七十八話
降り注ぐ豪雨の壁は視界を妨げ、体温を奪っていく。
篠突く雨の奥に、天を突くかと思うほどの巨大な影が聳えている。
山――――ではない。
蠢く何か。
生物だ。
擡げた頭の先には雲が。
裂けた口からは大気を震わす怒号。
あれに人並みの感情があるのなら、間違いなく怒り狂っていると断言できる。
振るわれる尾は山を砕き、川を堰き止め氾濫させる。
ただそこにあるだけで、あらゆる生物はその怪物の膝下に侍ることを余儀なくされる。
ああ、勝てない。
このような魔物には勝負を挑むだけ無駄なのだ。
逆らえば最期、苦しむ間もなく殺される。
あの怪物の巨体を見れば、軽く小突かれただけで人間を轢殺するに足る力を出すことは容易に想像できる。
逆らってはならない。
逆鱗に触れてはならない。
あれは、人の手に余る怪物なのだから。
では、今あの怪物が怒号を上げているのはどういうことだ。
山は砕け、川は溢れている。にもかかわらず、あの怪物は怒りを静める気配すらない。
怒りを向ける対象が、しぶとく生き長らえているからだ。
やがて、幾度目かの咆哮を発した後、ぱったりと世界の音は失われた。
激しく降り注いだ雨も、吹き荒れた風も、今では嘘のように消え去った。
失われた命と救われた命があり、その立役者は五体満足で帰ってきた。
怪物を恐れることなく立ち向かった英雄の名はスサノオ。
救われた姫の名はクシナダビメ。
討ち取られた怪物の名はヤマタノオロチ。
遥かな太古。
この世界が神の国であったときの、物語である。
□ ■ □ ■
ランスロットは確かに倒した。
それだけの攻撃を直撃させたし、討ち果たした手応えもあった。
しかし、権能が手に入らなかった。
原作でもランスロットの権能は簒奪できていないので、権能を得るには正面撃破以外の何かしらの条件があるのかもしれない。
少なくとも、今回の戦いに於いて護堂は権能を得るだけの戦いぶりを見せたと思っている。
それでも権能が得られなかったのだから、カンピオーネのシステムには護堂の知らない規則が存在するのだろう。
それ自体は原作通りなので、それほど心を悩ませることではない。
ただ、ランスロットを倒した時点で、護堂はネタ切れ――――つまり、『原作知識』が底を突いた。
ヴォバン侯爵への先手必勝にリリアナの買収、羅濠教主への対策などなど、事前の知識を活かして災難を軽減してきた場面は多々あった。
そういった、優位性が失われ、護堂は正真正銘裸一貫でこの世界と相対しなければならなくなったのだ。
今までは知っているという安心感があった。しかし、これからはそれは通じない。
「まあ、でもよく考えたら別に必要ってわけでもないのか」
そもそも、始まりからして原作とは別の道を行ったのだ。今さら、知らない敵、知らない展開があったところで驚くに値しない。
よって、深く考える必要はない。
「今までだってやってこれたわけだし、これからもなんとかなるだろ」
非常に楽天的な考えで、護堂はそれ以上の思考を放棄した。
十二月三日。
この日は、草薙家にとって重要な祝日である。
護堂の妹である草薙静花の誕生日だからだ。
すでに、妹にだけは過保護な父から、どこの国のものとも分からぬけったいな誕生日プレゼントが宅配で届いている。
もちろん、それを見て静花が引いたのは言うまでもない。
ともあれ、この日の昼間は、護堂は静花と共に新宿を歩き回った。
もともとそういう約束をしていたからで、特に予定もなく、神様の襲来もなく、本当に何事もなく夜を迎えたのだった。
草薙家は十二月に入ったその日のうちに炬燵を用意した。
洒落たレストランで外食、ということも考えたのだが、それはクリスマス辺りに取っておいて、ここは出前を取って、みんなで飲み食いしようということにした。
参加者は、静花と護堂の共通の知り合い。つまりは、祐理と晶、明日香である。祖父はなんと海外に出てしまって不在だ。
護堂から静花への誕生日プレゼントは、折を見て渡すつもりである。
「静花ちゃんに渡す誕生日プレゼント、先輩選んでたんですね」
エプロンを着けてキッチンに立つ晶は、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出した護堂に言った。居間で祐理と談笑している静花には聞こえないように小声だ。
「まあ、ランスロットと戦う前には準備してたんだよ」
「そうなんですか」
キッチンには、おいしそうな匂いが立ち込めている。
鍋で煮込まれている中華スープが匂いの発生源だ。
今日のメインは中華料理。その多くは、陸鷹化が経営する店に注文したものである。
しかも、金は取らないとのこと。
そのことに関しては、カンピオーネである護堂への配慮もあるが、それ以上に母国のカンピオーネへの対策という面が強いのだろう。
「陸さん、大変そうですからね」
鷹化の事情を知る者の一人である晶は憐れみの感情を向ける。
同じカンピオーネの下に就く者同士でありながら、主の違いでその境遇は大きく異なっている。
鷹化自身が羅濠教主を嫌っているわけではないのだが、その虐待を通り越した一方通行な師弟愛には辟易しているのだろうと、推測を立てる。
「先輩、こっちはもう完成でいいと思います」
「お、そうか。悪いな、火、見てもらって」
「いえいえ、そんな。なんだってお手伝いしますよ」
お玉で鍋をかき回しながら、晶は笑みを浮かべる。
「ちょっと、お二人さん。いいところ悪いんだけどさ、出来たんなら持ってきてくれない?」
そこに、明日香がやってきた。
勝気な静花によく似た双眸の少女だ。護堂と静花の幼馴染であり、近所に暮らす彼女は、当たり前のように、この誕生会に招待されていた。
「え、あ、すみません。徳永さん」
「おーい、明日香。後輩を威圧すんなよな」
「してないわよ。失礼ね」
そう言いながらも、ジト目で晶を見ているのだが。
その一方で、居間のほうでも着々と準備が進められていた。
祐理が届けられた料理の数々を並べていく。今日の主役である静花は、中華料理のラインナップを見て唖然とする。
とにかく、輝いて見える。
一流のシェフが腕を振るったとしか思えない飾り付け。品目も多く、とても一度に炬燵に乗せられるものではなかった。
「まずは、静花さんの好きな物からいきましょう」
そう言う祐理の提案で、静花は食べる順番を決めていく。
本物のフカヒレを贅沢に使った物もあれば、ふわふわほかほかの芙蓉蟹、エビチリに八宝菜、その他名前が分からない料理が所狭しと並んでいる。
自然、お腹が鳴ってしまう。
「スープ持ってきました! なんと、フカヒレ入りです!」
晶がお盆に載せて人数分のお椀を持ってくる。
その後ろから護堂と明日香が麦茶に紙コップ、取り皿を持って現れた。
それを配って、準備完了だ。
「護堂、音頭」
明日香に言われて、護堂が乾杯の音頭を取った。
飲み会ではなく、あくまでも静花の誕生日パーティーということで。
「どうしてこうなった」
護堂は頭を抱えて唸った。
パーティーは大いに盛り上がった。
料理を食べ、ジュースを飲み、そしてプレゼントを渡した。静花は感動のあまりに涙を流し――――たりはしなかったものの、嬉しそうに笑ったのである。
問題があったとすればその後のことだろう。
「お兄ちゃん、聞いてりゅ!?」
ダン、と静花が床に叩き付けたのは一升瓶。すでに空である。
顔を真っ赤にしているのは、羞恥でも熱でもなく、アルコールが原因だ。
「聞いてる、聞いてる。とりあえず、それを置きなさい」
「聞いてない、聞いてないもんッ」
「駄々を捏ねない」
幼少期に戻ったような感じだ。
静花から一升瓶を取り上げて、隣の部屋に転がす。
そこには、空になった瓶や缶が無造作に投げ捨てられていた。この大半を空けたのが、静花であった。
「大体、お兄ちゃんはいつもいつもいつもいつもいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃしていもうとのこともかんがえなさいよぉ」
「分かった分かった。ほら、チューハイはダメだって。麦茶にしなさい」
護堂が紙コップに麦茶を注ぎ、静花に渡そうとするも、受け取りは拒否される。
「静花ちゃん、水」
横から晶が静花に紙コップを渡した。
それを、静花は胡乱げな表情で見た後、目を輝かせて一気飲みした。
「ぷはーッ! 酒! 飲まずにはいられない!」
「それ酒かよッ」
透明だったから、てっきり水かと思ったら、日本酒ではないか。
晶は酒盛りと化して真っ先に静花に轟沈させられていた。もそもそと再活動を始めたときには、復活してくれたものと思ったのに、蓋を開けてみたらこれだった。
この酒は、母が置いていったものだった。
静花が実はウォッカを一瓶飲み干しても平然としていられると知っている彼女は、せっかくのパーティーなのだからと大量の酒を買い込んでいたのだ。
途中で静花がそれを思い出し、せっかくだからと飲み始めたのがすべての始まりだった。
「ねえねえ先輩。コルク抜き持ってません?」
晶は背中から護堂に抱きついて、ワインの瓶を振る。
「悪いな。持ってない」
「むー? ちゃんと飲んでますかー?」
「飲んでるよ。たぶん、おまえよりは飲んでる」
「赤くないです?」
「酔わない体質だからだ」
カンピオーネにアルコールが効くかと。
今の護堂ならばテキーラをがぶ飲みしようとも顔が赤くなることもないだろう。だから、余計にこの惨状を正しく理解できてしまうのだ。
「んんー」
恥じらいも何もなく晶は護堂に頬ずりする。
座っている護堂に負ぶさる形で、全身を密着させているのだ。
「先輩の背中、あったかいですぅ」
「晶ちゃん、くっつきすぎッ。はーなーれーてー」
「嫌」
「――――――――――――――――――――――――――――――――――」
言葉にならない悲鳴のようなものを上げて静花は晶に踊りかかろうとし、その間にいる護堂に突っ込んだ。
「うごッ」
晶と静花に挟まれて、内臓が大きく揺れる。
「お、おまえ等、いい加減にしろよ」
「お兄ちゃん。あたし、ここがいい。ここで寝る」
静花が胡坐をかく護堂の膝の辺りを叩いて主張する。
「おう、そうか。だったら早く寝てくれ」
「えー、寝ちゃうんですかー」
「おまえもさっさと寝てくれ。頼むから」
耳元で不平を言う晶の頭を護堂は乱暴に撫で付けた。
ふへへー、と蕩けた笑みで晶は護堂の背中に顔を埋める。
「あのですねー先輩。実は、今日はですねー。満月なんれすよー」
「ん……そういえば、そうだったな」
「げつれいはひめみこにわじゅうようなようそでわないれすか」
「そうだったか。その話、晶だけだったような。でも、周りもそうなのかな」
「せんぱいいっしょにねましょーよぅ」
「話を変えすぎだ!」
ゴロゴロと背中で甘え続ける晶を引き離そうにも引き離せず、護堂は嘆息した。
「やれやれ、母猫に甘える子猫みたいね、その娘」
背中に引っ付く晶を指差して、明日香が言った。
すでに晶は眠りに落ちている。護堂の膝は静花が枕にしており、どうにも動けない状況である。
「ああ、万里谷を任せちまって悪かったな」
「別に気にしないで。あたしじゃこの二人の相手はできなかったわよ」
静花にウォッカを盛られた祐理は早々に倒れてしまっていた。一度口を付けたからには、最後まで飲み干さなくてはならないと思ったのだろう。大分無理をしたらしい。今は明日香が隣の部屋に運び、長座布団の上で休ませている。
「初心者にウォッカは下手したら死ぬわよ」
「まさか、全部飲もうとするとは思わなかった」
飲まなくていいとは言ったのだが、アルコールの恐ろしさを知らなかった祐理は、一口目でそれがダメなものだと悟りつつ、二口目で一気に呷ってしまった。
ダメなら一息にと意を決したのだろうが、それで終わりだった。
最悪の場合は若雷神の化身で治癒するべきだが、幸い、そこまでの大事ではなかった。
「明日香。おまえは、飲んでないんだな」
「当然でしょ。あんたと静花ちゃんの異常っぷりは知ってるんだから、お酒が出てきた時点で身の危険は感じたわよ」
「リスクマネジメントしっかりしてんな。おかげで助かったけどさ」
「で、高橋さん。いつまでくっつけてる気よ」
「とりあえず、今引き離したいところなんだけど、静花がここにいるから迂闊に動けない。手伝ってくれ」
「はあ? ああ、なるほど」
晶を引き離そうとすれば、静花を落とすことになりかねない。
そこで、明日香は座布団を持ってきて、静花の頭の下に差し入れ、その隙に護堂は自由を得た。
「とりあえず、この二人は静花のベッドに運べばいいか」
「そうね。そうするべきよね。万理谷さんはどうする?」
「あー、座布団じゃまずいよな。よし、母さんの布団でも持ってくれば大丈夫か。この前クリーニング出したばっかだし」
「じゃあ、それでいいわね。それじゃ、この二人から運びますか」
静花と晶を、静花の部屋に運び込み、祐理を母親の布団に寝かせたことで、ほっと一息ついた。
後は、ごちゃごちゃになってしまった部屋の片付けだ。
空き瓶と空き缶を分別して大きな袋に入れる。
「それにしても、静花ちゃんがあそこまで酔うの、珍しいじゃない」
「そうだな。中学生とは思えない酒豪だからなあ。あいつは。まあ、最初に度数の高いヤツをガブガブ飲んでたからな。いつも以上に回るのが早かったんだろう」
少しずつ、舐める程度に飲むのならまだしも、海賊を思わせるがぶ飲みであった。
あの段階で、止めておくべきだった。
草薙家のいつもの感覚で、放置してしまったのが仇となった。
「あの二人、すごくお酒に弱いみたいね。明日、大丈夫かしら」
「そうだな。二日酔いにならないといいけど」
明日が休みでよかった。
真面目な祐理や晶が、二日酔いで登校できなくなるなど、護堂の監督責任が問われても仕方がない。
少なくとも、護堂の良心が問う。
静花はたぶん大丈夫だ。アルコールの分解能力は護堂に次いで高い。明日の朝には完全にアルコールを分解していることだろう。
「残りの料理はどうしたらいい?」
「そうだな。おすそ分けって感じでみんなに持って帰ってもらおうと思うけど。こんなに余っても、食べきれないし」
「へえーそうなの。草薙家なら、あっさりと消化できそうなものだけど」
「明日香。おまえは家にどんなイメージ持ってんだよ」
「何、言って欲しい?」
「いや、結構です」
ゴミを入れた袋の口を縛り、玄関まで持っていく。
料理は、小分けにしてタッパーに入れ、冷蔵庫にしまう。
片付けが済むと、散らかり放題で足の踏み場もないような部屋が、すっかり元通りになった。
「すまなかったな、明日香。片付けまで手伝ってもらって」
「気にしないで。この状態を放置するなんてできないもの」
落ち着いたので、炬燵に入る。
実は、まだ眠るほど遅い時間ではないのだ。
と、そこまで考えて、
「しまった、万理谷の家に連絡を入れなきゃいけないのか」
晶は一人暮らしだが、祐理は家族と暮らしている。その暮らしぶりは一般的な中流家庭で、当然娘が帰ってこなかったら心配するだろう。
「番号、知ってる?」
「ああ、とりあえずはな。電話したことないんだけどな。あれ、これは俺が電話をかけていいのか?」
「あ、確かに男の家に泊まるってのはまずいわね。いいわ、じゃああたしが電話してあげる。万理谷さんは、家に泊まったことにすればいいわ」
「まじか。助かる」
明日香の申し出をありがたく受け、護堂は事情の説明を明日香に任せた。
こういうとき、明日香の物怖じしない性格は心強い。即断即決で、初めての相手とも話をする。姉御肌で、下級生などからよく慕われていた。おそらく、今でもそうなのだろう。
「はい、終わったわ」
「お、ありがとう。助かったよ」
「ちょっと、感謝足りないんじゃない? 人の家に泊まるって、その人の親にちゃんと説明するの大変なんだから」
「ああ、そうだな。今度何か奢るよ」
「その言葉、忘れないでよ」
それから、二人は炬燵に入った。
手元には紙コップといくつかの菓子類。
騒がしさが収まって、一段落ついたと言わんばかりだ。
「明日香は、これからどうする? 泊まってくか?」
護堂は尋ねた。
すると、明日香は眉根を寄せて、ため息をつく。
「あのね、女の子に泊まってくかとか平然と聞くな」
「あ、そうだな。悪かった」
「まあ、そうね。酔った女の子がいる家に男が一人。危ないし、あたしが監視してあげてもいいわよ」
「別に監視とかはいらないけど、泊まるんなら布団を持ってこないとな。確か、押入れにあったはずだ」
「あっさり流すな」
明日香は力なく言うが、護堂の耳には届かない。
結局、このまま護堂と眠る女子たちを放置するわけにもいかないので、明日香も泊まることになったのだった。
■ □ ■ □
そこは真っ白な部屋だった。
壁も天井もベッドもすべてが白。清潔感に溢れたその部屋は、行き渡る管理の結果外部との繋がりの大半が遮断されていた。
その部屋には一つのベッドがあり、そのベッドには一人の少女が横たわっている。
やせ細った少女で、一見して状態がよくないことが分かる。
少女がこの部屋に連れて来られてから、二年が経とうとしている。
元気で快活だったかつての姿はすでになく、学校のことも思い出せなくなってきた。それだけの時間を、様々な苦痛と共に過ごしてきたのだ。
代わり映えしない毎日。窓の外の景色も見飽きてしまった。毎日毎日同じ枠から眺め続けるのであれば、そこに動きがあったとしても、絵画と変わらない。
少女を責め苛むのは、白血病という病気。
血液の癌などとよく呼ばれている、それだ。
弱りきった身体に引きずられるように、
死神の気配を薄らと感じ始めたとき、彼女の胸に去来したのは恐怖ではなく安堵であった。やっと楽になれると。生きる希望を持たない彼女は、理不尽な世界に対する恨みすら抱かなかったのだ。
だが、余命が残り数日となったある晩、ソレが現れた。
「よき魂を持っておるようじゃ」
誰だろう。
眠りに落ちていた彼女は、ありえない声に起こされた。
動かすのも億劫な身体だ。視線だけで声の主を探す。
いた。
ソレは、彼女のすぐ隣に立っていた。
老人だ。暗闇よりも尚暗い、影が固まったような姿であるが、そう感じた。
「新たな身体、欲しくはないか」
老人は、そのようなことを言ってきた。
健康な身体で、まったく新しい人生を送ってみたくはないか、と。
悪魔の囁きにも似たその問いは、死を欲していた彼女を強く揺さぶった。
健康な身体なら、こんな苦しい思いをする必要はない。
好きなだけ、遊ぶことができる。好きなだけ、運動することができる。好きなだけ、食べることができる。この病室に入れられてからできなかったことが、なんでもできるようになる。
本来はありえないことだ。だが、ありえないとすれば、この老人がこの場にいること自体がありえない。死に瀕した自分の妄想か。それとも、気を利かせた死神が、この身を憐れんでくれたのだろうか。
老人の問いかけは、生きることを諦めた少女に僅かな希望を抱かせた。
そして、希望を抱いてしまったが最後、死はなによりも恐ろしいものに思えてしまった。
「そうか。死にとうないか。そうか、そうか。よいぞ。ならば、主はこれからわしの娘じゃ」
悪魔との契約。
それでも構わなかった。生きることができるなら、他のことはどうでもよかった。
そうして、彼女は死に、新たに徳永明日香として生まれ変わった。
護堂との違いは、この道を選んだ自負があること。
あれ以外の選択肢がなかった上に、老人の正体も知らなかったとはいえ、何をしてでも生まれ変わりたいという願いは明日香のものだ。
だから、明日香は自分の選択には後悔をしていないし、後悔するつもりもない。
ただ、護堂にそれを隠しているということが辛いだけだ。
「なんだ、どうした。悩み事か?」
炬燵を挟んで反対側にいる護堂は明日香の表情から何かを察したらしい。
「別になんでもないわよ」
「ふうん。まあ、なんかよく分からんけど、溜め込むのはよくないぞ」
「そうね。ありがと」
護堂に心配してもらえるのは、嬉しい。同時に、抱くのは罪悪感。九割以上の確率で、道満は明日香を見限っている。
もはや、明日香に用はなく、気が向いたら彼女の様子を見てみる程度でしかない。だから、護堂に打ち明けても、道満に知られることはない。
けれど、明らかに格上の道満が、明日香の身体に何かしらの術を施していないとも限らない。
明日香が裏切った瞬間に、何かよからぬことが起きるかもしれない。
だから、迂闊に口にすることができない。自分と、道満の関係を。
いや。
それは詭弁だ。
自分はただ、恐ろしいだけだ。
護堂との関係が終わってしまうのが。
護堂の敵になるかもしれない。
それが、恐ろしいのだ。
「なあ、ほんとにどうかしたか?」
護堂は、明日香の顔を覗きこむように身を乗り出す。
普段は鈍いくせに、こういうところでは妙に鋭いのだ。
「ねえ……もしも、友だちがあんたの敵だったらさ。あんたは、どうする」
「はあ? なんだそれ。漫画にでも出てきたか?」
「そういうわけじゃないんだけどさ。ほら、いろいろあるじゃん。利害が一致しなかったりとかしてさ、敵味方に分かれたりしたら、どうするって」
護堂は頭に「?」を浮かべている。
「学校で、そんなことがあったのか?」
「あー。まあ、そんなとこ」
「ふうん。そうだな。いや、そもそも利害が一致しないだけで敵味方っておかしくないか。友だちだろ。敵とか言ってるとダメだろ」
「ん。ああ、まあ、そうだね。なんか、違うな。えーと。そう、あんたが目の敵にしているヤツがいたとして、そいつの手下に自分の友だちがいたら、どうする? それでさ、その友だちが、進んで敵に協力したくないって思ってたりしたら」
「つまり、脅されてやってたり、何かしらの事情があってその敵に就いてる場合か。そうだな、それなら、その友だちは敵じゃないんじゃないか。漫画とかでもよくあるだろ。敵から仲間になる感じのヤツ」
「じゃあ、あんたはそういうヤツでも仲間にするの?」
「そもそも、敵じゃないだろ。今の条件だと」
その答えを聞いて、明日香はテーブルに突っ伏した。
どうも、明日香の不安は筋違いらしい。護堂の敵は、あくまでも彼と周囲を害そうとする輩であって、いやいや従っている配下には大分甘い。
それだけでも、明日香の心が多少軽くなった。我ながら、単純だと思いながら。
「いや、あんたも結構単純ね」
「失礼な」
むすっとした表情の護堂は、チョコレートを口に放り込んでテレビに視線を移した。
この話はこれで終わり。
護堂は、おそらく明日香を敵視しない。
それが分かっただけでも、よかった。
「ん……?」
炬燵の中に入れた手に、何かが当たった。
取り出してみると、それはクリップのような物体だった。
「あ、それ。確か晶のだ」
護堂がクリップのような物を見て言った。
痴漢バスターMKⅡセカンド。
以前、晶が痴漢を受けたときに、これを撃退した正史編纂委員会開発の痴漢撃退用の呪物である。
「そうなの。困るわね。ちゃんと持っててもらわないと、なくなったら大変じゃない」
明日香は、それをテーブルの上に置いた。
「本当に、持ち歩いてもらわないと困るのよね」
――――そうでなければ、渡した意味がないではないか。
蒼銀のフラグメンツに出てくるライダーの宝具がwikiに乗っていましたけど、ライダーが活躍するのってコンプティーク何月号でしょうか? という情報提供を求む。