弱さとは悪である。
ノーチラスにとって、それは絶対の方程式だった。
戦闘は決して嫌いではない。体を動かすことそのものが決して嫌いではないし、そもそもゲーム好きな性格が長じてこのゲームに手を出したのだ。今までプレイしてきたRPGの主人公たちはこんな感覚だったのだろうかと思うと、むしろ心が躍るような感覚すらあった。
だがよりによってそのゲームに拒絶された。あくまでもたまたまなのはわかっている。わかっているのに、それを認められない自分がいた。
「……くそ」
独り言ちて剣を振る。確かな手ごたえとともに、巨大な蟻の怪物はふたつに両断された。
こういう雑魚相手ならば何の問題もない。たとえそれが何匹群がっていようと、体が止まることはない。どれだけ醜い、あるいはおぞましい姿の敵であっても、それがボスでなくそこまでの道中であるならば剣を振ることができる。
なのにどうして。
どうして自分の体は、ボスと相まみえたときだけ動かなくなってしまうのだろう。
かつて所属した《血盟騎士団》団長ヒースクリフは言った。
「君の戦意は認める。だがそれでいてなお体が動かないというのであれば、おそらくフルダイブ不適合という障害だ。我々にも、もちろん君にもどうにもできない。機械との相性の問題だ」
思い出しながら、ノーチラスはまた剣を振る。身体動作のひとつひとつを確かめるように。
最初は衝撃的だった。あの少女──ユウキと言ったか──が言ったような問いを、ノーチラスもまず思ったのだ。
──そんな障害があるのか。
だが《鼠》に情報を求めたところ、決して多くはないが似たような症例があることが確認されているという返事があった。だがそれが果たして障害なのかと言われれば確証はない、という《鼠》の見解も添えられていた。
伝達障害の一種らしいこと、ノーチラスと同じように戦おうとしても動けなくなること、ひとによってはノーチラスよりも重症で雑魚モンスターとすら戦えない場合があることなど。
《鼠》以外の情報屋にも接触したが、得た情報はすべて似たような内容だった。そしてそれらのどれを吟味してもノーチラスにとっては全て弱さへの言い訳にしか聞こえなかった。気持ちで負けたから体が動かないのだ、そう言われてしまえばなにも言い返せないし、じっさい唯一ノーチラスのそれを不適合と断じたヒースクリフの言葉すら見方を変えれば気持ちの問題であると言っているように聞こえてくる。
なにより、ようやく参加できた最前線で情けない姿を晒したノーチラスにそのようなことを言ったプレイヤーがいたのだ。貶すような蔑むような、あるいは路傍の石を見るような目で。
自分は弱いのだと、痛烈に思い知らされた。
「……くそ、くそっ」
再び独り言ち、苛立ちを隠さず刃を振るう。
ノーチラスにはふたつの夢があった。ひとつは個人的な目標。もうひとつは、交わした約束。前者は正直なところ叶わなくたって構わないものだ。あくまで自分ひとりのものだから。だが後者に関しては、どうしても破るわけにはいかなかった。
そしてそのためには、やはりひとつめの目標も目指さなくてはならない。だからノーチラスは敵を斬る。
「まだだ……足りない」
ぶつぶつと、まるで幽鬼のように。
迫る敵をひたすらに排除していく。
とにかくレベルを上げる。レベルを上げて、レベルを上げて、レベルを上げて。そうしてひとりでフラグモブに挑み、勝って、初めて約束を果たすに足る人間になれるはずだ。
そのために──斬る。
斬って、斬って、斬って。斬って斬って斬って斬って斬って斬って斬る斬ル斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬斬──
「……まだだ……まだ……」
どれだけそうしていたのだろうか。ほんの一瞬のようにも感じたし、永遠のようにも感じた。
不意に、腕を誰かに掴まれる。
「……なん、だ」
「なんだじゃねえよ、時間だぞ。ルール守れねえなら来るな」
言われて初めて、設定していたアラームが鳴っていることに気づく。だがそれを止めようともしなかった。
男はノーチラスを谷底から引きずり上げた。決して逆らえないほどの強い力ではなかったが、抵抗する気力すらすり減らしていたノーチラスは為されるがままに引き摺られていた。
「ほら」
少し外れたところ、幹に細い枝だけを伸ばした木の根元に放り投げるように座らされたノーチラスは、やはり放り投げるように回復ポーションを手渡された。
「飲んどけ」
見れば、視界の隅のHPバーは残り一割というところまで短くなっていて、血のように赤く染まっていた。酸味のある液体を喉の奥に流し込むとその赤が少しずつ薄くなっていく。それに合わせるようにバーは伸びていき、やがて全体の半分ほど、黄のような緑のような半端な色に変化して止まった。
「……助かりました」
一息ついて、ノーチラスは礼を言う。男は呆れるようなため息をついてガシガシと頭を掻いた。
「おめえら、オレぁ今日は休むわ」
男がそう言うと、その後ろから数人の了承を示す返事があった。ノーチラスから視線を逸らさず男はそれに頷いて、どっかと隣に腰を下ろす。ノーチラスの欧風なものとは違う、日本の武士を思わせる鎧ががしゃりと音を立てた。
「おめえ、ひとりか」
「……ええ」
「ひとりでここは、キツくねえか」
「……ええ」
ひとりでなければならないのだ。そのためには、どれだけキツかろうと関係ない。掲げた目標も、交わした約束も。叶えるためならばなんだってやると決めたのだ。
だが男はその決意を知ってか知らずか、鼻で笑って膝に肘をつく。
「ハン。ならいいけどよ」
項垂れたノーチラスの視界の隅に、男の逆立つような赤い髪が見えた。その髭面に特徴的な髪色、そして和装。見覚えがある。あれは──そう、最前線。ノーチラスが初めて参加したボス戦にこの男も参加していた。
「無茶苦茶やるのはいいが、時間は守ってくれな。気持ちは同じだからわかるけどよ」
──気持ちは同じ。
その言葉に、ノーチラスはぴくりと反応した。
「……同じって、なんですか」
「あん?」
動きたいのに、動けない。戦わなければならないときに限って、自分は戦えない。
同じボス戦で、男が十分な活躍をしていたことをノーチラスは覚えている。双頭人型の怪物だった。その足にカタナによる斬撃を繰り出し、数人と協力してボスの膝を折っていたのだ。その一撃が決め手となって、攻略レイドは総攻撃を放ちボスを倒した。目立つことはなかったのかもしれないが、間違いなく功労者だ。
その男が、僕と同じ気持ちだと?
「僕の気持ちなど、あなたにわかるわけがないでしょう。きちんとボスに向かい合って戦えているあなたに」
「……なにを言ってんだ、おめえ」
男が戸惑いの声をあげた。それを無視して、ノーチラスは口調を荒げながら言い募っていく。
「僕は戦えない。動けないんです。戦わなければならないとわかっていて、僕だって戦闘に参加したくて、そのために地道にレベルを上げてきて」
そして晴れの舞台で、全てが無駄だったと思い知らされた。フルダイブ不適合──FNCと呼ばれるそれは、工夫や努力など関係なくノーチラスの動きに制限をかける。
「戦えないっておめえ、さっきまであれだけ」
「雑魚は関係ない。雑魚をどれだけ倒せたってなんにも変わらないんですよ。ゲーム攻略にはボスの撃破が不可欠だ。その不可欠なものに、僕は関われないんですよ。その気持ちが、ボス攻略に直接参加できているあなたにわかるわけがないんだ」
「……ひょっとして、おめえあのときの?」
「覚えていてくれたとは光栄ですね」
ハッとした様子の男に、皮肉げにノーチラスは笑う。あのときがどのときか知らないが、ボスの話題がきっかけで思い出すくらいだからどんな印象を与えているかは想像に難くない。どうせ剣を構えたまま微動だにできず数人の背中に隠れるように守られ、足手まといになっているあの情けない姿だろう。
「そうか……確か、ノーチラスって言ったか。すまん、ぱっと見じゃわからんかった。ずいぶんと、その、なんだ。やつれたというか怖い顔してたもんでよ」
「ひとの名前もまともに思い出していないのに気持ちが同じとはよく言ったものですね、クラインさん」
言葉の棘を隠そうともしないノーチラスに、クラインは顔をしかめる。だがそれに構うことなくノーチラスはさらに毒を吐く。まさに堰を切った洪水の如き勢いだった。
「僕の気持ちがわかる? ふざけないでください。戦わなきゃいけないとわかっているのに後ろで守られたまま戦いを見ているだけしかできない僕の気持ちが、ボスに向かって走っていけるあなたにわかるわけがないでしょう。動きたいのに動けない、そのもどかしさがわかるんですか。自分の目標がただの相性だけで断念させられる悔しさがわかるんですか!」
それは醜い感情の発露だった。自身もそれはわかっている。羨ましくて妬ましくて悔しくて、わかったふうな口調がただ癇に障っただけだ。悪気はなかったとノーチラスだってわかっているのに、クラインにこれでもかと文句を言う。
だから、彼の顔を見ることはできなかった。俯いたまま、ただ口調を強くしていくしかできない。
「僕は弱い。でも強くならなきゃいけない。その気持ちが、強くあれるあなたにわかるわけがない!」
そうして言い終えたあとのクラインの返事はしかし、大きく変わることはなかった。さっきと同じ、静かでわかったふうの口調。だが今度は癇に障るのでなく刃物が刺さるような感覚があった。
「……そう、か。そんなふうに考えるんだな、おめえ」
「っ!」
息を呑んだ。まるでどこまでも凪いだ湖面のような。覗き込むと自分が映って、それが嫌で波立たせると映った自分だけが消える。自分がただ駄々をこねているだけだとわかっているだけにクラインの言葉はより深く切り込んでくる。
「確かにおめえの置かれた立場とか環境は知らねえよ。正直なことを言えば知ったこっちゃねえ。けどな、それでも気持ちはわかるもんよ。特にこんな世界になっちまったらな」
ザク、と。クラインは横に置いていた見慣れない和風の拵えの曲刀を鞘のまま地面に突き立てた。
「死にたくない、死なせたくない。だいたいみんなそう思ってる。思ってない例外もいるんだろうが、少なくとも攻略組にいる、いた、って奴らはだいたい同じだよ。自分のために、もしくは誰かのためにこのゲームを終わらせたいんだ。……お節介を焼くようで心苦しいがよ、おめえもそうじゃねえのか?」
言われ、ノーチラスは項垂れたまま強く拳を握る。
──約束したんです。
ついさっき、そう言ったばかりだ。交わした約束は誰かのためでもあって自分のためでもあって。そして確かに、死なせたくないという思いから生まれたものだ。
言葉を返せないノーチラスに、クラインは話し始めた。
「オレの周りにゃ似たようなヤツばっかりでな。《黒の剣士》、知ってるだろ」
「……《攻略の鬼》」
「そうとも呼ばれてるな」
ボス攻略に毎回参加し、そのたびに目覚ましい成果を上げる、おそらくはアインクラッド最強の剣士。全身黒ずくめであることからクラインのような呼びかたをする者もいるし、ボス攻略へかける熱意が高すぎることからノーチラスのような呼びかたをする者もいる。攻略組に参加したことのあるノーチラスはもちろん、そうでなくてもアインクラッドで知らぬものはいない。《聖騎士》や《閃光》に並び称されるトッププレイヤーだ。
「あいつが攻略にお熱な理由がな、さっきも挙げた《死なせたくない》ってことなんだとよ。第一層ボス攻略のときに起きた事件は知ってるよな」
「《梟》、ですか」
「そうだ。そのときにな、目の前でプレイヤーがひとり死んじまったんだと。それが忘れられなくて、それ以来誰も死なせないっつって自分が誰よりも最前線に立つと決めたんだとさ」
今のようにイベントクエストが開催される間は攻略の手は止まる。だが《鬼》はひとりでも迷宮区のマッピングをしているのだという。さすがにソロでボスに挑むような真似はしないけどな、とクラインは笑うような呆れるような口調で言った。
「それにその《梟》もな。こっちは推測でしかないからなんともだが、たぶんあいつも同じなんだろうとオレは思ってんだ。周りがなんと言おうと、オレはあいつを信じる」
「……《梟》を、ですか」
「おうよ」
それはあのふたり組も似たようなことを言っていたというのをユナから聞いている。《梟》にそんな情状酌量の余地があるなんて考えたこともないし、とてもではないがノーチラスはそんなことは考えられなかった。《梟》を筆頭に《笑う棺桶》やそれに連なるレッドやオレンジはその全てが敵なのだ。全て排除するとまではいかないが、到底容認できるものではない。
「とても、そうは思えないですが」
「そりゃあそうだ。ほとんどの連中からすりゃあいつは凶悪な犯罪者だもんよ。信じろっていうほうが難しいだろうな」
けどな、とクラインは言って、ノーチラスの頭をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でた。
「な、何をするんですか!」
「似た者同士だと思ってよ」
「は?」
クラインの手を振り払う。そのとき初めて、ノーチラスはクラインの顔を見た。髭面の男は真面目な顔をして、真っ直ぐにノーチラスの目を見ていた。
「おめえ、ひとりじゃねえだろ」
「……っ」
どきりとした。ユナの顔が思い浮かび、ノーチラスの動きが止まる。
「二ヶ月前、おめえとウタちゃんと何人かで、トラップに引っかかったパーティを助けに行ったことがあったろ。そのときのメンバーに、ウチのギルドの連中がふたりいたんだ。だから知ってんだよ」
ウタちゃん。ユナはそう呼ばれている。名前を公表していないがユナの存在は《吟唱》スキルによって知れ渡り、いつの間にかそんな愛称がつけられていた。
「それから、その場で何があったのかも知ってる。だから似てるんだ、おめえらは。死なせたくないんだろ。守りたいんだろう、おめえ。──ウタちゃんが、ラフコフに狙われるから」
「──!」
思い出すのは短剣の男。あの男の去り際に残した言葉が、まるで焼きついたように耳から離れない。
「……『また頼むぜ、馬鹿ども』」
「ああ、そんな言葉だったらしいな。聞く話じゃウタちゃんに限らず中層プレイヤーの全員が狙われてるらしいがよ、そんなのは関係ねえよな」
「……ええ」
関係ない。そう、関係ないのだ。決してユナだけを狙っているわけではない。だが、だからといってユナが狙われない理由にはならない。ならばノーチラスにはそれだけで十分だ。
拳を強く握る。額に皺が寄るのがわかった。
それを見たクラインは、ふっと顔を綻ばせた。
「ウタちゃんのため、か?」
クラインはふたりが知り合いだと知っている。ならば隠す必要もない。ノーチラスは素直に頷いた。
「……ええ」
──絶対に、生きて帰すよ。
約束したのだ。ユナとふたり、デスゲームが始まったあの日に。その約束を違えるわけにはいかない。
ユナをこのゲームに誘ったのは自分だ。自分が誘わなければユナはこのゲームに参加することなどなかったかもしれない。つまり、ノーチラスがユナを閉じ込めたも同然だ。ならばノーチラスにはユナを無事に生還させる義務がある。
これはノーチラスの責任なのだ。
「やると決めたんです。なら、僕はやります」
たとえ敵が誰であろうと、絶対に負けられない。
強く、なるのだ。
「やっぱり似た者同士だよ、おめえら」
「……似てませんよ」
《梟》だの《鬼》だのと、あんな化け物たちと一緒にされるほどノーチラスは良くも悪くも飛び抜けていない。
呆れるように笑うクラインに短く反論して、ノーチラスは立ち上がった。これ以上ここで話していても何にもならない。狩場の列はパーティひとつぶん短くなった。おそらくクラインのギルドのメンバーだろう集団がこっちに歩いてきているのが見える。
三十分も休めばじゅうぶんだ。ノーチラスは列に並ぶべく歩いていく。
クラインの、ギルドメンバーを労う声が背中に小さく届いた。
「それで、止めるのはいいんだけど。どうやって止めるかっていうのは、ユナは考えてあるの?」
ユナがマグカップをテーブルに戻すのを待って、アスナは話を進める。
依頼されたのはノーチラスを止めること。止めるというのは、彼がこれからやろうとしているソロでのイベントボス撃破を阻止するということだ。ユナに確認を取れば、それで間違いないと頷きが返ってくる。
だが、どうやって。それについては、明言がされていなかった。
「えっと、それがね。とにかくなんとかしなきゃって思ってただけだったので、その」
「……ノープランなのね?」
「はい。ごめんなさい」
しどろもどろに手遊びをし始めたユナに、アスナは鋭く切り込む。図星を突かれ、ユナはすぐさま頭を下げた。
「ああいや、責めてるわけじゃないのよ。なにか思いついていれば御の字ってだけで」
慌ててアスナはフォローする。ただ単純に現状の確認をしたかっただけだったのだが、確かに険のある言いかたにはなってしまったかもしれない。
「まあしょうがないよね、アスナってばこういうとき怖いもん」
「ユウキ?」
「ほら」
「ユウキ!」
「きゃー!」
「あ、あはは……」
だがそれには理由があった。間違ってもユナにではなく、あくまでアスナの中に、だ。それが表に出てしまったのは反省しなければならない。
「ごめんね、わたしのほうでも行き詰まってたものだから。ちょっとトゲトゲしてたかも」
「? なにかあるの?」
「ええ。ギルドのほうでね」
「ああ、《血盟騎士団》」
アスナの言葉に、ユウキが頷く。
冬のイベントクエストまで、残り期間は八日──日付が変わって七日になった。アスナが所属する《血盟騎士団》、通称《KoB》もイベントのフラグポイント捜索は行っている。報酬が美味しいとわかっていて逃す手はない。ゲーム攻略にあたって間違いなく有利になるはずだからだ。
「モミの木を探すって話だったでしょう。ウチは人手があるからいろいろなところに出向いてるんだけどね」
「見つかんないの?」
「ええ。驚いたことに、一本も」
アスナは頷きはしたが、同時にため息もつく。
モミの木そのものは、誰もが見たことのあるシルエット──クリスマスツリーの形を探せばおのずと見つかると思っていた。似たような木としてスギの木があるが、その違いをアスナは知っている。あれだけ必死に頑張った受験勉強がゲームで役に立つなんて、と皮肉めいたことを思ったが、これも実践だと思い直した。
だが、フィールドが広すぎる。暇を持て余した中層プレイヤーのとある一団が、それぞれの層の広さを計測してみたことがあるらしい。ざっくりとしたものでしかないが、最も広いとされる第一層で一周するのに丸四日かかったという噂がある。現在到達している四十九層がどうかはさすがにレベルの問題で計測不可能だが、二十層までの計測記録から概算するに、およそ一層の三分の二。このゲームのタイトル画面に出た蒼穹に浮かぶ城がそのままアインクラッドの全貌ならば、頂上の百層は恐らくボスの居城でありそれのみとして、その下、九十九層の広さですら一層の三分の一。
最も狭いエリアでも大外回りを一周するだけで丸一日はかかるのだ。
その中から、一本の巨木を探し出す。まして似たようなものの中からひとつだけ。それはまるで砂漠の砂金探しのような、途方もない作業だった。
「今もメッセージでそれっぽいのの発見報告は届くんだけど、もう五十本は超えるかな。そうなるとこれかもあれかもって思っちゃって、そしたらぜんぶ怪しく見えてきちゃって」
「でもよく見ると、全部違う?」
「そう。どうなってるのかしらね」
スギの木ばかりがあって、モミの木が一本もないなんてことがあり得るのだろうか。
同じ裸子植物、葉の形が似ていることから綱だか目だかというところまでは同じだったと記憶している。植生の分布などは覚えていないが、確かあまり入り混じっての林などはなかったはずだ。つまり育つ環境が異なるはず。
だが、アインクラッドはその層ごとに環境をガラリと変える。ここまで四十九層、その全てがモミの木に合わないなんてことがあるのだろうか。アマゾンのような熱帯、あるいは北極に近いツンドラのような寒帯まであって、そのどれもがモミの木だけに合わない──?
「例えばの話だけど、出現場所が実はこの層より上でしたっていうことはない?」
ユナは淡い期待を込めて思い付きを口にする。もしもそれがあり得るのだとしたら、どうしたって出現場所はわからない。だがそれならばノーチラスが単身でボスに挑むことはなくなるし、アスナもこれ以上苦悩することはなくなる。
だが、アスナの首は縦には振られなかった。
「それね、アルゴさんにも聞いてみたんだけど。『それはないヨ』って言われちゃった」
『NPCがイベント情報を言い始めたということは、フラグは立ったということダ。つまり、イベントクエストは絶対に解放された層のどこかで受けられるし、参加もできル。フラグを立てるだけ立てて何もイベントが起きませんでした、なんてことをゲームでやったら大炎上ものだゼ』
『炎上……は、もうしてるんじゃないですか』
『……確かニ』
ゲームに疎いアスナでも、一年も経てばスラングなどには慣れる。炎上だのフラグだのモブだのと、初めは聞き慣れない言葉であっても聞き続ければ覚えるものだ。
そうして気づいたのは、このゲームの完成度は非常に高いということだ。フルダイブ機能や液体表現からして出来が良いとは思っていたが、ゲームに慣れてきた今だからよりわかるものがある。中でも、ラグやバグといった通信障害やシステム不調といったものがないことが印象的だった。だからアルゴが言うようにフラグを立てるだけ立てて放置するはずがないとアスナも納得した。
「層をまたぐものはあれど受注した層である程度は完結するようにできてるから、未来の、未開放の層にターゲットしたクエストなんて作るわけがない。クエストを受けられる、つまり進められる段階にきて初めてNPCの情報が更新されるわけで、だからここより上の階層に出現場所を設定するなんてことはあり得ないそうよ」
「そっかぁ」
「……まあ、だから絶対にモミの木はあるわけで」
実はイベントなどなかったということにはならない、ということをアスナは自分で言って少し後悔した。手元に表示していたウインドウを操作すると、ギルドチャットに送られてきたギルドメンバーからの報告状況が更新されてさらに巨木の画像が増えた。それぞれにそれらしい巨木が表示されていて、やはりそのどれもがそれっぽく見えてしまう。思わずうー、と唸り声をあげた。
「んー……でもじゃあ、ノーチラスさんを止めるにはボクたちでボスを先に倒しちゃうってのが方法のひとつかな?」
イベントが起きないことはないということは、ボスは絶対にどこかに現れるということ。ならばノーチラスが挑む前に倒してしまえばいい。それがユウキの思い付いた案だった。
「え……私たちで?」
「あ、もちろん三人でじゃないよ? あんまりユナに無茶させらんないし。それに、別に何がなんでもボクたちじゃなきゃダメっていうわけでもないんだけど」
戸惑うユナに、ユウキはすぐにフォローを入れる。さすがに攻略組の戦力とはいえ、そこにユナのサポートがあっても厳しいのはわかっている。
ノーチラスより先にボスを倒せるのであれば、それが誰であっても特に問題はない。ユウキが思い付いたのは、ノーチラスの目標をなくしてしまえば彼の足は止まるのではないかということだった。
だが、それは。
「……問題を先延ばしにしてる気がしない? 結局、強い敵が現れるようならフロアボスでもフィールドボスでも目標になりそうだし。なにより、出現場所がわからないじゃない」
「そうなんだよねぇ。どこに出るのかわかんないし、そもそもイベントボスじゃなくてもって感じはしなくはないよね」
攻略組から除籍され、それでもボスに挑む。先ほどの一幕で去り際に彼が見たのはユナだった。そのことから、ノーチラスは強さを求めているのではないか。ふたりはそう考えていたし、あながちその推測は間違ってはいない。
けれど、それでも。
「……ううん。たぶん、だけど。エーくんは、そういう攻略に関わるボスには挑まないよ。きっと、今回のイベントで決めようとしてると思う」
ふたりの話に首を横に振るユナに、ふたりは視線を向ける。口にはせずとも、目が『どうして?』と語っていた。
「だって──」
言ったのだ。ノーチラスは──エーくんは。『約束した』のだと。『やると決めた』のだと。彼は忘れていないし、見失ってもいない。きっと、ずっと。そのためだけに動いている。ならば間違いなく彼はイベントボスに挑むし、それ以外はあくまで次の段階として見ている。それは絶対と断言だってできる。
その理由を、ユナはうまく説明できる気がしなくて。
「──そういう、ひとだから」
結局、そう言うしかなかった。
「……説得力ないかもだけど」
彼のひととなりを知っているのはユナだけだ。だというのにそれを理由に断言したって、やはり『どうして』と疑問がわくことだろう。それでもユナにはそれ以外の表現はうまく見つけられず、思考がそのままこぼれ出すように言葉がまとまらない。
「えっとね、なんていうか信じられないかもしれないんだけど。そういうひとなんだよ。あのね、真っ直ぐっていうか、変なところで冷静っていうか、熱くはなるし無茶もするんだけど、筋道はたってるっていうか」
だが、ユウキたちは頷いた。
「うん。わかるよ。だいじょーぶ」
「え」
「ならやっぱり、ボスを先に倒す方向で考えなきゃならないわね」
「え、え?」
説明が必要だと焦っていただけにユナは戸惑う。あれで伝わるなんて露ほども思っていなかった。それがまさかすんなりと頷かれてしまうなんて。
「……今ので、いいの?」
「え? うん、じゅーぶんだよ。ね? アスナ」
「そうね。そういうひとなんでしょ? ユナが言うんだから」
「──!」
息を呑む。
ユナが言うから。それだけで、このふたりは信じてくれる。そういうもの、そういうひとなのだと受け入れてくれる。
よかった、と心から思った。このふたりに依頼をしてよかったと。
そんなユナの心境を知ってか知らずか、ふたりは話を進めていく。
「てことは、どうあってもモミの木を探さなきゃならないわけだけどさ。どうしよっか?」
「なんでもいいからギルドのみんなとは違うアプローチが必要ってことよね。アルゴさんは?」
「え、さっき会ったばっかりだけど」
「でも、アルゴさんよ?」
「確かに」
数時間前に会ったばかりだ。まだ窓の外は暗い。六時間も経っていないだろう。たったそれだけの時間で、有用な情報を掴めるものだろうか。
だが、アスナの短い一言にはなぜか説得力があった。それにつられるようにして、ユウキはメッセージウインドウを開く。
そして、目を見開いた。
「……え」
ちょうどその瞬間だった。開いたそのとき、一件のメッセージを着信したという通知音が鳴った。
差出人は──アルゴ。
「あれ、私にも来たよ」
「わたしにも」
同時に、ふたりにも着信があった。やはりアルゴからだ。
そしてふたりともが、ユウキと同じく目を見開いた。
「……こ、れは」
「嘘……だよね?」
三人は顔を見合わせる。アルゴがこういったもので冗談を言うわけがない。
だが、メッセージの文面はまるで冗談のような内容だった。もしもこれが本当なのだとしたら。起こるのは──
「……戦争ね」
アスナの言葉は決して大袈裟ではないとユウキもユナも感じていた。それほどに重大で重要な、冗談じみた内容だった。
『イベントクエスト追加情報ダ。【ニコラスの大袋の中には、命尽きた者の魂を呼び戻す神器さえもが隠されている】とのこト。要するに、死者が生き返るかもしれないということダ。プレイヤーの人口集中が予想されル。周囲によく注意されたシ』
「あの! 《黒の剣士》さんですか?」
男の声に、少年は振り向いた。黒髪に黒のロングコート、黒いズボンに黒いブーツ。薄暗い洞窟のような迷宮区の中で、手に持った剣の抜き身の刀身だけがぎらぎらと鈍色に光っていた。
「僕たちは月夜の黒猫団っていいます。あなたに助っ人を頼みたくてきました。報酬はイベントの特別ドロップアイテムです」
男はケイタと名乗った。ケイタは息つく間もなく続ける。焦りと緊張でやや口早に。明らかにケイタよりも少年のほうが年下であろうに、眼光と呼吸、立ち居振る舞いはまるでそうと感じさせない。少年が振り向いた瞬間、ケイタが《怖い》と思ったほどだ。
それでもケイタはギルドの長として、気丈に振る舞う。攻略組に入り、トッププレイヤーの仲間としてゲームを攻略したい。それは彼の意志でもあり、ギルドの意思でもある。背負った以上、なんとしてもやり遂げなければ。
「僕たちは実績が欲しい。イベントボスを僕たちで倒したという実績が。それがあれば、きっと攻略組入りも夢じゃない。そうやって教わりました」
少年は無言だった。振り向いたときに一瞥したきり、一度もケイタを見てはいない。だが、ややあって。
誰からだ、と。まるでしばらく言葉を発していなかったかのように小さく掠れた声で、少年は呟いた。
「教えてくれたのは、情報屋だっていう短剣使いです。名前は、確か……《ジョニー》さん──ひっ」
ガィン!! と。少年は剣を壁に叩きつけた。ジョニー、と少年が呟く。
断片しか知らない。知らないが、その名には聞き覚えがある。あのとき──あのとき、《彼》の行く先にいた男の名だ。
少年は深く息を吐き、頷く。
──いいぜ。あんたたちの助っ人、頼まれよう。
剣を鞘に収める。
少年は、闇に溶けていた。