カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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八十七話

 大型の台風と比較しても遜色ない嵐が東日本を直撃したのは、その日の午後のことだった。

 風は吹き荒れ、横殴りの雨が東日本の太平洋側を襲う。

 穏やかな夕暮れは一変して、雷鳴轟く暴風雨となった。

 最近はゲリラ豪雨という言葉がよく使われるようになったことからも分かるとおり、こういった突然の大雨強風には比較的慣れている人が多くなった。しかし、それでも、ゲリラ豪雨は夏頃に発生するものであり、いくら異常気象と言っても、日本のど真ん中に突如として台風並みの低気圧が出現するなど常識的にありえない。 

 大気の流れを見ても、そのような自然現象が発生する要因は一切なく、気象予報士たちは首を捻らざるを得ない状況だった。

 似たようなことは以前にもあった。

 四月と七月に、同じように突然の大嵐が来たことがあった。

 今回の大嵐もそれに酷似している。

 ――――今年は大荒れだな。

 ある気象予報士は、もはや慣れたと言わんばかりに天気図を眺めていた。

 

 

 天気が西から変わるという基本は、最低限守ってくれていた。

 嵐を引き連れた法道は、東名高速道路を東進する。

 風と雨はあまりに強く、高速道路は通行止めを余儀なくされている。それを幸いと、漆黒の闇が怒涛を為して進軍しているのだ。

 嵐を呼んでいるのは牛頭天王。

 スサノオと同じ嵐の神格であり、御霊信仰の中枢を担う彼は疫病神としての側面も持つ。

 スサノオ以上に悪神としての神力が強いのである。結果として、戦いを前にして心が逸っている彼は、周囲に病をばら撒いていた。

 風雨の凄まじさと、高速道路が通行止めになっていたおかげで巻き込まれる人間は高速道路付近に暮らす住民だけであるが、それでもこの時点で数百人が体調不良を訴え病院に搬送されていた。

 座布団ほどの大きさの雲に乗り、自軍の快進撃を眺めている法道は、牛頭天王の気持ちがとてもよく分かった。

 千年前の雪辱を果たす好機である。

 安倍晴明というただの人間に敗れた後の惨めな己はもういない。

 今再びこの世に舞い戻り、呪術の闇で世界を覆い尽くしてみせよう。

 そのために、草薙護堂を始末しなければならない。

 そうでなければ、覇道の一歩が踏み出せないのだ。

「さあ、決着をつけようぞ。晴明」

 法道は東進する。

 現在の都、東京に旗を立てるために。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「いやはや、文字通り驀進といったところですねェ」

 東名高速道路の映像を見て、冬馬は呆れたように呟いた。

 護堂も同じ気持ちだ。

 法道現るの報を聞いて、沙耶宮家に飛び込んだ護堂を待っていたのは、テレビ画面を埋め尽くす黒の集団だった。

 全面通行禁止となった高速道路上を、我が物顔で走り続ける大小様々な鬼の群れ。

 監視カメラの映像だが、雲霞の如き百鬼夜行が東京を目指して進んでいる光景は、恐怖を感じるよりも先に忘我する。

 雲に乗って先頭を切る法道の姿をカメラが捉えていた。

 護堂は唇を引き結び、拳を握り締めた。

「あの集団が東京に入る前に迎撃します」

「お願いします。正直、あの数を相手にするだけの余裕は今僕たちにはありませんので」

「ええ、もちろんです。ですが、俺は今回法道を倒すことを優先して戦います。だから――――」

「大丈夫です。神様の相手はできませんが、それでも僕たちなりにあなたをサポートします。周囲に気を配る必要はありません。――――僕たちも覚悟を決めて、決死隊を組織しましたので。東京の地脈の守護から一般人の安全確保まで、死に物狂いで遂行しますよ」

 決死隊か。

 『まつろわぬ神』が、東京を目指して進んでいる。しかもそれは、日本各地に大災害を引き起こしたあの地脈氾濫事件の主犯であるらしい。

 それを聞いた呪術師たちは、多くが死を覚悟した。

 百鬼夜行を倒すだけでも、彼らは全滅の可能性を考えていたのである。それが、より強力になって首都に攻め寄せてくるとなれば、不安と恐怖に苛まれるのは当然と言えた。

「それにしても法道ねえ。俺が戦ってきた神様の中でも一番マイナーなんじゃないでしょうか」

「そうかもしれませんね。法道上人自体は民間伝承レベルですし。ですが、東京にも法道由来の伝説はあります。渋谷にある神泉町と鉢山町の地名はこの法道上人から来たという伝説があるくらいですからね」

 兵庫県の土着伝説程度の神様扱いではあるが、東京にまで伝説を広げているというのも不思議な話だ。といっても、それは法道の力というよりも弘法大師の伝説に引っ張られた結果だというが。

「じゃあ、行ってきます。後ろのことは、頼みますね」

「ええ、死力を尽くします」

 馨は、力強く護堂に誓った。

 彼女もまた、晶の死に衝撃を受けた者の一人だ。その仇が東京に攻め入ってくるとなるのだから、恐怖など感じていられない。

 復讐という柄ではないし、それは護堂がやってくれる。

 馨は力まず、状況を見定めることが大事なのだ。

 敵は呪術の神。

 今までのような、物的被害や人的被害を意識するだけの対応では、おそらくダメだ。

 地脈などを侵してくる可能性もあり、そうなってしまえば、東京が死の都になる。

 東京都民の、そして日本の今後を考えるならば、相手が『まつろわぬ神』だからといってここで退くわけにはいかないのだ。

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

「ずいぶんと頭の悪いことをしてると思うよ」

 そう言ったのは、恵那だった。

 彼女がいるのは明治神宮。

 東京都は、日本最大級の都会であるが、実のところ意外と緑が多い。それは、街路樹などもあるが、明治神宮や御苑のような由緒ある神社や庭園が残されているからであり、また、広大な緑を持つ公園を維持しているということもある。

 そして、明治神宮の緑は、神宮と隣接する代々木公園を合わせれば、都心の中では最大級の広大さを持つ。

 今、この明治神宮に集った媛巫女は五十人。護衛の呪術師は二百人という大所帯である。

 ここにそれだけの人員を集結させた理由は、明治神宮が、江戸時代以来、東京を守護する大結界を維持する要であるからだ。

 この結界は、地脈と密接な関わりを持つ。

 近畿を中心に地脈が大きく乱れながらも、関東以北の被害が比較的少なかったのも、この結界が緩衝材の役割を果たしたからである。

 しかし、だからこそ結界が破られてしまうことになれば、地脈は大いに乱れ、畿内の混乱とリンクしてさらに大きな騒乱へと繋がる恐れがある。

 よって、ここだけは死守せねばならないのであった。

 そして、二百五十人もの呪術師を一同に集結させることができたのは、他の分室から多数の応援が送られてきたからである。

 数を頼みにして、最重要な霊地を守護することを、恵那は『頭が悪い』と評したのだ。

 『まつろわぬ神』を相手に、挑戦すること自体が愚策。

 それでも、この場にいるのは志願者ばかりである。

 恐怖を抱いている者が大半であるが、それ以上の義務感と己の正義に命を賭そうとしているのである。

 

 

 

 事ここに至り、日本中の分室が連携を密にして事件の解決に当たっていた。

 近畿地方を中心に、地脈の安定化を図っているが、これに関わる呪術師たちは自分たちの持ち場に拘らず流動的に動いている。

 それと同じように、東京の危機に際して自発的に駆け付けてくれた呪術師が多く、馨が法道の悪逆非道さを説き、日本のために力を貸してもらえないかと説得に当たったところさらに多くの呪術師が集ってくれた。

 この迅速な動きには、法道という神に対する強い危機感が醸成されていたことの他、東富士演習場での戦闘に参加した呪術師たちが、未だに部隊を組んだまま残存していたことが背景にある。

 彼らは法道の襲来に備えて東京と神奈川の各地に散り、人払いや情報操作に従事することとなった。

 恵那に祐理、ひかり、明日香といった護堂の関係者は、それぞれの分野で極めて高い資質を持っている。明日香に関しては、『民』からの協力者という体で参加させているが、実際に道満から与えられた呪術の知識は上位層に食い込めるほどのものがあり、戦いそのものに慣れていないことを除けば、十分に戦力に数えられるのである。

 明日香自身が、贖罪の場を求めていることと緊急事態で形振り構っていられないということから、特別に許可されているのだ。

 集められた媛巫女たちは、良家の子女ばかりということもあり、祐理に近い雰囲気を感じる。この集まりの中では、旧華族の祐理ですら下っ端という家格だから呪術の世界は恐ろしい。

 それでも祐理が最高位とされるのは、媛巫女は家格に関わりなく尊重されるものであり、実力主義的な世界だということが言える。

 逆に言えば、媛巫女ではない呪術師は家格の影響を受けやすいということでもある。

 明日香がこの世界を忌諱していた理由の一つだ。現に今、非常に居心地の悪さを感じている。良くも悪くも小市民的性格の明日香には、このお嬢様集団の中に入っていく勇気はない。 

 端によって、眺めているのが精精だ。ぼっち状態、空気になって現状を受け流す。

「法道様は、東名高速道路を東進されていると聞いています。草薙さんは、いったいどこで対峙されるのでしょう?」

 明日香の気配遮断を無視する形で、トコトコとやってきた祐理が話しかけてきた。

 それだけで、媛巫女たちの視線が明日香に刺さる。

 どうやら、祐理は彼女たちの中でも相当人気があるようで、祐理が親しげに話しかけるあいつは誰だという空気が流れている。

「そうね、敵は東名高速使ってるんでしょ。だったら、その辺りで人気がなさそうなところを探すんじゃない?」

 と、明日香は当たり障りのない返答をする。

 護堂がどこで法道を待ち受けるかなんて、明日香の知るところではない。

 今回は晶のこともあり、護堂が冷静に周囲に気を配ってくれるか読めないところがあるのだから、明言することはできない状況なのだ。

 下手をすれば、あたり構わず攻撃を放つ可能性すらある。

「カンピオーネってのは読めないもんよ。あなたのときだって、ホテルをぶった切ったでしょ」

「あ、確かに、そうですね……」

「あれですら、きっとアイツにとっては周りに配慮した結果なのよ。人気さえなければ、何をしても構わないと思ってるに違いないわ。高速道路を切り倒すくらいはやっちゃうかもね」

「そんなことは……」

 言いよどむ。今までの護堂の所業を見ているだけに、ないとは言い切れない。日光やイタリアのときは、周辺の人を避難させた上で戦いに臨んでいた。 しかし、今回は下準備のために費やせる時間がない。

 本当に、護堂はどこで戦うつもりなのだろうか。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 祐理と明日香が心配していたとき、護堂はすでに戦場とする場所を見定めていた。

 雨はいつの間にか上がっていた。

 東名高速道路を東進する法道を迎撃するのは、厚木海軍飛行場。

 神奈川県にある軍事基地で、自衛隊とアメリカ軍が共同で利用しており、ジョン・F・ケネディを暗殺したリー・ハーヴェイ・オズワルドが勤務していたことでも知られる。

 この基地のすぐそばを、東名高速道路は走っている。

 ジェット戦闘機が、次々に飛び立っていく様を、護堂は見届けた。

 馨にこの場所を戦場にすると連絡したときに、手を回してくれたのである。

 自衛隊もアメリカ軍も、一機で何百億円もする戦闘機を巻き込まれたくはないだろう。スクランブルがかかったかのように慌てて飛び立っていった。

 周辺住民にも、神奈川県の呪術師が動いてくれている。

 説得は時間がかかりすぎるため、暗示でもなんでも使って強制的に公民館などに動いてもらったのである。おかげで、この周辺には人気がなくなっていた。

 次第に、身体に力が漲ってきた。

 『まつろわぬ神』の接近を知らせる、体調の変化。

 呪力の塊が、猛然と高速道路を駆け抜けていくのを見る。先頭の法道のみならず、その背後の集団にむけて、

「我は鉄を打つ者。我が武具を以て万の軍をまつろわせよ!」

 一目連の聖句を口にする。

 数百もの刃が、一斉に百鬼夜行に襲い掛かる。

 それは、鋼の暴威である。

 百鬼夜行とはいえ、所詮は使い魔。神獣にも届かない影である。漆黒の鬼たちは、護堂の掃射を受け止めることができずに次々と撃ち抜かれていく。

 その中で、法道だけは機敏な動きで刃の雨をすり抜けていた。

 大味な攻撃は、法道という小さな老人を仕留めるには範囲が広すぎる。

 だが、護堂の攻撃の狙いは法道ではなく、その背後にいる使い魔の群れである。

 綺羅星のように輝く剣群を受け止められるほど、百鬼夜行は頑丈ではない。

「ヴォバンの狼程度か」

 護堂はそう評価する。

 かつて戦った狼使いの老カンピオーネ。無限に狼を召喚する権能を持っていたが、召喚される狼一体一体の力はそれほど強力ではなかった。

 呪術師でも中堅以上であれば、相手ができる程度の力だったはず。真に驚異的なのは、その物量であって、個々の力ではなかった。

「物量では俺も負けてねえ」

 数を用意するのは、簡単だ。

 剣や槍を無数に滞空させたまま、護堂は無表情に法道を見た。

 飛行場と高速道路までの、数百メートルの間を挟み、護堂と法道はにらみ合った。

 夜。

 人の姿はなく、

 魔王と神だけが、この世界で息をしている。

「東京に入る前に、わしと決着をつける腹か。多少前後するが、よかろう。どの道、魔王の相手はわし自身でなければならぬ」 

 呟いて、法道は、呪符を投じた。

 五枚。

 風の影響も受けず、弾丸のような速度で護堂に襲い掛かる。

 護堂は、それを黙して斬った。槍の一振りで、五枚の呪符を打ち払う。

 それと同時に、法道が印を結んだ。

「なん……!?」

 最後まで言い切らず、護堂は槍を手放して後方に跳んだ。

 槍の先端に打ち払った呪符の一枚が張り付いて膨張したのである。呪符はすぐに水に変わり、ハラハラと舞い落ちる呪符を呑み込んで大波となって護堂に襲い掛かった。

『裂けろ』

 水は、武具では防げない。

 大波を、言霊で二つに分かつ。

 水飛沫が飛び、護堂の左右は水の壁となる。そこで、二枚目の呪符が発動した。

 急激に水が消滅し、代わって大量の木の根が現れた。水に囲まれた護堂は実質木の根に囲い込まれたのである。

「五行ってヤツかよ!」

 毒づいて、護堂は背負った剣群を四方の木に叩き込み、それらを砕く。

 所詮は木。敵が得意とする五行に合わせても、鋼を木では防げない。金克木である。ところが、法道の木は、砕かれた直後に燃え上がった。

 三枚目の呪符が発動したのである。

 木気を吸収し、火気が肥大化する。

 そして、紅蓮の火柱が生まれた。

 

「熱いな、もうッ」

 護堂は服についた煤を払った。

 火柱が発生する直前に土雷神の化身で脱出したため、無事だったのである。

 危うく、特大のキャンプファイヤーで焼き尽くされるところだった。

 もっとも、カンピオーネの抵抗力なら、あれで殺されることはないだろうが、法道が投げた呪符は五枚。残りは二枚であり、炎の次に何に変わるのか、大体予想できる。

 高速道路の上に、未だに立っている法道に、護堂は剣群を掃射する。

 火柱がぐにゃりと曲がる。炎の柱は炎の壁となって、剣群の行く手を遮り、一瞬にして蒸発させる。

 火炎は《鋼》の天敵の一つ。

 金気は火気に相克される。

 陰陽道のルールに照らしても、《鋼》の特性に照らしても、炎は相性の悪い相手だ。

 そして、この炎の壁が護堂に向かって崩れ落ちてくる。

 まるで、火砕流。

 堰を切ったような炎は、道半ばで漆黒の大地に変わる。

 火砕流が土石流に変わった瞬間であった。

 岩盤ごとひっくり返したかのような黒津波は、カンピオーネにもダメージを与えうるものだ。地面を削り取り、巻き込んで勢力を拡大している。

『縮』

 土を巻き込むという性質から、地中に逃れるのは得策ではないと判断して、空間圧縮で上空に跳んだ。

 神速の権能を得て以来、あまり使うことのなかった使い方である。この使い方で十メートルを一メートルにまで縮めれば、一メートルジャンプすることと十メートルジャンプすることが同義になる。

 結果、相対的に護堂は十メートルを一瞬で移動したように見えるのである。

 土石流の効果範囲から脱した護堂は、未だ安息を得ることができなかった。

 下方の土の山が、鉄色に変化し、輝く剣の群れに変わったからである。

 最後に見せるのは、土生金。数百からなる剣の軍団だ。

 護堂の槍から金気を得て、呪符で干渉し水気を発する。それを、さらに相生を繰り返し、膨張させて最後にカンピオーネを傷つけることができる物理攻撃に転化させる。

 人間でもできることであるが、その規模は桁外れに大きい。

「呪術の神ってのは、なんでもありか!?」

 一挺一挺を迎撃していては間に合わない。

 護堂は身を覆う程度の大きさの楯を重層的に配置し、剣群に耐えた。

 普段から自分が得意とする戦術を返されたのだ。あまり、いい気持ちにはならない。

 とはいえ、剣の群れに特異な能力があるわけではない。

 それはあくまでも剣であり、神話的な力を持つものではない。魔術によって作り出されただけの、鉄の塊である。格で言えば、護堂の《鋼》のほうが遥かに上だ。

 当然、重層的に重なった神楯を突破することなどできない。剣は尽く弾き返されて、地面に落ちていく。

「返すぞ!」

 自由落下の中で、護堂は法道に向かって剣の雨を降らせる。

 もはや、五行相生で強化した火柱もない中で、これを如何にして防ぐ。

 降り注ぐ剣群は、夜闇に金の軌跡を描き、獲物に殺到し、法道ごと、周囲のアスファルトを吹き飛ばした。筋骨隆々な武神であればまだしも、老人の外観をした法道が直撃を受けて無事でいるとは考えられない。だが、それ以上に、この程度で倒せることがありえない。

「ッ!!」

 護堂は手に持つ槍を背負うように振るう。

「ぐ……!」

 激しい衝撃が走る。

 背後から、強襲されたのだ。

 空中では、踏ん張れずそのまま地面に叩きつけられた。

「ぐ、がはッ」

 サルバトーレのような頑丈さのない護堂には、これだけでも相当辛い。

 腕の骨を始め、いくつかの骨が折れたり罅が入ったりした。

 それも、若雷神の化身で回復し、なんでもないかのように立ち上がる。

「ほうほう。受け止めるか。さすが。半年ほどとはいえ、戦い慣れておる」

 法道は、護堂と同じ大地に立つ。

「ふぉふぉ、主の怒りを感じるぞ。それほどまでに、あの蛇巫を気に入っておったか」

「…………」

 護堂は何も言わない。

 敵は明らかに挑発している。努めて冷静に、敵を分析するのだ。

 『負けないで』

 と、晶に言われた。

 『カンピオーネとしての意地を通せ』

 と、祐理に言われた。

 彼女たちにそこまで言わせて、負けるわけにはいかない。

 護堂を冷静にさせているのは、偏に彼女たちとの約束があるからだ。

 両者のにらみ合いは、長くは続かなかった。

 音もなく、法道が姿を消す。

 護堂は、前方に跳んだ。

 ブオン、と何かが宙を切る。

「避けるか。恐ろしいまでに冴えておるの」

 法道の声が、ブレて聞こえる。

 注意を払わず、護堂は楯で右肩を守った。

 激しく火花が散る。

 見えないのは、姿を消しているからではない。

「神速……ッ」

 目に見えないほどの高速移動を行う権能。

 多くの武神が持つものだが、法道も持っていたか。

「何も可笑しなことはあるまい。仙人なんぞ、そんなものじゃろう?」

 面白そうに笑って、また消える。

「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」

 ガブリエルの聖句を唱える。

 直感を最大にまで強化し、相手の動きに先んじて動くことで、神速に対応するのだ。

 危機を察知し、呪力を読み取る。

 慣れというのはすばらしいものがある。四月の頃には、呪力を読むことまでできなかったのが、今では勘任せではなく、しっかりと読み取った上で回避できている。

 もっとも、そのことに酔っている余裕は欠片もない。

 できる限り動きを最小限にして、次に繋がる動きをする。無駄を省くことで効率よく神速に対処するのだ。もはや、護堂のそれは心眼に近い。

 ここまで読めれば、後は、その進路上に剣を置くだけ。

 逆手に持った短剣を、法道の進路上に置く。振るうようなことはしない。相手が突っ込んできてくれるからだ。

「危ないのう。危ない危ない」

 切先は、僅かに法道を捉えることがなかった。

 ギリギリでかわされた。

「杖で殴りかかってくる陰陽師か。なんか、違うんじゃないか」

「ふぉふぉ。主ら魔王には、並大抵の呪術は効かんからの。まあ、そう言わんと、付きおうてくれや」

 笑いながら、法道は杖で地面をトン、と叩く。

 その行動の意味を考えることなく、護堂は横に伏せるように跳ぶ。

 背後の地面が盛り上がり、槍となって護堂がいた空間を貫いたのだ。

 避けると同時に、剣を投擲。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

 四縦五横に指を走らせ、法道は呪力を漲らせる。

 空中に描かれた格子模様が光を放ち、護堂の剣を受け止めた。

 道教由来の護身法。

 特に、格子模様を描くのは『ドーマン』と呼称される九字切りの代表格だ。

『穿て』

 剣を防いだ法道に、言霊を飛ばす。

 空間が歪み、法道の身体を巻き込んでいく。

「ぬ」

 法道の杖が両刃の剣に変化する。

 その剣を右手に持ち、呪文を口にしながら左手の指を流れるように動かす。

「去ね」

 剣から強い光が溢れ出て、空間の歪みが雲散霧消する。

「末望足ではないがな」

 笑いながら、法道が言う。

 何かしらの護身法だ。

 護堂の干渉から身を守る術を使ったのだろう。

「雨がなければ、得意の神速も使えまい。そして――――」

 法道が印を結ぶ。

 直後、護堂の足元が割れた。

 大きな顎。

 足場を奪われて、護堂は自由落下する。

「なん……ッ!?」

「火雷大神の権能、蛇巫めがよう知っておったわ。主のことをわしに教えてしもうたことを知ったら、アヤツはどのような顔をするかのう。くふふ、死なせずに飼っておくべきじゃったかの」

 晶のことを、侮辱している。

「てめえッ」

「そら、隙ありじゃ」

 法道が頭上に手を翳すと、そこに一本の枯れ木が現れた。

 太く、硬そうな松の幹。ただ、その形状は異様なまでに捻じ曲がっている。先端は鋭く尖り、巨大な杭を思わせた。

 法道が護堂に手を向ける。

 その手の動きに従って、松は護堂に向かって急降下する。

 法道の投げ松伝説の具現。

 鉄杭の如き巨木は、着弾と同時に周囲一帯を消し飛ばすほどの激しい閃光を生み出した。

 割れた大地は崩れ落ち、瓦礫の山が穴を塞ぐ。

 その様子を法道は、笑みを深くして眺めていた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 護堂と法道が厚木海軍基地で激突したという報せを受けて、明治神宮には弛緩した空気が流れた。

 東京に敵が攻め入ってくれば、自分たちが危険に晒される可能性は否応なく高まる。

 命を賭する覚悟はあるが、極力命を危険に晒したくはない。

 そういう矛盾している身勝手な気持ちを抱くのも、人間として当たり前のことである。

 それを責めることは誰にもできない。

 ただ、自分は関係なくなったという空気は、護堂や晶のことを思うと腹立たしいものであり、恵那や祐理や明日香は、内心で不快感を覚えていた。

「一発気付けしたほうがいいかな?」

 恵那は祐理と明日香に冗談めかして言う。

「まあ、恵那さんが仰れば、大抵の人は従うでしょうけど」

 恵那は血筋も実力も最高クラス。この場に集まる術者の中で、恵那を越える者はいない。剣術や呪術の分野で上回れる者がそれぞれ二、三人といったところである。

「師範たちも、眉を顰めてるし、恵那たちが言わなくてもいつか爆発すると思うけどね」

 日本刀を佩いた初老の男性を眺めて、恵那が声を潜める。

「あの人、そんなに強い?」

 明日香が、恵那に尋ねると恵那は頷いて、

「剣術は恵那よりも上だよ。帝都古流の師範なんだ」

「帝都古流?」

「恵那たち媛巫女とかが修める剣術流派だよ。呪術戦を想定してるから、一般的な剣術と大分違うけどね」

 へえ、と言いながら、明日香は祐理に視線を向けた。

「あの、わたしは剣術はさっぱりで……」

「媛巫女といっても、相性があるしね。修行のカリキュラムが違うんだよ」

 恵那は霊視よりも武術が得意で、神降ろしに必要な修行の他に武術を学び、祐理は霊視をとにかく伸ばす修行に従事した。

 その結果が、それぞれの分野で頂点を極めつつある二人の媛巫女を生み出したのである。

「ま、神降ろしさえ使えば、恵那に勝てるのは王さまかアッキーくらいのものだよ」

 恵那は言ってから顔を曇らせた。

 晶は、彼女にとっての最大のライバルであった。

 同世代の少女と技を競えた経験がない恵那にとって、唯一無二の切磋琢磨できる相手だった。

 祐理と明日香も、恵那の気持ちを思って表情を曇らせる。

 直後、恵那と祐理は表情を一変させる。

 焦ったような顔つきで外に意識を向ける。

 恵那は常人離れした聴覚と呪力の流れから、そして祐理は最高峰の霊視能力から、敵の襲来を悟った。

「囲まれてるね」

「はい」

 恵那の言葉に、祐理が頷き、明日香が動転する。

「囲まれてるって、護堂は!?」

 法道の相手は護堂がしているのではなかったか。

 敵の軍勢が押し寄せてきたということは、まさか護堂が敗れたのであろうか?

「いえ、草薙さんはそう易々と倒されるお方ではありません」

 祐理は落ち着いた様子を見せる。

 幾度も修羅場を潜り抜けてきたからか、冷静になるのも早かった。

「今、この近辺にいるのは法道様の式神と、牛頭天王様ですね。法道様の力は感じません」

 目を瞑り、意識を研ぎ澄ませて敵の力を感知する。

 明治神宮の結界と繋がることで、相手の様子を窺うことができるのだ。

 精神感応の一種である。

「なるほど、法道自身は王さまと戦っていて、従属神と式神を別行動させたってこと」

「そのようです。隠形術で隠れていらしたようで、気付くのが遅くなりました」

「いやいや、それでも気付いたんだからすごいと思うよ。……やっぱり、神様クラスは東京の結界じゃ防げないか」

 最後に、恵那は呟いて外に出た。

 式神たちの実力は、正史編纂委員会の呪術師たちでも辛うじて立ち向かえるレベル。しかし、牛頭天王ともなるとそうはいかない。

 神降ろしをした恵那が、防戦に徹して勝ち目がないというレベルだ。

 神獣を上回る従属神。以前戦ったときよりも遥かに強大になっていることは間違いない。

「じゃあ、行くか」

 それでも、恵那は臆せず社の外に出た。

 明治神宮の結界を囲むように、黒い式神が密集している。数は、百ほどか。社を守るように、呪術師たちも出てくる。

 恵那たちの気配を感じ取ったのだろう。木々の奥、代々木公園の外で、牛頭天王が高らかに笑った。

「ハッ。何かと思えば矮小な人間どもか。よもや、この俺に抵抗するつもりか?」

 聞くだけで、強い圧迫感を感じる。これは、言霊である。神の言葉はそれだけで、人間の精神を狂わせる。呪術師といえども、耐えるのは並大抵のことではない。

「よかろう。ならば、無様に死ぬがよい」

 轟、と風が吹き、明治神宮の結界が砕けた。

 いともあっさりと、内部への侵入を許す。しかし、その直後、地脈が脈打ち、再び結界を形作る。

「ほう。壊しても戻るのか。面妖な。やはり、ここを制圧せねばならんか」

 式神は公園の内と外で分断された。さらに、公園内に仕掛けられたトラップが作動し、式神たちを駆逐していく。

 地の利を最大限に利用し、迎え討つ。人が知恵を絞って作り上げた防御陣である。

 法道は、カンピオーネの相手をするために、こちらに意識を向ける余裕がないのではないか。

 神獣が式神の中に紛れていないのは、距離もあるだろうが力を割くことができなかったからか。

 それでも、牛頭天王がいる時点で人間側は詰んでいる。

「オオオオオオオオオオオオオッ!」

 小癪な人間の浅知恵を、黒き風の暴威が蹴散らしていく。

 人に、台風を御す術などない。

 同じく、神に逆らうことなど、できはしないのだ。

 木々が根から抜け、宙を舞う。呪術師たちは悲鳴を上げつつ、防御の術を使い風を避け、式神に相対する。

「法道も面倒なことを言う。地脈の確保など、《鋼》たる俺の役割ではあるまいに!」

 法道にとって、地脈は重要なのだ。

 呪術の神である彼は、地脈という膨大な呪力を扱うことで実力を上昇させる。

 もちろん、地脈は法道のみならず、多くの神々が利用する自然のエネルギーであるが、日本はその力が制限されてしまう。

 人工的に地脈が整備されているおかげで、法道にとっては非常に『気持ち悪い』状態となっているのである。

 自然のままの地脈のほうが、彼にとってはうまく術を使える環境となる。

 それがなくても問題はないが、気になるものは早急に処理しておきたい。

 牛頭天王を寄越したのは、結界の強度や自分がカンピオーネとの戦いでこちらに意識を向ける余裕がないということもあるが、カンピオーネへの牽制に使えると考えたことが大きい。

 護堂は、仲間を強く意識するカンピオーネだ。仲間の下に牛頭天王が向かったと知れば、心穏やかにはいかないだろう。

 そういった策略の下で、牛頭天王は明治神宮に襲い掛かっているわけだが、本人からすれば甚だ不本意であった。

 なんといっても彼は《鋼》の一柱である。

 従属神であるが、それでも神なのだから、矮小な人間よりもカンピオーネと戦うのがいいに決まっている。

 人間を殺すことなど、流れ作業のようなものだ。

 今、法道の式神に辛くも勝利した一人の呪術師に向かって剣を振り下ろすのに何の感慨も湧かない。

 突如、颶風が舞い上がり、牛頭天王の剣を弾いた。

「むぅ!?」

 踏鞴を踏みそうになる身体を制御して、不可解な現象の原因を視界に収める。

「なるほど、スサノオの巫女か」

 清秋院恵那。

 法道が道満だった頃、とりわけ注意を払っていた女であった。

 天叢雲剣を通して、スサノオとコンタクトを取る彼女に接触することは、こちらの情報をスサノオに伝えることに繋がるからである。

 それは、何としても避けなければならなかった。

 だが、もはや彼女を恐れることなどない。

 直接戦えば、牛頭天王に軍配が上がることは証明済み。

 故に、

「貴様の出番は、すでに終わっている」

 天叢雲剣を振り下ろす。それだけで、少女の身体は二つに裂けて死ぬ。

 舞い上がるのは赤き灼熱。吹き上がるのは神秘の風だ。

 天叢雲剣に天叢雲剣が激突し、その衝撃で神風が吹き渡る。

 轟音と共に恵那が吹き飛ばされるも、くるりと回って姿勢を整え着地する。

「恵那が、そう簡単に負けると思わないでね」

 そう言いながら、恵那は太刀を構えて突進する。

 その速度は、これまでの恵那を上回っている。

 二メートルはあろうかという巨漢の牛頭天王に、小柄な少女が勝負を挑む。

 もともとの霊格が違いすぎる上、膂力も見るからに違う。恵那の不利は、誰の目から見ても明らかだ。

 それにも関わらず、恵那の斬り上げを防いだ牛頭天王は、大きく姿勢を崩した。

「何ィ」

 風が吹く。

「いやァ!」

 斬撃の嵐。

 剣と剣が触れ合うたびに、信じられないほど強烈な神気が溢れ出す。

 ただの神降ろしでここまでの力は出せない。

 何かしらのインチキをしているのは間違いない。

 風と風。

 牛頭天王とスサノオ。

 同じ神気が、激突し、激しく火花を散らす。

「そうか。貴様、スサノオ! 幽界で隠居していたくせに、今さらしゃしゃり出てくるか!」

 牛頭天王は、忌々しげに叫ぶ。

 スサノオは、千年前に法道を封じた事件の主犯格である。安倍晴明も、彼の助けがなければ、法道を退けることができなかっただろう。

 何より、自分と同質の力を持っているというだけで、不快である。

 同族嫌悪というものであろう。

「ありゃりゃ、おじいちゃま。ばれちゃったねえ」

『ハッ。気にすんな。あの牛頭(うしあたま)に負けねえよう、気張ってりゃいい』

 天叢雲剣を介して、スサノオの声が聞こえてくる。

 恵那は神降ろしを使っている。それによって得られる力は、身体能力の向上にのみ振り分け、剣術は天叢雲剣に、風の制御はスサノオに分担してもらっているのだ。

 スサノオは、隠居した神だ。

 どうあっても、現世に降臨することはできない。無理をして『まつろわぬ神』に戻ってしまったら、混迷の度合いが増すばかりである。

 だが、今回の一件を今までのように傍観することもしなかった。

 これは、千年前のツケが回ってきたのだ。

 スサノオたちが、後世に残した問題なのである。

 だからこそ、今まで以上に彼は積極的に関わっている。

 恵那にかかる負担を考慮して、天叢雲剣が敵に触れる瞬間だけ、天叢雲剣を通して神気を送り込む。こうすることで、恵那に負担をかけることなく、現世で権能を振るっているのである。

 恵那は、天叢雲剣とスサノオが権能を振るうための触媒となっているに過ぎない。

 目にも止まらぬ連撃。

 剣戟の音は、一つしか聞こえない。しかし、その間に幾十合もの刃が交わされている。

 力で攻める牛頭天王に対して、恵那は技で凌ぐ。

 互いに、風の権能の効きが悪い。

 力が似通っているためだろう。

 高速の打ち合い。加速度を増していき、視認すらも困難な領域に突入していった。

 

 

 同時刻、明治神宮周辺は、呪術師たちと式神たちが激闘を繰り広げていた。

 優勢なのは呪術師側である。

 式神の実力は彼らからしても非常に高い。しかし、結界が張り直されたタイミングが非常によく、戦力を分断することができたことで、いくらか余裕が生まれていた。

 数は呪術師側が四倍以上である。

 如何に相手の力が強くても、一体の式神に四人で攻撃できる状況である。また、初期にトラップで痛めつけていたことも、優位に戦いを進める要因となった。

「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン」

 前線で剣を振るう呪術師たちの後方で、明日香は一心に火界呪を唱える。

 蘆屋道満の呪術知識を与えられた彼女の力は、それだけで上位層に食い込むものである。

 破魔の炎は、式神たちに次々と襲い掛かる。

 いったい、アイツは誰だと不審がっていた他の呪術師たちも、明日香の火界呪の見事さに驚き、負けじと多種多様な呪術で迎撃を試みる。

 炎だけではない。

 水や光が飛び交う戦場は、もはや言葉にならない悲鳴と怒号が飛び交う地獄である。

 正直、足が震える。

 明日香が体験する戦いは、これが二度目。積み重ねのない彼女が、生来の負けん気と晶への罪悪感と己の良心だけでこの場に立っているのだから、精神にかかる負担は非常に大きなものとなっている。

 恐怖を忘れるように、ただ黙々と火界呪の詠唱に集中する。

 

 そんな外の戦況を、怯えながらも気丈に見守っているのは媛巫女たち。

 彼女たちに与えられた任務は、地脈の安定化である。

 明治神宮の社の中で、媛巫女たちは奉職を続けている。もしも、外の呪術師たちが敗れることがあったら、そのときは彼女たちは為す術なく殺されてしまうだろう。

「あの、万里谷様。外は大丈夫でしょうか?」

 不安げに、尋ねてきた少女は、祐理よりも年下であった。中学三年生の彼女は、その実力と精神性を評価され、この戦いに身を投じたのである。

 媛巫女の集団から、離れたところにいて、外の様子を窺っていた祐理の下までおずおずと進み出たのは、それを聞きたかったからであろう。

 いざというときの覚悟はできているつもりである。しかし、不安なものは不安なのだ。

 そんな彼女に、祐理は穏やかな笑みを返す。

「大丈夫ですよ。あの方たちは絶対に負けません。外で命を懸けていらっしゃる方たちの努力を無駄にせぬよう、わたしたちは職務に忠実でなければなりません」

 すぐそこで、命のやり取りがあることなど関係ないとばかりの落ち着いた祐理に、尋ねた彼女だけでなくその場の大半の媛巫女たちの不安が和らいだ。

 媛巫女たちが、一箇所に纏まっているのは、不安の表れでもある。祐理が扉の前まで来て外を伺っていたのは、そんな彼女たちを慮ってのことだった。

 それもまた、大きな勇気の現れである。

「あれが、魔王様と一緒に戦われた万里谷様なのですね」

「なんて心強いのでしょうか」

「ところで、草薙様とはどこまでいかれたのでしょうか」

「誰か、お尋ねしてみては?」

「……美しい」

 なにやら不穏な会話が後ろでされているが、祐理には聞こえなかったらしい。特に、そちらに意識を割くこともなかった。

 それは、目の前に迫る危機に対して、意識を向けざるを得なかったからであるが。

「伏せてください!」

 祐理が、隣にいた媛巫女を押し倒す。

 同時に、扉が砕かれ中に一体の式神が入り込んできたのだ。

 数は一体。

 大きさは二メートルほどの鬼。

 呪術師たちの防衛線を潜り抜け、さらに護衛たちを突破した最後の一体と言ったところか。

 この部屋には、逃げ場がない。踏み込まれれば、そこまでだ。

「きゃああああッ」

 荒事に慣れていない媛巫女たちは、悲鳴を上げて奥に下がる。

「あなたも奥へ!」

 押し倒した後輩を、祐理は庇うように立ち上がり、奥へ逃がす。

「ま、万里谷さん!」

「大丈夫ですから、下がって!」

 敢然とした様子で、祐理は式神の前に立ちはだかる。

 法道を許しはしない。法道から逃げたりもしない。護堂にそう言った彼女は、式神を前にして一歩も退かずに対峙する。

「ここは、神をお祀りする神聖な場所。あなたが足を踏み入れるべき場所ではありません。疾く、お下がりください」

 式神に言葉が通じるものか分からない。

 けれど、祐理は冷厳な眼差しで鬼を見つめ、言葉に力を込めて語りかけた。

 自分を前にして泣き叫ぶこともなく、逃げる様子も見せない巫女に、鬼は図らずも気圧された。鬼は、それが信じられないとばかりに呻き、そして、丸太のような拳を振り上げた。

 媛巫女たちは悲鳴を上げ、目を覆った。

 目前に迫る死に対して、祐理は尚も冷静だった。

「御巫の八神よ。和合の鎮めに応えて、静謐を顕し給え……」

 静かに、はっきりとした口調で言葉を紡ぐ。

 真っ白な光が、室内を満たした。

 その光に包まれた鬼が、膝を床に突く。戦う気力を失ったかのような鬼は、安らいだ表情を浮かべて身体を崩していく。

 『御霊鎮めの法』という、最高位の媛巫女にしか使えない霊力である。

 神の権能ですら、一時的に鎮めてしまうほどの力となる。

 祐理の霊能が、この半年の間に成長し、到達した『極み』なのだ。

「ご無事ですか!?」

 侵入した式神を追ってきたのだろう。

 呪術師の一団が、駆け込んできた。

「はい。わたしたちに怪我はありません」

 祐理が、頷く。

「ですから、こちらのことはあまり気になさらないでください。いざとなれば、わたしがあの方たちを守り通してみせますから」

 法道の式神を前にして堂々と渡りあった祐理は、軽く息を整えながらも宣言した。

 

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 恵那と牛頭天王の戦いは、徐々に恵那が追い詰められる形に推移していた。

 なんと言っても神と人。

 そもそも、戦いになること自体がおかしいのである。

 それが、曲がりなりにも戦いになっていたのは、恵那がスサノオと天叢雲剣から守られていたからである。

 神に匹敵する呪力を振り撒いて、恵那は牛頭天王に食い下がる。

 負担は普段の神降ろしよりも少し大きい程度で済んでいる。スサノオが、天叢雲剣を介しているだけで恵那とは関わりがない方法で風を操っているからである。

 牛頭天王は有り余る神気で僅かな傷も治癒し、恵那を圧倒する。

 すでに額から血が流れ出て視界が悪い。

 凌いでいるのは、身体の動きを天叢雲剣に任せているおかげだ。

「ぐ、う……」

 恵那は歯を食いしばる。

 身体から呪力が抜け落ちていくのが感じられる。

 神降ろしを維持できなくなりつつあるのだ。

『おい、恵那。もうチッとがんばれねえか!』

「ちょっと、厳しいけど。がんばる!」

 叫び、力を振り絞る。

 恵那は身体に風を纏って牛頭天王に斬りかかった。

 その体当たりのような斬撃は、恵那が生み出すことのできる最大級のエネルギーが込められていた。

「おお、ぬお!?」

 恵那の一太刀を受け止めきれず、牛頭天王が踏鞴を踏み、

「ええいや!」

 すれ違い様の一刀が、牛頭天王の脇腹を抉った。

 恵那は、そのまま地面に倒れ込む。

 一気に、神力が抜けていく。

 無理が祟って、身体が動かない。森の中、式神と牛頭天王に囲まれた状態で、救援はなし。

 窮地に陥ったといえるだろう。

「おのれ。小癪な人間風情が俺を……」

 神として、それは許し難い蛮行である。 

 黄金の剣に呪力を注ぎ、荒ぶる神の裁きを恵那にくれてやろう。

「やれるもんなら、やってみなよ。恵那は、絶対に負けない」

 動けない身ながら、恵那は牛頭天王をにらみ返した。それが、ますます牛頭天王を苛立たせた。

「ぬかせ、人間」

 憤りのままに、神剣を振り下ろす。

 激しく地面を揺らす一撃は、神風と共に恵那の身体を吹き飛ばした、と思われた。

「……まさか、飛び込んでくるか」

 牛頭天王の視線の先、今穿った大穴を避けるようにして、少年が膝を突いていた。恵那を地面に横たえ、その様子を確認するようにしている。

 この少年が、どこからともなく現れて恵那を拾い上げ、牛頭天王の攻撃の範囲外まで連れ出したのだ。

「まったく、神様相手に正気じゃないよ」

「びっくりした。君が来るんだ」

 恵那が目を丸くして驚いている。

 恵那を助けたのは、陸鷹化。中国のカンピオーネ、羅濠教主の直弟子で、日本で一族のビジネスを広げようと画策している少年である。

「仕方ないだろう。そっちの王様に頼まれちゃ断れないよ。陸家(うち)は日本でもビジネスしているしね」

 不機嫌そうにしているのは、生来の女性嫌いの表れか。

「それに、来てるのは僕だけじゃない」

 ニヒルな微笑み。

「え……?」

 恵那が疑問を口にするその前に、牡丹の花が舞う。

 暴力渦巻く戦場に、華やかな色が咲き乱れる。

「草薙王の巫女よ。神との戦い、なかなかに見事でした」

 鈴のような声。

 仙女を思わせる、服装。

 その美しさを前にしては月も花も恥じらい、顔を隠すことだろう。

「ですが、神の相手はわたくしたち王が務めるべきです。いくら、神気を降ろす巫女とはいえ、僭越が過ぎるというものでしょう。鷹化と共に下がりなさい」

 反論を許さぬ言葉の中に、労わりの色を滲ませ、彼女は言う。

 膂力無双にして、不撓不屈。 

 二世紀の長きに渡り、武の頂点に君臨し続ける覇道を極めし中華の王。

「今こそ、いつぞやの借りを返すとき。牛頭天王とやら、この羅濠があなたの相手となりましょう」

 静かに、それでいて猛烈な闘気を発して、羅濠教主は拳を握りしめた。

 


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