ある日、少女が旅立った。
春を未だ待つ、息も白く凍る冬の日だった。
彼女はその日、学校を卒業した。学を修め、友たちとの別れを惜しんだ。
恩師に頭を垂れて感謝の意を表し、涙すら流した。
幼い少女が描いた青春という記憶は、人生の中ではほんの一瞬にすぎない。しかし貴重でかけがえのないものである。
大人になってから、彼女はきっと何度も何度も思い出すだろう。苦しく辛い時ほどあの頃はよかったと振り返るだろう。それだけ時間を、彼女はその学舎で手に入れることができたのである。
彼女は母校となった学校をあとにした。
卒業式の日は、彼女が入学した日と同じように青空を桜の花弁が舞っていた。卒業証書を手に校舎を去る彼女の姿は、数年前よりも大人びていた。
その日、彼女は暗い夜道を一人で歩いていた。
打ち上げと称して学校にも近いファミレスで彼女は同級生と飲食をしていた。集まった仲間たちは誰もが気が置けない友人たちだった。授業や部活が同じで、互いに切磋琢磨しながら学生生活を送ってきた。
安価なフリータイムの飲み放題を使い、これが最後だからと楽しい時間を過ごした。多少会話の声は大きくなってしまったかもしれない。だが、他の客に迷惑のかからない範囲で彼女らは羽目を外した。喫煙も飲酒もしなかった。何の問題もなく時間は過ぎていった。
問題があったと言えば、終わった時間が少しだけ、遅い時間となってしまった。それだけだった。
最後だから、最後になってしまうからと彼女らは話を終わらすことができなかった。一緒にいられる時間を惜しみ、子どもでいられる時間を惜しみ、彼女らは別れの言葉をなかなか口にすることができなかった。
結局時間は押しに押して、最後は誰かの携帯にかかってきた親からの着信でお開きとなった。
彼女の家は学校からも、打ち上げを行ったファミレスからも近かった。だから、多少遅い時間になったとしても迎えはいいと彼女は家族に伝えていた。その通りに彼女は一人で夜道を歩くこととなった。
家までの道には公園があった。昔からある、電灯が少ないため薄暗い公園だった。
公園には石像があった。キツネだか、タヌキだか、イヌだか、オオカミだか、よくわからない石像だった。それなりに大きく、なんとなく可愛げもあった。
石像はいくつかあった。座っていたり、伏せていたり、吠えていたり、各々が異なるポーズをしていた。顔の表情も違っていた。
公園には石像がある。だが場所はよくわからない。木が茂っていて、昼間でも薄暗い公園の中では石像たちは隠れてしまっていた。
だが、確かに石像たちは公園の中にいた。
彼女は、その公園にはオオカミの石像たちがあるのだと思っていた。
その公園の中を突っ切れば学校と家を突っ切ることができた。だから、彼女は公園の歩道がどこをどう通っているのか知っていた。
電灯がなくても携帯のライトがあれば夜でも歩けた。だって、彼女は毎日と言っていいほどその公園を通っていたのだから。
彼女はその公園に慣れていた。
その日も彼女は歩いた。日が出ている昼間にその道を通った。
彼女は気を抜いていたのかもしれない。だから、その公園の石像にこんな噂があったことを忘れていた。
『あの公園にある石像たちは、夜中になると動き回る』
その夜も彼女は公園を歩いた。家へと帰るために、公園の中の道を歩いた。
卒業式も終え、打ち上げも終わって彼女は気を抜いていた。遅い時間で、当然辺りは真っ暗な闇が広がっていた。でもいつも通りの道だと、彼女は油断した。
ふと、通りがかった自動販売機に目が行った。公園の出口に近い場所にあった。
いつもなら彼女はそんなことはしなかった。すぐに帰ろうとしただろう。
でも彼女はその日、卒業したのだ。大人の入り口が目の前に見えているタイミングでもあった。子どもの出口を出たばかりの、微妙な期間だった。
彼女は、自動販売機でコーヒーを買って、飲み終わってから帰ろうと思った。思ってしまった。
道路には車が滅多に通らないくらい遅い時間だった。
自動販売機の前に立ち止まって、彼女はコーヒーを買った。がこん、と缶が落ちてくる音だけがやけに大きく響いた。屈んで缶を取り出した。
風が強く吹いた。冬の終わりの冷たい風だった。
スカートが捲れた。下にはタイツを履いているから別にいいかと気にしなかった。
こんな時間に誰もいるはずがない。いても、こんな暗闇じゃ見えるはずがない。彼女はそう思って、何も気にしなかった。
買ったコーヒーは、あっという間に空になった。
帰ろうと出口に向かおうとした時のことだった。どこからか唸る様な音が風に乗って聞こえてきた。
獣が唸る様な音だった。
彼女は思い出した。
『公園にある石像たちは、夜中になると動き回る』
体を強張らせた彼女はすぐに出口へ向かおうと振り向いた。
その時、暗闇の中に浮かぶ光る目を見つけてしまった。その二つの目は、はっきりと彼女を捉えていた。
オオカミだ!!!
彼女の手から空の缶が滑り落ちて、コンクリートの地面に落ちた。カラン、と高い音が場違いに響いた。
暗い草むらの中からオオカミが高く吠えた。
逃げなくちゃ! 公園から出なきゃ!
彼女は出口へ向かって足を踏み出した。だが前に進むことはできなかった。
出口のすぐ近くには、別の目がきらめいていた。オオカミは一匹ではなかった。
出口からは出られない。混乱した彼女は入り口の方へと踵を返して走り出した。
後ろから遠吠えが聞こえた。
出口はすぐそこだった。だから、反対に入り口は遠かった。冷静に考えられればわかったはずだ。冷静ではなく、混乱している彼女にはそんなことはわからなかった。
彼女はとにかく公園から出たかった。ただ、その一心だった。
横の木々の間から吠える声が聞こえた。
別のオオカミだった。
背後から追い込むようにオオカミの声が迫ってきた。出口の方にいたオオカミだろうか。
声と足音は近づいてくる。
彼女はコンクリートの道を外れた。
公園の外へ出る道から外れてしまった。
彼女は慣れた公園だからと、夜の公園を侮ってしまった。夜の公園はオオカミたちの絶好の狩場だった。
オオカミたちは道を外れた彼女を楽し気に追い込んだ。一匹、二匹、三匹とオオカミの群れは大きくなった。暗闇で何匹集まったのかはわからない。光る目と吠える声、迫る足音だけが彼女に恐怖を与えていた。
彼女は泣いた。公園なんて通らなければよかったと後悔した。
手には携帯電話が握られていた。しかし、それを使って助けを呼ぶことなどできなかった。
彼女は暗闇で足元が見えていなかった。石につまずいて転んだ。タイツが破れて膝から血が滲んだ。
それを見たオオカミたちは喜んだ。
オオカミたちは彼女を自分達のテリトリーへと追い込むくせに飛びかかってはこなかった。獲物が怯える様子に興奮していた。
彼女は立ち上がって逃げた。小さく母に助けを求めたが、風と木の葉の擦れる音で掻き消された。
オオカミたちは追った。近付く度にギャンギャンと吠えたて、離れるとわざと草や葉を揺らして音を立てた。
彼女を恐がらせる為に、暗闇の中から姿を見せることはしなかった。
彼女は夜の公園を逃げ惑った。
オオカミたちに追われ、夜の暗闇を駆けた。彼女は気づかない。オオカミたちが追いやる先には深い闇が広がっていることに。
彼女は、暗闇の奥へ奥へと逃げていった。
オオカミたちの声が暗闇の中、深く響き渡っていた。
彼女の悲鳴は誰にも届かないまま、消えていった。
そして彼女は、
どうなった?
夜は明け、その日も太陽が昇るだろう。
新たな一日が始まる。
彼女の迎えた結末はどのようなものだったのだろうか。
無事に家に帰ることはできたのだろうか。
彼女はこう言う。
「私、あの夜に卒業したんだ」
あの夜、彼女の身に何があったのだろう。
オオカミたちから逃げ切ることはできたのだろうか。それとも?
彼女はかえったのだろうか。
確かなのは、ある日、彼女が旅立ったということだ。
どこへ。
どこへ?
その日は彼女の新たな旅立ちの日だった。
彼女は卒業した。卒業してしまった。
彼女は旅立った。
旅立っていってしまった。