カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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その他
短編 後輩と温泉イベント


 鹿児島県

 九州最南端に位置する県だが、日本史を紐解けば、ここがどれほど大きな影響を日本史に与えてきたかすぐに分かるだろう。

 古代に於いては隼人の居住地として、中世に於いては島津氏の本拠として、近世に於いては西郷隆盛などの偉人を輩出し、薩摩藩閥は近代日本の国家形成に大きな影響力を持っていた。

 主要農産物はサツマイモ、サヤインゲン、鹿児島茶などが有名で、養豚もよく聞く。日本有数の火山地帯でもあり、温泉の数も豊富だ。

 草薙護堂が降り立ったのは、鹿児島空港。

 羽田空港から一直線にやってきた鹿児島市は、桜島を望む景観から「東洋のナポリ」とも呼ばれる鹿児島県の中核市である。

 薩摩藩九十万石の城下町として栄え、現在は、九州第四位の人口を誇る。

 冬だと言うのに、気温は高く、東京から来た身としてはこの気候の違いに驚くばかりである。

「日本が縦長なんだってことを実感できるな」

「今日は暖かい日なんです。十六℃なんて、さすがにあまりないと思いますよ」

 となりで、スーツケースを引く晶が言った。

 式神である晶は姿を消すことができるが、大きな荷物となるとそういうわけにもいかない。

 駐車場まで出た護堂と晶は、そこで迎えを待つことになっている。

「どうだ、久しぶりの故郷は?」

「そうですね。懐かしい、と思います。まだ、あまり実感が湧きませんけど」

 五年ぶりの故郷。

 だが、その期間を語るのは、あまりに酷なことである。

 晶にとって、この五年は筆舌に尽くし難い地獄の日々であった。そこから解放されたのは、半年ほど前だ。

「お母さんか……大丈夫、かな」

 不安そうに、晶は呟いた。

 迎えに来るのは、五年前に失踪してから一度も話していない彼女の母親。連絡だけは、冬馬がしてくれていたはずで、こちらの事情を、ある程度は把握しているという。

 それでも、実際に会って話をするというのは晶にはとても重いことだった。

「まあ、大丈夫だろ。五年ぶりに娘が帰って来るんだ。戸惑いもあるだろけど、それ以上に嬉しいはずだ」

「そうでしょうか」

「ああ、そうだ。だから、心配しなくていいだろ」

 冬馬は、晶の母親は法道戦の後に連絡した際、晶の生存を聞いて泣き出したというから、晶の心配は杞憂だ。

「結局、電話できませんでしたし、いきなり会うの緊張するんです」

 晶は固い表情で、真っ直ぐ前を見つめている。

 よほど、緊張しているのだろう。晶は、空いた手で護堂のシャツの裾を握り締めている。

 それから十分くらい待っただろうか。

「晶……?」

 振り向いた先にいたのは、晶を大人にして、髪を肩甲骨の辺りまで伸ばしたような風貌の女性だった。

「え……?」

 その女性は、恐る恐るという感じであるが、晶のことを見つめていた。

「あ……お、お母さん」

 晶は、搾り出すように、そう言った。

「やっぱり、やっぱり晶なのね!? 本当に、夢じゃないのね?」

「うん、……お母さん」

「晶ぁぁ!」

 泣き崩れるように、晶の母親は晶を抱き締めた。

「お、母さん」

 晶は呆然として、どうしたらいいかと護堂に視線を投げかけてくる。とはいえ、母娘の感動の再会を護堂が邪魔するわけにも行かない。

 晶はしばらくそうして母親に身体を許すしかなかった。

 それから、晶の母親は娘を放して護堂に向き直った。

「あなたが、草薙護堂さんですね。冬馬からお話は伺っています。……娘を救ってくださいまして、本当にありがとうございました」

「そんな。俺は大したことはしていませんし。それに、すでにお聞き及びかと思いますが、娘さんは」

「式神の件なら冬馬から聞いています。それでも、母として娘が生きていてくれることのほうが嬉しいのです」

「お母さん……」

 感極まった晶が、涙を零した。

「あら、晶どうしたの?」

「だって、わたし……ッ」

 ぽろぽろと、晶の瞳から涙が零れ落ちる。

 式神となった自分、その前の過去。母親が受け入れてくれるか不安があった。だが、晶の母親はそれらの事情を知って晶を娘と呼んでくれた。それが、晶には嬉しくて仕方がなかったのである。

「よしよし、本当によく帰ってきてくれたね」

 晶の母親は晶の頭を撫でて、もう一度抱き締めた。

「お帰り、晶」

「ただいま。……お母さん」

 

 

 

 ■

 

 

 

 晶の実家は、鹿児島市の外れで小さな旅館を経営していた。家の後ろには山がある。鹿児島市の外れの外れである。

 晶の家は旅館を経営しているとはいえ、その規模は非常に小さい。本業はあくまでも呪術師である。

「お小遣い稼ぎにはちょうどいいんですよね」

 というのは、晶の母、高橋朱美。

 旅館といっても、呪術師専用の旅館である。呪術師の中には、その呪術の特性や仕事柄から一般のホテルに宿泊するのを避ける人もいるという。そういった呪術師にとっては、晶の実家のような呪術師に理解ある宿泊施設は、重要である。

「さ、お上がりください」

 朱美に通されて、護堂は晶の実家に足を踏み入れた。

「うわあ、懐かしいー! 全然変わってない!」

「今はもう年の瀬ですので、旅館のほうは閉めているんです。呪術師にとっては、年末は大切な時期ですからね。そちらに力を注がなければいけないのです。まあ、もともとそんなにお客さんは来ないので、大して変わりませんが」

 それは問題あるんじゃないかと思いながらも、本業というわけではないから問題はないのか。

 朱美の言うとおり、本当にお小遣い稼ぎのつもりでやっているのだろう。

「晶、荷物は玄関に置いておきなさい。草薙さんも、こちらでお部屋にお持ちしますので、楽にしてください」

「そうですか。ありがとうございます」

 護堂は晶と共に玄関に荷物を一纏めにして置いた。

 それから、居間に行く。

「今日はお客さんもいないので、どこでもいいみたいですけど、とりあえず普段使っているところでということみたいです」

 自分の実家なのに、晶はどこかよそよそしい。自分の記憶にある部分があればない部分もある。中に入って十分もすればそういった違いが見えてくるものだ。

 とはいえ、大規模なリフォームをしなければ間取りが変わることもない。

 居間がどこにあるのか、晶には分かったし、晶についていくことで、護堂もそこに辿り着けた。

「……て、あれ?」

 居間は典型的な和室。

 畳に砂壁。仏間兼客間が隣にあり、襖で仕切られている。部屋の真ん中には炬燵があり、廊下に挟まれているつくりなので、部屋の左右どちらからでも室外に出られる。

 晶が素っ頓狂な声を出したのは、何も部屋の様子が変わったとかではなく、足元に散らばった玩具が視界に入ったからである。

「……これ」

 晶は玩具を拾ってしげしげと眺めた。

 小さな車やヒーローの人形、そしてシル○ニアファミリー。

「なんで、こんな散らかって。あ、でも懐かしい」

「ん。これ、晶のなのか?」

「あ、ええと、昔はよく遊んでいたなと……」

 慌てて、晶は服を着た兎の人形を手放した。幼い頃に遊んでいた玩具を見られるのは、少し恥ずかしかった。

「ふうん、じゃあ、お下がりなんだ」

「はい? 何がで……」

 晶の言葉は最後まで続かなかった。

 晶と護堂が入ってきた引き戸の反対側の引き戸は開け放たれているのだが、戸の影に隠れて小さな女の子が二人、こちらの様子を窺っていたのである。

「うぅええ?」

 晶は変な声を出した。

「ん? あの二人は晶の妹じゃないのか?」

「し、知りません。聞いたこともないんですけど」

 晶は困ったように、少女たちを見る。

 そのとき、朱美が部屋に入ってきた。お盆に麦茶とみかんを乗せている。

「お、お母さん! あの、これは?」

「あら、まったくもう」

 朱美は散らかった部屋を見て、目を見開いた。

「こら、(きよみ)(さや)。ちゃんと片付けなさい!」

「きゃあ、怒った」

「にげねば」

 どたどた、と少女たちは走り去っていく。

 朱美はため息をついた。

「すみませんね。わたしが目を離した隙に遊んでたみたいで」

「いえ、あの。今のは晶の妹さんということでいいんでしょうか?」

「はい、そうなりますね」

「なるの!? お母さん。わたし、聞いてないよ!?」

 驚いた晶が母親に言った。

「そりゃ、五年も家にいなかったんだから仕方ないでしょ」

「あ、うん。まあ、確かに」

 晶は反論することもなく、静々と姿勢を正して炬燵に入った。

 そうしている間にも、晶の妹、澄と清はこちらの様子を窺うために戻ってきていた。

「ほら、澄、清。こっちにいらっしゃい。お姉ちゃんにご挨拶して」

 朱美は澄と清を呼んだ。

 とことこと、澄と清は朱美のところにやってきた。

 大きな瞳で、晶を興味深そうに見ている。

「ほら、お姉ちゃん」

「お姉ちゃん?」

「おねえちゃん?」

「あ、う、うん」

 晶は頷いた。

「おー、帰ってきたの?」

「とうきょうのがっこういってたんだよね?」

「え、うん。そうかな。あはは」

 炬燵を半周して、少女たちは晶の膝元にやってきた。

「その娘たちには、あなたは東京の学校に言ってるんだって教えてたの。いつかは本当のことを言わないとって思ってたんだけど、嘘が現実になるとは夢にも思わなかったわ」

「そ、そうなんだ。そうか、妹かぁ」

 晶は頬を緩ませて、澄と清の頭を撫でている。二人ともおかっぱ頭で、前髪を髪留めで角のように立てている。苺のワッペンがついたゴムが澄、スイカのワッペンがついたゴムが清だという。

「これね、みかん。お姉ちゃん食べる?」

 澄がみかんの皮を剥いて、晶に一房差し出した。

「あまいよ」

「うん、じゃあ貰おうかな」

 晶は澄が差し出したみかんを口に入れた。

「おいしー?」

「うん、美味しいよ」

「これ、みるちゃん」

 清は兎の人形を持ってきて晶に見せる。

「それ、ユキちゃん……」

「?」

「あ、いや、なんでもないよ。あはは……あ、そうだ。二人はいくつになるの?」

 晶は誤魔化すようにそう言った。

 だが、澄と清は晶の質問の意味がわからず首を傾げる。

「歳、年齢」

 「いくつ」という言葉が難しかったようで、晶は言い換える。

 すると、清が指を三本立てて、

「よんさい」

 思わず、晶は笑ってしまった。

「指が一つ足りないよ」

「あ、そうか」

 清は小指を追加して四本の指を立てた。

「この人は?」

 澄が護堂を指差した。

「あ、人を指差しちゃだめ」

 晶が澄の手を引っ張って抱き寄せ、澄を膝の上に座らせた。

「俺、草薙護堂って言うんだ。よろしくね」

「ごどう?」

 澄が首を傾げる。

「ゴドー」

 清は護堂の傍まで歩み寄った。

「おねえちゃんとはどんなかんけい?」

「こぅら、何言ってるの澄ちゃん!?」

「?」

「ああ、違う。清ちゃん!」

 何事という感じで晶を見上げる澄と、護堂の肩を突きながら踏み入ったことを尋ねる清。晶の注意は当然澄には関係のないことだったが、双子ということで呼び間違えてしまった。

「ちゅーした?」

「それは、秘密だなぁ」

 護堂はあえて明言を避け、落ち着いて対処した。顔を赤くする晶と異なり、子どもをあしらうのは上手かった。

「おー、そこはかとなくおとななかんじ」

「そこはかってよく知ってるな」

「なにゆえにひとはおとなになるのか」

「難しいなぁ、それは」

 護堂は清の頭をぐりぐりと撫でながら微笑みかけた。

 

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 夕食後、キッチンで洗い物をする朱美のところに晶がやってきた。

「あら、晶。どうしたの?」

「いや、なんとなく。こっちに来るのも久しぶりだし」

「そう。あ、……あの娘たち、居間に置いておいても大丈夫? 草薙さんに失礼がないといいんだけど」

「大丈夫みたいだよ。澄ちゃんも清ちゃんも先輩のこと気に入ったみたいだし」

 今、護堂は子ども二人の相手をしているところである。居間と仏間を使って肩車やプロレスごっこに興じている。

「本当。いやぁ、カンピオーネというからどんな人かと思っていたのだけど、いい人そうでよかったわ」

「そうだね。うん、きっと他の魔王様方に比べればずっとまともだと思うよ」

 実際、護堂も状況次第ではカンピオーネの呼び名に相応しい活躍をする。だが、みだりに人に権能を向けることはない。護堂が力を振るうのは、それだけ差し迫った事態に陥ったときだけである。

「それで、実際にはどこまでいったの?」

「はい?」

 朱美が何を言っているのか分からず、晶は聞き返した。

「娘が男を連れてきたのよ。気になるでしょ」

「い、いやいや、なんてことを!? 心配するのが普通じゃないの!?」

「高橋家の娘を今さら心配してどうするのよ」

「ど、どういうこと?」

「あれ、そうか。知らなかったっけ?」

 不穏なことを言った朱美に晶が聞き返すと、朱美は水道のレバーを下げて水を止め、困ったというように頬を掻いた。

「そっか、五年前はまだ小学生だったしね」

「何が?」

「いや、大したことじゃないのよ。ただ、高橋家の女は代々経験が早いってだけで」

「……それは結構重要なことじゃないかな」

 晶は呆れたように言う。

「それに、代々って言っても、江戸時代と今を比べても」

「あら、あなたの曾お婆ちゃんから見てもみんな十代中頃には済ませているわよ」

「そんなことを何事もないかのように娘に言わないでよ!?」

 晶は顔を赤くして怒った。

 だが、朱美は微笑んでいるだけで、晶の言葉などどうということでもないかのようである。

「その分じゃまだ未経験なのねぇ」

「当たり前。まだ、十五だよ?」

「まだ? もうでしょ。わたしなんてお父さんと初めてしたのは十四よ」

「犯罪犯罪犯罪! 本当に犯罪! お父さんと歳離れてるでしょ! 何してんのあの人!」

 晶の父親は朱美と二十近く歳が離れている。

 今までまったく気にかけてこなかったが、よくよく考えれば、晶の父親は社会的にまずいことをしていたことになるのである。

 高橋朱美。今年で三十一になる。三児の母とは思えぬ若々しさだが、実際若いのである。

「まあ、そう言わないの。恋愛っていうのは、勝負事だからね。女だって策を弄する必要はあるでしょ。まあ、既成事実ってのは大事よ」

 晶を指差しながら朱美は言った。

「……はあ、もういい。お母さんの株大暴落。ところで、お父さんは?」

「あの人なら今、出張で東南アジアよ。なんでも、三年前に突然現れた島が、一晩で消えてなくなったとか」

「なにそれ?」

「さあ? でも神様同士の戦いがあったみたい。昨日、お父さんが電話で言ってたわ。あの人が地元の人から聞いた話だと、夜中なのに島が黄金に輝いて見えたとか。空から白い光が降り注いで、どっかん、とかね」

 『まつろわぬ神』同士の戦い。

 珍しいと言えば珍しいが、ないということもない。晶もこの半年で幾度も似たような経験をしている。一緒にいるカンピオーネが神様の戦いに介入したこともある。

「その話、わたしから先輩にしておく」

「そうね、そうしてくれると助かるわ」

 日本に被害が及んだり、誰かに助けを求められたりしなければ、護堂も率先して戦いに赴くことはないだろうが、東南アジアでの出来事だ。下手をすれば、火の粉が降りかかってくるかもしれない。

「せっかくだから、草薙さんと裏山行ってきたら?」

「は、いや。なんで」

「高橋家について知ってほしいでしょ。それに、あの方は正史編纂委員会の頂点にいらっしゃるのよ」

「む、むぅ……」

 それは確かに。

 高橋家がこの地に家を建てているのには理由がある。

 この家の裏にある山は鹿児島県全域に連なる山地の一部であるが、その中に霊地を隠し持っているのである。

 先祖代々、その霊地を守ってきたのが高橋家なのだ。

「ついでに湧き水汲んできて」

「それが目的か」

 にこにことした朱美は、晶に空のペットボトルを渡した。

 

 

 

 □

 

 

 

 そして、護堂は晶に誘われて山道を歩いていた。

 冬なので、日が暮れるのは早い。空は深い群青色で、山道はすっかり真っ暗だ。鹿児島市内が一望できる夜景には、確かに価値がある。

 晶は護堂の前を歩いている。肩には大きめのショルダーバッグを背負う。

「それで、見てもらいたいものって、なんだ?」

「うちの家宝です」

「家宝?」

「はい。代々守ってきた、霊地。小さいんですけど、それでも土地の力は優れているんです」

「へえ、霊地か」

 そういわれて見ると、山道の奥から呪力が流れてくるのが分かる。

「普段は三重の結界で呪力の漏洩を防いでいます。今は二つ目の結界を越えたので、先輩ならもう呪力を感じられますよね」

「そうだな。向こうのほうから強い力を感じるな」

 護堂は道を外れた山の中を指差した。

「お見事です。ここが最後の結界の入口なんです。普通は、呪術師でもそう簡単には見つけられないんですけど」

「ガブリエルのお陰だな。それに、日光の結界も似た感じだっただろ」

「あっちの結界は、ちょっとレベルが違うと思うんですけど。まあ、秘匿という点では同じですね」

 カンピオーネである護堂からすれば大差ないのだろう、と晶は結界を緩めてその中に入っていった。

 鬱蒼とした山の中を歩く。

 十分ほど歩くと、一気に視界が開けた。

「え……これ」

 護堂は驚いた。

 そこには真っ白な湯気を出す、温泉があったのである。

 広さはかなりのものになる。向こう岸まで三十メートルはあるのではないか。

「山の中に温泉?」

「鹿児島はもともと温泉県ですよ。大分の次に温泉が多いって聞いたことあります」

 晶はカバンを降ろしてそう言った。

「でも、霊地って」

「ここが、そうです。我が家の管理する霊地は、霊泉でもあるんです。科学的な効能もそうですが、ここには本当の意味で心身を癒す力があるんです。残念ながら、カンピオーネの先輩には効かないかもしれませんが」

 それは本当に残念だ。思わぬところで足枷になるカンピオーネの体質に護堂ががっくりときた。

「あの、それでですね。……その……」

「どうした?」

「ああ、いや、わたし、呪力で生きてるじゃないですか。……それで、その、こういうところと、相性がよくて……」

 晶は言葉に詰まりながら、しゃがみこんでカバンのチャックを開けた。中に入っていたのは、白いタオル。

「せっかく、ここまで来たんですし、……お母さんが、タオル、持たせてくれたんです。えと、……二人分」

 上目遣いに晶はどうするか護堂に問う。

 どうと言われてもどうしたらいいものか。少し悩んだが、ここまでお膳立てされて入らないというわけにもいかない。

 だが――――。

「ふ、二人分って、俺と晶ってことだよな?」

「はい」

「俺は、その、確かに温泉に入りたいけど、そうすると一緒に入ることになるだろ?」

「大丈夫です。あの、ここは広いですし、タオルを入れてもいいので隠せますし」

 隠せるからいいということでもないのだが、晶が大丈夫だというのなら……。

「分かった。とりあえず、俺のタオルは……」

「はい。これを使ってください」

 晶は、カバンからタオルを取り出して護堂に渡す。

「わたし、向こうで着替えるので、見ないでくださいね。先に入ってくださっても構いませんので」

「あ、ああ。分かった。俺も、向こうで着替える」

 護堂はどもりながらも頷いて、晶と反対方向の木陰に向かった。

 

 

 妙なことになったと晶は、思った。

 きっと、護堂も同じように思っているだろう。まさか、一緒に温泉に入ることになるなんて、思いもしなかった。

 鹿児島に戻ってから、晶は次々と昔のことを思い出していた。

 薄ぼんやりとしていた過去の記憶が、繋がって明確な形になる。この場所に来たのは、いつ以来だろう。最後に来たときには、隣に祖母がいたと思う。

 木陰で服を脱ぎながら、当時のことを思い返す。大好きだった祖母に手を引かれ、山道を歩いた日のことを。

 あのときは、足が痛くてすぐに弱音を吐いたのだった。

 当時の晶はまだ幼く、しかも今と違って特別な力を持っているわけでもなかった。晶の身体能力が異常なまでに高いのは、そもそも、竜骨や呪的処理によるもので、今はそれに加えて護堂の式神という特殊な立ち位置となった。人から外れた晶は、蘆屋道満の人形だったときよりも格段に力を増している。晶の身体は、権能の塊のようなものだからだ。だが、道満に囚われる以前の晶は別。運動会の徒競走ではいつも下から数えたほうが早く、体力測定の長距離走では先頭集団から何周も追い抜かれていた。道満による記憶操作で、その辺りをすっかり忘れていた、というよりも気にしなかったのだが、最近、人だったときのことを少しずつ思い出していた。

 今となっては信じられない。

 この程度の山道で、何度も引き返そうとしたり、しゃがみこんだりしたことが。晶が文句を言うたびに、祖母は困ったような顔をして、それでも晶を連れて行こうとしたのだ。

 それでも、ここに辿り着いたときは感動したのを覚えている。霊地がどうとかはどうでもよくて、だけど、ここがとても大切な場所だということは理解できた。

「……そのとき、お婆ちゃんが何か言ってたような気がするな」

 何分、ずいぶんと昔の話だ。五年間の苦しみのせいで、記憶が飛んでいる部分もあるし、普通の人間でも過去のことを完全に記憶していることはないだろう。

 だが、祖母が言ってきたことはなんだったか。気にしながら晶はカバンからタオルを取り出して身体に巻いた。

「うん?」

 カバンに何か入っているのに気がついた。カバンに入っていたのはタオルだけではなかったのだ。

「何これ」

 晶はそれを取り出した。そこそこの大きさの箱だった。

「『激うすごむふぁくとりー 一ダース三パック入り』…………あひやぁぁあああ!?」

 晶は顔を赤くして奇妙な声を出した。

 晶が手にしたそれは、紛れもなく――――。

「晶、どうかしたか?」

 晶の悲鳴を聞いた護堂が温泉のほうから声をかけてくる。

「ななな、なんでもありません! 虫が、虫がいたんです!」

「虫? そうか、冬なのにいるんだな」

 護堂はそれで納得したようで、それ以上は何も言わなかった。

「お母さん。なんて物入れてるの。まったく。…………一ダース三パックって、三十ろ、げほっげほっ、イッ」

 咽た。それから、尻餅をついて勢い余って背後の松の幹に後頭部を強打した。

「~~~~~~~~!」

 涙目になって晶は頭を押さえた。頭を打った衝撃で目の前に閃光が走ったかのようになった。

「ッ!」

 そのお陰か、祖母の言葉が脳裏に蘇った。

 痛みが引いてから元凶の箱をカバンに仕舞いこみ、しっかりとチャックを閉めた。

 

 

 

「先輩、もう入ってますか?」

「ああ、入ってるよ」

 晶に声をかけられて、護堂は返事をした。

 霊泉というからどのようなものだろうかと思ったのだが、きちんと整備されていて、入浴を念頭に置いた設計になっていることがすぐに分かった。

 時代的にはいつ頃になるのだろうか。

 湯に強い呪力が溶け込んでいるのを感じる。困ったことに、この呪力は護堂の強すぎる呪力に弾かれて、温泉の霊的効能を発揮してくれない。

「じゃあ、わたしも失礼します」

 晶が護堂の隣に入ってきたのである。

「え、えあ?」

 護堂は思わず後ずさった。

「お、お前、広いから大丈夫って言ってたのに、こんな近くに来たら意味ないだろう!」

「い、いいじゃないですか。ちゃんと、隠してますし」

「そりゃそうかもしれないけどな」

 護堂も晶も隠すべきところは隠している。だから、問題ないといえば問題ないのだろう。

「あの、もしかして、わたしが近くにいるのは嫌、でしたか?」

 不安そうに晶は尋ねてきた。

「あ、……嫌じゃないぞ」

「よかったです」

 晶はほっとした様子で、肩まで湯に浸かった。護堂もその隣に座る。

「それにしても、温泉持ってるなんてな」

「驚いてくれましたか?」

「ああ。由緒正しい庶民の草薙家からすれば、信じられないの一言だよ」

 護堂は、極力晶のほうに視線がいかないように努力していた。

「ふふ、……我が家の自慢です」

 すぐ隣に晶がいる。

「霊泉か。そんなのもあるんだな」

 護堂は、法道を倒した後、正史編纂委員会の長に就任したのだが、正直なところ呪術の知識はからっきしだ。これまで関わったものなら分かるが、使えるわけではなく、霊泉といったものに代表される、未だ護堂の理解が及ばない領域も多々ある。

「お祖母ちゃんに言われたんです。ここは、高橋家の秘宝。たとえ親友であっても教えちゃいけないって」

「そこまでのものか。じゃあ、俺に教えたのまずかったんじゃないの?」

 護堂の心配を他所に、晶は笑って首を振った。

「いいえ、先輩は大丈夫なんです」

「なんだそれ。親友でもだめなのに、なんで俺はいいんだよ」

 それほどまでに大切にして守ってきた家宝。護堂に打ち明けたことに意味はあるのか。

 晶は、頬を朱に染めた。

「知りたいですか?」

「ああ、知りたい」

 護堂は頷いた。

「それは、添い遂げると決めた相手ができたら、連れて来てもいいって言われたからです」

 恥ずかしそうにした晶は言ってから俯いて、口元まで湯に浸かった。

 そんなことを言われた護堂も恥ずかしさは同じ。唖然とした後に目をそらし、とりあえず空を見た。

「そうか。……うん、まあ。晶に愛想尽かされないように頑張んないとな」

 護堂は、そう言うのが精一杯だった。

「先輩……」

 そんな護堂に晶ははにかむような笑みを見せた。

「愛想なんて尽かしませんよ」

 晶は、護堂の肩に頭を預けるようにした。

「ずっと一緒です。……わたしは、先輩の式神なんですから」

 

 

 帰り道、日が落ちたからか、来たときに比べて気温はぐっと下がっていた。

 吐息は白く、風は肌に冷たい。

 来た道を、二人で並んで歩く。

「あ、先輩。雪ですよ」

 晶が空を見上げて言った。

 護堂が釣られて見上げると、白い綿のようなものが空から落ちてくる。ゆっくりと風に流されるように。

「本当だ。鹿児島でも降るんだな」

 九州の南端だから、まったく降雪はないものだと思っていた。

「ちょうどよかったですね。ずいぶんと熱くなりましたし、ちょっと冷えてるくらいがいいんです」

「そうだな。雪が降ってるのに、寒いとは思わないし」

「ですよね」

 雪は積もるほど降ってはいない。

 地面に触れた傍から消えていく。湯に浸かって熱くなった身体には、雪の冷たさが心地いい。

「ありがとうございました」

「どうした、いきなり」

「帰ってこれたのは、先輩のお陰ですから。妹ができてるなんて思わなかったですし、お母さんにも会えました。先輩がいなければ、どうにもなりませんでした」

 護堂の権能で命を繋いだ晶。自惚れかも知れないが、護堂は自分のために命を懸けてくれたのだと思う。なら、晶も護堂のために、拾った命を使わないといけない。

「これからは、ご恩に報いるために頑張りますから」

「そうか。なら、これからも頼むよ」

「はい」

 晶は自然と護堂に寄り添って歩いた。

 優しい充足感に包まれて、二人は家路についた。

 




お久しぶりです。
今回は後日談ということで、高橋家の実家を登場させました。晶のことがあったので、実家の話もいるかなと思いました。
その他裏設定。
晶の妹はともに、『晶』と同じく『澄み切った』という意味がある漢字から決めました。
晶父は自分が神職を勤める神社で働く巫女に手を出す遊び人でしたが、晶母(16)の策(避妊具の先に切れ込み)に掛かってなし崩し的に人生に墓場に行きました。今回晶に渡したものにも、同じ仕掛けが施してありました。晶母は高校中退です。
高橋家の温泉の周りは翌年鹿の異常繁殖が起こります。

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