四十九話
暗闇があった。
音も光も存在しない正真正銘の闇。
湿った土と鼻を突く腐臭。
闇の中をうごめく何か。
「ホッ……」
笑った。
暗闇に、ボウ、と光が灯る。ろうそくの弱弱しい光は、その空間にあって、尚一層不安を煽る妖しさを醸し出している。
揺れる光に照らされて小さな人影が浮かび上がる。
老人だ。
長い口ひげに隠れた歪な唇は、楽しげに三日月形となっている。
「ホホ、ずいぶんと熟れてきておるようじゃな。重畳重畳」
ろうそくを置いた文机は、無造作に地面に置かれている。老人は、蓆を地面に引いて、その上に胡坐をかいて座っていた。
文机の上には、長方形に切りそろえられたいくつかの和紙があり、滑らかな筆跡でなにやら文字が書かれている。大きく形を崩してあるので、現代人では満足に読むことはできないだろう。が、しかし、この和紙が、いわゆるお札の類であることは、なんとなく察することができるはずだ。
老人は、その札を手にとって立ち上がり、そろりそろりと歩きだした。部屋の奥には、祭壇が設置されている。神棚を大きくしたようなその祭壇の左右には榊を立てた榊立てがあり、灯明を配置し、前方には注連縄まである。神棚というよりも、小型の神社か祠と言ったほうがいいかもしれない。
本来、神棚にしても神社にしても祠にしても、神々を祀る神聖な場所である。そこには清らかさが求められるし、清浄な空気が支配しているべき場所だ。しかし、ここはどうだ。空気は湿気を帯び、土は一年中水を吸ってグズグズになっている。そのせいか暗闇はのっぺりとしてまるで生物の口の中にいるようではないか。なによりも、本来ならば神鏡を配するべき神棚の中央には、いかにも曰くありげな壷が置かれている。古い壷には何枚もの呪符が貼り付けられていて、禍々しさは他の追随を許さない。
老人は、その壷に張られている呪符を一枚剥がすと、そこに新しい呪符を貼り付けている。その作業を何度か繰り返す。
「貴様のそれは、悪趣味だ」
野太い声だ。老人のそれとは別物である。
「なんじゃ、人の趣味にけちをつけるものではないぞ」
老人は、振り返る。しかし、そこには誰もいない。ただ、ゆらゆらと空気が揺らいでいる。何かがいる。
「ふん、呪師のすることはわからん。チマチマと面倒であろうが」
「コレコレ、お主。自分の状態を分かっていっておるのか? 未だに顕現できぬ脆弱な身で何を言うか」
また、ゆらり、と空気が揺れる。陽炎のようなそれは、姿形こそ安定しないが、その揺らぎの変化から、憤りの念を抱いていることがわかる。
「それもこれも、貴様があの小僧との術合戦に敗れたのが原因だ。半神祖とはいえ、人に敗れるとは信じがたい失態ぞ。この俺がこのような姿で流浪する羽目になったのも、神性を失った貴様に引きずられたからだ」
「仕方なかろう。お主はわしの従属神というヤツなのだからな」
老人は、不可視の声を相手に、親しげな口を利く。姿が見えないことなど、この老人にはたいした問題ではないのだ。
再び、空気が不自然に揺らぐ。
「千年だ。俺は、千年待ったぞ」
「千年待ったのなら、あとほんの数ヶ月くらいあっという間であろう。迂闊に動けば、彼奴らが勘付く。今はまだ、神殺しと出会うには早いしの。せめて日光をどうにかするまでは、雌伏せい」
「神殺し。結局俺たちの敵となるはヤツか」
「おう、当然よ。それこそ、千年前から分かっておったことであろう。わしらを打倒するために、あの小僧はあらゆる手練手管を使うとな。わし等に対抗するためならば、神殺しくらい用意するじゃろう。くく、いよいよ楽しみになってきたのう」
老人は、しわがれた声で笑いだす。暗い闇の中に、響いては消える、カラカラとした笑い声。
その笑い声をかき消すように、
「巫女は?」
「順調じゃ。なんじゃお主、まさかそれを確認するためだけに出てきたのか?」
「俺たちの復活には、必要なのだろう?」
「おう、そうじゃ。そのために用意した」
「せいぜい、目を離さないようにしておくんだな」
この会話を最後に、空気の不自然な揺らぎは消滅した。
しばらく、動きを止めていた老人は、ほ、とため息をついた。
「寝たか。ふむ、まあよかろう。今は、まだ時期尚早ゆえな」
□ ■ □ ■
護堂も暮らす、東京都文京区。いろいろと見所はあるが、真っ先に名が挙がるところの一つに湯島天満宮がある。別名は湯島天神。創建は雄略二年と伝わっている。雄略天皇といえば、かの有名な倭の五王の一人にして、稲荷山古墳出土の鉄剣に記された「
そんな湯島の路地裏にひっそりと建つ小さな神社。
地元の人しか知らないようなこの神社は、近所の子どもたちの遊び場くらいにしか認識されていないだろう。
時刻は朝の五時。
しかも、外は台風の真っ只中とあって大荒れの天気模様である。
気の早い近所のご老体も、この日ばかりは散歩に訪れない。
風でガタガタと震える拝殿の中に、なぜか制服姿の少女が居座っている。
「王さまには、今日あたり会いにいくよ。うん、大丈夫だって。上手くやれるよ、きっと」
しっとりとした黒髪は腰まで届くロングヘアーだ。おまけに、整った顔立ちに、スレンダーな体つきは、テレビの中で歌って踊るアイドルたちと比べても遜色ない。十人が十人、美少女と彼女を褒め称えるだろう。
名を清秋院恵那。
高橋晶と並んで戦闘特化の媛巫女とされ、本来の力を使えば、文字通り最強クラスの使い手になる。正史編纂委員会及び、その背後にいるご老公たちの懐刀たる少女である。
「なに? 男の誑かし方? そんなのおじいちゃまに教えてもらったって意味ないよ。どうせ、時代遅れなんだからさ」
恵那は携帯電話で誰かと会話をしている。
片手で床においてある包みを器用に開く。
中から出てきたのは、大きな一振りの刀だった。刃渡り三尺三寸五分。黒漆の鞘に納められた、頼もしい相棒である。
「祐理だっているんだし、恵那が行っても、あんまり意味ないんじゃないかな? 別に自信が無いって訳じゃないけどさー」
風雨はさらにひどくなる。
外を盗み見ると、まるで滝のような雨だ。
「あ、それと、祐理の他にも、なんか変わったのがいるけど、あれはいいの? ん? 今はほっとけ? そう、ならいいんだけどさ。うん。じゃあ、また連絡するよ」
人里に下りてきたのは、久しぶりだ。
カンピオーネ、草薙護堂。
荒事には慣れているとはいえ、今回の仕事は少々毛色が違う。強いて言うなれば女の戦い。武力を使わないとなると、なかなか難しいと思うし、経験もないが。まあ、なんとかなるだろう。
■ □ ■ □
野分の候とは九月の時候の挨拶だったはずだ。
野分は即ち台風のことだ。夏休みがあけて間もなく、日本列島が台風に襲われるシーズンに突入したということで、この日の朝までは大荒れの天気だった。
ところが、それも昼ごろには過ぎ去って、今はもう快晴。台風一過とはよく言ったもので、夏の気配を色濃く残す、透き通った青色が、空一面に広がっている。
もっとも、今の護堂はそれを見ることはできないわけだが。
「なるほど、結局こうなるわけか」
護堂がいるのは、体育用具室。現在は、五時間目の体育で、男子は先生の都合で自習。女子は晴れ渡った空の下で、プールに興じている。
だが、男衆に関して言えば、まったく自習などしていない。それは、ここにいる護堂がマットで簀巻き状態にされた挙句、室温三十五度を超えるかと思しき体育用具室に放置されていることからも分かるだろう。
繰り返すが、現在、男子は自習。女子はプールである。
これで、燃え上がらない男はいるだろうか、いや、いない。
主として三バカが一、名波の発案と、真夏のうだるような暑さに触発された彼らにとって、今のプールはまさに
もちろん、すべての男子が彼らに従ったわけではない。草食男子をアピールする者、興味はあるが、実行する勇気の無い者、彼女がいるから無理という者。様々いた。それらは全体から見れば非常に少ないながらも、大多数が熱狂する中で、冷静に物事を見る力のある人物たちだったと言えるだろう。
無論、それは熱きリビドーを迸らせる大多数にとって看過することのできない反逆者である。もしも、これを見逃せば後々厄介なことになりかねない。男たちには、この行為が内包する大いなるリスク――――女子から白い目で見られるという危険性を孕んでいることを自覚し、覚悟していた。が、それはそれ。とにかく漏れる口は少ないほうがいい。なによりも彼らもまた
そのような中にあって、名波たちが端から敵視していた男が一人いる。
草薙護堂。その人である。
現在学園の女子の中で、最も人気のある万里谷祐理との関係が噂されている護堂は、ただそれだけで、全校の男子を敵に回していると言っても過言ではない。普段は目に見えて排斥されることはないのだが、こういった局地的災害というべきか、いきなりスイッチが入るような場面にあっては、真っ先に攻撃対象になってしまう。
まして、最近は可愛らしい後輩を連れ歩いているという噂が広がっている。
哀れなる男たちを一致団結させるには、十分すぎる内容であった。
結果、護堂は抵抗もむなしく体育用具室に監禁されることになってしまったわけだ。
「やれやれ、だ。まったく」
護堂は簀巻きになって放置されても、落ち着いていた。伊達に修羅場を潜っていはいない。本来なら、男子生徒如きに捕らえられることもないのだが、ノリというのは恐ろしい。捕らえる側は、その時の勢いに任せていたが、実は、捕らえられる側もそういう役割を演じる形で、この祭に乗っかっていた。その結果が、今の簀巻き状態なのだ。
「ほんと、みんな若いね」
若者のパワーには驚かされてばかりだ、とこんな時に限って年長者らしい感性を発揮する。
精神年齢は四十を超えているのだ。致し方ないとはいえ、若干枯れている雰囲気を漂わせている。
『開け』
バツン。
ひとりでにマットを縛っていた紐がほどけ、勢いよくマットは元の形へ戻る。
解放された護堂は、立ち上がって首をゴキゴキと鳴らし、背伸びをする。ストレッチで程よく筋と筋肉をほぐし、身体の調子を確認する。
問題なし。
とはいえ、蒸し暑い体育用具室に監禁されていたために、大量の汗を流している。これは、もしも護堂でなければ、本当に命が危なかったかもしれない。マットを用途外に使って命を落とした例もある。
一刻も早く外の空気を吸おうと、護堂は、扉に手をかけた。
「あいつら、本当に鍵かけてやがる」
呆れ混じりの声色で呟いて、
『開け』
呪力を軽く叩き付けた。
万物に命令する権能でもある『強制言語』を以ってすれば、開錠程度造作もない。そして、これは権能の細かい制御ができるくらいに掌握したということでもある。
権能に強い弱いは、語れないが、掌握しているかしていないかの違いは大きい。
鍵は簡単に開いた。
重い扉を開き、外に出る。外といっても、体育館だが。それでも、体育用具室の劣悪な環境に比べればずっとマシだ。まず、空気が違う。暑いには暑いが、少なくとも汗とカビの臭いは充満していないし、澱みもない。
護堂は、深呼吸して辺りを窺った。
授業中にもかかわらず、体育館にはほとんど人がいなかった。日和見していた一部の生徒が、ステージに腰掛けて駄弁っているだけだ。
「あれ、草薙どうした? 出てこれたんか?」
「あいつ等、鍵かけてなかったっけ?」
扉を開けた音で、護堂に気がついた日和見組が近寄ってきて、話しかけてきた。
「お前等なあ、いたんなら助けろよ……」
「まあ、草薙なら大丈夫じゃね、って」
「信じてた。信じてたぞ、ちゃんと抜け出してくると」
「そうそう、これは、俺たちなりの信頼だ」
口々にそう言う日和見組。まったく信用ならない。結局のところ、彼らは護堂の敵でもなければ味方でもなく、名波たちの敵でもなければ味方でもない。いわゆる大衆であり、第三者なのだ。だから、積極的に護堂を助けようとしなかった。他人事として扱っただけなのだった。
薄情な友人たちに背を向けて、護堂は体育館を出る。
「おい、どこいくんだー?」
「結局プールか-?」
背中に投げかけられる声に、「教室ー」と投げやりに返答した。
□ ■ □ ■
あくまでも自習なのだから体育館にいなければならない。しかし、体育の授業が完全に崩壊したあの空間にいたところで何も得るものはないし、下手をすれば教師に目をつけられかねない。幸い、護堂には体育用具室に閉じ込められていたという大義名分があるので、それを使えば、保健室で休んでいたとか、体調不良で抜け出したとかいう言い訳がなりたつ。名波たちのおかげで、護堂は合法的に体育館から抜け出すことができたのだ。
その功に免じて、名波たちの横暴には目を瞑ってやろう。
もっとも、目を瞑るのは、護堂を監禁したことだけであって、プールを覗く事を見逃そうと思っているわけではない。
水着くらいいくらでも見ていいとは思う。護堂はそれほど、女子の水着に興味があるわけではないし、スクール水着を見ても、これといって萌えるようなこともない。そもそも、水着は人に見られてもいいように設計されているわけだし、それを見たからといってなにがあるというわけではないはずだ。とはいえ、劣情に起因した覗きをされるのは、女子にとってこの上なく不快な事であろう。リビドーをどれだけ昇華させたところで、アガペーに至ることはありえないのだ。
五、六組の男衆が忍び込んだのは、木造の旧校舎に違いない。原作でそうだったとか言う前に、こっそりとプールを覗けるのは、そこくらいしかないからだ。
授業時間ということもあって、廊下を歩いていても、教師に見咎められることはなかった。
散歩気分で悠々と渡り廊下まで歩を進め、換気のために開け放たれた窓から顔を外に出した。
十年近く使われていない旧校舎の入口は、封鎖されているはずだ。しかし、今、その封は完全に破られているようだ。間違いなく、男子たちが侵入している。
「その行動力、神様よりも不思議だよ」
彼らがしていることは、一歩間違えば犯罪だ。
まず、器物破損。住居侵入はすでに成立し得る。学校だから大目に見てもらえるだろうが、大目玉は避けられない。
教師にばれるまでに逃げ帰ればよし。そうでなければ、ドンマイということで。
軽いジャブで驚かせてやろうと、護堂は呪力を少量練り上げて、
『砕け』
旧校舎に向けて命令を発した。
■ □ ■ □
その時、名波たちは絶頂期にあったと言っても過言ではない。
多感な思春期にあって、共通の目的のために協力し合って行動するというのは、不思議なくらい精神を昂ぶらせるものだ。連帯感とも言える感情は、時として物事の善悪を超越した正義を行動に移させることになる。
赤信号、一緒に渡れば、怖くない。というような感覚だろうか。とにかく、その時、旧校舎に侵入した男子たちは、いつも以上にハイになっていたのは確かだ。
「ばれたら、どうする?」
誰かが言った。
「心配すんな。その時は、みんな一緒に怒られればいい」
「俺たちは、友……いや、同じ目標に向かって歩む、同志じゃないか」
名波と高木がそう答えた。
感銘を受けた男たちが口々に賛意を示す。心を打つ共感の波は、湖面を伝わる波紋のように男たちに伝染する。
そこにあるのは、一つの共同体だった。
学級の垣根を越えて、女子の水着を拝むというただそれだけのために、心を一つにした集団だ。
目的や動機の不純さを除けば、その団結心は学校が目指しているものの完成形と言えるだろう。皮肉なことに、学校側が不純とする行為こそが、彼らを真に団結させる要素だったのだ。
心を一つに、そろそろと階段を上がっていく。
輝く太陽。抜けるような青い空。ダイヤモンドを思わせる水飛沫。まさに楽園。今、熱帯雨林のように蒸し暑く、夏休みの武道場のように男くさい中にあって皆が等しく描く心象風景。
常夏の楽園は、すぐそこに広がっている!
「行くぞ、高木」
「おう」
「準備はいいか、反町」
「モーマンタイ。いつでもいけるさ」
そして名波は、ぐるりと視線をめぐらせる。
共に汗を流した仲間の顔がそこにはあった。
怨敵を封じ、夢に向かって邁進してきた最高の友である。今、彼らは夢の扉に手をかけている。その実感があるのだろう。皆、暑苦しさの中に清清しさを感じさせる笑みを浮かべ、偉大なる指導者の最後の言葉を待っている。
「みんな、よくここまでついてきてくれた。苦しいこと、辛いこと、暑いこと、むさくるしいこと、この上なかったろう。ここに来るまでにも、我々には多くの危険が待ち受けていた。教師に見つかることはまだ序の口。もし、まかり間違って二組の南方さんにでもこの状態を察知されてしまえば、我々は終わりだ。明日からおぞましき妄想のネタにされてしまうこと間違いない。草薙の二の舞だけは避けねばならない。だが、それもここまでだ。見ろ。我々はついに辿り着いたぞ! ありとあらゆる危険を覚悟し、あえて冒したのは、すべてあの扉の向こうに至るため! 劣悪な世界において、耐え忍んできた我々は、ついに楽園への最後の一歩を踏み出そうとしている!」
情熱的に、拳を振り上げ、名波は言葉を切った。
ごくり、と誰かが唾を飲む。
「もう、耐える必要はない」
慈愛を込めた表情で、名波は言う。
「俺の役目は終わった。さあ、みんな。己の信念にしたがって、為すべきことを成せ!!」
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! 名波、万歳!!』
男たちが、歓喜の声を上げた。
そして、怒涛となって駆け出した。
木製の床が軋む。年月でくすんだ窓ガラスがビリビリと振動する。
その勢い、まさに天を突くが如し。
「名波」
自らを追い越して、目的地となる旧美術室に突撃する男子たちを万感の思いを込めた瞳で見守る名波に、高木が声をかけた。
「ああ」
それだけで、すべてを理解した。
「行こう」
その隣の反町も、大きく、しっかりと頷いた。
『俺たちの
ダッ、と三人は同時に走り出した。
立ちふさがるものは、すでになく。邪魔をするものなど何もない。
だが、弁えていたか、男子たちよ。夢とは、やがては須らく醒めて消えるのが道理だと。
「な!?」
「床がー!?」
「ひいい!?」
「なんじゃこりゃー!?」
「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃぁ」
愚者たちの叫び声は、それを上回る轟音の前にかき消された。
床が抜け、ガラスが砕けた。拉げるように、校舎は崩れていく。
それは、あまりにも突然の出来事で、回避する手段は無に等しい。
倒壊した校舎は、中に忍び込んでいた五、六組の男子たちを一人残さず呑み込んで、数十年の歴史に幕を閉じたのだった。
■ □ ■ □
その光景に、多くの人々が呆然となった。
まるで、爆撃の後のような景色。砕け散った校舎。そして、その中でうめき声をあげている男子たち。これは、なかなか、お目にかかることはできない。
「マジか……」
呆然としているのは、護堂も同じだった。
特に護堂は、あの中に五、六組の男子たちが入り込んでいることを知っていたから、校舎が崩れたことよりも、そこに知り合いが巻き込まれたことに愕然としていた。
「俺、まだ何もしてないし……」
そう、護堂は、何もしていなかった。校舎が崩壊したのは、護堂が言霊で脅しをかける直前だったのだ。原作ではエリカが、あの校舎を粉みじんに吹き飛ばしていたが、今、そのエリカはこの国にいない。護堂は手を出していないし、祐理が校舎を吹き飛ばすとは思えない。
「あいつ等、本当に運がねえんだな……」
つまり、あの校舎が崩壊したのは、誰のせいでもなく、ただの偶然なのだろう。強いて言うなれば、すでに限界を迎えて久しい木造校舎に、勢いよく何十人もの男が侵入して暴れた結果とも取れるので、自業自得ということになるだろうか。
「おーい。大丈夫かー?」
崩れ落ちた校舎跡。
蠢き、もがく亡者のような男子たち。
「く、草薙ィ。なぜ、貴様がここにいる」
「お、俺たち。いったい、どうしちまったんだ? 水着ウハウハのはずが、最初に見るのが草薙だなんて」
「俺はいい。俺はいいから、ハードディスクの中の妹たちを……くは」
「反町ィィィィーッ!!」
「余裕あんな、お前たち」
このような時でも、リビドーを忘れない。それが三バカクオリティなのだ。その情熱だけは、素直に賞賛できる。
「いつまで挟まってんだよ」
護堂は、瓦礫の隙間に挟まっている名波を引っ張り出した。
「ぐう、なぜ助ける? 俺たちは、お前を閉じ込めたのだぞ?」
「いや、この状況下で見捨てるって選択肢はありえないだろ」
「お、お前ってヤツは……!」
感極まった名波は、目尻に涙を溜める。
「なんだ、どっか痛てえのか? 言ってくれねえと、わかんねえぞ」
「すまねえ、草薙。胸がな、胸が痛えんだ」
「なんだって? そりゃ、まずいんじゃねえの? 救急車が来たらまっ先に乗せてもらえ」
引きずり出した名波を、瓦礫の外に連れ出して、横たえた。
「ああ、他のみんなは……」
「今、先生たちも来たし、大丈夫だろ。なんだかんだで、みんな運がいい」
「そうか、そりゃ、よかった」
集まってきた教師たち。学校の窓という窓から顔を出す生徒たち。プールのほうからも幾人かこちらを覗き見ている女子がいる。
「草薙! これはいったいどういうことだ?」
護堂は教師の一人から説明を求められた。この状況下で、一人だけ無傷で立っている護堂が事情を知っているものと思ったのだろう。
面倒なことになりそうだ。
護堂は嘆息しながら、教師の下へ向かった。
そして、護堂のあずかり知らぬところで面倒事は進行していた。
校舎の崩壊によって、授業が滞り、警察や消防なども駆けつけて大騒動となった後のこと。さすがに放課後ともなれば、騒ぎも沈静化する。
「キタキタキタキタキターーーーーーーーー!! ビビッと来ましたよーーーーーーーーー!!」
鼻血を出しながら、叫び声を上げる一人の娘がそこにいた。
文化系の部室が集まる部活棟の一画。ドアの上に張り出されたプレートには文芸部とある。
「キタって何が」
「もちろん、インスピレィションに決まってます!」
黒い髪を短く揃えた彼女こそ、学園中の男子から畏れられる腐った魔物、南方朱里その人である。
以前からその恐るべき発想と、嗜好は知られていた。万物は攻めか受けかで分けられているという奇怪な発想。壁と画鋲があれば、極めてストイックでプリミティブな愛を表現できるほどの豊かな妄想力は、若干十五歳にして廃人の域だ。
その恐るべき妄想から産み落とされた産物が、一月ほど前にちょっとした騒動を引き起こしていたこともあり、一躍有名人に。つけられたあだ名は『ご腐人』。
「それって、アレ。いつもの感じ?」
「消しゴムと鉛筆ネタは、さすがに高度すぎてダメだって言われたじゃん」
「ん? ハサミと紙で、『ここを切っちゃうぞー。ん? ここかあ? ふふふ』ってのを、考えてなかったっけ」
「ちっがーう! そうじゃない。そうじゃないんだ。それはね。あくまでも妥協。妥協に過ぎないの。この前の一件で学内でのBL製作を禁止されたからしかたなくやっただけ! だけど、来るべき裏・文化祭に向けて、わたしが取り組むのはそうじゃない!」
文芸部員たちに対し、朱里は演説でもするかのように腕を振り上げる。
「えー、でも禁止されてるんでしょ」
「ふん、禁止されているのは、学内での活動。即ち、外でなら、問題ない」
「つまり、趣味の範疇で、書くと?」
朱里は頷いた。
「本気?」
「もちろん。夏の続きが、わたしの背中を押している」
キャッと、部員たちが頬を赤らめて口元に手を当てた。
「アレの、続きを書くんですか?」
「な、なら、挿絵はわたしが担当します!」
「わ、わたしも、関わりたいです」
急に、部室内が色めきたった。
空気が、腐ったばら色に染め上げられる。
部長と思しき人物が、静かに、朱里に問うた。
「それで、君の言うインスピレーションの内容から聞こうか」
「もちろん、草薙君と名波君をモデルに、極めて健全でまったく新しい愛の形を表現するのよ!」
そう、リビドーは決して、男子だけのものではないのだ。