カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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八十二話

 近畿を中心とした地脈の異変は、東京にも少なからず影響を及ぼしていた。

 日本を縦断する巨大地脈が大幅に乱れたのだ。そこに接続している地脈はもとより、そうではない地脈にも影響は出る。

 東京も、出雲――――富士山間の地脈に接続する大小複数の地脈があるため、呪力の流れが変則的になっている。

 今の段階では数日程度で収まる乱れでしかなく、農作物などへの影響は低いと見られている。しかし、無数の魔物が解き放たれ、富士山の地脈を食い荒らしてしまった場合、そこから日本各地の地脈の枯渇といった問題が発生する可能性は否定できない。

 東京は、江戸時代初期に南光坊天海が敷いた結界に補修と強化を加えて呪的な防御を施しているため、被害を最小限に抑えられるはずだが、影響が皆無とは考えにくい。

 よって、東京に暮らす媛巫女たちを動員して地脈の安定化を図ることが必要とされた。

 腕利きの呪術師たちは、東京を守るのに必要な最低限の人員を除いて東富士演習場に出向してしまっている。

 明確な人手不足の中で、十代から二十代の若者に東京守護の重責を任せるしかなくなってしまったのは、情けない話であろう。

 普段から、関東一帯の媛巫女は霊地の守護を任されている。

 役職そのものが変わるわけではない。

 しかし、何ということのない日常の中で奉職することと、目の前の危機に立ち向かうことでは、同じ職務内容でも重要性が大きく異なる。

 一歩間違えば、自分たちの命も失われるかもしれない。

 慣れていない媛巫女たちが、そのような不安に苛まれることも不思議ではなく、むしろ当然のことといえた。

 だが、各地の霊地に配された媛巫女たちの中で、取り乱すことなく淡々と奉職する者もいる。

 例えば、万里谷祐理と万里谷ひかり。

 祐理はカンピオーネの側仕えとしてすでに公に認知されている。その能力の高さも一目置かれる媛巫女であるが、胆力も並ではなかった。

 もともと、命の危機に際しても、自分よりも他人を重んじる気質の少女であり、ヴォバン侯爵に誘拐された事件でもその傾向は顕著に現れていた。そうした土壌が先にあり、ここ一年ほどを護堂と共に過ごしてきた彼女は必然的に危険に慣れることとなったのだ。

 それは、祐理が危険だと思う閾値が上がっていることであり、生物として身を守るという点からすれば誉められたことではないかもしれない。

 しかし、人として一身を賭して物事に当たる際には、取り乱すことのない冷静な人格を形成することになる。 

 そして、祐理の妹のひかりもまた、落ち着き払った様子で職務に当たっていた。

 『まつろわぬ神』やカンピオーネの猛威を肌で感じたことのある彼女にとって、今の状況はまだ不安がるほどではない。

 いざというときには、護堂が助けてくれると漠然と思っていることもあり、それほど現状を危惧していなかった。

 こうした、一部の冷静な対応が、小波のように広がり、彼女たちが配属されている霊地に関してはスムーズに職務が遂行された。

 祐理とひかりがいるのは、七雄神社。

 関東一円を守護する霊地のうちの一つであり、祐理が媛巫女として奉職する神社である。

 今回は、非常時のため、引退した元媛巫女も含めて十人ほどで霊地の維持管理に当たっている。

「お姉ちゃん。とりあえず、陣は完成したよ」

「ありがとう、ひかり。それじゃ、先生のところに戻っていいわ」

「うん。お姉ちゃんは?」

「わたしは結界に解れがないかもう一度視てくるわ。十分もかからないから、先に社務所に戻って」

「はい。お姉ちゃん、早くね」

 ひかりは、社務所に向かってかけていく。

 十二月も半ば。巫女服で外にいるのは、寒くて仕方がない。

 普段は、呪術で体感温度を調整しているが、今はそれができない。繊細な儀式をしているので、その周囲で呪術を使用するのは好ましくないからである。

 緊急事態のため、僅かなミスも許されない。

 用心が過剰になっているところは否めないが、それだけ現状が切羽詰っているのだろう。

 それに、

「晶さん……」

 晶のことが気になる。

 狙われていると聞いた。

 その理由までは分からない。

「大丈夫、ですよね」

 見晴らしのよい高台とはいえ、晶の暮らすマンションまでは距離がある。高層建築物に遮られているので、見ることはできない。

 見えないことがより一層の不安を煽り立てた。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 晶はマンションの自室から東京の夜景を眺めていた。

 夜も深まり、多くの家々から光が消えているものの、不夜城の如き東京の空は夜闇を物ともしない人工の光で照らされている。

 晶が暮らしている地域は、住宅街だが、遠くに見えるオフィス街にはまだ無数の明かりが綺羅星のように輝いて見える。

 あの光の下にいる人たちは、今日本を襲っている未曾有の災害についてまったく知らない。

 晶たち呪術師が陰ながら守っている人々である。

 彼らは、何も知らずに平穏な日常を過ごしている。

 叶うことならば、このまま何事もなく終わって欲しい。

「アッキー、お茶沸いたんじゃない?」

 リビングから、恵那の声が聞こえた。

 そして、甲高い音が聞こえてくる。それは、薬缶からのメッセージ。

 キッチンに向かい、火を止める。

「どうして、音がする前に分かるんですか?」

「恵那は耳がいいからねー」

 沸騰しかけの音を聞いたということか。

「だとしても異常ですよ。それは」

 晶は恵那を見る。

 恵那は山でサバイバルをして生活する、名門のお嬢様である。非常に矛盾した肩書きのように思えるが事実である。

 性格も、一所にジッとしているのをよしとしないもので、フットワークは軽く、快活で、好奇心旺盛。猫のような人だ、と晶は思っていた。

 その恵那は、今ヘッドフォンを装着して音楽鑑賞中である。

 サバイバルともお嬢様とも吊り合わないスタイルであるが、恵那にかかれば現代の女子高生らしいカジュアルな服装の一部となる。これが祐理であれば、似合うかどうかの前に目を疑ったことだろう。同じお嬢様であっても、恵那の方が垢抜けている印象はある。それの所為だろうか。

「ヘッドフォンつけてどうやって音を聞くんですか」

 晶の耳にも聞こえるくらいの大音量で、音楽を流しているというのに。

 恵那の耳のよさは異常だ。

 自分にとって、必要な音だけ拾うというような離れ業もできるのではないかと思えるくらいに。

「はあー……」

 まったく緊張感のない様子の恵那を見ていると、肩肘を張っている自分が馬鹿みたいに思える。

 そもそも、晶はある意味でこの事件の当事者である。

 そうでなければ、今頃は護堂と共に東富士演習場で敵の軍勢と相見えていたはずだ。

 家にいるよりも、護堂と一緒にいるほうがいい。

 視界にでも入っていてくれるだけで、安心できる。

 けれど、今は護堂が東京にいない。馨によれば、敵が強大なため、護堂にも協力を要請したのだという。護堂が東京を離れている間、特に気を引き締めているようにと命令された。

 敵は地脈を見出し、数多くの魔物を野に解き放った。

 おそらく、制御しているわけではない。蘆屋道満の狙いが、本当に晶なら、あの魔物も地脈変動も制御する必要がないのである。なぜなら、それらは正史編纂委員会を混乱させるためのものであり、草薙護堂を晶から引き離すための策ということになるからだ。

 そして、護堂でなければ、魔物の群れには対処できないだろう。

 もしも、その中に神獣が紛れていたら、正史編纂委員会の呪術師では対処できない領域となる。

 東富士演習場。

 東京から、かなりの距離がある。

 護堂ならば、神速が使えるのであっという間だが、それ以外の人間では軽々と行って帰ってこれる距離ではない。

 これで、あっさりと東京の守りは薄くなってしまった。

 護堂がいないと思うだけで、とても心細くなる。

 ため息の一つや二つ、ついてしまうのも仕方がないだろう。

 晶は何気なくガラス戸に近づき、再び夜景を見ようとした。夜は室内からの光が反射するので、近づいて自分の影を作らないとなかなか外が見えないのだ。

 部屋の中が反射してガラスに映る。

 見慣れた自分の顔。そして、その肩口に映り込む髭の長い老人の顔。

「アッキーしゃがんで!」

 目を丸くする間もなく響いた恵那の声が、晶を正気に戻した。言われるままにフローリングの床にしゃがむ。

 頭の上を何かが通り過ぎたのが、空気の流れで分かった。

「あぶないあぶない。隠形術には自信があったのじゃがのう」

 恵那の斬撃をひょいとかわして距離を取った老人が、意地悪く笑った。

「あなたが、蘆屋道満ですか」

 立ち上がり、道満を睨みつける晶の手には、すでに神槍が握られている。

「如何にも。蘆屋道満はこのわしのことに相違ない」

 恵那の手にも神剣があり、晶の手には神槍がある。どちらも、並の呪術程度はバターのように切り裂ける代物だ。その使い手も当代最高峰である。

 だが、そんな二人を相手にして、道満はまったく意に介す様子がない。

「天叢雲剣。王さまに連絡して。蘆屋道満が出たって」

 恵那が神剣に語りかける。

 恵那は、天叢雲剣を通じて護堂に意思を伝えることができるのだ。これが、恵那が晶の護衛についた理由でもあった。

 しかし、恵那は驚愕に目を見開いた。

「繋がんない!? なんで!?」

 天叢雲剣と護堂との念話が、遮断されているのだ。このままでは、こちらの様子が護堂に伝わらない。

「無駄じゃ。すでに、主たちは我が術中よ。念話を遮るくらい、造作もないことよ。しかし、神剣を介して羅刹の君に危急を知らせようとはの。念には念をと、いろいろ仕込んだ甲斐があったわ」

「く……ッ」

 苦虫を噛み潰したような表情で、恵那は道満を睨みつけた。

 事ここに至っては、恵那と晶で切り抜けるしかない。

「妙だね」

 恵那が言う。

「このマンションには結界が張ってあったはずだよ。いくらあなたが稀代の陰陽師でも、こんなに堂々と入ってこれるとは思えないんだけど」

 晶を守るため、マンションには何重もの結界が敷かれている。

 それは、相手が蘆屋道満であると分かった上で用意したものであり、だからこそ道満であっても簡単に突破できるはずがないのだ。

 それにも関わらず、道満はあらゆる守りをすり抜けて晶の背後にまで迫った。

 破られたわけではない。 

 結界が、道満に対して作動しなかった結果だ。

 道満は、刃を突きつけられていながら余裕の笑みを浮かべている。

「そも、あの結界には、わしをどうこうすることなどできぬよ。初めから、そのようになっておる」

 道満は、恵那の問いに答えた。

「正史編纂委員会など、わしの手にかかれば実にあっさり落ちる程度の組織よ。例えば、ここに派遣されている呪術師どもに暗示をかけてやれば、わしの侵入を防ぐ手立てはないじゃろ」

「ッ……! いったい、いつからそんな!?」

「皐月ごろかの」

 皐月。五月だ。晶が、東京にやってきたころ。そのときには、すでに道満は東京分室に入り込んでいた。少なくとも、道満の言葉を信じるのであれば、そういうことになる。

「じゃあ、馨さんや叔父さん……甘粕さんにも暗示をかけてたってこと?」

「まあの。わしやわしにとって都合の悪い情報は、視界に入らぬようにしておいただけじゃがな。あまり強い術は、逆に勘付かれてしまう原因になるからの」

 東京分室は、道満に関する調査を一任されていた。

 その東京分室が、すでに道満の影響下であったのだから、情報が錯綜したり、不明なままであったりしたのは至極当然のことだった。

「下の人ならまだしも、上層部の人たちに軽々と術をかけられるものかな? とても、信じられないんだけど」

 恵那は、馨や冬馬がやられたという話はとても信じられなかった。

 二人の実力は折紙つきだ。馨は事務的能力の高さが際立っているため、あまり知られていないが、媛巫女としての能力の他、文武両方の才能を持つ才女である。また、冬馬は直接的な戦闘能力は低いものの、忍の術のエキスパートであり、工作活動には優れた力を発揮する。特に冬馬に関しては、本気を出せばカンピオーネや神祖から隠れ果せるだけの実力があるくらいだ。

 だから、道満であっても簡単には攻め落とせないはずだ。

 恵那の問いに、道満は大いに笑った。

「よき質問じゃ。答えて進ぜよう。いやいや、わしも誰かに話しとうてなぁ。あれは、なかなか、上手くいったと思っておるよ。如何にして侵入し、如何にして姫を潜り込ませるか。思案のしどころじゃったわけじゃが、焚き付けた阿呆どもが、予想以上に大きな仕事をしてくれたのでな」

 焚き付けた。

 誰かに、何かしらの行動を起こさせたということ。

 道満が東京分室に入り込んだのが五月だとすると。

「まさか、あれは……!」

「ふぉふぉ、都合よく武士の末裔どもが不満を持っておったからの。ちょいと、煽ってやったまでじゃ。おかげで、実に大きな隙ができたわ」

「あなたって人はッ」

 晶が、険しい表情で道満を睨みつける。

 正史編纂委員会を揺るがした内訌は、その後長く混乱の尾を引いた。人手不足に拍車がかかり、組織の再編に大きな手間と大量の時間を費やしたのである。

 戦いの中で命を失った者も少なくない。

「では、そろそろ時間も押しておることじゃ。遊びの時間は終わりじゃ。姫」

 トン、と道満は杖で床を叩いた。

 呪力が吹き出し、部屋に渦を巻く。

「舐めないでよね!」

 その呪力の渦を、恵那が斬り飛ばした。

 霧散する呪力に、道満がひゅ、と声を漏らした。驚いているらしい。

「やあッ!」

 恵那は、ただの一歩で、道満を刃の圏内に収める。

 神剣を振り下ろそうとしたとき、恵那の視界を呪符が遮った。

 紙を斬り裂く手応え。道満は後ろに下がって、回避していた。

 さらに、呪符の壁が、恵那に倒れこんでくる。

「オン・アギャナウェイ・ソワカ」

 聞き取れないほどの速さで唱えられた火天呪が、恵那を押し包もうとする呪符に火をつける。

 音もなく、ただ炎だけが膨れ上がった。

 閃光が奔り、恵那は部屋の反対側まで吹き飛ばされた。

「あっつーッ!」

「清秋院さん!」

「大丈夫。このくらいなんてことないよ!」

 天叢雲剣が恵那の身を守ったのだ。

 風が、彼女の身体を薄く取り巻いている。

「太刀の巫女。やはり、厄介よな」

 道満は指の間に呪符を挟み、念を込めて投じた。

「吹き飛ばして!」

 矢のように迫る呪符に、恵那の風が襲い掛かる。

 風刃が、呪符を引き裂き、打ち払った。バラバラにされた呪符は、風に舞ってあらぬ方へ飛ばされる。

「オン・キリキリ――――」

 道満は、散った呪符を意に介さず、印を結ぶ。

 この呪文は、不動金縛り。

「ヤバイ、逃げるよアッキー」

「え、ちょッ!」

 恵那は天叢雲剣を振りかぶると、床に突き立てた。

 風と雷が生じ、床が抜ける。

 どれほど優秀な建造物でも、神剣の一撃に耐えられる構造にはなっていない。

 道満がドアへの道を塞いでいたので、これ以外に逃亡する方法がなかった。

「目茶苦茶しますね。ホント」

「下の部屋には人が住んでないからね。非常事態のときは壁も床も抜いていいって言われてたし」

 瓦礫に巻き込まれないように恵那と晶は術を使って身を守り、すばやく立ち上がってドアから廊下に出た。

 階段を飛び降りるようにして降っていく。

「それにしても、道満。アッキーのこと姫って呼んでたね。どういうこと?」

「知りませんよ。そんなこと。わたしが聞きたいくらいです!」

 媛巫女とはニュアンスが違うようにも思えたその響き。

 もちろん、道満に狙われる理由すらも心当たりのない晶には、あの老人の考えなど分かるはずもない。

 全力で走る。

 人型に切り取られた紙が、群れを為して恵那と晶を追いかけている。

 さすがに、空を飛んでいるだけに速い。

「とにかく、外に出ましょう。非常口から、下に」

 もはや、ドアノブを捻る時間すらも惜しい。

 ドアを蹴破って、踊場に出る。

「来るよ!」

「飛びます!」

 言って、恵那と晶は柵を乗り越えて夜の虚空に身を投げた。

 現在、地上八階。

 真っ当な人間なら、この高さから落ちて無傷で生還することはありえない。しかし、この二人は、武芸と呪術に長じている。自らの体重や落下速度を操り、完璧なまでの受身を取ることで、着地を成功させる。

 恵那と晶を捕らえ損ねた式神の群れは、宙空で鳶のように輪を描く。

 そして、一枚一枚が、肉付きのよい鬼へと変じ、地上に落ちてくる。

「ダメ、このままじゃ住宅街にも」

「バカ言わない。アッキーが捕まったら話にならないんだから、とにかく逃げる! 今は逃げの一手だよ!」

 囲まれたら終わりだ。晶の尻を叩くように、恵那が言う。

「逃がさんよ。姫はもとよりこちら側じゃ。あるべきところに帰るのが筋じゃろう」

 道満が道を塞ぐように立っている。

 もはや問答の余地はないと、恵那が道満に突っ込む。一歩遅れて、晶が続く。相手は呪文を唱え、呪符を投じる戦闘スタイル。よって、その暇を与えずに攻めるべきだと判断したのだ。

 その二人の前に、二体の鬼が立ち塞がる。

 二メートルを超える巨躯である。

「どいて!」

「邪魔!」

 天叢雲剣と神槍が、すれ違い様に鬼の首を落とす。無駄のない動きは、鬼に僅かの抵抗も許さなかった。倒された鬼は、呪力でできた肉体を消滅させ、呪符だけがその場に残った。

「ほう。さすがに、神剣と神槍の相手は式程度では無理か」

 道満は感心と落胆を綯い交ぜにした表情を浮かべ、それからにやりと笑う。

「牛頭よ。主の出番じゃ」

 そのとき、突如発生した呪力の豪風は、恵那と晶を纏めて吹き飛ばしてあまりあるものだった。真横から襲い掛かった一撃に、恵那は身体を強かに打たれ、晶はその煽りを受けて地面を転がった。

「かはッ。ぐ、う」

 恵那が天叢雲剣を支えに膝をつく。

 咄嗟に跳んで威力を殺したものの、綺麗に横腹に貰ってしまった。痛みよりも、衝撃の強さが先行してくらくらする。

「梃子摺っておるなあ、道満」

「なかなかの手練であろう。牛頭よ。肩慣らしにはちょうどよかろう。暫し、相手をせい」

 道満の隣に現れた巨漢を見て、恵那は目を見開いた。

 晶もまた、驚愕に息を呑む。

 牛の頭をした筋骨隆々な男性。胸当てや籠手などの最低限の武装を身につけているものの、彼にとってそれは装飾品以外の何物でもなく、ただ鍛え抜かれた肉体こそが、武器であり防具であった。

「牛頭、……牛頭天王。あなた、いったい何者?」

 牛頭天王は、日本の代表的な《鋼》の神格だ。

 中国の蚩尤、ギリシャのミノスといった牛頭人身の神に共通する、大地と関わりの深い《鋼》であり、スサノオと習合する嵐と疫病の神である。

「あのジジイとは長い付き合いでな。スサノオの巫女。事が終わるまで、俺が相手をしよう」

「く……」

 恵那は天叢雲剣を構えて神気を呼び込む。

 とはいえ、相手は『まつろわぬ神』ほどではないにしても、神獣を上回る存在だ。おまけに、恵那に加護を与えるスサノオと似通った神性を持つために、相性が頗る悪い。

「清秋院さん!」

「アッキー、逃げて!」

「逃がさぬよ。姫」

 ズウ、と夜闇から滲み出るように、水墨画を思わせる鬼が湧き出てくる。

「く、このッ」

 神槍を振るい、鬼を打ち払う晶。次から次へと、雪崩のように襲い掛かってくるのだから、有象無象と雖も厄介だ。

 呪術を使い、神槍を振るい、活路を探す。

 だが、見つからない。

 恵那が、牛頭天王の攻撃を受けきれずに宙を舞った。

 神気を呼び込み、一時的に神獣を上回る戦闘能力を持つことのできる恵那であっても、防戦が手一杯。

 牛頭天王を配下に置く、蘆屋道満。いや、蘆屋道満ではない。様々な伝説を持つ大陰陽師であっても、牛頭天王との関わりはない。

 だとしたら、この神は――――

 目の前に迫る、狼の口。

 神槍の柄に、子鬼がしがみ付いた。

「あ……」

 狼の狙いは首。殺しはしないだろうが、五体満足で確保するとも言っていない。

 やられたと、思った。

「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!」

 炎が、晶を包み込む。

 熱風は晶を傷つけることなく、周囲の式神だけを燃やし尽くした。

「走って!」

 恵那ではない。もっと、勝気な印象の声だ。それも、最近聞いたような声。その声の主に手を引かれ、晶は引きずられるように走った。

「ま、待ってください。あなたは」

「無駄口叩かないで。今、護堂にメールしたから!」

「え、先輩に」

 走りながら、相手の後姿を見る。

 腰まで伸びた長い髪。左右の一部を、髪留めで止めている。

 見覚えがあった。 

 つい最近、そう。それは、静花の誕生会で、

「あ、な。まさか、徳永さん!? なんで、あなたが」

「…………後で、ちゃんと説明するから」

 明日香は、晶の方を振り返ることなく、険しい声で答えた。

 晶もまた、混乱していた。

 明日香は護堂と静花の幼馴染であるが、呪術に関わりのない一般人だったはずだ。正史編纂委員会のリストにも載っていない。護堂の関係者は、リストアップされそれなりの調査がされているのに、誰も呪術関係者だとは気付かなかった。

「もしかして、あなたがあのメールの差出人」

「まあ、そうね」

 認めた。

 晶も、確認はしたものの、すでに確信はしていた。今の状況から考えて、明日香以外にメールの送り手はありえないからだ。

「じゃあ、蘆屋道満とどういう関係なんですか?」

 晶の声にも険が混じる。

 明日香が道満の関係者だとすれば、敵側の陣営である。晶を救おうとしてくれたことから、寝返る気だとは想像もできるが、それでも真正直に信じるわけにもいかない。

「何、わしの娘じゃよ」

 答えは空から。

「ッ」

 返礼とばかりに降り注ぐ、刃の雨。

「ハアッ!」

 晶の神槍が風を巻き起こし、一薙ぎで打ち払う。

「今、信じ難いことを聞きましたが。娘? え?」

「ちょっとした実験での。ま、その行き着く先が主なのじゃがな」

 再び、晶の前を塞ぐように立った道満は、暗い双眸で晶を見つめた。

 道満の言葉に、晶は眉を顰め、明日香はハッと息を呑んだ。

「信じらんない! あんた、殺したのね!」

「何を言うか。きちんと、生きておるじゃろ。言葉には気を付けよ」

 道満と明日香のみが、その意味を理解できた。

 二人の間にある、何かしらの共通理解が明日香の反感を誘った。それが、どういうわけか晶にも関係するらしい。

「とにかく、護堂が来るまで逃げ延びるのよ。いいわね」

「は、はい!」

 明日香は帝釈天印を結び、

「ノウマク・サマンダボダナン・インダラヤ・ソワカ!」

 与えられた知識を動員して、術を放つ。

 帝釈天の真言で術式を完成させ、突き出した右手がスパークする。

 紫電が奔る。

 雷撃は高い攻撃力に加えて、極めて速い。人の目では追うことのできない速度で空間を走り、対象を焼き払う。

 その特性上、見てから避けることはまず不可能。

 よって、道満は明日香の術に先んじて呪文を詠唱。

「くわばら、くわばら」

 雷撃は、道満の目前で左右に分かれてあらぬ方向へ飛んで行く。

「雷除け……!」

「まだまだ術の使い方が粗いの。呪術から離れて暮らすからじゃ。それ」

 道満の足元から影が湧く。

 式神の群れが前進する。晶が明日香を庇うように前に出る。その後ろでは、明日香がカバンからノートを取り出していた。そして、それを式神の群れに投げつける。

 ノートには、尊勝仏頂陀羅尼が書き込まれていた。

 文字が呪力を帯び、式神の群れは悲鳴を上げて二人を避ける。

「ふぉふぉふぉ。なるほど、師輔の真似か。よき趣向じゃ」

 楽しげに、道満は笑う。

「南無八幡大菩薩!」

 モーセが海を割ったように、式神の群れは道満までの道を作った。そこに、晶が神槍を投じた。

 爆発的な呪力を宿し、ミサイルを思わせる速度で神槍が道満を襲う。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」

 道満は目にも止まらぬ早業で空中に格子状の線を引く。

 光の線が、そのまま障壁となった。

 晶の神槍が、その障壁に衝突する。

「おおう。なかなかどうして、強いの」

 道満は伏せるように頭を下げ、障壁を貫いた槍が肩口を掠めて飛んでいく。

 カンピオーネの権能で創られた槍だ。晶では本来の力を引き出せないものの、それでも即製の障壁を貫けないことはない。

「やれやれ、時間もそうかけてはおれぬ。主に呪術の知識を与えたのは間違いだったかの」

 明日香を見る道満の目は、それでも不快の感情がない。まるで、自分の仕事の出来を鑑賞しているかのようだ。

 道満を仕留め損ねた晶は、手元に神槍を召喚する。

「それに、娘の不始末も親の責任じゃろうしの」

「誰が親よ。ふざけないで!」

 明日香が剣印を結ぶ。

 先ほど投じたノートが風に因らず開き、内部に書き込まれた呪術を発動する。

 ノートが、明日香にとっての呪具。素早く、術を使うための触媒なのだ。

 しかし、そこに文字が書き込まれているということは、発動前からどのような術なのかが分かってしまうということである。

 道満は飛んでくる攻撃を的確に「返し」ていく。

「そら、次じゃ。オン・マリシエイ・ソワカ」

 道満が呪符を投じる。

 空中で、三枚の呪符が刃物に変化した。クナイのような形をした刃を、晶が神槍で叩き落す。攻め込もうにも、式神が壁となって進路を塞ぐ。明日香の百鬼夜行除けの尊勝仏頂陀羅尼の結界が、辛うじて二人の居場所を作っている。

 明日香も、懸命に術を放つが、やはり分厚い式神の壁を突破できない。

 護堂が来るまで、どれくらいの時間がかかるか。

 焦りが募っていく。

「早く来なさいよ、バカ」

 小さく毒づく。

 慣れない呪術戦に、明日香の心労はピークに達していた。

 ほぼ初めての経験。まともに呪術の勉強をしていない明日香がなんとか呪術戦を演じることができるのは、道満が手心を加えていることと、道満が明日香に刷り込んだ呪術の知識によるものである。つまり、道満のサポートによって道満と戦っているという滑稽な茶番でしかない。

 それでも、護堂が帰ってくるまでの時間さえ稼げれば問題ないのだ。

「では、そろそろ終いじゃ。金気は水気を生ず」

 道満が印を結ぶ。

 どのような術が来るか、道満の動向を注視していた晶と明日香は完全に虚を突かれた。

 呪力が湧き立ったのは、二人の足元だった。

 道満の呪符が変じた三つの刃。

 その刃が破裂し、水滴に変わった。五行相生の理に従って、金気から水気に転じたのだ。その水気を晶の脇腹に張り付いていた呪符が吸う。

「な、何これ。いつの間に!?」

 晶が悲鳴のような声を上げる。

 それは、道満が刃へ変じた三枚の呪符を投じたとき、隠形術をかけて投じた四枚目だった。刃に気を取られた晶は、呪術で巧みに隠蔽された四枚目の呪符には気付かなかったのだ。

 水を吸った呪符は凄まじい勢いで蔓草に変わり、晶の身体を締め上げて拘束する。

「うぐ、くはッ」

 倒れ込む晶を支えようとした明日香の顔に向かって、蔓草から切り離された葉が張り付く。

 払い除けた瞬間、葉は凄まじい炎の塊となった。

「きゃああッ!?」

 衝撃が全身をくまなく叩き、明日香は吹き飛ばされた。地面に叩きつけられ、そのまま昏倒する。

 水気から木気を生み出し、木気から火気を生み出す。五行相生は、陰陽師たる道満にとって児戯に等しい基本的な術式である。

 とはいえ、それをここまでの精度で行うとなると、やはり並の呪術師では歯が立たないのも道理であろう。

「この、放し……むぐッ」

 叫ぼうとした晶の口を、蔓草が塞ぐ。噛み切ろうにもゴムのように固く、柔軟性がある奇怪な蔓草は晶の抵抗にもビクともしない。

「おお、道満。捕らえたか」

 ズンズンと歩み寄ってくるのは牛頭天王。 

 身体のあちらこちらに裂傷や切り傷があるものの、健在だ。

「太刀の巫女はどうであった?」

「まあまあだな。やはり、人では俺の敵にはならぬ」

 首を鳴らし、如何にも一汗かいたというような仕草をする牛頭天王は、縛り上げられた晶を見下ろす。

「ふぐ、むぐぐ。むー!」

 猿轡をされた状態でも、晶は懸命に抵抗しようとしている。

 その姿をあざ笑うかのように、牛頭天王は鼻を鳴らした。

「騒がしい。何とかならんか」

「ふうむ。余計な術をかけると儀式に障るからのう。やるとすれば、こうかの」

 道満が印を結ぶ。

 晶を拘束していた蔓草が一斉に蠢き、メキメキと晶を締め上げた。

「ふぎゅう、うむぐぅぅぅ!」

 声にならない悲鳴を上げて、晶は悶絶する。やがて、小さく震えながら動かなくなった。

 術をかけるのではなく、物理的に刺激を与えて黙らせたのだ。

「儀式のときまで未通女(をとめ)であればよい。骨は肉によう馴染んだことじゃし、身体が無事ならば十分じゃ。騒ぐのが煩わしいのであれば、傷つけぬよう調教するがよい。もっとも、五年前に最期まで散々に嬲ったからの。そういうことには慣れておるかもしれぬぞ」

「俺は加減できぬし、犯せんのなら興味はない」

 牛頭天王は言い捨てて、晶を大きな手で鷲掴みにして肩に担いだ。

 ぐったりとした晶は、意識はあるものの抵抗する様子はない。

「戻るぞ」

「せっかちなヤツじゃ。まあ、仕方ないかのう。魔王に来られてはすべてが水の泡じゃ」

 道満は、印を結ぶ。

 摩利支天印は、隠形術の基本だ。

「では、戻ろうかの。――――クシナダヒメよ」

 夜陰に溶け込むように、牛頭天王と道満は姿を消した。

 残されたのは、打ち倒された少女が二人だけ。

 すべては道満の思うままに進んでいた。


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