その扉は何だっていいよ。部屋の窓だって、玄関の戸だって、冷蔵庫やロッカーやタンスだって。何だっていいんだ。
ほら、目蓋を閉じて。
ほら、目蓋を開いて。
これでもう別世界だよ。
簡単だよね。
いつだって違う世界を見られるんだ。いつだって簡単に違う世界へ行けられるんだ。そういう世界に生きている。
扉を開くのは簡単さ。でもその先は? その先には? どうやって行くの? いつ行くの?
勇気を出して、ほら、勇気を振り絞って。足を前に出すんだ。手を前に伸ばすんだ。勇気を出せって。
そうすれば扉なんか飛び越えていける。別の世界に飛び込んでいける。
大丈夫だよ! 大丈夫!
ほら、一緒に行こう!
別世界なんてすぐそこだよ!
扉はいつだって開かれている。みんなを歓迎して、大きく大きく開かれている。
そう言った友人は、何処かの扉を潜ったっきり消えてしまった。
扉の向こうは別世界。
確かにそうだったのかもしれない。考え方によってはそうなんだろう。それが友人の表現だったのかもしれない。
でも、現に友人は消えてしまった。
探しに行った。その友人も、その何処かにあるはずの扉も。
見つからなかった。
何処にもいなかった。
何処にも、そんな扉はなかった。
友人は帰ってこなかった。
何年も経ってやっとわかった。友人は別世界に行ってしまったんだと。
何処かわからない、知らない世界へ行ってしまったんだと。
きっともう、帰ってこないんだと。
別れは悲しかった。突然すぎて、会えないことを頭が理解していても心が追い付かない。涙が止まらない。
落ち着いたと思っても、ふとしたことで心が波立つ。涙が止まらない。
そんな日も突然終わってしまった。激しい夕立がいつのまにか通り過ぎてしまうように、友人を失った悲しみも心の底へ沈んでしまったようだった。
涙はいつか止まってしまった。そのことも悲しかった。悲しくて悲しくて、もう涙は出なかった。
目蓋を閉じた。キツくキツく、閉じてしまった。
友人と自分の世界は別れてしまった。
涙が止まったある日に、そう思うことにした。友人は、もう自分のいるこの世界には帰ってこない。
さよなら。
大切な友人。
さよなら。
と、思っていた時期が確かにあった。
友人は未だに帰ってこない。
そう思ってしまうのは、自分の中に微かな希望が残っているからなんだろう。
また会いたい。また会えるかもしれない。また会えるのではないか。
「また」に次を期待する。
昔友人と言い合った「また明日」みたいに、もう一度を願う。
またいつか。またどこかで。またきっと。
いつだって「また」の中にもう一度を願った。もう一度、もう一度。もう一度がずっと続くといいな。また今度。またね。またね。
ずっと、次を信じていた。
次が来ないことを、信じたくなかった。
だって。
自分と友人は「友だち」なんだから。
友だち、なんだからさ。
ずっと、ずっと、会えなくたって、友だちなんだから。
信じていた。
信じていたかった。
さよなら。
大切な友人。
またね。
大切だった友人。
と、思っていた時期もあったと思う。
目の前には扉がひとつ。後ろにも、右にも、左にも、天井にも、足の下にも扉がある。
これは何だ。何なんだ?
あるはずのない扉が視界にへばりつく。
友人が言っていた。もう、いなくなってしまった友人が。
扉の向こうには別世界がある。違う世界が、向こうにはある。
扉は全て閉じられていた。
ただの扉だった。どこにでもある、閉じられた扉だった。扉の向こうはもちろん見えない。
足を一歩踏み出してみる。
ほら、勇気を出して。
扉の向こうにある世界を恐れずに、扉へ近づいてみる。
何の扉だろう。その先は何処へ続いているんだろう。
口を閉じた扉へ、一歩足を踏み出して近づいてみる。その存在に怯えることなく、安易に足を踏み出してみる。
扉は固く閉じられていた。
きっと、友人もそうだったんだろう。その扉たちが気になってたまらない。扉の向こうが気になって気になって、目を合わせずにはいられない。
冒険の予感がするのか、胸が高鳴る。ドキドキざわざわ。やけに胸が熱くて苦しいのに、酷く寒い。ドキドキぞくぞく。
そうしてるうちに、目の前でそうなっていくようにゆっくりと。
ゆぅっくりと。
扉が開いていく。
開かれていく。
開いていってしまう。
開いて、しまった。
扉の向こうは別世界。そんなはずないと思っていた。
でもその扉は間違いなく「別世界」へ繋がっている扉だった。
扉の向こうは真っ白で、何も見えなかった。見えないから、もっとよく見よう、扉の向こうを見たいと思った。顔をそれに向けた。その先に何があるのか知りたかったから、扉の中を覗き込もうとした。
その時、後ろから声がした。
友人の声だった。
もういなくなったはずの、友人の声だった。
「ねえ、そっちじゃなくてこっちの世界に来なよ」
振り返った先には懐かしい友人の顔があった。その友人の背後には別の扉がぽっかりと口を開いていた。
「また会えたね」
友人は言う。
そうだ、また会えたんだ。嬉しい。
嬉しい、はずなのに何かが違う気がする。友人の背後には真っ黒な別世界が広がっていた。
「また、会えたね」
友人の顔は笑っている。そうだ、また会えた。でもなんでだろう。もう、会ってはいけないと思うんだ。
「こっちへおいでよ」
友人は言う。
こっちって、どっち?
友人のいる世界? 友人は真っ黒な中に立っている、と思う。足は見えない。胸も、腕も。見えているのは最後に会った時と同じ顔だった。
「どこにいるの?」
「君とは別の世界だよ」
「君の言ってた?」
「違うね。いきたかった世界じゃない」
「いきたくなかった?」
「うん。来たくなかった」
「もう、こっちに来れないの?」
「うん。もう、そっちにはいけない」
「もう、会えないの?」
「会えるよ」
君がこっちへ来れば、また会えるよ。
友人は笑いながら言った。
その時、見てしまった。見なければよかった。見たくなかった。
友人の足があるはずの場所から、別のものが生えていた。足だった。毛の生えた、獣の足だった。蹄のある、人の持つべきではない足だった。
肩から先が一瞬見えた。見えてしまった。そこに生えているものこそ足だった。友人がいなくなった日に履いていたはずの靴をひっかけた、ヒトの足だった。
もう一度友人の顔を見た。笑っていた。
扉の向こうに真っ黒な闇に食われた友人の顔が浮かんでいた。
友人は変わってしまった。もう、あの頃の友人には会えない。自分と友人にはもう「また」はなかった。もう、「次」はなかったんだ。
だから、笑いながら友人に言った。
「さよなら」
ずっと言えなかった別れの言葉を、今度こそ友人に言った。
「まって!」
友人に背を向けた。友人の潜った扉と丁度対面に位置している扉に向かって足を踏み出した。
「なんで!」
開かれた扉の向こうには真っ白な世界が見えていた。友人のいる世界とは別の世界だと一目瞭然だった。
「きみが!」
背後からは友人の声が飛んでくる。それでもいかなくちゃいけない。
勇気を出して、別の世界へ飛び込んでいかなくちゃいけない。
「きみがさきにいったんだろ!」
何処か遠くで、それでいてすごく近くでなにかがわらう音を聴いた。
開かれた口の中に、自分は飛び込んでいった。
たくさんあったはずの扉の中から「それ」を選んだのは偶然だったのかな。本当は、友人じゃない何かに「こっちにこい」と呼ばれていたのかもしれない。
もう、思い出せないけど。
扉の向こうは別世界。だから、扉という線を境に此方と彼方では世界が異なる。こっちからは向こうが、向こうからはこっちが、違う世界だと感じる。見える。そう、なってしまう。
友人も扉を潜ったことでああなってしまった。変わってしまった。そう、見えた。
あの友人からは自分はどう見えていたのだろう。別れた時と同じように見えていたのだろうか。
ああ、でももう、全部遅い。自分も扉を潜ってしまった。
友人を食ったものとは違うものに食べられてしまった。
きっと、もう、自分も、変わってしまった。
扉を潜った先に友人がいた。
いなくなる前の、自分がよく知る懐かしい友人だった。もう会えないと思っていたはずの友人だった。
嬉しくなった。涙が出た。
無くなった手を伸ばして、自分は言った。
「また会えたね」
扉に食われた自分は、もう以前の自分ではない。もう、自分にも、会えない。
寂しいんだ。こんな別世界に来てしまって。
悲しいんだ。寒いんだ。冷たいんだ。
たったヒトリキリでは言葉も凍る。
ダカラ、呼ぶんだ。
扉の先に見えてしまった過去の友人を。
自分と同じコッチ側にこい、と。
さよならなんて言いたくなかったんだ。サヨナラなんてしたくない。
どんなに別の世界にいたって、同じ世界を友人と見たい。
扉の向こうは別世界。扉を潜ってしまえば世界も自分も変わってしまう。もう、変わってしまった。
本当は、君に言わなければいけない。
友人を、自分を変えてしまって
「ごめんね」
世界を別ける扉がただの扉のはずないじゃないか。
それは大きく口を開いて獲物が飛び込んでくるのを待ってる「バケモノ」だ。
そういえば、いつ自分は最初の扉に食われたんだろう。
まあ、いいか。自分が死んだ時のことなんてもう覚えていない。覚えていてもしょうがない。
また、自分は会ってしまうのだろうか。
あの扉と。
扉の向こうは別世界。扉の先にまた扉。
全部の世界は扉でわけられていて、そいつがいなかったら繋がっているのかもしれない。
また、会えてしまうのだろうか。