ウルスラグナが去った後も、祐理はあまりのことに言葉をなくした佇んでいた。
全滅。
そう呼ぶに相応しい完全敗北を喫した神殺しサイドは、その衝撃から立ち直るのに暫しの時間を要した。
「す、すぐに船を!」
護堂が血に塗れて海に落ちたのを祐理は見ている。
すぐに助けに行かなければならない。
「まずいですね」
渋い顔をするのは冬馬だった。
「何がですか!?」
「この近辺の海水が撹拌されているんです。ウルスラグナの風の化身や猪の化身が暴れまわった所為で、津波とまでは行きませんが大荒れです。しかも天気が」
そんなことは言われなくても分かっているのだ。分かっているが、護堂を助けに行かなければならない。
しかし、どうやって。
冬の太平洋。日本海ほどではないが、荒れている。大猪が大地を踏み荒らした振動はマグニチュード5クラスの地震を引き起こし、吹き渡る風の化身も相まって海を荒らした。おまけに、風が出てきた。天気が崩れ、真っ黒な雲が空を覆いつつある。
この状態で船を出すのはあまりに無謀だ。
「そんな……」
「海上保安庁や海上自衛隊に応援を要請しました。彼らなら、このくらいの荒波は乗り越えられるでしょう。今は、草薙さんの無事を祈ることしかできません」
「ッ……」
ぎゅ、と祐理は唇を噛み締めた。
恵那や晶のように、楯になることすらできなかった自分の弱さが恨めしい。
「恵那さんと晶さんは?」
「恵那さんはご無事です。ですが、晶さんは……」
冬馬が、常の彼では考えられないような辛そうな顔をした。
「何か、あったのですか?」
祐理が尋ねると、冬馬は暫しの沈黙の後、口を開いた。
「晶さんは、消えました」
「消え、た?」
「はい。あの娘は草薙さんの式神です。ですから、おそらく草薙さんからの呪力供給が完全にストップしてしまったのではないかと……」
冬馬の仮説は考え得る限り最悪の展開であった。
晶が肉体を構成できないくらいに呪力不足になるということは、護堂が晶に呪力を渡す余裕がないということ。つまり、護堂は今、死んだか、あるいはその間際にいるということである。
晶は冬馬の親族だ。その無事を願う気持ちは、強い。当然、護堂とも少なからぬ縁を結んだ仲だ。冬馬はできる大人で、呪術師として最前線にいる身だが、人情までも捨ててはいない。
「加えて、明日香さんです。草薙さんを助けようと海に飛び込んだらしく、行方が……」
祐理は愕然とした。この海に飛び込んで、生きていられるとは思えなかったからだ。
明日香は呪術に造型が深い。だから、なんとかなるかもしれないが、それでも危険なことに変わりはない。
「一体、どうすれば……」
何もできないままに、ただ時間だけが過ぎてく。
護堂の生死は分からず、友人は傷つき倒れ、ただ祐理は不安に苛まれながら無益に時間を費やすことしかできなかった。
□ ■ □ ■
流れに身を任せて海を行く。
息は止まり、心臓は抉り取られている。肺は潰れて役に立たず、流れ出る血はとうに致死量を超えてしまった。
草薙護堂は死んだ。
誰がどう見ても、それは確かだった。
打ち寄せる波と吹き荒れる風の交じり合う。
頬を打つのは雨だろうか。
冬の海に落ちたのに、風と雨を感じるとは。運よく陸地に運ばれたのだろうか。
働かない頭を動かして、護堂は瞼を開いた。
そこは屋外で、どうやら岩礁か何かの上らしい。背中に岩が当たって、痛い。空は真っ暗で、重苦しい雲に覆われている。雨と風が立て続けに護堂を襲い、身震いする。真冬の海、且つ、夜中で風雨に曝されている。低体温症になりかねない危険な状態だ。
「ご、護堂!」
誰かが名を呼んだ。
反射的にそちらに目を向けると、土砂降りの中、雨の雫に濡れた明日香がいた。
風雨に曝された長い髪は解けて靡いている。
護堂の復活を見た明日香は、護堂に駆け寄ってきたのだ。
「わたしが分かる!?」
「明日香? なんで……」
護堂は疑問符を浮かべる。明日香がどうして風雨の中、護堂の顔を覗きこんでいるのだろうか。
明日香は、護堂の胸元に崩れ落ちるようにすがり付いた。
「このバカぁ、生き返るなら生き返るって言ってから死んでよ……ッ!」
「え、ああ。……そうか、上手くいったのか」
護堂は明日香にどう声をかけるべきか逡巡しながら、最後の手段が上手く通じたことに安堵した。
「あんた、完全に死んでた。胸に穴が開いて、若雷神も封じられてたんでしょ? もう、ほんとにダメかと思った……!」
「悪かった。心配かけたな」
「悪かったじゃないわよ。おかげで冬の海を漂流する羽目になったんだから」
「そうか。明日香が助けてくれたのか」
「別に、あんたが勝手に蘇生しただけ。わたしは、海の中からあんたを探して、一緒に漂流しただけ」
その言葉を聞いて、護堂はまた唖然とする。まさか、この海に飛び込んだというのか。いくらなんでも、それは無謀が過ぎるというものだ。
真冬の荒れた海に、身を投げ出すなど自殺行為以外の何物でもない
「おまえ、なんて危ないことしてんだ」
「しょうがないじゃない。どうしようもなかったんだから!」
明日香は叫んだ。彼女も後先考えずに行動したらしい。呪術で身を守れるから、死にはしないという楽観的な考えで、この死の海に身を投じたのだ。
初めのうちは海面に顔を出すのが精一杯。護堂の身体を抱えながら、何とか体勢を維持しつつ、陸地を探す術を平行して使うのは、さすがに明日香を消耗させた。加えて、この悪天候。冷たい海水が体温をごっそりと奪っていく。明日香は、寒さにも呪術で対策を講じなければならなかった。
「明日香って、やっぱすごい呪術師なんだな」
「誉めても何もでないわよ」
ふん、とそっぽを向く明日香は、どことなく嬉しそうだった。
空を雷光が駆け抜けた。
護堂はそれを洞窟の中から眺める。もともと、島には洞窟などなかったが、明日香が呪術で岩の形を変えて簡易的な洞窟とした。雨風を防げるというだけでも、意義は大きい。
パチパチと火花が弾ける。
濡れた服は呪術で乾かし、焚き火も呪術で熾す。
「こうしたサバイバルすると、呪術の便利さが光るな」
「まあ、そうね。生きていくのに困ることはないわよね」
火を熾し、身体を乾かしても寒さは如何ともしがたい。
おまけに、護堂は身体が動かせないのだ。体力も呪力も底を突いた状態で、キリキリと胸の辺りが痛んでいる。
地面は岩ではなく、砂。粉砕の呪術で岩を砕いて砂に変えたのだ。明日香は、多彩な呪術で岩しかない岩礁を、ある程度快適な場所に作り変えたのである。
「ちなみに、ここは多分名島よ。鳥居と灯台に見覚えあったし」
「もしかして、子どものときに行ったとこか? 森戸海岸から見えた」
「うん。結構流されてきたみたいね」
風雨の中で、目を凝らすと本土が見える。
名島は神奈川県に属する島で、江の島から直線距離にして一〇キロほど離れている。最も近い陸地の森戸海岸までは約一キロ。夏場の晴れた日ならばともかく、大荒れの冬の海を渡るには厳しい距離だ。
護堂は幼いころに、徳永家と一緒にこの海に来たことがあるのを思い出した。
「ぐ、く」
ピキ、と心臓に針を刺したかのような痛みが走る。
肉体の修復が不完全なのだろうか。コピーした不死では、完全に治りきらないということか。
「護堂、顔色悪いわよ」
「悪い、話しかけないで」
顔を歪めて痛みに耐える。若雷神の化身が使えないので、肉体を修復できない。こんなことは、久しぶりだ。メルカルトと戦ったとき以来になるだろうか。ずいぶんと、若雷神の化身に助けられてきたのだと改めて実感する。
その様子を見ていた明日香は、護堂に身体を寄せた。
「……護堂、ちょっと乱暴にするわよ」
そう言って、明日香は護堂の身体を無理矢理起こした。痛みに、苦悶の表情を浮かべた護堂は何事かと明日香に文句を言おうとして、言葉を失った。
明日香は、護堂の身体の下に自分の身体をずらし込んだのだ。
「お、おい、明日香!?」
「お、大人しくしてなさい。病人は!」
目茶苦茶なことを言う明日香は、それでも本人も自覚があるのか顔が紅い。
しかも、護堂をうつ伏せの状態にしたものだから、護堂が明日香を押し倒しているような格好になってしまっている。
「あんたはわたしと違って呪術で体温調整できないんだから、せっかく復活したのに凍死なんてことになったらどうするのよ」
「そりゃ、そうかもしれないけど」
「今は身体を暖めて、体力を回復させることが第一でしょ」
それで、明日香は護堂と身体を密着させるという荒業に出たのだ。
護堂を呪術で暖めようとしても不可能だ。カンピオーネの体質が弾いてしまう。自然の温もりが必要だった。
外気と触れ合う表面積を少なくして熱が逃げないようにするのは大切なことだ。人の体温というのは侮れないもので、寝袋すらない今の状況下では、これも効果的なのである。
しかも、明日香は自分を下にすることで、護堂が直接地面に横たわらないように配慮している。これが逆ならば、胸が治りきっていない護堂にかかる負担が大きくなっただけだっただろう。
これだけでも、十分に安らぐ。明日香の身体の温もりを受けて、護堂は寒さに震えなくて済むようになった。だが、それは胸の痛みとはまた別問題だ。護堂は痛みが増してくるような錯覚すらも覚えて無意識に明日香の腕を握り締めた。
「ちょ、護堂!?」
それに驚き、そして護堂の蒼白な顔に焦った明日香が声を上げる。
「ちょっと、マズイかも」
「マズイじゃないわよ、バカ。何がどうなって……!」
「だから、治りきっていないかもしれないんだ」
「治りきってない?」
護堂が動けないのも呪力が枯渇しているのも、胸に穴が開くほどの重傷を治癒したからだと思っていたが、思えば、それ以前から護堂の身体は限界を迎えていた。その中で重傷を治癒したのだから、肉体にかかる負担は想像を絶する。
そもそも、若雷神の化身を封じられた状態で、どうやって生き返ったのか。
「最後の最後で、運よく『雄羊』をコピーできた。けど、本物ほどきちんと機能しなかったみたいで」
「修復が不完全だった? もっと早くいいなさいよ!」
護堂は痛がりはしても事情を話さなかったのだから、明日香がそこまで察するのは無理だ。そもそも、医者でもない明日香では、外傷がない護堂の内側を診ることはできない。
護堂は最後にウルスラグナの腕を掴み、そこで不死の化身を天叢雲剣にコピーさせた。海中に落ちたときに発動して、蘇生を始めたのだが、どうしても完全とはいかなかったらしい。
胸の穴が修復しきれないということは、心臓の辺りにも異常があるということだ。せっかく生き返ったのに、活動開始の直後に心疾患で死亡など笑い話にもならない。
「たく……じっとして」
明日香は、冷や汗を流し、朦朧としている護堂の頬に手を添えてキスをした。
ここまで護堂が回復していれば、後はその回復力を手助けしてあげればいい。カンピオーネの回復力に治癒術を合せれば、なんとでもなる。
護堂の胸の辺りを意識して、治癒術を送り込む。
その治癒に、護堂の生存本能が反応する。半ば無意識に、護堂は明日香の舌を貪った。
「ふぎゅ、ん……んぁ」
明日香は硬直し、それから全身を弛緩させて護堂に委ねる。
護堂は明日香から治癒術を吸い上げて身体の修復に当てる。
長いキスの後、護堂はやっと意識をはっきりさせるまでに回復した。胸の痛みはなくなり、完全に傷が癒えたようだった。
「う、ぐす。ふえっ」
ただ、明日香がぐずってしまった。
護堂も、悪かったとは思う。ちゃんと覚えていないが、明日香が治癒をかけてくれたことは理解できたし、それが意味するものも分かった。だから、気まずい。
「この野獣」
「す、すまん」
とりあえず、謝るしかないので謝った。
「もういいわよ。人口呼吸みたいなもんだったわけだし」
身体が回復したので、護堂から上体を起こした。明日香が隣に腰掛ける。
あ、と明日香が洞窟の入口に目を向けた。
「どうした?」
すると、洞窟の中に一羽の鳥が飛び込んできた。真白なハトだ。だが、呪力を感じる。
「わたしの式神。なんとか、万里谷さんたちと連絡を取りたいと思って。よかった、向こうに通じた」
式神はペットボトルを足に括りつけられていた。その中に一枚の紙が入っていて、祐理からの返信が認められていたのだ。携帯が海水で壊れてしまったので、外部との連絡手段としては古典的な伝書鳩に頼ったのだ。悪天候が不安材料であったが、式神はちゃんと祐理の下に辿り着いた。
「もう迎えが来るわ」
そう言って、明日香は笑ったのだった。
■ □ ■ □
明日香が祐理に連絡を取ったことで、護堂は日が昇る前には正史編纂委員会肝いりの病院に入ることができた。
それから、精密検査を行い、落ち着いたのが午前九時ころ。それから一眠りして目が覚めたときにはもう日が暮れかけていた。空は依然として黒く沈んでおり、夕日は見えない。吹き付ける風雨が窓ガラスを揺さぶっていた。
面会が許されたとき、入ってきた女性陣に泣かれたり怒られたりで大変だった。
明日香は感情を抑えるかのように黙して語らず、恵那はよかったよかったと笑い泣きし、祐理は涙目で怒り、護堂の呪力が戻ったために実体を取り戻した晶はひたすら号泣して抱きついてきた。晶はずっと霊体のまま護堂の傍にいたのに、何もできないまますべてを傍観せざるを得なかったのが、あまりにも悔しかったという。
そうした騒動が一段落してから、護堂は自分の身体を改めて確認した。
ウルスラグナの剣に貫かれたのは、ちょうど一日前だ。二四時間が経過し、火雷大神の権能が戻ってきたのを感じた。
「よし」
ぐ、と護堂は拳を握る。
傷も完全に癒えた。体力も呪力も完全回復を果たしたのだ。霊薬を飲んで寝るだけで、大抵の傷は修復できてしまうのが、この身体の強みだ。
病室には誰もいない。
護堂に負担をかけないようにするため、皆各々の居場所に戻ったのだ。
まつろわぬウルスラグナはまだ国内に潜んでいる。護堂から受けた傷を癒しているらしい。今、祐理が居場所を探り、晶が斥候に出るという形で捜索が進んでいる。
ウルスラグナとは決着をつけなくてはならない。
護堂は確信している。
ここまで痛めつけられたのだ。きちんとお礼参りをしなければならない。
護堂はベッドの枕に頭を乗せた。
ウルスラグナの言葉が、頭に残っている。
『それに、どうにも我はお主と戦わねばならぬような気がしての。《鋼》と神殺しという宿縁を越えた何かを感じるのじゃよ』
宿縁を越えるというのは誇張表現だと思っていたが、冷静に考えるとそうではないのかもしれない。
過程として、この世界に修正力のようなものがあったとしよう。
それは、歴史を一定の方向に維持しようとする力だ。
この力がある以上、歴史はほぼ確定する。細かい差異はあっても、努力では変えられず、気がつけば定められた方向に流れてしまう。
例えば、護堂がカンピオーネになってしまったときのように。
あのとき、護堂はウルスラグナとメルカルトの戦いを避けた。それはカンピオーネになりたくないと思っていたからだが、その結果としてガブリエルに行き会ってしまった。
護堂はスサノオたちが一〇〇〇年かけて生み出した、『神殺しを為す運命にある魂』の持ち主だった。それはつまり、護堂が神を殺すことが確定していたということであり、護堂がそれに逆らおうとも修正力が働いて神殺しをしてしまう、という流れができる。
そうすると、こうも考えられる。
あのとき、護堂が倒すべき神はウルスラグナだったのではないか。
それを護堂が無理矢理回避しようとしたから、代わりにガブリエルが宛がわれた。
護堂に出会わなかったウルスラグナは、メルカルトに殺されることなく生き延びてしまった。
そうした違いが積み重なった結果、原作乖離という形での差異が生じた。
いや、そもそも法道という原作にいない神格がいた時点で原作乖離が生じている。だから、この思考に意味はない。
意味はないが、原作で護堂が倒したウルスラグナが生き延びたというのは、世界からしたらそれなりの影響があるだろう。何せ、相手は『まつろわぬ神』だ。死ぬはずの『まつろわぬ神』が生き延びるというのは、歴史的に見ても大きな問題に発展するかもしれない。
今、遠回りはしたものの、護堂とウルスラグナは出会った。
そこに、何かしらの力が働いてこの結果に集束したのかは分からないが、運命というにはできすぎている。
「やっぱり、倒すしかないよな」
いろいろと考えたが、どうしてもそこに考えが行き着いてしまう。
ウルスラグナと戦う前に祐理に言われたことが、否定できない。
けれど、それが間違いだとは思わない。ウルスラグナは倒さねばならない。確信している自分がいる。
ウルスラグナを倒す。
そのために、策を練る。
ウルスラグナの能力や自分の能力を比較検討して、どのような対策が取れるか考えるのだ。
考えているところで、扉がノックされる。返事をすると、扉が開いて明日香が入って来た。
「明日香か。どうした?」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
明日香は憂鬱そうな顔で、護堂のベッドの傍に歩み寄り、イスに腰掛けた。
「ウルスラグナのこと。あんた、またあの神様と戦うつもり?」
「ああ、そうだけど」
「正気なの? あんなふうに負けて、復活だって奇跡みたいなもんじゃない。次に戦って勝てる保証なんてないでしょ」
明日香の言いたいことは理解できた。
だが、一度負けたからといって逃げるわけにはいかない。
それにウルスラグナも言っていたように、もうどちらかが倒れるまで戦わねばならない運命にある。
「まあ、勝ち目のない戦いなんてないぞ。神様相手でもやりようによっては勝てるさ。俺たち、そういう人種だし」
たとえ相性が悪くとも、根性次第で乗り越えられる。そういう理不尽が罷り通る世界だ。必要なのは、負けん気。それと、相応の準備。ありとあらゆる手を使って初めて神様を降すまでに至るのだ。
「あんたはそう言うけど……」
「ウルスラグナと戦うなっていってもダメだからな。どうせ、向こうから来るし」
「む……」
護堂の言うとおり、あの『まつろわぬ神』の気質を考えれば、そういうことなるだろう。再戦。完全決着を何よりも望むはずだ。
「じゃあ、どうすんのよ。負けた相手に、どうやって挑むってのよ」
「まあ、策がないってわけじゃないんだけどな」
ふと、思いついたことがあるのだが、それは護堂だけではどうにもできない。
「なあ、明日香。お前、ウルスラグナのこと、詳しい? 成立過程とかも含めて」
「え、ああ、まあ。あれは、インドラを原型にする神格だし、帝釈天とも間接的に関わるからね。一応、その辺りも押さえてあるけど?」
「頼みがあるんだけどさ」
「何?」
「お前、また俺とキスでき、ぶるああああああああッ!?」
明日香の溜めなし張り手が護堂を襲った。
「へ、変態ッ! なんてこと言うのよいきなり!」
「ま、待て、話せば分かる。敵を知り己を知ればなんたらって言うだろ!? 教授の術をかけて欲しいってことで」
「そ、それでもすることに変わりないじゃない」
顔を真っ赤に染めた明日香が目を怒らす。
「そ、それに戦略的な意図もあるんだ。成功すれば勝率も上がる。狙い通りにいくか分からないけど、手札は多くしておきたいんだ」
「むぅ……」
明日香は、口をつぐんで思案する。
確かに、護堂の手助けをしたいとは思うが、こういう形でキスをするのは心の準備が必要で、今すぐというのは困る。
明日香が逡巡していると、護堂は明日香を抱き寄せた。
「ダメか?」
「うぅ……その、ダメってわけじゃ、ないけど」
明日香が折れたのを確認してから、護堂は明日香の唇を奪った。
ウルスラグナの知識を、明日香は護堂に与える。長くは持たないが、一時的に明日香の知識がそのまま護堂のものとなる。
法道に与えられた莫大な呪術の知恵。その中にあるウルスラグナの伝承。帝釈天や金剛力士とも繋がるだけに、間接的に日本呪術にも影響していると言えるだろう。
教授の儀式が終わった直後、扉がノックされた。
二人は慌てて身体を離す。
訪れたのは晶だった。
晶は、護堂と明日香を見比べて、ひく、と表情を固めた。
互いに距離が近い。顔も紅い。二人きり。それでいて呪術の残り香――――
「明日香さん……」
ずんずんと早足で近付いてきた晶は、興奮気味に叫んだ。
「人がきばっちょるときにいんのまいかひっちっせぇ!」
「落ち着いて! 何を言ってるか分かんないから!」
「人が頑張ってるときにいつの間にかくっ付いて!」
言い直した。
「いったい、何をしてたんですか」
霊体として傍にいた晶は明日香が護堂に治癒をかけていたのを見ていたのである。ただ、そのときは護堂の呪力が枯渇していたので、晶は実体となることができなかったのだ。
目の前で護堂と明日香がキスしているのを指を咥えて(指はないが)見ているしかなかったときの複雑な思いは、誰も想像できない晶だけが抱くものだ。
護堂が命の危機にあるような緊急事態ならばまだしも、この平時に一体何をしていたのか。
晶は、底抜けに暗い目で、明日香と護堂にずずいと迫る。
「ま、まあ晶。落ち着け。お前、ウルスラグナの居場所を探ってたんだろう?」
強引に、護堂は話を変えた。
晶はウルスラグナが傷を癒している土地を探る任についていたはずだ。彼女が戻ってきたということは成果が上がったということだろうか。
「……ウルスラグナ様の居所が分かりましたので報告しようと思って来たんです」
ジト目で二人を見つめつつ、晶は調査結果を報告する。
「ウルスラグナ様は今、富士山にいらっしゃいます。《鋼》に相性のいい土地ですから、そこなら《鋼》の神性も高まると思われたのかもしれません」
「《鋼》の相性がいいのって、火だったか」
鉄は火の中から生まれる。故に火の属性は《鋼》の軍神の誕生に深い関わりがあるのだ。
「おそらくは、そういうことかと」
「よし、じゃあ行くか」
「は?」
晶はポカンと口を開けてベッドから降りた護堂を見る。明日香も同様だ。
「な、な? こんな時間に、ですか?」
「夜だからだよ。ウルスラグナは昼に戦うより夜に戦ったほうがいい。アイツ、太陽の神様と縁があるからな」
ウルスラグナは善の陣営に属し、太陽の加護を持つ者。太陽神の軍勢の先陣を切るウルスラグナは、暁の時間帯に最も神力が高まるのだ。
その逆に、夜間はそういった補正がない。
戦うのであれば、今が絶好の好機なのだ。
「で、ですが……いえ、分かりました。すぐに、こちらも準備します」
そう言って、晶は病室を辞した。冬馬や馨と連絡を取って、護堂が戦いやすい環境を整えようというのだ。
「護堂。あそこまでしたんだから、負けんじゃないわよ」
「分かってるよ。今度は勝つ」
護堂は明日香と笑いあって、それから戦場に向かったのだった。