カタカタと軽快な音がする。
綺麗に整頓された室内は、暖かみのある生活感がある。
部屋の片隅に置いてあるデスクトップ型のパソコンに向かい合い、キーを叩いているのは明日香だった。
この十年、両親が心配するほどプログラミングにのめり込んだのは、それが楽しいからということもあるが、呪術の世界から自分の身を遠ざけるためという理由もあった。
呪術の世界は閉鎖的だ。
基本的に一般人の介入を嫌い、情報の漏洩を避けるべく呪術師たちは行動している。
その結果が、ある種の血統主義に繋がっている。外部から人材が流入することを拒否したことが、四家を頂点とする構造から抜け出せない結果に繋がっているのではないか。
完全に外様の明日香が呪術の世界に踏み込んでもいいことはなく、普通の世界で生きていこうと考えるのは特に不思議なことではない。
むしろ、彼女と同類の道満による転生体。ようするに兄弟姉妹に当たる連中が、呪術を不用意に使って自滅したことを見れば、あの世界に入ろうとは思わない。
そのような中で、呪術と正反対の技術体系として、明日香が選んだのがプログラミングという学問だったのだ。
道満は情報の漏洩を嫌うが、その一方で明日香を自由にさせている。
明日香の口から道満の情報が漏れるとは思っていないのか。そういうことはないだろう。月に一度あるかないかの頻度で、この部屋を訪れるからには、それなりに注意はしているはずなのだ。
もしかしたら、明日香が道満のことを口にした瞬間に何かの呪術が発動する、ということも否定できない。
護堂に協力できないのは、そういった理由もあったのである。
だが、呪術にも盲点は存在する。
歴史に名を残した大陰陽師であろうとも、防ぐことのできないものが今の世にはある。
「頼むわよ……」
明日香は、画面を注視する。
短い
これを送れば、後戻りはできなくなる。
けれど、もう決めた。
明日香は、護堂に就く。
ふう、と緊張を緩和するように息を吐き、送信をクリックした。
□ ■ □ ■
十二月も半ばになり、クリスマスを目前に控えて浮ついた空気が流れ始めた頃。
正史編纂委員会の上層部――――護堂と関わりを持つ一部の人間だけは、沈鬱な表情で会議室に集っていた。
僅か、十数人が入れば満室となる程度の小さな部屋は、少数で行うプロジェクトや極一部の人間だけで情報を共有する必要がある場合などに使用される。
この場に集っているのは、正史編纂委員会東京分室長の沙耶宮馨とその右腕である甘粕冬馬。そして、高橋晶に万里谷祐理、清秋院恵那といった媛巫女たち。最後に、カンピオーネである草薙護堂を入れた六人である。
事の切っ掛けは、先日護堂のスマートフォンに届いたメールである。
「しかし、どういうことでしょうね。蘆屋道満の目的が晶さんというのは」
冬馬にとって、晶は姪にあたる。晶の実家が九州にあり、冬馬は東京で活動しているために、頻繁に会うこともなかったが、春先に晶がこちらに転属になってからは頻りに顔を合わせている。
その晶が、突然道満に狙われているという情報が入ったのだ。
詳しい情報は何もなかった。ただ、晶が道満の計画に必要不可欠な存在であるということだけが簡潔に記されていた。
「このメールそのものが贋物ということはないのでしょうか?」
晶にとっても、これは青天の霹靂である。
嘘だろう、という思いが先行して、実感が掴めていないという状況だ。
「それはどうか分からない。けれど、その真偽はともかく、このメールの送り主は、少なからずこの問題の深い部分に関わっているはずさ。蘆屋道満と草薙さんの関わりは、僕らを含めても極一部の人間しか知らない機密情報だからね。このメールが僕らのところに来たのならまだしも、草薙さんに直接送られてきたというのは、大きいね」
蘆屋道満について、正史編纂委員会が追いかけているのは、今さらのことだ。情報提供を求め、注意喚起をするために、すでにこの名は広く喧伝している。
しかし、そこにカンピオーネが関わっていると知るのは、本当に護堂の周囲の人間に限られるのだ。
馨の意見を踏まえて恵那が言う。
「何かしらの理由で、王さまとのことを知ったって可能性は?」
「あったとしても、匿名で情報を寄越す理由にはならないし、僕たちに伝えるのが普通だろう?」
現状、このメールの差出人は、蘆屋道満及び草薙護堂双方の事情をある程度知っている人物と考えるのが妥当である。
そして、メールの内容が真実であれば、彼ないし彼女は道満を裏切り護堂に就くつもりである。名前を伏せているのは、道満に悟られたときの危険性を考えれば納得できる。
「ところで、メールは相手のアドレスが分かるものなのではないのですか?」
「それが問題なんだ祐理。これなんだけどね、海外のサーバーを経由している上に、妙なプロテクトがかかっているみたいだ。おそらく、呪術関係なのだけど、正直、電子面での呪術の発展は遅れに遅れている。世界レベルでね。差出人を特定するのは、ちょっと難しいかな」
「そうなのですか」
呪術は古来から存在している技術体系である。そこには、先人の知恵と信仰が多分に含まれており、積み上げられてきた歴史と伝統は、必然的に保守的な土壌を作り上げた。馨が組織改革に苦労している原因もここにあり、新たな術式や体系が、ここ数世紀の間に誕生していないのもこうした背景があるからである。
そして、それはもちろん、コンピュータ関連でも顕著に見られる。
パソコンを介した呪術は、世界的に見ても研究が進んでいる分野ではないのだ。
在野の術者なのは間違いないとしても、相当な知識の保有者である。
「晶さんは、狙われる心当たりがあるかい」
「そんなことを言われても……わたしは、蘆屋道満とほとんど関わりがありませんから。あの事件以外で」
あの事件というのは、出雲大社で起こった媛巫女の集団失踪事件のことだ。多くの媛巫女が行方不明となり、数日後に前後不覚の状態で発見されるという不可思議な事件は、現在では蘆屋道満が主犯格と目されている。
「そのときに、目を付けられる何かがあったわけだな」
「このメールの内容が真実であれば、ですね」
護堂は資料に印刷されたメールの文面に視線を落とした。
簡素な文字の並びだ。
『蘆屋道満の計画に高橋晶は必須。保護を求む』
ただそれだけで、それ以上のことは何もなかった。
ただ、晶が特別な媛巫女だというのは、もはやこの面々の中では常識であり、その力が狙われる原因と考える他ない。
「まあ、僕たちとしては、このメールの真偽に関わらず晶さんの護衛は就けなければならないのですよね」
「護衛といっても、相手が相手だし、それなり以上の使い手じゃなきゃダメだよねー」
「もちろん。だから、しばらく恵那に晶さんの護衛に就いてもらおうと思ってるんだ」
恵那はぽかんとした後、なるほどと納得して頷いた。
「蘆屋道満を相手にするには、君と晶さんの二人組か草薙さんくらいしか敵う人材がいないからね。幸い、草薙さんの家は、すぐ近くだし、戦力を根津に集中することで抑止力にもなるはずだ」
「あ、じゃあ。恵那さんはしばらく家で暮らすことになるんですね」
「そういうことになるかな」
こうして、神剣使いと神槍使いが同居することになった。
晶と恵那が、晶の家に着いたとき、時刻は午後の六時を回っていた。
外はすでに暗く、吐く息は白い。
すれ違う隣人に、軽く会釈をして鍵を開けて中へ入る。
この日は、何かと気疲れしたので、夕食は楽をしようとピザを注文した。
意外と、恵那がよく食べる。
十代女子が食べる量を軽く平らげ、さらに菓子類に手を伸ばしている。
「そういえば、アッキーは普段の夕食は何を食べてるの?」
「普段は、そうですね。まあ、野菜中心に、お魚とか焼いたり」
「料理してるの?」
「はい。外食はお金かかりますし、家に居るほうが楽なので」
料理をする手間を省くために外食するのか、外に出る手間を省くために料理をするのか。晶は後者を選択するタイプであった。資金の問題もあり、宅配は滅多に利用しない。
「はあー。偉い偉い」
「子ども扱いしないでくださいよ。ところで、清秋院さんは普段どうしてるんですか?」
「ん。恵那はそうだなー、状況にもよるけど」
恵那は少し考えて、
「家にいるときは料理しないかな。清秋院家専属の料理人が作る和食がメイン」
「せ、専属、ですか。さすが、日本最大最古の名門……レベルが違う」
「あはは、でも恵那は家にいることってあんまないしね。大抵山だし。そうなると、山菜とか川魚を狙うかな。熊とか猪とかだと、それだけで何日も過ごせるから、出てくれるとありがたいね」
「普通、熊に会いたいとか思いませんけど」
あまりの落差に絶句する。
家にあっては豪華な食事を不自由なく食すことができるのに、その修行の性質から山で超一級のサバイバルをしなければならないとは。
「蛇とかも食べるんですか?」
「蝮はね。青大将とかは、あんま美味しくない。あとね、イモリっているじゃん。イモリ。あれ、テトロドトキシンあるみたいだね。食べたけど」
「食べちゃだめですよ!」
晶はマイペースに語る恵那に度肝を抜かる。
イモリを食べようと思ったことはない。まして、それがテトロドトキシン、すなわちフグ毒を含んでいるのなら、絶対に口にしてはならない。経口摂取で青酸カリの八五〇倍の毒性があるのだ。
「うちでは食べませんよ。イモリ」
「そりゃ、普通に暮らしてイモリなんか食べないよ」
変なこと言うな、と恵那は笑いながら煎餅の欠片を口に放り込んだ。
■ □ ■ □
ろうそくの仄かな灯りだけが、闇に浮かぶ。
前後左右はおろか上下すらも確かでない空間は、濃縮した呪力に満ち満ちていた。
ただの人間がこの場にくれば、間違いなく中毒を起こす。呪力は生命力の源であるが、何事も限度というものはあるのだ。
この空間で行動できるのは、それこそ高位の呪術師か、『まつろわぬ神』、カンピオーネくらいのものだろう。
「道満。俺の剣はどこだ!」
響き渡る大音響。
野太い声の主は、巨大に過ぎる、岩のような男であった。――――頭部が牛であることを除けば、だが。
「ほう。剣のことより、主の力の方が今は重要じゃろうに、騒がしいことじゃ。……して、力は戻ったか?」
「おうよ。最源流の《鋼》の一柱として、《蛇》も魔王も尽く殲滅してくれよう! そのために、まず剣だ。剣を寄越せ、道満!」
ズン、とその大男が一歩踏み出すだけで、空間が軋む。
「慌てるな。どの道、顕現できるようになったとはいえ、まともに魔王とぶつかっては敗北必至。まずは、真の意味で性を取り戻さねばならぬ。主もわしもの。それまでは、剣はほれ、あそこに」
ぼんやりと闇に浮かぶ道満が、ある一点を指差した。
空間が、伸びる。
闇の奥に、さらに闇が広がったような錯覚に囚われる。
それは、道満が組み上げた儀式場であった。
奥の壁には、裸体の神祖アーシェラが埋め込まれている。
辛うじて息があるのは、以前に道満が施した処置のためだ。
そして、その部屋の中心には魔法陣が描かれており、中心に一振りの鉄剣が突き立ててあった。
両刃の剣で、一見して日本刀が普及する以前の、古代の剣だと分かる。
その剣に、大地の呪力が吸い上げられている。
「おお、間違いない。あれこそ、まさに……!」
「そう。かの大戦にて失われし、正真正銘の神剣。王権の象徴じゃ」
「ハハハハハハッ。そうかそうか。ついに見つけたか!」
呵呵大笑し、大男は神剣に歩み寄る。
そして、その柄に手をかけて、紫電とともに大男の手は弾かれた。
「ぬ……!」
「フォフォ。主がそれを抜くのは今しばらく先よ。まだ、討つべきものも、捧げるべき者もおらぬではないか」
道満を睨む牛頭の軍神。しかし、その眼力にも道満は揺るがない。もとより、この神格は道満がいて初めて成り立つもの。従属神を恐れることなどありえない。
「明日香が裏切ったようじゃ」
道満が唐突に言った。
「あん? 明日香。おお、あの娘か」
「どうやら、姫の周囲に呪術師どもを固めているようじゃて。太刀の巫女までおる」
「そのような者ども、一思いに捻り潰せばよかろう。今さら、俺たちのことが知られたとして何になる?」
軍神はそう言って、腕を組む。
軍神の自信満々な言葉に、道満は大笑いする。
「何ともならぬな。今の主ならば、太刀の巫女を相手取って戦えよう。問題は、魔王の動向じゃが、引き離してしまえばこちらのものじゃ」
「裏切り者はどうする。処分するか?」
「捨て置けばよかろう。どの道、あの娘には、あれ以上にできることなどありはせぬ。どちらに就くのかはっきりさせるために、あえて情報を渡してやったわけだしの」
道満は杖を突きながら、魔法陣に向かって歩く。
「じきに星が揃う。それまでに、蛇巫を連れ戻すのじゃ」
道満は、太刀の前に立った。
ぼんやりと太刀は光を放っている。
「京の守りを突き崩し、以て天下の大乱と為す」
杖で太刀を小突く。
瞬間、暗闇を駆逐する閃光が迸った。
膨大な呪力が、地脈を伝って遠く離れた地に流れていく。
外宮豊受大神社の直下で、地震が発生した。予兆はなく、しばらくは立っていられないほど大地が揺れた。にもかかわらず、神社から数キロも離れれば地震などなかったかのように人々は生活している。超局地的な地震に、地元住民は首を捻った。
伊吹山は、突如として大きな土砂崩れを起こした。それ以前に雨が降ったのは、二週間ほど前になる。原因は不明。
伊弉諾神宮。周囲の木々が一斉に枯れた。落葉樹のみならず、松や杉などの常緑樹も、葉を赤く染め朽ちてしまった。
熊野本宮大社は、伊弉諾神宮と同じく木々の枯死が発生した。見る見る内に植物という植物が枯れたという。また、鳥や狸といった野生動物が大量死した。細菌かウィルスか、しばらくの間、周辺住民は眠れない夜を過ごすことになる。
伊勢内宮。敷地内に多数の落雷が発生。大規模な火災を引き起こした。ご神体の避難はできたものの、宮司に怪我人が出た。
そして、これと時を同じくして京都近隣に神獣と見られる怪生物が多数発生したとの情報が、正史編纂委員会に寄せられた。
出現した神獣の群れは、出雲と富士山を繋ぐ大霊脈に沿って北上。不幸中の幸いか、一般人への被害は軽微であるが、神獣たちは脇目も振らずに突き進んでいる。
そして、この数時間後。神獣たちは、正史編纂委員会の精鋭たちや自衛隊及びカンピオーネと東富士演習場にて激突することとなる。