ゴールデンウィークに入ってから、兄の様子が妙だ。
静花の疑惑の目が向く先には、テレビのリモコンを弄っている兄の姿があった。大型連休というのに、外出する様子もなく、日がな一日家でごろごろする構えなのだろうか。
いや、そもそも兄はフットワークの軽いほうではない。
祖父や父があのような人物なので、それを側で見ていたものは俄かには信じられないかもしれないが、兄は遊びまわるという事を知らない……はずだ。
サッカー部に所属していた中学時代も、外に遊びに出るということはあまりしていなかった。部活の仕様上休みがほとんどないということもあったのだが、数少ない休みの日に、外に出るくらいなら家で大人しくしているという性格だった(とはいえ、いざ出かけると決めたら地の果てにも行ってしまうのだが)。
そういうことなので、このゴールデンウィークも家にいる護堂自体は不思議でもなんでもない。
「今は帰宅部だし……」
むしろ、高校デビューを帰宅部で飾った今、時間には余裕がありまくっているはず。
外出の兆しがないことを一体どのように捉えればよいのか、静花は悩んでいた。
「友達がいない、とか?ううん。そんなはずはないし」
護堂の高校生活は概ね順調。それは、四月の調査で明らかになったことだった。草薙家は誰とでも仲良くなる事ができる体質の一族だけに、心配するだけムダだと割り切る他ない。
むむむ……
静花の視線が険しくなる。
「怪しい」
理由など何もなかった。
ただ、漠然とそう思ったのだ。
いつもと同じようでいて、なんとなく、雰囲気が違う。
生まれたときから一緒の兄だからといって、細かい感情の機微を捉えられるとは思っていない。護堂は、なぜか同年代に比べてずっと老成してるようだし、いつも自分と兄を比較して頑張ろうという思いになる。それくらいに差を感じているのだから、兄のことをなんでもわかるなどという傲慢さは持てないのだが、やはり家族。時にこうして勘が冴えることもある。
「んー?」
視線を感じ取ったのか、護堂が振り向いた。
「なんだ? 人を親の敵みたいな目で見て」
「そんな風に見えるのなら、それはお兄ちゃんに後ろめたいことがあるからじゃないかな」
「じゃあ、そうは見えない。静花はいつも通りだ」
平然と護堂はそう返答した。
「それに、もしも仮に、あの人たちに敵がいるんならそれこそ見てみたいよ」
「違いない」
護堂は妹の見事な切り返しに苦笑した。
確かに、何かと騒動を起こす両親ながらも、敵が現れる話は聞かない。破天荒もここまでくるとカリスマ性に変わるのだろうか。あの人ならば仕方がない、と割り切った上で、惹かれる要素となるのだろう。
第一、敵対して勝てるとも思えない。
「そうそう、静花。明日暇か?」
「何?突然」
「いや、実は友達からこんなんもらってな」
胡乱そうな静花にチケットを見せた。言わずもがな、晶が支給したものである。バリエーションはいくつかあって博物館や美術館、遊園地に動物園とおよそ行けないところはない。
「一緒に行くか?」
「えー!ど、どうしちゃったの?何か変なもの食べた!?」
「心外だ。別になにもおかしくはないだろう。ただ妹とたまの休日を過ごしてみるのもいいかと思っただけで」
「へ、へー。まあ、どうしてもっていうなら、行ってもいいけどー」
静花が「まるで興味はないよ、でも護堂が言うのだからしかたなく」というような言い回しをしているところが、静花の可愛らしいところだろう、と兄貴目線から静花を評価する。
護堂も当然ながらこれまでずっと静花と暮らしてきたのだ。これくらいの感情の変化は簡単にわかる。
これは、興味アリアリである、と。
「どうしても」
「即答!?」
「ああ、もともとそのつもりで誘ってるんだからな」
なんの含みなく言う護堂にさすがの静花もたじろいだ。
(何かおかしいとは思ったけど、やっぱり何かおかしい!)
だが、普段こうした家族サービスをしていなかった代償か、静花の不確定な疑念をますます深くしていくことになった。
(こんな積極的なお兄ちゃんはおかしい!誰かに入れ知恵されたに違いない!……女か!)
静花の思考は、草薙家の男である兄の異変を女に結びつける。護堂としては、とんでもない疑いを持たれることになったわけだが、あながち間違いでもないのは、静花の感性の鋭さの為すところか。
「わかった、行く。どうせなら、それ、全部行こう」
「……体力の続く限りってことでいいかな」
妙なスイッチを入れてしまったかな、と護堂は少々後悔した。もう少し、言葉に気をつけるべきだったかもしれないと。
■ □ ■ □
翌日、草薙兄妹の朝は慌ただしかった。
妙に早く起きた静花にたたき起こされ、時間に余裕があると思っていたら、静花が着ていく服があーでもないこーでもないと護堂からすれば無駄なこだわりを発揮して、気がついてみれば出発予定時間ギリギリという有様だった。
その様子を少し離れたところから眺めるのは、晶たちだった。
重々しい双眼鏡を片手に草薙兄妹を観察している。
「あらら、静花ちゃんてば楽しそう」
結局、彼らが最初に選んだのは日本有数の遊園地だった。
ゴールデンウィークのはじめだ。人込みは、夏休みよりもむしろ多いかもしれない。
広大な敷地、数多くのアトラクションを有しながら、訪れる人があまりに多いので、待ち時間が長く一日かかってもすべてを回りつくすのは難しい。
「どうも、あれですねえ。人のデートを覗き見するようで気が進みませんね」
「何言ってんの?一番楽しそうにしてるじゃないの、叔父さん……ちょっと楽しみすぎてない?」
「そんなことありませんよ」
ニコニコしながら双眼鏡を手にする冬馬は、マスコットの仮面を片手にポップコーンを入れたバスケットを首から提げている。
「こういう任務は、いかに場に溶け込むかがミソなんです。なので、遊園地に来たのなら、そこそこ楽しまないと浮いてしまうじゃないですか」
「妙に正論っぽく聞こえる。でも、ぜんぜん信用できないのはなんでだろう」
「お?」
冬馬が身を乗り出した。
何事かと晶も双眼鏡を構える。
護堂が囲まれていた。女性の集団だ。どうやら護堂が女性たちに道を尋ねられたようだが、そこからどういうわけか話が弾んでにこやかに会話をしているという状況。
「いったいどうしたら赤の他人と、しかもこの状況であんな親しそうな会話が成立するんだろ」
「草薙さんは、というか彼の一族を洗うと女性関係で面白い逸話が多いですからね。彼にもその血が受け継がれているんでしょうね。いやあ、羨ましいですねえ」
羨ましい、といいながらも、冬馬の顔は満面の笑み。
これから、どんな騒動を巻き起こしてくれるのか楽しみでしょうがないのだ。
「まったく、それで静花ちゃんも気が気でないんだね。お兄ちゃん大好きなのはなんとなく分かってたけどさ」
双眼鏡の奥、ちょうど今、静花の冷徹な目が護堂に向けられているところだった。
護堂もその視線に気づいているのだろう。顔を引きつらせながら女性たちをあしらっている。
たっぷり五分。見ず知らずの女性からのアプローチを受けた護堂は、機嫌を崩した静花にいろいろと話しかけながら、次のアトラクションを目指した。
そろそろ、お昼にする時間か。そう思い、腕時計に目を向けると、十二時半。ちょうどいい時間帯だ。朝から歩き詰めで、静花も、それなりに疲れてきているようだし、このあたりで休息を取ったほうがいいだろう。
幸いにして、ここは広さや客数に見合うだけのレストランや屋台を備えてくれていた。
食べるものを選ばなければ、昼食にありつくことは可能だ。
「やっぱり、高い」
「こういうところはそういうもんでしょ」
静花は、特に感慨もなさそうにホットドッグを口に運んでいる。
ちなみに、この日の出費は護堂の財布から捻出される。覚悟してはいたが、それなりの額が消えていく事になる。移動にだって金はかかったのだし、極力出費は避けたい。しかし、だからといって昼食代をケチるのは兄として以前に、男としてのプライドが許さなかった。
痛かったのは、こういった施設内の飲食物は基本的に外よりも多少高額だということか。
まあ、護堂の通帳には、親族間でのギャンブルで稼いだ大量の金が眠っている。
妹におごる程度大したことではない。
護堂は、自分の分のホットドッグを齧る。コンビニで売っているものよりも大きい上に味付けも濃い。ケチャップが多いようだった。
食事をすませたあとは、またアトラクション巡りをすることになる。
大小さまざまなアトラクションは、数多く、一つ乗るにも時間がかかる。歩いて回るうちに気づけば夜になっていた。
「今日はどうだった?」
ベンチに腰掛けて、静花に尋ねた。
「楽しかったよ。珍しくお兄ちゃんも気がきいたところがあったしね」
「はいはい、どうせ普段はうだつの上がらない兄貴だよ」
「そこまで言ってないよ!」
慌てた静花は取り繕うように言った。
静花のびっくりしている様子は、どことなく猫やうさぎのような小動物を思わせる。護堂としては、猫が一番似合っているような気がする。
道の人通りが多くなってきた。
このベンチがあるのは園内の中心にある円形の広場の端っこだ。その真ん中を囲むようにして多くの人が集まり、壁となっている。
静花は、そこで、あ、と声を出した。
「なんだ?」
「忘れてた。カーニバル!」
叫ぶ静花と、よくわかっていない護堂。二人が見つめる前で、それが始まった。
暗闇の中に映し出されるネオンの光。
光り輝く装飾を満遍なく施したフロート車の上には、マスコットの着ぐるみたちが観衆に手を振っている。
それは、星空が行進しているかのように見事だった。
「キレー」
パレードをうっとりと眺める静花に、護堂はこの日の全てが報われたような気がした。
身体は疲れているし、金は飛んだ。しかし、それを差し引いても得られるものは大きかったと素直に感じることができた。
■ □ ■ □
四月の上旬から噴出し始めた現正史編纂委員会への不満は、その規模こそ非常に小さいものであったが、それが引き起こすであろう災厄を前にしては、人員の実力や人数など、まったく問題にならない。
ただ一人でも成功させてしまえば、委員会のみならず、日本国全土を揺るがす事にもなりかねないからだ。
たしかに、草薙護堂を観察した結果は、性格は一般的な男子高校生よりも落ち着きのある、人格者だそうだし、強大な力を率先して振るおうともしていない。
だから、もしも不慮の事故で敵対しても予想しているほどにひどい事にはならないのではないか、という楽観論も少なくはなかった。
普通、カンピオーネというだけで手を出す事もおこがましい存在。欧州であれば、カンピオーネの性格の如何に囚われず臣従するもの。だが、日本国においては、そうも行かない事情があった。
まず、日本が誕生してからこれまで、カンピオーネに触れる機会がまったくなかったということが大きい。江戸時代を通して鎖国。海外とのつながりはここ百五十年というところ。カンピオーネの大暴れや、その怒りに触れて消滅する都市という逸話は、知っていても、その目で見たことも、肌で感じたこともない彼らには、実感が湧かないのも無理はない。
簡単に言えば、甘く見る人間も多かったのだ。
驚いたのは上層部だ。
せっかく日本に誕生したカンピオーネと接触を図ろうかというときに、まさか敵対させられる事になる可能性が浮上するとは思っていなかった。
しかも、相手は呪術を知らないカンピオーネ。わずかであっても委員会に敵意を持つ勢力との接触を阻まなければならない。
そこは、正史編纂委員会も『四家』も一致した見解を示していた。
かくして、反乱分子の一斉摘発は電撃的に行われることとなった。
正史編纂委員会は、この一斉摘発に、数多くの術者を動員。
呪術の粋を結集して、追い詰め追い詰めていった。
おまけに、四月中旬の『まつろわぬ神』の襲来で、カンピオーネの力を目の当たりにした敵勢力は、一気に士気を挫かれた。
すくなくとも関東に依拠する勢力は、この段階で大部分が掃討されていたのだった。
主戦力となったのは東京分室の職員と『四家』のメンバー。
ここを中心に、全国各地に散らばる分室との連携を取り、敵の情報を共有し、叩く。
もはや神憑り的とも言える作戦を立案、実行、成功させたのは、新進気鋭の媛、沙耶宮馨だった。
その、冴えわたる指揮官振りには、近くで見ていた甘粕冬馬も慄然とせざるを得なかった。
「ええ、はい。そのように……」
深夜を回り、日比谷公園を訪れた冬馬は、携帯電話を使っていた。
周囲には誰もいない。会話を聞かれることを恐れたためだろうか。
「近く、本格的な大攻勢が行われるようです。そのときは、草薙護堂も伴うと」
広い敷地内で、不自然なほどか細い声で会話を続ける冬馬。
この声色は淡々としていて、これまで見聞きしていたことを羅列している。これは、報告だ。
最後に、
「ええ、関東はもうダメですね。さすがに、沙耶宮家の跡継ぎは厄介です。例の場所に戦力を結集しましょう。これ以上、士道を損なうような事があってはなりません」
深刻さに震える声で意思を伝えた後、冬馬は通話を終えた。
「評価してもらえるのはありがたいね。できることなら、そのまま続きを聞きたいところだ」
背後からの声に、冬馬は振り返った。
素早く胸元に手を伸ばす。忍ばせておいた投擲用の武器を引き抜くためだ。
いつの間にかそこにいたのは、馨と晶だった。
「馨さん。こんなところでいったい何をしているんです?」
冬馬は、最大限に警戒しながら、馨を睨みつける。普段の友好的で掴み所のない表情とは大違いだ。
「らしくないよ、甘粕さん。いつものあなたなら、こんな場面でも用心深く、かつ慎重に、全力で誤魔化そうとしたはずだ」
対照的に馨は余裕の笑みを浮かべている。
まるで、自分の悪戯が大成功した子どものような稚気も感じさせる。
「そろそろ観念すべきだね。服部重蔵。歳寄りは楽隠居して悠々自適に余生を過ごせばいいものを」
服部重蔵と呼ばれた冬馬は、たじろぐように一歩後退した。
馨の言葉が正しいのであれば、この冬馬は、服部重蔵という名の老人ということになる。しかし、顔立ちも声も、その雰囲気すらも甘粕冬馬である。
完璧とも言える変装を、どのようにして見破ったのか。
「いつから、気づいていた?」
驚愕を顔に浮かべたまま、重蔵は、尋ねた。その名でわかるとおり、彼の家系は伝説的忍びの一族だ。その一族の特殊な変装術は、並大抵のことでは見破る事ができないはずなのに。
「初めからさ。君が甘粕さんの姿をしたその瞬間からわかっていたことだよ」
「バカな!貴様がどれほど有能な媛巫女であろうとも、そのように簡単に見破れるはずがない!」
「だから、見破った訳ではないよ。わかっていた、と言っただろう。僕が甘粕さんに命じた最初の仕事はね、君たちに捕まれというものだったんだよ」
それを聞いて、さすがの重蔵も顔を青くした。
「甘粕さんの立ち位置くらい、君たちも知っているだろう。彼は僕の右腕として活躍する忍びであり、今作戦においても、情報を運んでくる重要な役目を持っている。彼に変装して潜り込むことがどれほど君たちに利することになるか。案の定、君たちは服部重蔵を甘粕さんに変装させた」
変装において右に出る者のいない服部家に、最も重要な部分を任せる、というのは、自然な流れであり、馨は敵に服部家の縁者がいると聞いた段階から、あえて変装したらそれとわかるような作戦を立てた。何の策もなく誰かに変装されるよりはずっといいからだ。
「おまけに、君たちの変装術は対象が生きていなければできない。甘粕さんが斬首されるようなこともないだろうと踏んでいたよ。まあ、賭けだったから、二階級特進ということもあったかもしれないけどね」
本人が聞いたらなんというだろう。間違いなく文句をつけることを言ってのけた馨。人使いの荒さでは右に出る者はいないだろう。
「さて、漫画よろしく謎解きをしたわけだし、そろそろいいだろう。お縄についてもらうよ」
「そう簡単に……」
そのとき、乾いた音が園内に響いた。
どう、と倒れ臥す重蔵の手足からは、赤黒い血が溢れ出ていた。
重蔵が抵抗しようとしたその瞬間、手品のように拳銃を引き抜いた晶が引き金を引いたのだ。
馨の耳ですら銃声は一つにしか聞こえなかった。
しかし、
(四連射か、相変わらずなんて早撃ち)
戦慄するほどに美しい銃撃だった。
正確に射抜かれた両手足の出血はすでに止まっている。制圧用の呪装弾を使ったのだ。
倒れた重蔵に、馨は歩み寄っていく。敵に近づくには、ひどく無警戒だ。
倒れてなお、冬馬の顔をした重蔵は戦意衰えぬ視線を馨に投げかけた。
「まだだ。まだ我々が屈した事にはならない! まだ、終わらぬよ!」
地響きのような野太い声は、この人物の本来の声だった。
そんな往生際の悪い老人に、馨は哀れみとも見える視線を送る。
「いえ、もう終わりだよ。あなたたちの言う、例の場所。すでに特定できているんだ。京都府の上品蓮台寺近辺なんだろう?」
「ッ……!?」
馨には、重蔵が息を呑むのがわかった。どうやら、この情報に間違いはなさそうだ。あえて、この場で尋ねたのは、心理的に優位にある今ならば、敵も隠し通す事はできないだろうと判断してのこと。
結果、重大な情報の裏づけが取れた。
「なぜ、それを……」
「なんてことはないよ。甘粕さんは優秀なエージェントだったということさ」
重蔵に電撃が走った。
「まさか……!?」
「これが正しい忍びの使い方だよ。先達たるあなたには、もはや分かりきったことかもしれないけれどね」
このとき、重蔵は、完全なる敗北を喫したのだった。