カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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五十話

 雷鳴が轟き、風が音を立てて吹き荒れる。

 空は光を失い、視界を遮る雨のカーテン。身体を打つ雨粒は、身体に刺すような痛みを与える。川の水位は上がり続け、このままではすぐに溢れてしまう。端整込めて育てた稲も、生まれ育った村も、すべて流されてしまうだろう。

 彼女は、それを見ていることしかできない。

 彼女は、祀る者。

 その仕事は、神々に祈りを捧げ、救いを待つことだ。それ以外にはないし、それ以外にできることもない。おまけに、今の彼女は、人の形をしていない。とある旅人の術によって櫛に姿を変えているからだ。

 

 だから、ただ無力感に苛まれながらも、見守るしかないのだ。

 

 黄金色に輝く両刃の剣を携えた、男の後姿。

 勝ち目など、万に一つもありはしない。相対するのは、天を突くかのような巨大な身体を有する、八首の魔竜。

 男は、ただ一人、魔竜に挑む。策を弄し、剣を振るい、人一人易々と呑み込む魔物を相手に果敢に挑む。

 渦巻く殺気。

 呪力は世界の飽和量を超えて、撒き散らされている。

 風雨は一層強くなる。

 遮られる視界。その奥で、轟き渡る大音声は、どちらの声か。 

 

 やがて風雨も収まり、血に濡れた男は神々しい神剣を掲げて凱旋する。

 

 かくして、魔竜は討伐された。

 村を襲う脅威は去り、平和な世が訪れた。

 激しい風雨に晒された田畑は、荒れ果て、川の氾濫は村に大きな被害をもたらした。しかし、村人たちには笑顔があった。

 村を救った男とともに、なけなしの食料で宴を開き、大いに飲み、食った。

 壊れた田畑は、また耕せばいい。川の氾濫も、皆で力を合わせれば抑えることができるだろう。

 今は八年に渡った恐怖から解放されたことを素直に喜び、噛み締めよう。

 そして、英雄となった男は、死すべき定めにあった彼女を妻として迎え入れ、国家の礎を築き上げたのだった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 残暑厳しい季節とはいえ、私立校の城楠学園の教室は暑さとは無縁だ。最近は、公立校にすらエアコンが設置されているご時世に、私立校にエアコンが無いなどということがあろうか、いやない。私立校は生徒を確保しなければ、経営できない。公立校や、他の私立校とは別のプラスαを持たなければやっていけない。部活専用の建物があるなど、城楠学園の設備は整っていることで有名だ。学習環境を整えることなど、当たり前のように行っている。

 とはいえ、快適な生活環境というのは、堕落を招く一因にもなりえる。暑い日に、冷房の効いた部屋にいれば、その心地よさからついうとうとしてしまうこともあるだろう――――

「……橋」

 遠く響く、雷の残響。 

「高橋!」

 それは次第に存在感を増して、

「高橋晶! 起きんか、たわけッ!」

 ついに、炸裂した。

「は、はい!」

 落雷に撃たれたに等しい衝撃を受け、晶はイスを跳ね飛ばさんばかりの勢いで起立した。その際、身体に染み付いた体育会系礼儀作法に則り、自衛隊も真っ青な見事な気をつけの姿勢をとる。

 すぐ隣には、いつの間にかやって来ていた数学教師二十九歳(女)独身の姿があった。

 もの凄い形相で、晶のことを睨んでいる。

 全身の体温が、一気に下がったような気がした。それは、きっと、冷房の所為ではないのだろう。その一方で、クラス中の視線を浴びて、顔だけは火照ったように赤くなった。

 午後一番の授業は、大嫌いな数学で、晶は気づかぬうちに夢の世界へ旅立っていたようだ。

「なあ、高橋。このわたしの授業でおねんねたあ……いい度胸じゃねえか。んん?」

「あ、いえ。それほどでも……えへへ、おぶッ」

 アイアンクローがクリティカルヒットした。

 親指と中指が、こめかみに対して垂直に突き立っている。

 ギリギリギリギリ……

 尋常ならざる力だ。頭蓋骨が砕けてしまいそうだ。

「わたしの授業など、受けるまでもない、ということか?」

「ま、まさか、そんなことないです」

 握力七十キロ。剣道部顧問の力は伊達ではない。視界は手の平に覆われているが、この教師の表情は手に取るようにわかる。晶の小柄な身体が、宙に浮く。柔道部の男子生徒を片手で持ち上げたという噂のある女傑だ。体重が四十○キロの晶を持ち上げることなど、造作もない。

「高橋ィ。エスカレーターだからって気ィ抜け過ぎじゃねえのか。高等部には、留年って制度があってなァ。わたしは、お前の数学がホントに心配なんだがなァ。ええ?」

「あ、赤点は取らないつもりですが」

「前回は、なかなか良かったからなァ。自信になって、よかったじゃねえか。それで、今やってるところは、理解できてんのか?」

「…………………………………………」

 晶は黙秘権を行使した。

「なーるほどなァ。お前のやる気は、よーーく分かったぞ。今から、高校進学後を見越して、補習の予習と行くかァ?」

「ほ、補習の予習とか、別にしなくれも、ヒギィッ!?」

 脳内で、妙な音がした。

 具体的には、硬い木材に罅が入ったような音だったように思えた。 

 もはや、頭に血がめぐっていないのか、痛みに慣れてしまったのか、こめかみを襲う痛みはない。しかし、その圧迫感は、晶を苦しめるには十分すぎる。 

 チャイムが鳴らなければ、晶は立ったまま気絶していたかもしれない。

「チッ……放課後、ちっと職員室こいや」

「……はい」

 打ちひしがれた表情で、晶は着席した。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 放課後、ずうぅん、と明らかに沈み込んだ晶にかける言葉を静花は探して諦めた。言っては悪いが、自業自得だ。今、あの数学教師は婚期を逃さんと焦っている真っ只中。教師とはいえ、私立校の教師は公務員ではないから生活が安定していないし、その割には収入も少ないしで、将来への不安も多々あるのだろう。おまけに部活動は労働時間に入らないから時給換算がひどいことになる。ということで、生活を安定させたいという焦りもあるらしい。なんにせよ、晶は運がなかった。居眠りが悪いことに否やはないが、あそこまでキレられたのは、きっと教師の虫の居所が悪かったからだろう。

 夕暮れの太陽に目を細め、帰路に就く。

 長く伸びる三つの影は、それぞれ祐理、晶、静花の三人分だ。

「ん。そういえば、授業中に言われてた補習の予習って、どうなったの?」

「それはさすがにやってる時間ないってことで、追加プリントになりました」

 その追加プリントですら、晶にとっては強敵になる。

 晶の成績は総合的に見れば、悪いわけではない。中の上には入っている。しかし、典型的な文系脳なためか、理系は尽く平均以下。理科はまだ暗記科目の側面が強いためなんとかなるにしても、計算主体の数学は鬼門でしかない。

「晶さんが居眠りなんて、もしかして体調が優れないとか」

「そんなことはないですよ。ただ、クーラーが快適だったといいますか」

 晶はバツが悪そうに、頬をかいた。

「居眠りはクセになりますから、意識して授業に集中するようにしないといけませんよ」

「そうですよね。そうなんですけど」

 すでに、クセになりつつあるとは言えない。今回、運悪く見つかってしまったが、実のところ晶は、二日に一回は居眠りしている。座席の位置や、諸々の幸運が重なって、今まで見つからなかっただけだったりするのだ。

「それで、そのプリントは大丈夫なんですか?」

「えーと、実はあまり大丈夫じゃなかったりします。因数分解から今やってるところまで、網羅的に出題されてて、問題数がかなり多くなっているんです」

「そうなんですか。分からないところがあったら聞いてくださいね。相談に乗れると思いますから」

「ありがとうございます! 万里谷先輩の助けがあれば、百人力ですよ!」

 祐理は護堂に及ばずとも、学年トップクラスの成績保持者だ。中学生の数学程度問題にならない。地獄に仏とはこのことだ。

 真っ暗な洞窟に、微かに差し込んだ一条の光。藁にもすがる思いの晶は、祐理の申し出を笑顔で受け入れた。

「ふーん、晶さんは勉強が苦手なタイプなんだー。恵那と同じだね」

 会話に集中していて、少女の接近には一切気がつかなかった。いや、そうでなかったとしても、気づけたかどうか。

 気配を消す呪術は何種類もある。代表的なのは、隠形法という密教系の呪術で、摩利支天の隠形印を結ぶことで、姿を隠す。

 しかし、彼女は、違う。呪術を一切用いることなく、すぐ背後にまで近づいていたのだ。慌てて振り返り、視界に収めて初めてその存在に気がついた。まるで、自然と一体になっているかのような雰囲気。野性味のある笑顔を見せながら、その空気は清浄そのものだ。

「え、恵那さん? どうして、ここに」

 声を発したのは、祐理だった。

「恵那? すると、あなたが、清秋院恵那さんですか?」

「うん、そうだよ。高橋晶さん」

 清秋院恵那。

 その名は広く日本中に知れ渡っている。

 その武芸、呪術の腕前は、同年代でも最高位にある。単純な力比べでは晶が勝つ。しかし、なりふり構わない正真正銘の戦いであれば、恵那に軍配が上がるだろう。彼女の『相棒』は、晶にとって相性が悪い相手だ。

「どうして、わたしのことを?」

 直接の面識はなかったはずだ。いぶかしむと同時に、嫌な予感がする。晶のことを噂か何かで聞いたのならまだしも、もしも意図して調べていたとしたら、その目的は自ずと察することができる。

「草薙さんについて調べるとしたら、その身近な人のことも調べるでしょ。特に、晶さんは有名だしね」

「ッ……」

「そんなに警戒しないでよ。別に晶さんとトラブるつもりはないからさ。とりあえず、みんなで一緒にお嫁入りするわけだし、挨拶だけはしとこうと思っただけ」

「は?」

 恵那の発言に、三人が三人ともぽかんと口を開けた。

 何を言っているのか分からない。その様子がありありと表情に浮かんでいた。

「お、お嫁入りって、恵那さん。結婚なさるんですか?」

 祐理がおずおずと尋ねた。

「うん。恵那も十六になったし、法律的にも問題ないでしょ。ああ、でも晶さんはまだ十五だっけ」

「ま、待ってください。話の展開が唐突すぎます! いきなり来て何を言ってるんですか!」

 自分が勘定に入っていることに驚いて、晶が言い返す。

「え、何って、これからみんなで一緒に草薙さんのところにお嫁入りするって話をしてるんだよ。決めておくこととか、やっぱりあるだろうし」 

 祐理と晶は、度肝を抜かれて言葉に詰まった。代わりに、会話に入ってきたのは、これまで一言も発さなかった静花だ。

「ちょっと、待ってください! あなた、何を言ってるんですか!? お兄ちゃんのところに、お嫁入り!? ちゃんと説明してください!」

「草薙静花さんだったっけ。これから、よろしくね」

「はあ、よろしく……って、違う! お兄ちゃんとどういう関係なのか、とかその辺りを詳しく聞かせてもらわないと」

「妹として、容認できない? ふむ、困ったね。関係といっても、面識があるわけじゃないしなー」

 恵那は頭をかきながら、呟いた。

 恵那の呟きは、すぐ目の前にいた静花の耳にも届いている。その言を信じるなら、護堂と恵那は未だに顔も合わせたことがない赤の他人のはず。つまり、護堂は恵那に何もしていないし、この話そのものを知らないはずだ。それは、安心できる情報ではあるが、同時に、見ず知らずの他人が結婚を考えるほどの何かが護堂にあるということでもある。顔か、人間的魅力か、能力か、はたまたその他静花の想像もできないところに惚れ込んだのか分からないが、言えることは一つ。

 惚れ込んだ相手と面識のないままに、結婚を持ち出す辺り、この女は、かなりヤバイヤツだ。

 恵那と目が合った。

「ありゃ、もしかして変なヤツとか思われちゃったかな?」

「いえ、そんなことはないですよ」

 そして、静花は内心で焦りを覚えた。

 僅かな表情の変化から、静花の感情を読み取ったというのか。

 ただおかしな考え方をする人間ではない。野生的な勘なのか、それとも人間観察が非常に上手いのか、的確に相手の心情を読み量る力は驚異的だ。この清秋院恵那という少女は、静花が今まで出会ったことのない人種と考えるべきだろう。

「まあ、でも最悪、恵那はお嫁入りしなくてもいいんだ」

「?」

 前言を撤回する発言に、首をかしげる静花。

「ようするに、他の人が草薙さんの正妻に納まったとしても、恵那のことをお妾さんとして囲ってくれれば問題ないわけで」

「大有りですよ!」

 静花だけでなく、晶や祐理までも声を揃えて言った。しかし、恵那は意に介した様子はない。これまでの会話から察するに、恵那は図太いわけではない。むしろ、かなり他人を観察するタイプの人間だ。その上で、自由奔放に振舞っている。それができるだけ深く、相手の領域に入り込むことができるということだ。祐理も、晶も、最も警戒しているはずの静花でさえ、するりと内側にまで踏み込まれ、そのペースに乗せられている。

 ゴーイングマイウェイは、確かに驚異的だが、それ以上に、それを実現させてしまう話術が驚異的だ。

「とにかく、お兄ちゃんに会ったことがないって言うのなら、そんな話をわたしたちにしても意味がないと思います」

 静花は、これまで受動的になっていた分を取り返そうと、意見を述べる。

 恵那は、にこやかな表情のまま頷いた。

「そうだよねー。うん、恵那もさ、本当は草薙さんに会おうと思って、ここで待ってたんだけど、先に三人が纏まって来たから挨拶しておこうと思ったんだ」

 屈託のない笑顔だ。おそらく、この人は裏表のない性格なんだろうな、と静花は思った。

「それに、祐理も晶さんも、これから先、草薙さんとどういう関係になるか決めかねてるみたいだし、それが確認できただけでもいいかな」

 う、と気圧されたように後ずさるのは祐理と晶だった。

「敵情視察ですか。強かなんですね」

 静花が非難がましい視線を向ける。恵那の目的は、護堂の身近な人間に自分の存在を知らせること。それによって祐理と晶がどのような反応を示すか探ろうとしていたのだ。兄のいないところで、兄のことを語ること自体が、静花として、好ましいものではなかったので、剣呑な雰囲気を隠し切れない。

「敵でもないよ。草薙さんを独占しようっていうのなら、ライバルになる。でも、恵那はさっき言ったとおり独占欲とかないしね。これから草薙さんとお近づきになる上で、他の女の子の出方は気になるでしょ」

 ようするに、祐理や晶に独占欲があったり、すでに恋仲に発展していた場合の身の振り方を考えるために、直接話す必要があったということだ。

 ついでに、妹の静花とも顔合わせを成功させている。これで、静花と仲良くできれば如才ないと言えるかもしれないが、恵那は意図してこのタイミングを狙ってきた。それは、祐理、晶、静花がいて、護堂がいないという条件が、膠着状態にある現状を変えることにつながるかもしれないと踏んだからだ。

 恵那の目的は、究極的には護堂をこの国に結びつけること。 

 武力や法でカンピオーネを縛るのは不可能だ。カンピオーネとの友好関係を築くことこそ、唯一の道である。そのための最も確実で手っ取り早い手段が、女を宛がうというものだった。

 もちろん、恵那の一族――――清秋院家は、日本の呪術界においても極めて特殊な立ち位置にある。『四家』の中でも、背後に『ご老公』という組織を持つのは今のところこの清秋院家だ。

 名門中の名門。正史編纂委員会の意向というよりも、清秋院家としての思惑によって動いている。清秋院家は、正史編纂委員会よりも、一族のほうにカンピオーネを結び付けようとしているのだ。

 

 

 清秋院恵那は、静花の会ったことのないタイプの人間だ。驚くほど、正直であっけらかんとしている。おまけに強かで抜け目がない。

 護堂のことを密かに慕い、静花を通して近づこうとした人間は何人かいたが、真っ直ぐ嫁入り宣言をしていく相手は初めてだった。 

 この人苦手だ。

 あっさりと人の内側に入り込んでくる恵那に、静花は苦手意識を持った。

「ま、とりあえず、今日のところはこれくらいで。今後は、恵那もパーティーに加わるかもしれないってことを知っててくれればいいよ」

 恵那は、挑発的な視線を祐理と晶に向ける。

 突然で強引な展開に、二の句が告げない二人は何も言えず、当事者ではない静花は、何を言っているのか理解できない。

 三人が固まっているのを見て、立ち去ろうとした直後、恵那は、それまでの余裕そうな表情を豹変させて振り返った。

 校舎のある方角を見て、好戦的な笑みに変わる。

「驚いたなあ。まさか、勘付かれたなんて」

 呟く恵那は、三人に向き直り、

「じゃ、また会おうね!」

 猛然と駆け出した。その速度たるや、城楠学園陸上部が誇る短距離走のエースですら追いつけないと思わせるほどのものだ。

 後に残された三人は、なんとも言えない表情で視線を交わして立ち尽くすだけだった。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 祐理と晶が護堂に友愛以上の感情を抱いていることは、手に取るように分かった。恵那の独特の嗅覚がなくとも、丸分かりだ。あの二人に、恋愛事で駆け引きする器用さはない。

 その二人とブラコン気味の妹一人に、恵那は護堂のところに嫁入りすると宣言した。 

 これはある意味での宣戦布告だ。

 目的は膠着した状況を打破するための発破と、恵那自身が怖気づかないようにするための景気付け。

 嫁入りなどと口にしたはいいが、恵那には男性経験など皆無。同年代との会話すらほとんどしたことのない箱入り娘なのだ。そんな自分の経験不足を気概で乗り切るために、敢えて恵那は背水の陣を敷いた。相手となる草薙護堂のことも報告書と映像記録、それから僅か数日余りの観察でしか知らない。祐理が好意を向ける相手だから信用できる。逆に言えば、今のところそれくらいしか判断基準がないのだ。

 しかし、今、新たに分かったことがある。

 どうやら、草薙護堂は、恵那の想像以上に『できる』男らしい。

 戦闘に関する実力は、恵那が同世代で一番だ。武芸も呪術もずば抜けている。それに加えて降臨術。日本では恵那しか使えない神の御霊を憑依させる驚異の呪術がある。降臨術を使用した状態の恵那なら、神獣とも正面から戦えるのだ。 

 だが、護堂の力はそれ以上。カンピオーネとの直接の面識がない恵那は想像することしかできなかったが、やはり、怪物的な力の持ち主なのは間違いない。

 恵那は持ち前の脚力で、歩道を駆ける。

 胸の高鳴りは、疲労によるものだけではない。

 対等以上の相手との出会いを、恵那は期待している。

 一歩を踏み出す時間がもどかしい。早く、現場へ向かいたい。逸る心が、身体を前へ押していく。

 日が暮れ始めたグラウンドには、既に人影はなくなっていた。本来ここを使っている運動部は、先日の旧校舎崩壊事件の煽りを受けて帰宅時間が早められている。

 誰もいないグラウンドを突っ切っていく。

 太陽は既に没し、明かりは人口の光に切り替わった。

 闇に包まれた世界も、呪術の鬼才たる恵那には問題にならない。

 迷うことなく、その場に辿り着く。

 相手もこちらに気づいたようだ。真っ直ぐ、恵那のことを見つめている。

 五メートルほどの距離を隔てて、両者は向かい合った。

「お初にお目にかかります、草薙護堂さま。わたしは清秋院恵那と申します。縁あってあなたのお傍に――――」

「そういうのは、止そう。清秋院さん。畏まった話は苦手なんだ。君もだろ?」

 護堂は恵那の口上を遮った上で、そう言った。

 話の腰を折られた恵那は、一瞬だけぽかんとしたが、それから人好きのする笑みを浮かべた。

「断定から入るあたり、王さまは恵那のことを知ってたのかな?」

 口調を戻して、護堂に問う。礼儀作法を叩き込まれた恵那だから、護堂の出方次第では大和撫子を演じることも不可能ではないのだ。それは、自由人の恵那にとっては苦痛以外の何物でもないが、それでも演じきる自信はあった。しかし、それも杞憂に終わり、内心ほっとした。そして、ここまでは想定の範囲内。護堂が畏まられるのを嫌う性格だということくらい、すでに常識なのだから。

「そうだな。話の端に上がることはあったよ。なにせ、君は万理谷と幼馴染で、呪術の世界じゃ有名人なんだろ? その気になれば調べられる」

「個人情報の扱いとか、厳しい時代のはずなんだけどねー」

「お互い様だろ。清秋院さんも、ずいぶんと俺のことを嗅ぎまわっていたじゃないか」

「まあ、それは仕方ないよ。草薙さん、有名人だもん。あと、恵那のことは呼び捨てでいいよ」

 護堂への意趣返しか、恵那は同じような返答をした。

 それから、恵那は護堂の背後に視線を向ける。そこにある校舎の壁には、恵那が刻んだ目に見えない刻印がある。恵那の血と天叢雲剣の金気を混ぜ合わせた仕掛けだ。祐理にならまだしも、呪術の心得のない護堂に気づかれるとは。

「リサーチ不足だったな。俺の直感は、時に万理谷以上らしい」

「みたいだね。それで、王さまはどうするの?」

「どうもしないよ」

 そう言うと思っていた。

「それなら、どうして恵那を呼んだの? わざわざ、この術式に干渉してまで、恵那を呼んだ理由は何?」

 恵那がこの場に駆けつけた理由は、護堂が壁に仕掛けた術式に呪力で干渉したからだった。見つからないと高を括っていただけに、それは衝撃的だった上に、いつでも壊せるのに敢えて壊さないという手加減をしていた。恵那に、自分の存在を誇示しているかのようだったのだ。それを、恵那は誘われていると直感した。

「いや、俺の周りをちょろちょろとされるのは、気に入らんことだからな。釘を刺しておこうと思ったんだよ。あんまり、俺の生活に干渉すんなってことを清秋院のばあ様に伝えといてくれ」

「……ふうん。ばあちゃんのことまでお見通しか。それなら、恵那がここに来た理由も察してる?」

 一拍の間を取って、護堂は答えた。

「俺はまだ、結婚する気はないよ。清秋院たちの権勢争いに関わるつもりもな。俺が言いたいのは、その程度のことだ。これから先は、そっちの番だぞ」

 恵那は全身に鳥肌が立ったかと思った。

 嫁入りの件は、カンピオーネという立場の特異性や、これまでの経験、多少政治的な方向に頭を働かせれば予想できることだろう。

 しかし、今の発言。

 それは、恵那がやろうとしていることを読み取っているからこその言葉だ。

 自然と、笑みが深くなる。

「ふふ、やっぱりすごいね、カンピオーネってのは! それは、王さまの力? それとも、神様を殺しちゃう人は皆もっているのかな?」

 手玉に取られている感じがするが、不快ではない。こちらの事前の準備はほとんど役に立たなかったようだ。

「ちはやぶる宇治の渡の棹取りに、けむ人し我がもこに来む――――」

 厳かな声で謳う恵那。

 呪にあわせて、校舎の八箇所に仕込まれた呪術が起動する。

「恵那の仕事は、ここまで。向こうに行ったら、おじいちゃまによろしくね。王さま!」

 護堂の足元には夜よりも暗い暗黒の影が生まれていた。

 その闇が、底なし沼のように護堂を呑み込んでいる。カンピオーネすらも呑み込む奇怪な呪術。これは、人の成せる業ではない。

 闇に呑まれた護堂を見送ってから、恵那は一息ついた。

「本当に、驚かされっぱなしだったよ。うん、規格外ってああいう人のことを言うんだね。ね、晶さん」

 恵那は、後ろに立つ晶に同意を求めた。

「……先輩に、何をしたんですか?」

 静かな声には、確かな怒りが含まれていた。

 離れたところで、護堂と恵那の様子を盗み見ていた晶は、護堂が闇に呑まれるのを見て、血相を変えて駆け寄ってきたのだ。

 すでに槍まで取り出して、返答次第では恵那と戦うことも辞さない覚悟を示している。

「まあ、そう怒らないでよ。これ、同意の上のことだしさ」

「同意?」

「そ、同意。別に危ないこともないと思うし、敵意はないから安心してよ」

 晶の殺気にも鷹揚に対応する。

「そう、ですか」

 いぶかしみながらも、構えを解いた。

「それで、先輩はどこにいるんです?」

「さあ?」

「さあってことはないでしょう。あなたが施した呪術なんですから」

「いやー、それが分からないんだよね。王さまを持っていったのは、おじいちゃまでさ。恵那は門を作っただけなんだ。その先は、まあ、幽界のどこかなんだろうけど」

「なんて、適当な……」

 幽界に人を一人送っておいて所在不明とは、呆れて物が言えない。

「まあ、待ってればそのうち帰ってくるよ。おじいちゃまの用事が済み次第帰してくれるはず」

 悪びれもせずに、手をパタパタと振る。

「それでさ、晶さん。晶さんって結構強いよね。手合わせしない?」

「は? いや、何を突然……」

「『まつろわぬ神』との戦いに何度も同伴し、王さまの権能で創った槍を下賜されてる。神槍の使い手。一度戦ってみたかったんだよね」

「だからって、いきなりそんな」

「ん? 理由がいる? じゃあ、そうだな。恵那も王さまの仲間になるわけだし、どっちが上か気になるでしょ?」

 これまでは、後方支援を祐理が、武力面を晶が補佐する形で安定したチーム編成を行っていた。祐理と晶では互いに得意とする分野が異なっていたために、ぶつかり合うこともなかった。しかし、恵那が本当に護堂と行動を共にするというのなら、晶とは武力面での競争相手となる。

 おまけに、護堂と結婚するなどという妄言を包み隠さず宣言した相手だ。晶にも思うところは多々ある。自然と槍を握る手に力が入る。

「ふふ、やる気になったみたいだね。それじゃ、恵那も相棒を紹介するとしようかな」

 恵那は、背中に背負った竹刀袋から、素早く剣を取り出した。

 ただ、それだけで、晶は圧倒されそうになった。自分の手にあるものと同等かそれ以上の神秘。晶が持つ槍は、人間の晶が使うために調整された槍だ。しかし、恵那の持つそれは、人が扱える代物ではない。

「それが、噂に聞く天叢雲剣」

 《鋼》の属性を持つ日本最強の神剣。

 神々しい黒い刀身の直刀を、恵那は構える。

 晶も、それに合わせて槍を構えなおした。

 武器としての性能は、槍のほうが優れている。リーチと威力の双方で、槍は剣を上回る。だが、小回りは剣のほうが上。ましてこれは呪術戦でもある。武器の形状による不利は、持ち前の呪術で容易に覆る。

 手合わせなので、それほど本気を出す必要はない。だが、互いに武術、呪術の両方で敵なしと言われる実力者同士だ。同等の相手とは滅多にめぐり合えない境遇なので、心のどこかでこの戦いを望んでいる。

 恵那は、神剣に力を込める。まずは小手調べから。そう思って、一歩を踏み出そうとした、まさにその時だった。

「え?」

 恵那は予想以上に強まった降臨術の効果に唖然とする間もなく、圧倒的な御霊の力に意識を持っていかれた。




ピアノの実技、いろんな意味で終わった。
俺「ジャーン」
先生「違う。ファラじゃないラドだ」
 楽譜を見る。意味が分からない。
俺「わからないんですけど」
先生「わからなくない」
 えー……そんな返し方あります?
 結局、なんどか見直したら、五線譜の第一線が印刷ミスで消えていたという。そのことに気づかず練習したから、全部の音がずれていましたよ。
 とりあえず、テストは一段落。

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