹になろうとしたのか謎であるし、アクハトがあっさりこれを了承したのも謎である。そんなに妹がいいのか、などと思ってはいけないはずだ。
ともあれ、アクハトは身の危険に気づくことなく出かけてしまった。
一方のアナトは、ヤプタンの計画したアクハト殺しの方法を聞いている間に、胸騒ぎを感じ、不意にアクハトへの恋心を自覚してしまう。まさか、思い人を殺すわけにもいかない。アナトは急遽、作戦を変更し、アクハトを気絶させて弓だけを奪うということにした。アナトにとっては、すべてが万全だったのだろう。アクハトを殺さず、弓を手に入れることができるのだから。だが、ここで、致命的な認識の違いがアナトとヤプタンとの間にあった。
アナトの指示は、『アクハトの息を止めること』だった。これは、つまり気絶させろ、ということだ。が、しかし、初めから殺す気満々で、そのために雇われたヤプタンは、この指示を『アクハトの息の根を止めること』と解釈した。
あまりにも致命的な認識の差は、そのまま悲劇となってアクハトを、そしてアナトを襲った。
「そうして、アクハトは死んだ」
護堂の呟きに、エンナはゆっくりと頷いた。
「アクハトの死は、呪いとなって大地に広がった。世界は七年もの間、満足に雨の降らない死の世界になった。古い神々の契約の通り、無実の者の死が世界に呪いを振り撒いたの」
「アクハトの仇は、姉が討ったんだったな」
アクハトには仇討ちをしてくれる男の兄弟がいなかった。だから、代わりにアクハトの姉パグハトがヤプタンを殺し、アクハトの仇を討った。
「弓は……」
「失われた。ヤプタンが、海に落としてしまったから。これが、その弓。こんなもののために、あたしはアクハトを殺した!」
訥々と語っていたところで、言いようのない怒りの念が湧き起こってきたエンナは、感情をあらわにして叫んだ。
「あなたは、後悔しているんですね」
晶の呟きは、広間に木霊した。
「……そうよ。だから、あたしは『まつろわぬ神』になろうとした。今のままでは、アクハトを蘇らせることはできない。ケド、アナトは死を司る女神。神性を取り戻せば、きっとアクハトを取り戻せると、そう思ってた」
そのために、アクハトと縁のある弓の神具を捜し求め、自らは来るべき日のためにアナトの神話をなぞった殺戮を繰り返した。すべてはアクハトを蘇らせ、かつての無念を晴らすためだ。
「だけど、それは……」
晶が、途中まで言いかけて、口を噤んだ。神話にはまだ疎い護堂も、エンナの口ぶりからその先を察するくらいの機微はある。
「そう。『まつろわぬアナト』ではアクハトを蘇らせることはできない。他の誰かならば、まだしも、アクハトは決して蘇らせることができない。それが、神としてのアナトの限界だから」
その事実に彼女は思い至って。だからこそ、このような生気の抜けた表情をしているのだ。自らの行為が、思いが、何もかもが徒労に終わった。手元には、かつて執着した弓があるが、エンナにとってそれは自らの罪を自覚させるだけの物品でしかない。エンナはただ、アクハトを蘇らせたかっただけだ。弓は、そのための触媒でしかない。
アナトではアクハトを蘇らせることはできない。
それは、アナトとアクハトの神話の最後がすでに失われて久しいからだ。
アナトはアクハトを失い、慟哭の涙を流すが、それ以降神話に登場することはない。その後の物語は、アクハトの仇討ちをパグハトが行ったところで途切れているのだ。おそらく、アクハトは蘇ったのだろうといわれているが、神話に残っていない以上は、『まつろわぬ神』には関係がない。『まつろわぬ神』は神話を基にして構成される。つまり、神話が変わってしまったり、失われてしまったりした場合、その『まつろわぬ神』は別物になってしまうのだ。古代のアナトがアクハトを蘇らせていたとしても、現代にその神話が伝わっていなければ、アナトにはアクハトを蘇らせることはできない。なまじ、神話にアクハトを失って涙する姿が記されているだけに、アナトにできることは、アクハトの死に対して涙するだけとなってしまう。仮にアクハトが『まつろわぬ神』となっても、アナトは、アクハトの敵対者になってしまうだろう。神話において、アナトはアクハトを殺したという結果しか残っていないからだ。
『まつろわぬ神』の限界。
神話から抜け出してきた彼らの権能は、彼ら自身の神話によって制限されることになるのだ。
「なんて……」
かわいそうに。
晶は、エンナに同情を禁じえなかった。
後一歩で、すべての望みが叶う。そう信じてここまでやってきたというのに、その先に待っていたのが、絶対に望みは叶わないという、神ですら覆せない残酷な現実だった。
エンナが奪ってきた数多くの命すら、この時点で無駄になった。
「それで、そんなにも中途半端なのか。『まつろわぬ神』になろうとしている身体を、無理矢理押さえつけているのか!?」
『まつろわぬ神』になる条件は、ここに来た時点ですべて満たしていたはずだ。それなのに、未だにエンナのまま、ここにいることに、そして、ひどく衰弱していることに疑問を持っていたのだが、その疑問が一気に氷解した。
「なんだ、気づいているの……く、ふふ……『まつろわぬ神』になったら、本当にすべてが台無しになってしまうからね。あなた、が、ここに来てくれたのは、僥倖だったのかも」
護堂も晶も理解した。
『まつろわぬ神』として顕現するとなれば、きっと、今のエンナはいなくなる。エンナとして抱いた思いも、希望も、絶望も、何もかもが変転する。エンナは人ではなかったが、人とわかりあう精神を持っていた。変化していく過程でそれが、『まつろわぬ神』としての性に引かれていったことは否めないが、エンナがエンナとして抱いた思いは、実に人間的な感情だ。今や、エンナに残されたものは、その思いだけと言っても過言ではない。
エンナは思いを守るために、必死になって自分を変質させようとする力に抗っているのだ。
「…………望みは?」
護堂は重い口を開いた。
「このまま、殺して」
答えは予想していた通りのものだった。
エンナは、エンナのまま、この世を去ろうとすると、彼女の様子から察することができたのだ。けれど、それは納得できない。エンナには、償うべき罪が多すぎる。
「それで、いったい誰が救われるってんだ。お前が殺してきた多くの人たちは、いったいどうなる。あの人たちの思いとか、ジャンなんて、一緒にフットサルした仲なんだろうが」
「そうね。本当に、みんな運が無かった……」
「運って。運で片付ける気かよ。殺された人たちがそれで納得する訳ないだろうが!」
殺された人間の気持ちを推し量るだけ無駄だと、頭では分かっている。だが、感情は納得しないし、運で人死が許容されるという考え方も真っ平ゴメンだった。
「だとしたら、どうするの? どっちにしても、あたしには時間、が、ない……あと少しで、あたしはあたしでなくなる。神になったあたしは、もっとたくさんの人を殺して回るわ。無秩序に、無差別にね」
それが、『まつろわぬアナト』だと。殺すことが、アナトらしい行動なのだと、エンナは言う。
護堂の主義主張はどうあれ、今、自分を殺しておかなければ、無関係な人たちが命を奪われる。それは、護堂にとって、最悪の事態だ。
「先輩……」
晶が、護堂の袖を摘んだ。
もう、終わらせてあげて、と晶の瞳が語りかけてきた。
「クソったれが!」
珍しく、汚い言葉で罵った。
エンナのことか、それともこうする以外の選択肢を持たない自分に対してか。
「納得いかねえよ。ちくしょう。そんな風に命を粗末に扱いやがって!」
中華刀を片手に、護堂はエンナの下に行く。
祭壇に青白く照らされたエンナは、はかない蛍のように淡い輝きを身に纏っていて、触れたら崩れそうなガラスを思わせた。
「手間、かけさせるわね」
護堂は、中華刀を振り上げた。それは、無慈悲なギロチンである。命を以って、命に対する罪を贖わせるための、凶器。
「……あの世で、アイツに謝れ」
「そうね。それくらいは、しておかないと……」
そう言って、エンナは目を瞑った。
それを合図に、護堂は凶器を振り下ろした。
肉を断ち、骨を砕き、噴出す暖かい鮮血が護堂を真紅に染め上げた。それも束の間、かつてエンナだったそれは、瞬く間に風化していく。柔らかい肉も、熱いくらいの血潮も、珊瑚のような輝く砂となっていく。
なんだこれは。
結局、後に残ったのは、物言わぬ神具と砂だけだ。
そこに命があったことすら感じさせない、実に無機的な世界だ。
こんなことのために、多くの血が流れたのか。たった一人の少女の、恋物語の結末は、誰も救われず、何も報われず、ただ失われた痛みだけを残すものだった。
「納得できるか、こんな終わり方……」
苛立ちとともに、中華刀を地面に叩き付けた。
ガラスのような音を立てて、凶器は砕け散る。
エンナの命を絶った凶器すら、この世には残らない。いったい、彼女はなんのために、この世に生まれてきたのだろうか。なぜ、このような終わり方しかできなかったのだろうか。
悔しくて仕方がない。護堂は、相手の命を奪うことでしか、事態を収拾することができなかった。あまりに無力。あまりに無意味。神を殺す力があったところで、何一つ救うことができなかった。護堂がしたことといえば、ただ殺しただけ。
後味が悪い。あまりに、気分の悪い、一日だった。
実習から帰って参りました。
最後のほうとかほぼ徹夜でござった。なのに、うまくいかなくて何年かぶりに泣いてしまった。
まあ、そんなことは置いておいて。
実習が驚くほどの金食い虫だったということがねえ。
なんだかんだで二万近くかかってしまった。先月の収入が七千円で、今月の労働時間が二百六十分だというのに……もともと週一のシフトだったのに、実習で二回休んだから。
金がない!