カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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五十六話

 護堂たちと別れた二人――――恵那と晶は、人気のない東照宮を見て回り、また、その周囲を気ままに散策していた。

 あれから二時間と経っていないが、そろそろ飽きてきた。人がいないため観光するには面白みにかける。

 しかし、彼女たちはただの観光客ではない。

 二人そろって、十代では間違いなく最高最強の呪術師であり、日光東照宮といえば、霊地としては東日本最大級。日本の霊的中枢の一つ、富士山の鬼門に位置するこの建物は、四百年の長きに渡って日本を守護し続けてきたのだ。

 たとえ、歴史の中でその呪術的意味合いが、信仰心が、一般からは薄れてしまったとしても、呪術師の中で廃れたわけではない。

 徳川家康を神君として祀り、護国の守護神としての神格を与える呪術装置。

 それが日光東照宮の隠された意味。

 その壁に、屋根に、梁に、床に、この場を特異点とする霊的守護が刷り込まれている。

 よって、最初の一時間はそれについて話しているだけでよかった。しかし、あまりに高度な術式は、それを読み解く側への負担も当然大きい。もともと、観光気分で訪れた二人は、それほど深いところまで討議することもなく、『こんな術式がありますよー』という程度で流していた。その結果、護堂たちが戻ってくる前に、あらかた回りつくしてしまい、今は二荒山神社に続く石段に腰を下ろして徒然に会話を交わしている。

「しっかし、こんなにまで用心する必要あるのかなー?」

 恵那はぐー、と背筋を伸ばして空を仰いだ。

「用心とは?」

「日光山付近を空にするってこと。王さまがそこまでするなんて珍しいじゃん。今までの報告からだと、人を動かすのが嫌いだってことくらいわかるし」

「何か、気になることがあったんでしょう。陸家の御曹司のこととかあるじゃないですか」

「やっぱり、それだよね。羅濠教主、だったかな」

 中国のカンピオーネ。魔術結社『五嶽聖教』の頂点に君臨するが、滅多に人前に姿を現さないために、その容姿、能力、性別すらも不明。バルカン半島のヴォバン侯爵、アレクサンドリアのアイーシャ夫人と並ぶ古参の魔王である。

「順当に考えれば、羅濠教主が日本で何かしでかそうとしていて、先輩はそれを警戒しているということなんでしょう。まあ、でもここに来るとは限りませんけど」

 羅濠教主の直弟子、陸鷹化は、日本に入ってからその足取りを完璧に隠蔽している。それが、翻って何かを狙っていると思える所以であるが、その目的地がわからない以上は、用心のしようがない、はずなのだ。

「とすると、王さまの用心は結局《鋼》の神さまってことか」

「遺伝子レベルで敵対してますからね」

 晶は、足元に落ちていた木の枝を、踏みつけて足の裏で転がす。暇を持て余した休日の午後、隣には、先日本気で殺しあった先輩媛巫女。日光に行こうと護堂に誘われたときは、嬉しさいっぱいで飛び跳ねそうになったのだが、蓋を開けてみればこの状況。気落ちする。

「ところでさ、アッキー」

「はい?」

 恵那を見れば、なにやら意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見ている。これは、よくない笑みだ。晶は確信した。

「アッキーは王さまの愛人候補でしょ。実際のところどこまでいってんの?」

「はあ!? いや、突然何をッ!?」

 身構えていたが故に、逆に過大な反応をしてしまった。

「いやあ、突然でもないよ。夏休み前には、もう出てた計画じゃん。知ってるでしょ」

 晶は、言葉をなくして押し黙った。

 護堂に愛人を宛がって、日本に括りつけよう。そうした不埒な計画を聞かされたのは、護堂がまつろわぬ一目連と戦う直前だった。

 あれから二月半。その後の音沙汰は一切なく、気になってはいたがあえて聞こうともしなかった。計画が立ち消えになったのかもと、半ば期待していたのだが。

「恵那が最初に言ったこと、覚えてる? 祐理とアッキーと三人で王さまのところにお嫁入りするって」

 もちろん、覚えている。

 あれほど鮮烈な出会いはそうあるものではない。

「本気、なんですか?」

「もちろん!」

 恐る恐る尋ねると、底抜けに明るい返答を受けた。

「あの、どうしてそこまではっきりと言えるんですか?」

「さあ? 恵那にもよくわかんない。けど、なんとなく、この人とは馬が合いそうって思ったんだよねー。恵那の勘は大体当たるし」

「勘って、それで将来の伴侶を決めるんですか、清秋院さんは」

「まあ、ねえ。勘は大事だと思うけどなー。だって、そもそも恵那の立場上、政略結婚とか普通にさせられそうだし。だったら、気が合う相手を選びたいじゃん」

 清秋院家ほどにもなれば、政治的な意味合いも結婚に持たせる必要がある。名家とはそういうものだ。呪術世界ではいまだに血族が影響力を持つが故に、婚姻というのは、出世にも保身にも重要な要素である。それに、媛巫女という存在自体がある程度管理下に置かれている。自由恋愛が奨励される立場ではないのだ。

 そんな中で、気に入った相手に嫁げるのなら、それに越したことはない。恵那が言っているのはそういうことだった。

「だから気になるんだ。祐理とアッキーが王さまとどこまで行ってるのか」

 晶の目を覗き込む恵那の黒い瞳が、空恐ろしく感じられた。ふざけているようでいて、大いに真面目に語っている。

 尋ねられた晶は、明確な解を持っていないために、満足に答えることはできなかった。

「わたしは、別に……」

「ふうん。アッキーはまだか。じゃあ、祐理は?」

「……キスはしたみたいです」

 晶は、視線を落とし、呟くように言った。

「ああ、その話は聞いたっけ。本当のところは人工呼吸みたいなもんだけど、それでも二回しているからねー」

 晶は、耳を疑った。

「え……二回?」

「あれ、知らない? 祐理ってば、春先の火雷大神のときにも気を失った王さまに治癒をかけてるんだよ。甘粕さんから聞いたんだけど、アッキーは知らなかった?」

「初耳です」

 春先の事件については、晶も聞き及んでいる。護堂が現在主力として使っている『八雷神』の権能を簒奪した戦いは、カンピオーネの恐ろしさを正しく正史編纂委員会に知らしめた。それを理解できなかった連中が、その後大きな事件を引き起こしたわけだが、すべてはその春先の事件に端を発する。

 とにかく、祐理は、力を使い果たして倒れている護堂に治癒を施した。カンピオーネに術をかけるには、経口摂取――――キスが最も早く、効果的だ。それが一回目。そして、二度目はイタリアで零落したアナトに心臓を抜き取られたときである。怒りに身を任せていた晶は、その様子を見たわけではないが、その後ルクレチアの家を訪れた際に、発覚し、ちょっとした騒動となった。

 だが、それは二回とも人工呼吸のようなものだ。祐理自身もそう言っていたではないか。彼女が、そういう場面に出くわして、そういう行動に出たというだけのことだ。自分だって、そういう場面に遭遇すれば、きっと同じように行動したはずだ、と思ってから、晶は頭を抱えた。

 護堂がヴォバンを追い払ったあのときが、まさにそういう状況だった、と。

 疲労から眠りについた護堂が病院に運ばれるまでずっと晶は寄り添っていたのだから。

「あぁぁ……」

 逃した魚は大きかった。いや、別にキスがしたいとかそういうわけではないと自分に言い聞かせて落ち着こうとする。そんな晶を見て、

「つまり、一番進んでいるのは祐理か」

 恵那がそう結論付ける。目下、最大のライバルは祐理であると。とはいえ、肝心の護堂自身がそのことを知らないでいるというのは大きい。事実上、祐理が優位性を保っているということにはならない。

「んじゃあ、目標はまずキスからだねー。帰ってきたらお願いしてみる?」

「んぐ!? な、ええ!? そんな突拍子もないことをなんで平然と提案できるんですか!?」

「いや、冗談冗談。さすがに唐突すぎるからねェ」

 顔を真っ赤にする晶と、大して顔色を変えない恵那。実に対照的な二人である。

「でさ、実際のところキスってどんな感じだと思う? やっぱり気持ちいいのかな?」

「し、知りませんよそんなこと」

 キスなんてしたことがないし、そんな状況にも陥っていない。唯一の機会を棒に振っていた事実に気づき、意気消沈した人間に尋ねられても困る。

「じゃあ、やっぱり祐理に聞くしかないかな」

「止めておいた方がいいんじゃないですか。万里谷先輩も怒りますよ」

「でも、アッキーも興味あるでしょ?」

 恵那に問われて、晶は言葉につかえた。目が泳ぐ。その僅かな隙を、野生的嗅覚の持ち主である恵那が見落とすはずがない。

「あ、想像した。やっぱり、興味津々だねー」

「あ、い、いや、ない。ないですから。なんですか、その『皆まで言わなくても分かってる』みたいな笑顔は!?」

 うんうん、と頷く恵那に、晶は食って掛かった。

 そうしたやり取りを繰り返している彼女たちは、いたって普通の女の子に見える。しかし、片や神の御霊を身体に降ろし、一時的に神使に比する力を得る媛巫女であり、片や、大地から呪力を吸い上げて肉体の限界を考えなければ無尽蔵の呪力を扱える媛巫女だ。武芸においても当代最強を争う二人。背後から誰かがやってきたとあれば、すぐに反応できる。

 まして、今、この場に彼女たち以外に人がいるはずがないのだから。

「もしや、陸鷹化さんですか?」

 相手は二人組み。二荒山神社のほうからやって来た。アジア系の顔立ちの少年と、ゲルマン系の顔立ちをした少女の組み合わせだ。そのうち一人には、見覚えがあった。護堂が気にかけていた海外からの来訪者だ。

「ええ、そうですよ。初めまして、清秋院の姐さんに高橋晶」

 さすがに、日本で事を起こすに及んで相手は護堂の近辺を調査済みのようだ。日本国内にだって正史編纂委員会の手が届かない『裏』は存在する。

 例えば、とある中華街。

 ここには、華僑系の呪術師が独自の文化体系を築き上げている。その出自から、『五嶽聖教』に近づく者も多い。

「なんでわたしは呼び捨てなんですか」

「そりゃ、同じ生まれ年の女にまで敬称はつけられないからねエ」

「なるほど。そりゃ、わたしだって同学年の人に『姐さん』なんてつけられたくないですよ」

 警戒しつつ、相手の出方を探る。両者ともに、すぐさま戦闘に突入するという愚を犯すほど単純ではなかった。

 いや、一人だけ。鷹化の隣に立つ容貌可憐な少女が、肉食獣のような凶悪な笑みを浮かべて恵那と晶を見ていた。

「なあ、陸鷹化。この二人、邪魔にならぬうちに始末してもよいのではないか?」

 対する鷹化は、はあ、とため息をついて乗り気でないというように肩を竦めた。

「姐さんがロサンゼルスでしくじったのは、喧嘩っ早いのに加えて、その相手を見くびる性格のせいだと思うよ。荒事で解決しなくてもよさそうなら、まず会話するべきだと思うけどね」

 鷹化は、恵那と晶を見る。

 アーシェラの言葉に触発されて、すでに臨戦態勢に入ってしまっている。さすがに、危機察知能力は高い。アーシェラの正体まで理解している訳ではなさそうだが、それでも危険性は察知している。

 武器は、日本刀と槍。どちらも大業物といってもよく、日本刀も厄介な呪力を帯びているがそれ以上に、あの槍。神が振るうべき神具級の逸品など、人間の戦いに持つ込むのは反則だ。ぶつかって負けるとは思わないが、武装面では不利。武器に妙な能力がないとも限らず、この場で戦闘に突入するのは、聊か問題が大きすぎる。自分は問題ないのだ。問題があるとすれば、それは隣に立つアーシェラのほうだ。

「姐さんには、これからやってもらうことがある。下手に怪我を負わせて儀式に影響したら、今度こそ僕は死ぬ」

 誰にも悟られないくらいの小声で呟く鷹化の顔には、ある種の焦燥が見えた。

 羅濠教主を説得して日本に呼び寄せたときにも、三度ほど気絶させられたのだ。百年の因縁に決着をつけるための大一番に水を差したということになれば、首が飛ぶ程度では収まらない。

 ゆえに、万が一にもアーシェラが怪我を負うようなことがあってはいけないのだ。

「お互いに、一先ず落ち着こうよ。もう察しがついてると思うけど、今頃、あの祠の中で王さまの首脳会談が始まっているはずだしね。僕らがあれこれするのは、その結果が出てからでもいいんじゃない?」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 カンピオーネ、あるいは『まつろわぬ神』は、体内の呪力があまりに強大で高密度なために外界からの呪術攻撃を無力化する特性がある。それは、鉄壁に豆腐を投げつけても砕けるのは豆腐のほうであるのと同じことで、単純に固さが違うのである。よって、相手を傷つけるためには、その鉄壁を砕くほどの威力がある砲弾(じゅじゅつ)を叩き込まねばならない。逆に言えば、それだけの呪力を用意することができれば、カンピオーネでなくとも呪術でカンピオーネや『まつろわぬ神』に傷をつけることは可能だ。ただ、それほどの呪力を人間が扱うのは、理論上不可能なだけで、方法論としては存在しうる。

 カンピオーネを傷つける方法は、大きく分けて二つ。

 一つ目は、呪術抵抗力を上回る強大な呪力による攻撃を加えること。そして、二つ目は、単純な物理攻撃である。

 

 怪力の権能に、神憑った武術を披露する羅濠教主は、まさにカンピオーネキラーとでも言うべき存在だ。

 無防備な状態で、その拳を喰らえば、それだけで骨が砕け、内臓が破裂し死に至る。トラックとの正面衝突でも生き延びるカンピオーネの骨格でも、羅濠教主の拳は重すぎる。

「む?」

 思いのほかあっけなく吹き飛ばされた護堂であったが、それを見ても羅濠教主は表情を固くし不可解だとばかりに護堂を視線で追う。

 その拳は一度振るえば屍山血河を作り出す。今回は、魔王の先達としての気風を示すべく、多少の加減をしてやったのだが、拳を通じて羅濠教主が感じ取ったのは、人間を殴った際の柔らかさではなかった。

 墜落する護堂。

 しかし、落下しつつも、その目はしっかりと羅濠教主を見据えている。殴ったはずの腹部からは、正体不明な黒い霧が集中している。

 それを見て、羅濠教主は妖艶な笑みを深くする。

「なるほど。若いとはいえ魔王の一人。そこまで容易く倒れるはずもありませんね」

 羅濠教主が拳を振るうべきは、真の英傑であるべき。そして、少なくとも倭国の王にはその資質があると見た。

 加減したとはいえ、羅濠教主の拳を耐えたのは偶然でもなんでもない。それが、彼の実力なのだ。

「久方ぶりの倭国。英雄神を討伐することだけが楽しみかと思っていましたが……これは、いい意味で見込みがはずれましたね。そこの巫女よ、斉天大聖の封を解く儀式に入りなさい」

 羅濠教主に指示されて、ひかりは糸で操られるマリオネットのように舞う。口上を述べ、斬竜刀に霊力を込める。

 羅濠教主は拳法のみならず方術においても最上位に位置する才色兼備の魔王である。齢十二のひかりが、その言葉に抵抗できるはずがない。

 ひかりが解呪の儀式に入ったことを見た、羅濠教主は地を蹴って空に舞い上がる。

 草薙護堂を追いかけて、仙女のように悠々と。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 本気で死んだかと思った。

 護堂は気づいたときには上空に舞い上げられていたのだ。あれが噂に聞く無拍子とかいうものか。

 だが、死んでいない。幸いなことにダメージは皆無。運がよかったのか、生き汚かったのか、脳よりも先に身体が防御に転じていたらしい。

 黒雷神が局地的に発生中。

 胸元から腹部にかけて、漆黒の闇が覆っていた。

 上空からの着地は幾度となく経験してきたもの。今度も難なく着地して、追ってきた羅濠教主と向かい合う。

「ひかりとは引き離せたか。だけど、儀式は遂行中。これはもう仕方ないか」

 いろいろと思案してきたが、事ここに至っては孫悟空の復活も容認しよう。もともと、その可能性を加味して計画していたのだ。日光山周辺から一般人を退去させてあるし、最悪の事態は防げるはずだ。

「この羅濠の一撃を見事防いで見せたこと。誉めてあげましょう。我が不肖の弟子すらも、いまだ為し得ぬ難事。若いとはいえさすがに魔王の名を冠すだけのことはあります」

「それはどうも。お褒めに与り光栄です」

 言葉だけは謙りながら、決して腰を低くすることはない。護堂は魔王としての経験においては圧倒的に不利であるが、そんな戦いなど今までいくらでもしてきた。なにせ、護堂は現代で最も若いカンピオーネだ。経験で勝てる相手は一人もいない。

 だから、策を弄し、根性を振り絞る。

 愚直なまでに必死になることで、万に一つの勝機すらも引き寄せるのだ。

「ほう、よい目をします。如何にしてわたくしを打倒するか、思案していますね」

 羅濠教主は、護堂の高まる戦意を好意的に受け止めた。

 拳を交えた分だけ相手を理解することができる、というような週刊漫画雑誌に出てきそうなフレーズを本気で言い出しかねない人物だ。

 目線はあくまでも上から。護堂が若いカンピオーネということもあって、羅濠教主には余裕が感じられる。

「戦わなきゃならないなら、勝つために全力を尽くすのが俺のやり方だ。あなたが動けなくなるまできっちり戦い抜いてやるさ」

「不遜な物言いですが、許しましょう。草薙王。あなたはまだまだ未熟ですが、それも仕方のないこと。この羅濠が手ずから教導してあげましょう」

 羅濠教主はそう宣誓し、次の瞬間には護堂の目前に舞い降りてきた(・・・・・・・)

 速いということをまったく感じさせない身体運び。武芸の絶技とも言うべき神業だ。繰り出される拳は、岩をも砕く一撃にして、銃弾を上回る超高速。まともに受ければ即死もあり得るそれを、護堂は首を捻って紙一重でかわす。

 何が襲い掛かってくるのか、護堂自身にも見えていない。見えていないのだが、何か危険なものが放たれたということは分かる。勘に任せた回避だが、カンピオーネの強力な直感能力に『強制言語』の精神干渉を駆使すれば、カンピオーネの優れた勘を瞬間的な未来予知にまで昇華させることができるのだ。

『縮』

 肩口を掠めた手刀にバランスを崩しながらも、言霊を唱える。背後の空間を圧縮し、後方へ跳ぶ。

「ぐッ……!」

 前触れなく急加速した護堂の動きに、羅濠教主の蹴りが辛うじて追いついた。下から上へ蹴り上げる一撃は護堂の顎に擦過傷を作った。

 護堂が用いた権能が、黒雷神の化身でないこともあって、羅濠教主は攻勢の手を一時休めた。

「ほう、面妖な権能を持っていますね。先ほどの黒い影といい、攻撃一辺倒ではなく、状況に応じての使い分けができるわけですか」

 興味深そうに、護堂のことを観察する羅濠教主は、王者の余裕を崩さない。現状、護堂から攻撃に出たことは一度もなく、常に回避行動を取り続けるだけである。これまでの様子から、護堂には、近接戦闘の心得はなく、近づけば羅濠教主側が圧倒的優位に立てることがわかる。

 だが、羅濠教主が持つ護堂の情報は、これくらいのものだ。下の者からの報告に細かく目を通すような女性ではない。護堂がどのような権能を持っていようと、自分の武が敗れるはずがない。そういう自信に溢れているからだ。

 一方の護堂は今の攻防で、彼我の実力差を痛いほど実感させられた。

 強い。半端なく強い。テレビで見る格闘技の世界チャンピオンが、まるで子どもに思える。

 羅濠教主の持つ権能は、護堂が知る限り四つ。

 そのうち主戦力となっているのは、阿吽一対の仁王から簒奪した怪力の権能である『大力金剛神功』とガーヤトリーから簒奪した詩を衝撃波へ変換する権能である『竜吟虎嘯大法』の二つである。

 この二つの権能を用いて、羅濠教主は遠・近・中のすべてのレンジで戦うことができるのである。 

 だが、やはり警戒すべきは彼女の拳の範囲内にいることであり、羅濠教主も決定打を放つためには得意の縮地法を使うなりして近づこうとするだろう。

 二十メートルほども距離を取った今でも、油断をすればすぐに接近を許すことになる。

 安心はできないが、それでも拳の範囲外に逃れたことは護堂に反撃の機会を与えた。

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 一目連の聖句を唱えて呪力を発する。それにあわせるかのように、羅濠教主が踏み込んでくる。

 大地が振動した。羅濠教主が、雷鳴の如く踏み鳴らした震脚が、蜘蛛の巣状の亀裂を大地に走らせる。冗談染みた力が、その右の拳に集中しているのが分かった。

「ハッ!」

 美しい声色で放たれた拳は、護堂と羅濠教主との間に出現した円形の楯に遮られた。

 拳を止められて、羅濠教主の眉尻が上がる。

 その直後に、護堂の頭上に五本の神槍が切先を羅濠教主に向けたまま現れた。

 護堂は、バックステップで羅濠教主から距離をとりながら、入れ替わるように五本の槍を無造作に射出する。

 その一挺一挺が、人間を消し飛ばすのに十分な威力を誇る正真正銘の神槍である。本来であれば、直撃せずとも余波だけで、敵を倒すことすらも可能だろう。

 槍の刃が地面を抉り、呪力を爆散させる。

 閃光が迸り、爆風が護堂の身体をさらに後ろへ追いやった。

 だが、護堂の表情は晴れない。むしろ、危機感がさらに募っているようですらある。それもそのはずだ。そもそも、今の五本の槍は、決して地面を狙ったものではなかったし、爆発するようなものでもなかったからだ。

「見事です、草薙王」

 羅濠教主は健在。粉塵が晴れた後に残ったのは、無傷の乙女と、へし折られた五本の槍だけ。砕かれた槍は、その内側から呪力を発散して散ったのだ。

「この羅濠に土ぼこりをつけるのは並大抵のことではありません。サルバトーレ某といい、雷速の捻くれ者といい、この十年の間に、三人もの猛者がこの難行に成功するとは――――覇道の先達として嬉しく思います」

 羅濠教主は、いつの間にか衣服を着替えていた。仙女が着るような漢服ではなく、白いチャイナドレスだ。おそらくは動きやすさを追究したのだろうが、それはつまり相手もやる気になって来ているということである。

 護堂はさらに十挺の剣を羅濠教主に向けて放った。

 それぞれの角度を微妙に変えて、逃げ道を塞ぐように扇形を描かせる。音速をはるかに超えた刃は、大気に黄金の軌跡を残して疾駆する。

 さらに、着弾を確認するよりも前に、すでに護堂は次弾を装填済みだ。もとより、たかが十挺の刀剣で倒せる相手だとは思っていない。その武芸を目の当たりにした今、自慢の武具も色あせて見える。それでも羅濠教主が回避するか迎撃したところを続けざまに狙えば効果はあるはずだ。

 だが、それでもまだ、護堂の考えは甘かったと言わざるを得ない。

 目を疑ったのは羅濠教主の体捌き。

 流水の如く滑らかな挙動で半身となった羅濠教主は、刀剣の隙間を縫うように横滑りしつつも半回転。次の瞬間には、伸ばした腕に絡めとられるように、両刃の剣の柄が手の平に収まっていた。さらに地を蹴り、身体を横回転させながら、掴み取った剣で襲い来る刃を斬り飛ばし、華麗な足技で蹴り落とした。すべて、一瞬の内に行われた奇跡の技である。あのアテナやサルバトーレですら、この剣を前にしてこれほど美しく立ち回ることは出来なかった。

 これが、羅濠教主。

 二世紀に渡って武の頂点に君臨し続ける人類最強の格闘家の絶技である。

「怪物かよ!」

 言うまでもないことだが、言わなければやっていられなかった。

 射出する剣群がひどく頼りない。放たれた十の軌跡を、羅濠教主は明らかに見切っている。その上で、最小の動きで迎撃に出る。護堂から奪った剣を回転させるように投擲。柄と刃の部分で二挺を落とし、さらに落とされた剣が別の剣にぶつかってその方向を変える。羅濠教主に、刃が届かない。

 護堂は今度は、槍を作り出す。

『縮』

 空間を縮めて羅濠教主の前へ躍り出る。拳が届かず、穂先が届くまさに紙一重の距離。

 突き出す槍は、速いとも遅いともいえないレベルだ。それも当然のことで、護堂は生まれてこの方真っ当な武術など嗜んだことすらないのだから。

「刺突が甘い!」

 羅濠教主から叱咤が飛び、護堂の槍は穂先の付け根から鷲掴みにされた。

 ギシ、と互いに動きを止めた。護堂は、一切身体を動かせず、羅濠教主は護堂の槍を片手で押さえ込んでいる。

「あなたの動きを見れば素人であることは明白。武林の至尊たるわたくしに、そのような甘い槍が届くことはありません。出直しなさい!」

 とてつもない怪力が、護堂の身体を引き寄せた。

 掴まれた槍が、羅濠教主の怪力で引っ張られたのだ。

「シッ!」

 鋭い呼気とともに、目前に迫る掌底。

 喰らえば一撃の下に護堂の脳を破壊できる凄まじい威力を誇る。

 しかし、いかに強大な威力を誇ろうとも、その攻撃が当たらなければ意味がないのもまた事実である。

 羅濠教主の強大無比な掌底は、護堂を捉えることなく虚空を切った、

「む?」

 いぶかしみながらも、勘任せに背後へ蹴りを放つ。

 反射神経であるとか、動体視力であるとか、そういった生物としての機能を無視した尋常ならざる勘は、カンピオーネだからこそであるが、武を極め、二世紀もの経験を積み重ねた本物の強さを持つ羅濠教主のそれは、権能で直感を強化している護堂に勝るとも劣らない。

 ガゴン、と固い何かが陥没する音が響く。ついで、

「ぐがッ!」

 と、苦悶の声を漏らす護堂を確認する。

 蹴り飛ばされた護堂は、二十メートルは吹き飛んだか。槍で防いだためにダメージはそれほどでもない。

 羅濠教主は、笑みをますます深くした。

 なぜなら、立ち上がる護堂が持つ穂先には、確かに赤い雫が付着していたからだ。

「わたくしに傷をつけましたか。実に見事です。甘い刺突で油断を誘い、わたくしが攻勢に出たところで背後へ転移する。ここが幽界であることを逆手に取った、すばらしい策です。この十年でわたくしに土埃をつけた者はいましたが、武にて傷を負わせた者は皆無。草薙王、あなたが骨のある勇士であることを嬉しく思います」

 護堂は羅濠教主の評価が高じるにつれて危機感を増していった。

 羅濠教主がやる気になればなるほど、形勢は不利に傾いていくからだ。

 さすがに、今ので討ち取れるとは思っていなかったが、肩口を掠める程度の浅手に終わるとは、すこしショックが大きい。

 幽界では、イメージ次第で呪術を用いなくても転移が可能となる。

 もちろん、そのためには精神を研ぎ澄ます必要があり、咄嗟に使用することは困難を極めるが、目標地点が視認できる上に、初めから狙っていたのであれば、成功率は格段に上がる。羅濠教主の隙を突くために、決死の策として転移を戦法に取り込んだのだが、結局は薄皮一枚斬り裂くだけだった。

「完全に不意を打っても、反撃されるか。なんとかして動きを止めないと触れもしねえ」

 護堂と羅濠教主。互いに、疲労の色はなく、手の内も曝していない状態。しかし、戦局は一進一退とはいえない状況だ。護堂が大技に出ないのは、羅濠教主に正面から使っても防がれる公算が高いからであるが、羅濠教主が本気を出さないのは、あくまでも自分の実力に自信を持っているからである。

 状況だけを見れば、互角であっても、その内実は護堂が徐々に追い込まれているのだ。

 護堂はちらり、と背後を見る。

 ひかりは、呆然とした様子で立ち尽くしている。儀式はすでに終わっているのか、ひかりが動く気配はない。

「ひかりを幽界から出してやらないといけないか」

 今回は失敗が多かったが、祐理との約束くらいはしっかりと履行しなければならない。

 そのためには、なんとしても羅濠教主から逃れなくてはならないが、このままではそれもままならない。

 逃亡に使うのは、神速の化身、土雷神。それを羅濠教主の目を盗んで発動させるタイミングを見計らう。

 そんな護堂の企てを、羅濠教主は感じ取ったのか悠然としつつも拳を構える。

「なにやら胡乱な考えを持っているようですが、戦において集中力を欠くのは首を投げ出すのと同じ。あなたは魔王となって日が浅いゆえ、実感がないのでしょうが、それではこの羅濠を打倒することは叶いません」

 轟、と魔風が吹いた。

 これまでは無風状態だった幽界の中に、風が生まれている。

「我が権能『大力金剛神功』はすでに見せました。これから見せるのは、『竜吟虎嘯大法』。これら二つの絶技を以ってわたくしは武林の至尊となったのです」

 風が羅濠教主の呪力に合わせて蠢いている。

 風を操る権能。より正確には、詩を衝撃波へ変換して敵を屠る権能だったと記憶している。

「去年は戦う、桑乾源。今年は戦う、葱河の道に」

 詩が始まった。

 吟じれば吟じるほど、風の威力は上昇していく。

 原作ではウルスラグナの化身の中でも最強クラスの打撃力を持つ『猪』の突進を食い止め、弾き返すほどの力があった。

 羅濠教主が発する衝撃波は、台風を遥かに上回る威力となるのだ。

「古来唯だ見る、白骨黄沙の田。秦家城を築きて胡に備へし處」

 護堂は、手に持っている槍を地面に突き刺し、さらに数挺を柵状に突き立てて風避けを作った。それでも、足を持って行かれそうになる。しっかりと踏ん張り、槍を握っていなければ、バランスを取ることも難しい

「我は神々に代わり魔を討つ者。如何なる邪悪も、我が身に害を為すこと叶わぬと知れ!」

 権能には権能で対抗する。

 源頼光の聖句を唱えて、破魔の神酒を生成する。

 護堂は神酒を霧状に展開。羅濠教主の風を打ち消そうとする。神酒の権能弱体能力が効いたのか、護堂の下に届く魔風はずいぶんと弱まった。

 だが、詩吟は止まらない。

「乃ち知る、兵は是れ凶器。聖人は已むを得ずして之れを用うるを!」

 そして、ついに詩が完成する。

 収束する魔風は、神罰の鉄槌と化して、護堂を襲う。

 たかが霧では、この暴力を止めることはできない。圧倒的スケールで振るわれた不可視の豪腕は、真っ白な霧の世界に大きな風穴を開け、消し飛ばした。

 

 

「消えた? あの霧に紛れて転移したということですか。しかし、この空間内には見当たらず。ふむ……」

 霧が消えた後に、護堂の姿がないことを見てとって、羅濠教主は頤に手を当てて思考する。

 たとえ神速の権能を使ったとしても、羅濠教主は目視で捉えることが可能だ。しかし、霧から飛び出た気配はなかった。

 転移した可能性が大きいが、この空間は特殊な術で閉じられている。ゆえに、この空間から外に出ることはできないはずなのだが、探査の術を使っても反応がない。それに転移したというのであれば、それとなく分かるはずだ。

 羅濠教主は敵を見失ったことを不可思議に思いながら、厩舎のほうを見た。

「巫女もいない。なるほど、端からそういう算段でしたか」

 それから、ふむ、と息をつく。

 あの霧はやはり撤退のための目くらましだったのだろう。方法は分からないが、あの霧の中から自分の目に止まらぬ手段で移動し、禍祓いの巫女を連れて逃げたということだ。

「ふふ、本当に大したものです。三十六計逃げるに如かず。されども、このわたくしを相手に逃げ果せるのは至難の業。かの神の復活には今しばらく時間がかかる様子ですし、一足先に現世に戻り、雌雄を決するのも一興ですか」




羅濠教主が吟じているのは李白の『戦城南』。書き下しが間違ってるとかの指摘はなしでお願いします。原作に合わせているので。

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