晶はただ驚愕に息を呑んでいた。
目前にいる少女――――清秋院恵那の突然の変貌。
恵那の呪力が急速に減衰し、その代わりに神剣から神力が吹き込まれていく。
今なら分かる。恵那の身体は、もはや彼女のものではない。天叢雲剣の御霊に呑み込まれている。恵那の人格は精神世界の奥深くにうずもれていき、肉体は剣を振るうだけの機械となった。
しかし、なぜだ。
晶は自問するも、答えは出ない。
腕試しの仕合をすると持ちかけてきたのは向こうだ。あくまでもこれは仕合であり、本気の殺し合いではない。恵那もそれを了解しているはずだ。いきなり、降臨術など持ち出すのは、常軌を逸している。
さては、扱い方を誤ったか。
可能性がないわけではない。
天叢雲剣はそれ自体が神具であり、本物のスサノオが携えたもののはず。言うなれば神の分身であり、それ自体も神性を持っている。並の人間では扱うことができない代物だ。恵那も山奥で修行をして、俗世の穢れを祓うことでやっと降臨術を成功させているのだ。何かの手違いで、コントロールを誤った場合、強すぎる神の力に身体を乗っ取られることもあるに違いない。
面倒なことになった。
晶は内心舌打ちする。
今の恵那の力は、神獣に匹敵する。本来、晶単独で挑むべき相手ではない。が、しかし、
「周囲には民家があり、応援はすぐには無理か。もうやるしかないわけだ」
幸いなのは、ここが夜間の学校だということだ。
グラウンドは人気がない上に、人目もなく、広い。戦うにはもってこいの環境だ。
護堂から与えられた神槍の穂先を恵那に向ける。
黒い瞳に明確な戦意を宿し、晶は、その一歩を踏み出した。
■ □ ■ □
どことも知れぬ山の中に護堂はいた。
闇に呑み込まれて視界が真っ暗になった直後、この場にいた。
緑と土の匂いが濃い。
風が強く、雨も降っている。
そういえば、原作でもそういう描写はあった。どうせなら、雨具でも持ってくればよかった。少しだけ護堂は後悔した。現世は夏日とはいっても、ここは山奥で、しかも渓流のほとりだ。気温は当然ながら低く、雨と風が加わって体温は奪われる一方だ。それにも関わらず、どことなくこの光景に懐かしさを覚えるのは、日本人らしい反応だと喜べばよいのだろうか。
周囲に広がる森も、原生林といった風情だ。
人の手の入っていない森は、それだけで神秘性を帯びる。
なかなか見ることのない乱雑な植生。出鱈目に生えているのに、不思議と調和の取れた世界観。自然というのは、それだけで完成している物なのだろう。
「う……予想以上にきつかったな」
護堂はうめいた。
幽界渡りが想像以上に身体に負担をかけてきたのだ。
激しい頭痛と吐き気。
それは、もう何十年も体験していなかった二日酔いを思い出させるものだった。
護堂の勝手な偏見だが、外傷よりも内臓の不調のほうが辛い。下痢などは最悪だ。カンピオーネになって身体が丈夫になったので、そのような症状とも無縁だろうと思っていたが、幽界は別物だった。
三分ほど蹲っていたら、状況が改善されたので、立ち上がる。
すぐ傍を流れる渓流は、すっかり濁っていて濁流となっている。
――――確か、この渓流に沿って移動すればいいんだったな。
護堂は記憶と勘を頼りに歩き出した。
体調は万全ではないが、スサノオに会えば身体が勝手に不調を治してくれるはずだ。神様を特効薬扱いするのは不敬かもしれないが、利用できるものは何でも利用するのがカンピオーネなのだと割り切る。
この先にいるのは、日本神話最強の武神。速須佐之男命。さすがに、緊張する。
上流へ向かうこと数分で、小さな掘立柱の小屋を見つけた。
そこから、漏れ出る神気はまさしく神のもの。
「おう、来たか。草薙護堂。呼び出しちまって悪かったな」
小屋の中にいたのは、身の丈百八十センチはあろうかという大柄の男だった。
古めかしい囲炉裏の傍に胡坐をかいて座っている。粗末な着物を一枚着ているだけなので、鍛え抜かれた肉体がはっきりと視認できる。
「あなたが、清秋院の後見人……スサノオノミコト」
「は、オレのことはもう知ってるみてえだな。自己紹介の必要はねえか」
「必要ないといえばないけどな。呼び方は、おじいちゃまでいいのか?」
護堂のいかにもな問いに、スサノオは気分悪そうな表情をした。
「そのふざけた呼び方はアイツだけで十分だ。御老公でもじじいでもかまわねえが、それだけはやめろ」
「そうか。じゃあ、御老公と呼ばせてもらおうか」
護堂にとっても、その呼び方がしっくり来た。相手を神名で呼ぶと、どうしても心が昂ぶってしまう。敵ではないと分かっていても、身体はすでに戦闘態勢に入っている。
「まあ、座れや」
促されて、護堂は腰を下ろした。
スサノオとの邂逅が、護堂の宿命に関わる重大事であるなど、このときは考えてもいなかった。
□ ■ □ ■
それは猛烈な台風であり、大嵐だった。
不可視のはずの風が、猛烈な神気に当てられて輝いている。
晶は疾風の如き速度で踏み込み、刺突を放つ。鉄骨すらも易々と貫く神槍は、しかしそれを上回る暴風によって弾き返された。
もう幾度攻め立てたことだろう。
この身に馴染んだ技という技を駆使し、術という術を披露して、いまだ届かない。恵那の意識は完全に沈み込み、身体は晶の攻撃に反応しているだけ。しかし、その機械的な迎撃が、あまりに的確だった。神剣の加護なのだろうか。これが、恵那の積み上げた武芸だとは思いたくない。
「まだまだ!」
諦めない。
相手が神獣クラスの力の持ち主だというのは、諦める理由にはなり得ない。
半年前であれば、戦意を喪失していたかもしれない。だが、今は違う。護堂とともに、『まつろわぬ神』の脅威を肌で感じた経験は、良くも悪くも晶を神威に慣れさせていた。今なら、源頼光を前にしても膝を屈することはない。まして、相手は人間だ。だったら、やりようはある。
晶は自らを鼓舞して前に進み出る。
呪を呟き、呪力を活性化。心臓が一際高く拍動し、全身を巡る血流が身体の隅々にまで呪力を送り届ける。身体の内側から骨格、筋肉組織、神経伝達速度に至るまで徹底的に強化。持ち前の膂力を可能な限り上昇させる。
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ!」
毘沙門天の真言を唱えて振り上げる神槍。
穂先に集中した呪力は、淡い光を放ち、
「せええい!」
大気を切り裂く呪力の刃と化す。
「ッ!?」
恵那の能面のような無表情が初めて変化した。
防衛本能によるものか、僅かに歪んだ表情は、恵那の守りが破られたことを意味している。
風の守りを突破した晶の神槍が、内包する呪力を爆発させる。呪力の刃は霧散し、激しい衝撃波を撒き散らした。至近距離で爆発を受けた恵那は、堪えられずに跳ね飛ばされる。
宙高く舞う恵那の身体。
並みの呪術師であれば、これで勝敗は決したも同然だ。が、しかし、今の恵那はスサノオの劣化コピーと言っても過言ではない規格外の存在。呪術の一撃程度で倒れる道理はない。恵那は、空中で体勢を整え、天叢雲剣を振るった。
この攻撃を晶が避けることができたのは、油断なく恵那を注視していたからだ。
不可視の斬撃は、晶が一瞬前までいた場所に着弾し、地面を切り裂いていた。
晶は、冷や汗を拭って槍を構えなおす。
恵那は悠々と着地する。目だったダメージはない。
やはり、強い。だが、この戦い、絶対に負けるわけにはいかない。
恵那が、神剣を振るう度に、風が刃となって襲い掛かる。
練りこまれた呪力は恐ろしく高密度。だが、そのおかげで迎撃も容易い。風の不可視という特性が、活かしきれていない。呪力を感じとることで、対応ができる。
晶は襲い来る刃を跳んで避け、槍で打ち払った。
火天の種字を唱えて神槍を炎で覆う。風刃が金気を宿しているのを逆手にとって、相克関係にある火気で迎え撃っているのだ。
だが、相手は余裕、こちらはギリギリ。
このままでは千日手だ。
右手で槍を振るいながら、左手にH&K MP5を構える。
銃火が吼える。9mmパラベラム弾が、問答無用と言わんばかりに恵那に襲い掛かる。
視認することすら不可能な鉛の弾幕を、恵那は神剣の一振りで薙ぎ払った。吹き荒れる風は渦を巻き、大気が軋みを上げる。
嵐の神の力は伊達ではない。近代兵器は物ともしないか。
引き金を引くが、弾が出ない。32発すべてを撃ちつくしたようだ。ただの銃弾では牽制にしかならない。特殊な魔弾を使っても、あの神秘には打ち勝てまい。やはり、神剣と同格のこの槍でなければ、恵那には届かない。
再び呪力を槍に込めようとしたとき、すぐ目の前に恵那が踏み込んでいて、晶は思わず忘我した。
それが、致命的な隙となった。
晶の持つ槍は、リーチの長さが最大の武器だ。そして、その形状から懐に入られた時点で無力化されるという欠点を併せ持つ。
吐息がかかるほどの距離に詰め寄られた時点で、晶の敗北は確定した。
振り上げから、振り抜きまでの一連の動作を、目で追うことができなかった。
神剣の鋭利な刃が、晶の身体を一刀の下に両断した。左の肩から右の脇腹まで、バターのように何の抵抗もなく神剣は通り抜ける。
ずれる身体。
流れ出る血。
恵那は勝利の余韻を味わう様子もなく、淡々と倒れ行く晶を見つめる。
二つに分かれた晶の身体が、一瞬にして膨張し、破裂、恵那の顔に赤い液体をぶちまけた。
視界が真っ赤に覆われて、恵那はたたらを踏んだ。
しかし、恵那は目が見えずとも戦える。すぐとなりに迫る呪力に反応して神剣を振るう。機械化された動きは、神槍の神気を記憶しており、その刃が襲い掛かってくれば反射で対応できる。
鉄を打ち鳴らす甲高い音。
だが、あまりに手応えがない。
打ち払った神槍には、まったく力が籠もっていなかった。たやすく弾き飛ばせる程度でしかない。
なぜならば、神槍はただそこにあっただけで、晶の手元にはなかったからだ。
それが意味するところは――――
恵那は防衛本能に従って、振り返る。返す刀で神剣を振るい、
「遅い!」
それに先んじて、反対側から踏み込んだ晶の渾身の右ストレートが、恵那の頬を捉えた。
どうにかうまくいったか。
晶は、仰臥する恵那を見てほっと一息ついた。
わざわざH&K MP5で弾幕を作ったのは、一瞬でも恵那の注意を自身から逸らすためだ。恵那が銃弾の雨を振り払ったその隙に、晶は身代わりとなる人形と入れ替わっていた。叔父が正真正銘の忍ということもあり、忍術にも精通する晶ならではの技術だった。
それにしても、今、この状況を正史編纂委員会の上役たちが見たらどう思うだろうか。神憑りで暴走した恵那を単独で地に伏せさせることがどれほど困難なことか。
それは、ただ一人で神獣を相手に勝利したに等しい奇跡だ。
『なるほど、まさか巫女たる貴様が己に仇為すとはな』
先ほどまでの無邪気さは鳴りを潜め、機械的な声で恵那が言葉を発した。
『だが、それも仕方ないことか。紛い物には相応しき行いだ』
ギクシャクとした動きで、恵那は起き上がった。表情はなく、瞳だけは戦意でぎらついている。
「……紛い物」
晶は、その言葉を咀嚼するように繰り返す。
イタリアで、アナトにも同じようなことを言われた。
自分の中の他の媛巫女とは異なる力のことを言っているのだろうか。
「それは、どういう意味ですか」
聞いてはならない。聞いてしまっては、後戻りできなくなる。脳裏を掠める警鐘を無視して、晶は問いかけた。
『答える義理はない。神を祀るべき巫女にも関わらず、神殺しに現を抜かす、愚か者にはな』
「別に、現を抜かしているわけでは……」
緊迫する状況下にありながら、ついつい照れてしまった。
だが、すぐに気を取り直す。
恵那は完全に神剣に意識を乗っ取られている。あの身体からは天叢雲剣の神力しか感じ取れない。人の身体に、それほどの力を封入すれば、どれほどの負担がかかるか。危険なのは、晶だけではない。
『己に勝つつもりか。つくづく愚か。身の程を弁えよ、紛い物の巫女』
不吉な風が、晶の身体に纏わりついた。
『ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし、今は吾が名の惜しけくもなし』
それが、天叢雲剣がこの戦いで唱えた最初の聖句だった。
何が来るかと、油断なく構えた晶の膝から力が抜け落ちた。
「な、うあ……」
膝をつき、槍で上体を支える。
身体中を倦怠感が襲う。呪力が根こそぎ奪い取られたのだ。
戦慄が、晶の背筋を駆け巡る。
「まさか、こんな力が」
呼吸もまともにできないほど、一気に衰弱する。
嵐を司る権能に気をとられて、こちらの力に意識を払っていなかった。
スサノオは、太陽すらも隠すトリックスターにして、数多の敵を打ち払ってきた軍神。彼の刀である天叢雲剣は
敵を無理矢理にでも屈服させ、その力を我が物とする力。
「ぐ、あううッ……」
おまけに、頭が割れんばかりに痛い。
天叢雲剣の神力をその身に受けた途端、尋常ならざる頭痛に襲われた。頭の中を引っ掻き回されているかのような激痛が晶を責めさいなむ。
目の前がチカチカと光る。
八つに分かれた竜の首。
荒ぶる武神。
雷鳴が轟き、風雨は山を穿ち、川をかき回す。
見たことのない光景が、次々に浮かんでは消えていく。
高橋晶の歴史が、別物に置き換えられる――――そんな気がして、総身が震える。訳の分からない、恐ろしい何かが、自分の内側からにじみ出ている。
「あああああああ!」
晶はついに倒れこんだ。
『貴様では己には勝てぬ。これは、神代から続く、絶対の理だ』
地に伏した晶の傍らに立つ恵那が、神剣を晶に突きつけた。
■ □ ■ □
スサノオ。
言わずと知れた日本神話最大の軍神。
最も有名なのは、ヤマタノオロチ退治の伝説だろう。生贄にされるというクシナダヒメを救うために、八首の蛇の怪物に単身挑み、これを撃破。その尾を切り裂いて、天叢雲剣を得たという。典型的なアンドロメダ型神話だ。
ゆえに、《鋼》の属性を持つ神でもある。
しかし、スサノオという神は、極めて多様な顔を持つ神だ。それは、その神格の成立過程で数多の神々を取り込んだからである。元々は出雲の土地神。アマテラスと異なり、古事記成立以前から在野で信仰を集めた武神であり、
スサノオは、オオクニヌシやスクナビコナと同じく、在野で厚い信仰を集めたからこそ、記紀神話において神話の書き換えが行われた神なのだ。
スサノオの神話は『国譲り』の布石となる物語だ。その神話の中でのスサノオの行動は、あまりにも矛盾が大きい。
例えば、『うけい神話』
『うけい』とは、『そうならば、こうなる。そうでないならば、こうなる』ということをあらかじめ宣言しておき、そのどちらが起こるのか、ということによって吉凶を占うものだ。神話の中でスサノオはアマテラスとこのうけいで勝負をしている。
スサノオが根の国に追放になる際、アマテラスに挨拶をしてから高天原を去ろうとするが、アマテラスはスサノオが高天原を奪おうとしているのではないかと疑う。この疑いを解くためにうけいを行うのだ。
古事記と日本書紀で筋書きが多少異なるが、当然このうけいはスサノオの勝利となる。スサノオには高天原を奪うつもりなど毛頭無いのだから当然だ。
それで、終わるのなら話は早いがそうならないのが神話の面白いところだ。
スサノオはその後、田の畦を破壊し、糞を撒き散らすといった、破壊行為に出るのだ。『高天原に害意がない』ことを『証明』したはずのスサノオの行動がこれだ。
この時のスサノオの行いを古事記では『勝ちさび』と表現する。
『勝ちさび』は、古事記だけの言葉で、ここで言う『さび』は、鉄が『錆び』るの『錆び』と同じで、『それらしくなる』という意味だ。つまり、『勝ちさび』とは、『勝者らしい行動をする』ということになる。
神話の神は、その権能にあわせた行動をするのだ。それはある意味で機械と同じである。月の神は月の領分から出ることはなく、太陽の神は太陽に関わる行動しか起こさない。
スサノオはうけいに勝って、勝者らしい行動として、高天原で暴れまわった。つまり、
スサノオが高天原を去る原因となったのは、父イザナギの海原を治めよという命を拒否したことにある。しかし、なぜ、スサノオは父の命令を拒否したのか。アマテラスは天を治め、ツクヨミは月の世界を治める。どちらも、あっさりとこれを受け入れている。それは、二神にとってそれぞれ、天と月は治めるべき領土だったからだ。しかし、スサノオは拒否した。そして、海原ではなく、母のいる『根之堅洲国』へ行きたいと泣き叫ぶのだ。
マザコンだから泣き喚くのとは訳が違う。スサノオが海原を治めることを拒否したのは、海が彼の領域ではないからだ。スサノオは本来根の国の神だ。だから、『根之堅洲国』へ行きたいと泣き叫ぶのだ。
『堅洲』とは『片隅』の意味だ。
スサノオは記紀神話以前の世界を背負った神であり、そのスサノオが高天原から去ることは、根の国を片隅にまで追放することを示している。
記紀神話は、かなり中央集権的な要素が強い。
在野の神話をまとめたというよりも、都合よく書き換えたものだ。
だからこそ、矛盾やおかしなところが出てきてしまう。
前世で護堂は倫理の授業の中で、折口信夫の『マレビト信仰』に触れた。
祖霊崇拝の一つで、山に祖霊が宿り、その霊は定期的に人々の下へやってくる。お盆などの元になった思想のことだ。
護堂が不思議に感じたのは、記紀神話で描かれる『黄泉国』は地底の国だが、日本古来の『あの世』が山となっている点だ。
これは、つまり、元々日本人の世界観はあの世とこの世が平行に存在する水平方向の世界観だったということを示しているのだ。沖縄には海の向こうに理想郷『ニライカナイ』があると信じられている。それと同じだ。『ヨミ』は『ヨモ』が鈍ったもので、『山』を意味する語だ。一方、記紀神話の世界観は高天原――葦原
あの世を意味する漢字に中国思想の『
スサノオの事跡は書き換えられた。
根の国の追放によって、古い水平的世界観から、近代的で中央集権的な――――皇祖神が座す高天原を頂点とする世界観へ移り変わった。
それが、スサノオの記紀神話での役割だったのだ。
目の前に座る武神から漂う力は、なるほど一国の英雄神に相応しい。
複雑怪奇な成立過程のために、様々な要素を取り込んでいるので、権能の幅も広い。おまけに、天叢雲剣が持つ相手の力を奪い模倣する力。
戦って負けるとは思わないが、本当に面倒くさい相手だ。ペルセウスやアテナのように、愚直な武神というわけでもないだろう。必要とあれば、卑怯な手を使うことだって考えられる。なにせ、記紀神話の英雄の基本戦略はだまし討ちなのだから。
酒を飲ませて泥酔したところを打ち倒したヤマタノオロチ退治のみならず、ヤマトタケルや神武天皇の伝説においても、正面からの戦闘よりも不意打ちだまし討ちが横行しているくらいだ。
敵対関係にないことが、せめてもの救いだろうか。
それとも、すでにスサノオの術中に嵌っているということはないか。
警戒心は緩めず、しかし身体の力は抜いて正面からスサノオと向き合った。
「いい目をしてやがる。オレが何か良からぬことをしようとしたら、即座に斬ることも辞さねえつもりだな」
護堂がスサノオを観察していたのと同様に、スサノオも護堂を観察していた。
若かりし頃のスサノオは、わがままながらも義侠心に溢れた英雄神。年老いた後は若者に嫌がらせをする老獪で、哀れな老人。その性格は多様にして千差万別。状況次第で様々な姿と性質を併せ持つ。
スサノオは頭も切れる。
護堂が抱く覚悟くらい、簡単に感じ取れる。
「まあ、そう不安がるな。オレたちは本当にオメエと戦うつもりはねえからな」
お猪口に酒を注ぎながら、スサノオは言う。
「『オレたち』ね。他にも仲間がいるように聞こえるな」
「耳ざといじゃねえか」
スサノオは、喉を鳴らしてくぐもった笑いを漏らした。
「腹の探りあいはその程度でよいのではございませんかな」
突然現れた第三の声に護堂は振り返る。
小屋の片隅に座す、干からびた僧衣のミイラが話している。
削げ落ちた頬に落ち窪んだ眼孔。なるほど、これは文字通りの即身成仏だ。
知ってはいたが、実物を見ると衝撃を受ける。正直に言って、見ていて楽しいものではない。
「わざわざこのお方をお呼びしたのは、世間話に興じるためではありますまい。そろそろ本題に入られるべきではないですかな」
やはりこのミイラ、なかなかの反骨精神の持ち主らしい。スサノオの前でも物怖じしないのは、付き合いが長いからなのか、それとも元々そのような性格だからか。おそらくは、後者なのだろうな、と護堂は思う。
「そのとおりです。これから話すことは、とても重要なのですから、あまり喧嘩腰で向き合うのはよくありません」
僧侶の反対側に、これまた突然現れた十二単の女性が、鈴のような声で言う。
彫りの深い顔立ちに、肌理の細かい象牙色の肌。亜麻色の髪とガラス細工を思わせる玻璃の瞳。日本人離れした容貌だ。
神祖を祖とする高位の媛。
「別に喧嘩腰でもなかったろ。なあ?」
「まあ、確かにそうと言えばそうだけど……」
だからといって、友好的だったかと言えば、そうではなかったはず。
しかし、スサノオはまったく意に介さない様子で、酒を呷る。
「俺に話があるから呼んだんだろう? いったい、何の話があるんだ?」
「そうだな。大事なことが二つある。が、その前に、おめえに聞きてえことがある」
スサノオは、お猪口を置き、眼光も鋭く護堂を見つめる。
「前世の記憶があるってのは、どんな気分なんだ?」
護道は、スサノオの言葉に絶句する。
これまでの二度の人生の中で、これほどの衝撃を受けたことはなかった。
知っている。
護堂がこれまでひた隠しにしてきた秘密を、この元『まつろわぬ神』は知っているのだ。これは、ブラフではない。スサノオは確信を持って護堂に問いを投げかけている。
これまでの護堂の行動から、推測することができるはずがない。
前世の記憶があるかないかなど、頭の中を覗く以外に術がない。そして、今のところ、護堂はそのような術を受けた記憶はない。
可能性があるとすれば、初めから護堂が転生者だと知っていたということだ。
護堂自身でも分からない、転生の秘密。
「あんたら、いったい何を知っている?」
震える声で、そう尋ねるのが精一杯だった。