「朝七時になったら……呼びに来るから……それまで部屋から……出ないでね……。誰かに呼ばれても……答えちゃだめ……だよ……」
「他のみんなにも事情は説明しておく。心細いと思うが……何かあったらチェインしてくれ」
そう言い残して、部屋の四隅に盛り塩をして、窓に新聞紙を貼り終えたプロデューサーときりりんが、部屋から出て行った。
しいん、と静まりかえった室内でひとり取り残されたわたしは、畳の上にへたりこんだ。
「――っ」
途端、ぎりぎりで堪えられていた恐怖が、不安が、こみ上げてきた。
「……どうして、わたしなの」
妖怪とか、幽霊とか、そういった類いのものが理不尽で、常識が通じない存在なのはわかっているつもりだ。だけど、実際に自分がその被害に遭うと、ここまで辛いものなのか。
辛いのは、わたしが選ばれたことではない。
あの場には、こがたん、さくやん、まみみん、きりりん――アンティーカのみんながいた。それだけじゃない、お客さんたちだっていた。どうして他の人じゃないのだろう。そう思ってしまう。
わたしで良かった。そう思えないことが、自分が思っている以上に辛い。
少しでもその辛さを誤魔化そうと、スマホの画面を点ける。
しばらく、スマホを弄っていた。
気を紛らわせるつもりで、動画を見たり、調べ物をしたり、とにかく自分の置かれた状況から目を逸らそうとした。ときどき、アンティーカのみんなからも無事を確認するメッセージが届いた。
だが、一度意識してしまうと、脳裏からあの女性の姿が離れない。
飾り気も何もない白いワンピース、深く被った白い帽子、そしてなにより異常なほどの背の高さ。そのどれもが、あのイベント会場では異様だった。
ただ、顔だけが見えなかった。もしあのとき、彼女と目が合っていたら、わたしはどうなっていたのだろうか――。
こつ、こつこつ。
「ひっ」
突然、新聞紙で覆われた窓から音がした。風ではない。何かが向こうで、窓をこつこつと叩いている。
一瞬、恐怖で呼吸を忘れていた。
我に返ったわたしは、そのまま息をひそめて存在を気取られないように努める。
この部屋は二階の角部屋だ。その窓が叩かれるということは、誰かが壁を上ってきたか、あるいは……。
右手に握っていたスマホで、プロデューサーにごく短いメッセージを送る。
『なんかきた』
通知のバイブレーション音が目立たないように、服の裾でスマホを押さえつける。
返信はすぐに返ってきた。
『落ち着いて。お守りを絶対に手放すなよ』
ポケットに入れていたお守りを、左手で握り締める。ただ一件のメッセージ、ただのお守りに過ぎないというのに、ふっと心の中に安堵が湧き上がってきた。
気配を殺してじっと堪えていると、しばらく続いていた物音は聞こえなくなった。
安心して息を吐く。
直後、ドアの方から声がした。
「大丈夫~? 無理はしんときよ~」
こがたんの声だ。助けに来てくれたのかと思って思わず立ち上がる。
だが、すぐにきりりんの言葉を思い出した。
――誰かに呼ばれても……答えちゃだめ……だよ……。
きりりんは確かにそう言っていた。他のみんなも、わたしの状況は知っているはずだ。だとすると、いまドアの向こう側にいるのは――
声が、連続する。
「怖かったらこっちに来ていいんだよ」
さくやん。
「怖いなら出てきなよー」
まみみん。
「大丈夫だよ……おいでよ……」
きりりん。
そして。
「ほら、みんな待ってるぞ」
プロデューサー。
ぞわり、と鳥肌が立った。
直感的にわかる。ドア一枚を隔ててそこにいるのは彼らではない。得体の知れない何かが、みんなの声を真似ているだけ。
部屋の隅に盛られた塩を見ると、先の方が黒く変色してしまっている。
声を張り上げたい。泣き出してしまいたい。助けを求めて、この部屋から出て行きたい。 そんな衝動を必死に堪えながら、わたしは胸の前でお守りを強く握り締めた。
――助けて!
声に出せないぶん、心の中で叫ぶ。
それ以上、ドアから声は聞こえなかった。行ったのかと思って顔を上げると、
ぽ、ぽっぽ、ぽぽぽぽ。
と奇妙な音が窓の方から鳴り始めた。
いや、それは音ではない。声だ。「ぽ」なのか「ぼ」なのか、不鮮明な発音で断続的に聞こえてくる。男性の声か、女性の声かすらわからない。けれど、その奇妙な音が人の声であることは本能的にわかった。
窓ガラスが再びこつ、こつと鳴り始める。
ぽ、ぽ、という声も止む様子はない。
そこにあの女の人がいる。想像したくないのに、彼女が窓を叩く光景が脳裏に浮かぶ。
目を瞑り、お守りを握り締めたまま耳を塞いで蹲る。
ただただ、時間が過ぎるのだけを待っていた。
ぼやけていた意識が鮮明になる。
どうやら眠っていたらしい。自分の置かれた状況を思い出して、わたしは焦った。ばっと起き上がって、畳の上に放ってあったスマホを確認する。午前七時三分。窓に新聞紙が貼ってあるから朝日は入ってこないが、いつの間にか、きりりんに言われていた時間になっていた。
握り締めていたお守りに目をやる。変わった様子はない。だが、部屋の四隅に盛られていた塩は、下部を除いてほとんどが真っ黒に変わっていた。
朝になったことで気が抜けてしまったのか、両脚に力が入らない。這うようにしてドアの方へ向かう。
「結華、無事か!?」
ドアの向こう側から、プロデューサーの声がした。それが本物であるということが、不思議とすぐにわかった。咄嗟に返事をしようとしたが、発声がうまくできない。仕方なく、ドアにすがってノブを捻る。
ドアが開く。
外にいたのは、あの女の人ではなく――
「結華!」
アンティーカのみんな、そして、プロデューサーだった。
「み……みんなぁ……」
途端、安堵に包まれてわたしはへたへたと床に崩れ落ちる。
「結華、無事やったと!?」
「立てるかい?」
こがたんとさくやんが手を貸してくれて、わたしはどうにか立ち上がる。
「返事がなくなって、心配してたんだよー」
「結華ちゃん……よかった……」
「悪いが、ゆっくりしている時間はないぞ。急いでこの町を出よう。下に車をつけてある」
「う、うん……!」
こがたんとさくやんの手を借りて、わたしは廊下を歩いていく。昨夜聞こえていたあの声は、いまは聞こえない。
「昨日、結華と別れてから、おれと霧子で、女将さんに紹介された、ある人のところへ行ってきたんだ」
「ある人……?」
「町の長老さん……みたいな人だよ……」
「結華が見た女性について、聞いてきたんだ」
「何かわかったの?」
「ああ、詳しくは後で話すが、あれは八尺さまというらしい。奴の目を誤魔化して、脱出する方法も聞いてきた」
話しているうちに車に着いた。助手席には誰も乗らず、わたしを囲むようにしてみんなが乗り込んでいく。両隣をこがたんときりりん、後ろにまみみんとさくやんという配置だ。
「よし、全員乗り込んだな」
「じゃあ、みんな……あれを……」
霧子の言葉を合図に、わたし以外のみんなが懐から何かを取り出した。
眼鏡だ。
「えっ?」
困惑して、思わず声が出てしまった。なぜ、ここで眼鏡が出てくるんだ?
わたしの中に浮かんだ疑問には誰も答えず、みんなは眼鏡をかけていく。さらに、よく見てみると、全員がわたしの持ち物をどこかしらに身につけている。
「出すぞ!」
全員が眼鏡をかけたことを確認して、プロデューサーは車を走らせ始めた。もちろんプロデューサーもかけている。車はごくゆっくりと進んでいく。
「どういうこと!?」
状況がまったく理解できず訊ねると、きりりんが答えてくれた。
「こうやって……結華ちゃんの真似をして……お化けさんの目を誤魔化すの……」
「本当は血縁者がいたらいいんだけどな。間に合わせだ」
「あー……」
きりりんとプロデューサーの説明で、なんとなく理解できた。
つまり、みんながわたしの格好に少しでも近づけることで、あの女の人にわたしがたくさんいるように見せようとしているのだろう。本当に効果があるのかはわからないけれど、気休めにはなる。
「結華ちゃん……絶対に外を見ちゃ……だめだよ……」
「わ……わかった!」
左手に持ったお守りを顔の前でぎゅっと握り締め、祈るように目を瞑る。
すると、聞こえ始めた。
ぽ、ぽ……。
あの声だ。段々とはっきりと聞こえてきて、あの女の人が近づいてくるのがわかった。
息を呑む。ぽぽぽ、という声はどんどんと近づいて、ついには車の真横から聞こえ始めた。
「結華、大丈夫やけん」
恐怖でわたしの体が震えているのが伝わったのだろう。右横に座るこがたんが、わたしの手を握って励ましてくれる。
それで少し恐怖が薄らいだせいか、わたしはつい、うっすらと目を開けて、窓に視線をやってしまった。
そこに、いた。
あの白いワンピース。背が高すぎるせいで、胴より上はほとんど見えない。けれど、車の横にぴったりと張り付いた女の人は、ぽぽぽと声を出しながら、お辞儀をするように頭を下げ始めた。
「ひっ」
声を上げて、わたしは再び目を瞑る。
「見ちゃだめ……!」
きりりんが普段は出さないような声を上げる。彼女から貰ったお守りをさらに強く握り締める。
こつ、こつ。窓を叩く音が、ぽ、ぽ、という声に混ざって鳴り始めた。
「え、これ、マジなやつー?」
「どうやら、本物みたいだね」
まみみんやさくやんにも、いや、他の全員にこの音は聞こえているのだろう。車内の空気が引き締められたような気がする。こがたんがわたしの手を握る力が、少し強くなった。
「もうすぐだ、辛抱しろよっ!」
プロデューサーがそう言うと、車の速度が少し上がった。
ぽ、ぽぽぽ、ぽっぽ。
こつ、こつこつ。
声と音は、加速した車にぴったりとついてきている。
目を瞑って、わたしはただ祈った。早くどこかに行ってしまえ。早くお地蔵様のところに着いてくれ。
そうしていると、ふっと声が、音が聞こえなくなった。直後にプロデューサーが声を上げる。
「抜けたぞ!」
「やったばい!」
「音も聞こえなくなったみたいだね」
「結華ちゃん……もう大丈夫……だよ……」
みんなの声に反応して、わたしは恐る恐る顔を上げた。周りを見回すと、みんなが心配そうにわたしのことを見守ってくれていた。
車は速度を落として、路肩に止まった。
窓の外を見る。白いワンピースは見えなかった。窓を叩く音も、あの恐ろしい声も、聞こえない。
「助かった……の……?」
わたしの疑問には、プロデューサーが答えてくれた。
「ああ、結華。これでもう大丈夫だ」
その言葉を聞いて、わたしの全身を安堵感が包んだ。同時に、ぴんと張り詰めていた緊張の糸が切れるように、涙がどっとこみ上げてきた。
「ぐすっ……うぅ……」
悲しいわけでもないのに、涙が止まらない。顔をぐちゃぐちゃにして泣いているわたしを、こがたんが、きりりんが、さくやんが、まみみんが抱き締めてくれた。
「結華が無事で、本っ当に良かったとよ」
こがたんの言葉に、全員が頷く。
「でも、わたし……どうしてだろうって……ぐすっ、どうして他の人じゃないんだろうって……思っちゃったのに……」
昨日の夜、ひとりになったときに思ってしまったことを打ち明ける。そんなわたしが、こうしてみんなに囲まれていていいんだろうか。
「私だって結華みたいな状況になったら、そう思うよ」
「三峰も咲耶も、悪い子なんだよー」
さくやんの言葉に、まみみんが茶化すように続ける。
「それなら、おれだって悪い子になっちゃうな」
プロデューサーが笑いながら言う。みんなの会話を聞いているとなんだか少しおかしくなってきて、わたしも笑ってしまった。
「あははっ、そっか、Pたんも悪い子なんだ」
ふと、手に握り締めていたお守りに目をやる。
浅黄色だったお守りは、真っ黒に染まっていた。
***
あの日の夜、おれと霧子は宿の女将さんに勧められて、八尺さまについて詳しく知る老爺のもとを訪ねた。
老爺は、正確な年齢は教えてくれなかったが、一世紀近く生きていると言って笑っていた。
彼によると、八尺さまというのは昔からこの土地にいる妖怪のようなものらしい。名前の通り、八尺ほどの背丈をしており、見る人によって異なるが、女性の姿をしているらしい。かつては、喪服姿の若い女や、留袖の老女なんて姿で現れたこともあっという。頭には必ず何かを載せていて、「ぽぽぽ」と不気味な声で笑うそうだ。
結華は白いワンピース姿に見えると言っていた。恐らく彼女は、奇妙な笑い声も聞こえていたのだろう。それがどれだけの恐怖だったか、彼女の身になってみないとわからない。
八尺さまが好むのは若者……特に未成年くらいの年齢のものだという。数年から十数年おきに被害が出るらしく、もし魅入られてしまえば、この土地から出ていくほかに逃れる術はないそうだ。結華はもともとこの町の人間ではなかったから、二度とあの地蔵の結界をまたがなければ大丈夫らしい。
そうだ、あの地蔵は霧子の言うとおり、結界の役割を果たしていた。東西南北の四カ所に置かれた地蔵が、八尺さまを町の中に封じ込めているらしい。
……あれから、結華の身の回りでは変わったことは起きていないらしい。もしあのとき、霧子の助けがなかったらどうなっていたかわからない。
ただ、今回のように霧子が感知し切れない怪異もあるのだと知った。おれが一層、気を引き締めてアイドルたちを見守ってゆかなくてはならない。
ふと、脳裏に浮かんでしまった。
もし、あの地蔵が壊れるようなことがあれば、八尺さまはどうなるのだろう。結界から解き放たれた彼女は、初めに何をするだろうか――
そこまで考えて、おれは思考を止めた。
不都合なことから、目を逸らすかのようにして。