上
がたんごとん、がたんごとん。
夕暮れの陽射しに照らされながら一定のテンポで揺れる車内には、ほとんど人がいない。都内の在来線でこういう車両に乗り合わせることは滅多にない。
わたしと透は、そんな電車に乗って仕事からの帰路についていた。
もちろん仕事といっても、わたしと透のふたりでしていた訳ではなく、郊外の会場でのイベントにノクチルとして駆り出されたのだ。いつもならば、プロデューサーが車で送迎してくれるのだが、今日は別のアイドルの仕事が被っていたためにわたしたちの方が電車通勤となった。
ぽろん、とスマホにチェインのメッセージが入る。小糸からだ。
『事務所着いたよ! 雛菜ちゃんと待ってるね!』
そんな文面と、リスのスタンプが送られてきていた。確認して、わたしも適当なスタンプを返す。
「ねぇ、浅倉」
「ん?」
「小糸と雛菜、事務所着いたって」
「そっか」
簡潔で短い会話。でもこうして、電車のシートで隣に座っている。それがわたしと透の距離感。
ところで、行きは一緒だった小糸と雛菜が先に事務所に帰っている理由は、透にある。
現場に財布を忘れたのだ。
片道三〇分の駅に着いてからそれに気付いたため、全員で戻るのは効率が悪いし、かといって透をひとりで行かせると、ふらっとどこかに行ってしまうかもしれない。だからわたしが付き添いとして一緒に来た。雛菜がもの凄く来たがっていたけれど、無理矢理帰らせた。
透の横顔を見る。車両の揺れに合わせて、小ぶりな耳たぶに着いているピアスが微かに揺れる。彼女は、わたしたちが座っているのとは反対側の窓を流れていく景色を、電車の進行方向に少し視線を傾け、アクアマリンの瞳で見つめている。
中性的で端麗な容姿。浮世離れしたような性格。
透のその瞳には、世界が一体どう映っているのだろうか。
長く一緒にいるけれど、ときどきそう思う。
ひとりでどこまでも行けそうな、明らかにわたしとは違う存在だと感じるのに、透とわたしはいつも一緒にいる。
わたしの視線に気づいたのか、透がこちらを見やる。
「どしたの」
「……なんでもない」
「そ」
透はそれだけ言って、ふたたび窓の外に視線をやった。
直後、ごうっという音とともに、窓の外が暗闇に包まれた。トンネルの中に入ったようだ。
「あ、景色見てたのに」
何となく残念そうなニュアンスを含ませて、透が呟く。
「トンネルなんてすぐ抜けるでしょ」
そう言って、ふと不思議に思った。
わたしたちは行きと同じ路線に乗っているけれど、行きにトンネルなんてあっただろうか?
あったような気もするし、なかった気もする。短いトンネルだったから気づかなかっただけかもしれない。
けれど、電車がこのトンネルに入ってから、既に三〇秒ほどが経つのに未だに抜ける様子がない。
「ねえ浅倉」
「どしたの」
「来るとき、こんな長いトンネルあった?」
「なかったと思う」
「……だよね」
明らかに、何かがおかしい。
電車を乗り間違えたという可能性がなくはないが、途中止まっていた駅は来るときと同じところだった。まさか、行きと違う線路を走っているはずはないだろう。そもそも、各駅停車のはずなのにここ一〇分くらいは駅に停まってもいない。
この電車がいまどこにいるのかを確認するため、わたしは手に持ったスマホで地図アプリを起動しようとした。
「圏外……」
トンネルの中だ。当たり前といえば当たり前のこと。
他の乗客はこの異常に気づいているのだろうか、と辺りを見回す。同じ車両に四、五人いる乗客たちはみんな眠っているようだった。
ふたたび、ごうっと音がして窓の外が明るくなった。少し長かったが、ようやくトンネルを抜けたようだ。
窓の外を流れていく風景は山。ただ、先ほどまでまだ茜色だった空は、すっかり暗闇になっている。
再度スマホを確認すると、電波が入っていた。わたしは少し安心して地図アプリを開く。居場所さえ把握できれば、次停車した駅で降りて帰り道を検索し直せばいい。
「え」
表示された画面を見て、わたしは思わず声を上げた。
『位置情報が取得できません』
という文言と、その背景には――本来都内のどこかしらが表示されるにも関わらず――なぜか世界地図が映っていた。
「浅倉、ちょっと地図見てみて」
「見たよ。わたしも樋口と同じ」
そう言って、透がスマホの画面をこちらに向けた。わたしと同じ、世界地図の背景に『位置情報が取得できません』の文章。
「なに、これ……」
わたしは呆然と呟いた。
わたしと透、ふたりのスマホのGPSが同時に壊れるということはあり得ないだろう。つまり、わたしたちが乗った電車が走っているここは、位置情報が取得できない場所ということになる。
「ち、チェインは……っ!」
慌ててチェインを起動して、小糸に電話を掛ける。普通にコール音が鳴り響いて、数コールの後に小糸の声が聞こえた。
『あっ、円香ちゃん、どうしたの?』
「良かった、チェインは繋がる……」
『??? 何かあったの?』
「ううん、なんでもない。少し遅れるかもってだけ」
連絡はつくし、いま現在は大事には至っていない。無闇に心配を掛ける必要はないだろうと思って、そう返事した。
『そっか。プロデューサーさんももうすぐ帰ってくるみたいだし、雛菜ちゃんと待ってるからね〜』
『あは〜、円香先輩、もしかして迷子〜?』
『ひ、雛菜ちゃんっ!』
「雛菜うるさい。じゃ、また」
雛菜の間延びした声が聞こえたので、速攻で通話を切った。
通話が終わるのを待っていたようで、わたしがスマホを耳元から下ろした途端に透が口を開いた。
「ふたり、元気そうだった?」
「うん」
むしろ心配されるべきはわたしたちのはずなのに、透はどこかズレた質問をする。
わたしの返事を聞いてから、透はふと思い立ったかのように急に立ち上がった。
「どうしたの?」
「ん、ちょっと」
透は曖昧な返事を返して、一番近くに座っている乗客のそばまで歩いて行った。わたしも立ち上がり、彼女の方へ歩み寄る。
スーツ姿をしたOL風の女性の肩をゆさゆさと揺らして、透は囁きかける。
「おーい。終点ですよー。おーい」
しかし、OL風の女性はいっこうに起きる気配を見せない。それどころか、まともに反応すら返す様子がない。
透は少しの間呼び掛けを続けていたが、それでも反応がないため諦めたようで、女性の肩から手を離した。
「駄目、起きない」
「他の客も似たような感じみたい」
透が女性を起こそうとしている間、わたしは他の乗客を観察していた。どの乗客も電車の揺れで身体が揺れるばかりで、身じろぎひとつしない。寝ているというよりも、まるで気を失っているような感じだった。
「浅倉、この電車、やっぱりおかしい」
「ふふっ」
「……何で笑ってるの?」
「いや、なんか漫画みたいだって思って」
「馬鹿言わないで」
得体の知れない状況にいるのに、こんな状況でも透はいつもと変わらない感じ。やっぱりわたしがしっかりしていないと駄目だと、改めて思う。
「車掌さんのところまで行こう」
「なんで?」
「この電車がいまどこを走ってるか、聞けるでしょ」
小首を傾げる透にそう返すと、透はぽかんと口を開けた。
「あー……」
「……何?」
「いや、お客さん、みんなこうなのに、車掌さんは無事なのかなーって」
「……とにかく、行こ」
そう言って、わたしは透の手を取って電車の後列へ歩き始める。わたしたちが乗っていた車両は中ほどだったから、四つも渡れば最後尾に着けるだろう。
ひとつ、ふたつと車両を渡るが、どこも最初の車両と似たような状況だ。乗客はちらほらといるが、みんな気を失ったように眠っている。
最後尾の車両に着いたものの、ここには乗客はひとりも乗っていない。突き当たりにある車掌室の窓は、ブラインドで中が見えないようになっていた。
車掌室の前に立って、窓をノックしてみる。しかし、返事が返ってくる様子はなかった。
「あの、すみません」
続けて、声も掛けてみるが、中からの反応はなく、それどころか物音さえしない。
わたしはまだ現実が信じられなくて、車掌室のドアノブに手を掛けた。ガチャガチャと捻るが、扉はびくともしない。
「鍵、掛かってる……」
「ほら、やっぱり」
分かりきっていたことだと言わんばかりに、透が呟く。
「次停まる駅で降りて迎えに来てもらお、プロデューサーに。まだスマホ使えるし」
透の言う通り、まだ電話はできるはずだ。しかし、もう二〇分以上停まっていないこの電車が、次いつ駅に停まるのかは分からない。
『次は〜キサラギ駅〜。キサラギ駅〜』
突然、車内に女性の声でアナウンスが鳴り響いた。普段の電車内で流れるような聞き取りやすい感じではなくて、もっとざらついた解像度の低いアナウンス音声。しかし確かに『次はきキサラギ駅』と、そう言った。
アナウンスが鳴り止むと、電車が緩やかに速度を落とし始めた。
わたしと透は顔を見合わせる。
「どこか分かる?」
「さぁ」
お互いに聞いたことのない駅名のようだ。調べてみようと、わたしはスマホを取り出した。地図アプリが使えなくても、ウェブ検索で駅の所在くらいは調べられるはずだ。
だが、検索結果には特にこれといったものが出てこない。そもそも、鉄道駅としての検索ヒットがほとんどない。
「駄目、調べても出てこない……」
「でも、プロデューサーに迎えに来てもらうしかないんじゃない、そこで降りて。次いつ電車止まるかわからんし」
「それは、そうだけど」
自分たちの置かれた状況を考えると、どうしても慎重になってしまう。
話しているうちに電車が完全に停車した。
ドアが静かに開かれ、外の冷たい空気が車内に吹き込んでくる。ドアの向こう、わずかな月明かりと切れかかった電灯だけが照らすホームには、誰もいないようだ。
「浅倉、どうする?」
着いた駅の異様な雰囲気に、わたしは改めて透に確認をする。
「行こう」
そう言って、透は颯爽と駅のホームに降り立った。
彼女が降りた以上、わたしも続かない訳にはいかない。恐る恐る足を踏み出す。
「大丈夫」
透が差し出してくれた手を掴んで、わたしもホームに立った。
電車はすぐには出ないようで、ドアを開けっ放しで停車したままだ。中の乗客は相変わらず起きる様子はない。わたしたちの他に降りた客もいないようだった。
「取り敢えず、プロデューサーに電話しよ」
「分かった」
チェインでプロデューサーにチェインで通話を掛ける。コールしている間に透は何かを見つけたようで、わたしの側からすたすたと離れていく。
「あ、ちょっと」
わたしが慌ててそれに付いて行くと、透はひとつの看板の前で立ち止まった。それは、どこの駅にでもあるような駅名表示の看板だった。そこには確かに『きさらぎ駅』という文字が書いてあった。前後の駅は『やみ駅』と『かたす駅』。わたしたちが来たのはやみ駅の方からのようだ。駅名はすべて平仮名で記されている。もちろんどの駅も、わたしは聞いたことがない。恐らく、隣で不思議そうに看板を見ている透も同じだろう。
『もしもし。どうしたんだ、円香』
電話が繋がって、スピーカーからプロデューサーの声がした。駅に降りてもまだ電波は通じていることに、少し安堵を抱いた。
「乗る電車を間違えて知らない駅に着いてしまったので、迎えに来てもらえませんか?」
『それは構わないけど、なんていう駅だ?』
「きさらぎ駅。平仮名できさらぎです」
『分かった。ちょうど事務所に戻ったところだし、場所調べてから迎えに行くよ。出るときにまた連絡する』
「頼みましたよ」
そう言って、通話を切る。
「で、かたす駅って何」
看板を指差して透に言うが、彼女は首を傾げただけだった。
「さあ。どこなんだろうね、ここ」
訳の分からない状況に立たされているにも関わらず、透はいつも通りだ。
「駅員さんに聞いてみる?」
「多分、駄目。無人駅だわここ」
透の言うとおり、駅の周りは草原と山ばかりで、人工物といえばこの駅と線路くらいのものである。駅舎らしき建物はあるが、中の明かりはついていないし、こんな辺鄙な駅に駅員がいるとも思えない。
「ねえ、樋口」
「何」
「ちょっと外出てみない? プロデューサー来るまで」
ちょっと期待したような感じで透が問い掛けてくる。普段なら少し付き合おうという気にもなるが、いまは状況が状況だ。
「嫌。外何もないし」
「えー」
わたしが突っぱねると、透はあんまり残念でもなさそうに間延びした反応をした。
「そこ、椅子あるし。座ってよ」
「うん」
指差した先には三つ並んだボロボロの椅子がある。しばらく使われておらず掃除もされていないようで、座面には落ち葉や埃が被っていた。
ふたりぶんの席を手で軽く払って、わたしたちはそこに、線路に向かって腰掛ける。季節は冬なのに、風が吹いていないせいか意外と寒くない。
途端、目の前で電車のドアが静かに閉まった。
「あ」
透の口から声が漏れる。
結局、他には誰も降りて来ず乗る人もなく、わたしたちの乗っていた電車はかたす駅へ向かって発車した。
「行ったね、電車」
藍緑色の瞳をわたしの方へ向けて、透が言う。こうしてふたりで電車を見送るのが、なんだか少し、特別な感じがする。
「良いでしょ、別に。どうせここで待ってるんだから」
わたしがぶっきらぼうに答えると、透は微かに笑みを見せた。
「たしかに」