「リンク・スタート」
起動の合言葉を口にした途端、意識が一瞬だけ途切れ、そしてすぐ真っ白い空間をまっすぐに進んでいるかのように色とりどりの光の柱が通り過ぎていった。
軽快な電子音とともにさまざまな認証のコマンドが現れては消え、ふたたび光の柱群の中を抜けると、にわかに視界が暗転する。
そうしてまぶたを開けると、そこは異世界だった。
「おお……」
自室のベッドで寝ているはずの俺が見ているのは、青い空と遠いところで空を舞う鳥ではないなにか。うっすらと空の上に透けて見えるのは次の層の底らしい。
手を持ち上げて開閉すると、確かな指の感覚。
いつのまにか履いていたブーツの裏に感じるのは石畳の圧。とんとんと踵を打ちつけると、コツコツと音が返ってきた。
「すげえ……」
これが仮想現実。
これが、ゲームの中。
とてもじゃないがそうとは思えない。思えないが、俺の五感はこれが現実だと嫌でも知らせてくる。
なんとも言えない衝動が体の内側からせり上がるとともに口角が釣り上がるのがわかって、それを隠すように右手を口にやる。いてもたってもいられなくなって、俺はついに第一歩を踏み出した。
「あ、いたいた。おーい」
ひととおり街の中を歩き回ってスタート地点の噴水広場まで戻ってくると、ちょうど待ち合わせていた知り合いがログインしたところだった。
長身痩躯に、俺と同じ革製の初期装備。そして鮮やかな、赤のロングヘアー。事前に打ち合わせて知らせてくれたとおりのイケメンっぷりだ。顔の造形もかなり整っていて、アバター作成にかなり時間をかけたらしいことが伝わってくる。
パーティを組むと、視界の左端に彼の名前とHPバーが表示される。名前はクライン。これも聞いていたとおりだ。
「遅えぞー。俺もうこの街をひとまわりしちまった」
「マジか? それはスマンかった。許してくれ、このとーり!」
ぱち、と拝むように頭を下げる。その動作が現実の彼の顔を思い出させて少し笑えたので、それで許してやろう。
俺が来るのが速すぎたってのもあるだろうし。なんたってサービス開始直後の時刻にログインして、アバターをテキトーに作ってしまったからな。噴水広場に一番乗りだった。
「それにしても、フルダイブってすごい技術だよなあ」
「なんでえ、藪から棒に」
「いやな、さっきも思ったんだけどさ、改めて」
ゲームの中に入り込むなんて、夢のまた夢だと思っていた。剣や魔法でモンスターを倒したり、お宝を求めて冒険をするという行為ができるのは小説や漫画やゲームの世界だけだと思っていた。
その夢物語を、ナーヴギアというヘルメット型ゲームハードはそれを現実のものにした。詳しいことは俺自身よくわかってないけど、脳から出た電気信号を汲みとってゲームハードに読み込ませることで五感をこちらに持ってきているのだとか。そのおかげで、現実の体はベッドに寝転がったままでもこうして動き回ることができる。うん、理屈はわからんけどやっぱすごいことだよな、コレ。
「見る聞くはともかく、触れるって凄くね? ほら、剣とか持てるんだぞ」
さすがに街中だし抜きはしないけど。それでも腰に下げた初期装備剣の柄を撫でると、グリップのザラザラ感がざらざらと伝わってくる。昔、小さいころにじいちゃんの家に飾ってあった日本刀の柄と似たような感触。あるいは高校まで使い込んだバットのすり減ったグリップのような。
「あー、そうなぁ……あ! おーい、そこの人! 待ってくれえ!」
「おい、聞いて?」
だが赤毛のイケメンはまともに聞いてくれていなかった。それどころか見知らぬ人に向かって走っていく始末。待ってくれは俺のセリフだ。
「えっと……どうかしました?」
いきなり呼び止められた青年は、困ったように頬をかいていた。いざ冒険だというところで止められたら、そりゃ誰だって戸惑うわ。
だがその困惑を無視して、クラインはがっしと彼の両肩を掴んだ。
「その迷いのない走り! アンタ、ベータテスターだろ?」
「え」
「なぁ頼む、オレら初めてなんだ。レクチャーしてくれないか?」
「あの」
「あ、まだ名前がまだだったな」
「いや」
「オレはクラインってんだ。こっちがシュウ。よろしく!」
ばしっ、と背中をはたき、イケメンかつ人好きのする笑顔であれやあれよと話を進めていく。ちらりと黒いほうのイケメンが助けを求めるようにこっちを見たが、俺だってレクチャーは受けたい。ので、ふるふると首を振って、拝むように手を合わせた。
「はぁ……わかった。俺はキリト。とりあえず、武器屋行く?」
おう頼む、とクラインが満面の笑みを浮かべる。
こうしてかなり強引ながら、アドバイザーを仲間にしたのだった。
クラインとは、リアルの知り合いだ。と言っても直接の接点はない。俺の大学の先輩の、会社の同期の大学の先輩。ややこしいけど、知り合ってしまえば友人である。二十歳の誕生日に先輩が連れてってくれた飲み屋で席が隣になって、なかなかに話が弾んで、たまたま俺とクラインが同じゲームを買えていて、なら一緒にやろうやということになった。
クラインはクラインでリアルの知り合いとやる予定らしいし、俺は俺で一緒にやろうかと話がついている知り合いがいる。だがスタートはズレる予定だし、けど俺とクラインはサービス開始直後にログインできるから、なら始めだけでも、ということで。
「オレ、敬語使われんの苦手なんだよなー。なーんかこう、ムズムズするっていうか」
「俺は別に構わないんですよ? 敬語にしても」
「オレがヤなの。ネットゲームのときくらい先輩後輩は忘れたいだろ」
「直接の先輩じゃないからリアルでも使う気ないけど」
「なんだとこのやろ、ちょっとは敬えよ?」
「はは、仲良いんだなふたりとも」
そんな話をしていると、いつの間にか夕焼けが草原を染めていた。
ログインしたのは昼過ぎだった。それが今や中天にあった太陽が大きく傾き、少しずつ朱色の空に紺色を交え始めている。
どうやらゲーム内時刻は現実とリンクしているらしく、もう五時をまわろうとしていた。この仕様、俺はいいけど社会人とかどうなの? 夜しか見れなくない?
「スイッチ」
「おうよ!」
俺の掛け声に合わせて、敵前にクラインが躍り出る。右肩に担ぐように構えた曲刀がオレンジの光を纏い、一閃。
キリトのレクチャーはぶっちゃけわかりづらくて、最初はものすごく戸惑った。なんだよ、グッとやってズパーンって。わかるかそんなん。感覚派か。
だがひとつの動作をひたすら練習していると嫌でもコツが掴めるもので、そうすると不思議なことに、グッとやってズパーン! がわかるようになってしまった。その説明にぶーたれていた俺も、グッとやってズパーンとしか説明できない。腑に落ちない話だ。
「これで終わりだ!」
キリトの剣が光る。3分の1くらいまで減っていた敵のHPが一気に削られ、ガラスの砕け散る音が響いた。
「うん、上出来。すごいな、もうスイッチまで完璧じゃないか」
「へっへ、オレたちゃ最強パーティだからな!」
キリトの言葉に、クラインはものすごく自慢げに胸を張る。まだ序盤も序盤、イノシシしか倒してないけど。まいいか。
せっかく3人いるのだから、とパーティを組んでみると、それはもう楽々サクサクと戦闘が進んだ。スイッチというパーティならではの戦闘員入れ替わり戦法みたいなのがあったが、これがまた面白いくらい決まる決まる。経験値の共有もされるようで、あっという間にレベルがひとつ上がり、新たにひとつスキルを選べるようになった。
「それにしてもシュウよ、お前なんでそんなにパリィが上手いんだよ? あれかなり難しいってダチが言ってたぞ?」
「ん? パリィ?」
「敵の攻撃を弾くことだよ。怯ませたりしやすいタイミングがあるんだ」
「ああ、アレのことか」
キリトの説明で合点がいく。
ソードスキルの練習のときにたまたま上手くできたアレのことだな。なんだか俺の攻撃を当てて動きを止めた瞬間のモンスターが驚いてるように見えて可愛かったから狙い続けて、そうするとだんだん上手くなっていって今度はちょっと楽しくなったアレ。
「ベータをやってた俺もパリィはそうそう上手くいかないんだが、シュウはほとんど成功するよな」
「そうそう、そうなんだよ! なぁコツとかあるのか?」
「そんなこと言われてもな……」
コツ、コツねぇ……。
「忖度、とか?」
「ソンタクぅ?」
「相手の気持ちを考えるんだ。相手が動きそうなタイミングで、いちばん狙われたくない部分を狙うんだよ。右足で蹴ろうとするから軸足になる左足を蹴飛ばす、みたいな。わかるようになってくると、右で蹴るからその前に右を切る、みたいなこともできそうだよな」
「うわ……」
「ヒデェ」
「おい」
聞かれたから答えたのになぜ引かれる。いやまあ、忖度の使い方を間違ってることはわかるんだけど。たぶんそこじゃないよな。コイツらはアホの子を見るような目で他人を見る奴らじゃないって信じてる。
「やってみれば案外できるって。次の戦闘でやってみろ?」
「いやぁ、オリャとりあえずソードスキル磨くわ。それに頼んどいたピザがそろそろくる時間なんだよな。いったん落ちるぜ」
「ああ、じゃあいい頃合いだな」
「そうか、もうそんな時間か。シュウは?」
「そうだなぁ……待ち合わせとは言ったけど、今日じゃないしな。キリトがまだやるなら、それについていこうかな」
「お、じゃあ次の村まで行ってみるか?」
「いいね」
太陽はもう半分も沈んでいる。これもしかして、このエリアの端っこから見たらずっと太陽が見えたりするんだろうか。あとで街の外縁部に行ってみよう。
じゃあ解散だな、楽しかったぜ、またな、とクラインに別れを告げる。
そしてキリトと連れ立って、ログアウトをするクラインに背を向けて歩き出したところで。
「……あれ? なぁキリト、ログアウトってどこからやるんだっけ?」
クラインのどこか間抜けな質問に、かくんと膝から力が抜けていった。
「メニューの奥深いところだろ? 右手振って出るウィンドウのいちばん下のはずだけど」
「そうだよな? そこで合ってるよなぁ」
キリトの解説に、クラインは煮え切らない返事をする。
「なに、どした?」
「いやな、ログアウトのボタンがみつかんねえんだ。キリトが言ってたいちばん下とか、そのあたり探してみたんだけどな」
「ログアウトできないってことか?」
俺の質問に、クラインは心なしか泣きそうな顔で頷く。なんでそんな悲しそうな……ああ、ピザ。
「ログアウト! 脱出! GM! ピザ! ピザぁ!」
「いや叫んでも……」
ていうかピザはコマンドじゃない。
しかしじっさい、これは由々しき事態だ。ゲームをやめられない、というとなんか違う意味になりそうだが、ゲームを止める方法が見つからないというのはかなり危ない。ましてサービス初日だ。こんな大きなバグはマズいんじゃないのか。
「ほかに方法は?」
「ないことはない、と思う、けど……」
キリトの声がだんだんとしぼんでいく。けど? と問いただすと、明記されていない、と首を横に振った。
「少なくとも、ゲーム内部からの手段としてはログアウトボタンを押すこと以外に俺は知らない。……くそ、ナーヴギアの説明書とかもちゃんと読んでおけばよかったな」
知らされない、というのも不手際だ。いや、知ろうとしなかった俺たちもそこは同じか。俺なんてゲームのパッケージすらチラ見した程度だ。なお悪いな。
しかし本格的にマズい。これじゃあピザもそうだがトイレとかどうするんだ。嫌だぞ、部屋のベッドで気づいたら漏れてるとか。
そんな俺の焦燥を察知したのか、《はじまりの街》の方角から大きな鐘の音が鳴り響いた。ゴォン、ゴォン、と規則的にゆっくりと打ち鳴らされるそれは心音に合わせているようで、少しだけほっとした。
だが同時に、嫌な予感もした。鐘の重く低い音が、腹の底を叩いた。
体が青白い光に包まれる。
気づけばゲームを始めたときと同じ場所に立っていた。《はじまりの街》の中央、噴水のある大きな広場。周りのあちらこちらでも同じように、光の中からプレイヤーが続々と現れる。
そうして人で埋め尽くされたとき誰かが、上だ、と声を荒げた。
赤い空に広がる、より深い赤の市松模様。warningと読めるパネルの隙間から漏れ出したどろりとした赤黒い液体は見えない器でもあるかのように空中でひとつにまとまり、それはやがてヒトのカタチを成す。
巨大な、フードを被った誰か。
そいつは両手を広げて言った。
「プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ」
──なんの冗談だ。
ようこそ、ときた。このゲームから出る方法がないと騒いでいるこのタイミングで、よりによって歓迎の意を示す。ふざけてんのか。
巨大なアバターから発せられた言葉で、キリトやクラインや、そのほか周りに集められたプレイヤーからも戸惑いや不安によるざわめきが消え、ただ宙に浮いたアバターを呆然と見上げるだけとなる。
そしてそれを狙いすましたかのように、広げていた手を下ろし、その声は続けた。
「私の名前は茅場晶彦。今やこのゲームをコントロールできる唯一の人間だ」
途端に、広場にざわめきが戻った。隣に立っていたふたりですら空いた口が塞がらないといった感じだ。茅場、とあちこちからつぶやきが漏れてくる。
だが、フードのアバターはそれらを気に留めず話を続けた。
「プレイヤー諸君は、すでにメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気づいていると思う。しかしこれは不具合ではなく、ゲーム本来の仕様である」
「……は?」
フードの、茅場の言葉に、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
仕様、と言ったか。ログアウト不可が不具合じゃない、と?
いや、ナーヴギアを外から外せば、まだ可能性はある。ゲームに詳しいキリトですら内部からの手段しか知らないと言った。なら、外部は──
「ゲームからの自発的なログアウトは不可であり、また、外部の人間の手によるナーヴギアの停止あるいは解除も不可である」
「……おい」
「もし外部からの強制解除が試みられた場合、ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが諸君らの脳を破壊し、生命活動を停止させる」
「……おいおい」
なんだそれは。内側からはダメ、外からもダメ。無理にでも出ようものなら──死。
たかだかゲーム機でそんなことができるのか、という疑問は、茅場の周りに現れたウィンドウに映るニュースでかき消える。死者213人。残された遺族は。ナーヴギア、ソードアートオンライン。そんな文字列ばかりが並んでいて、その中には実際に外そうと試みて命を落としてしまったという報道もあった。
「……マジか」
隣でクラインがつぶやく。その声がやけに大きく聞こえるほど、広場は静まり返っていた。キリトもウィンドウを凝視して言葉を発さない。
「そして、じゅうぶんに留意してもらいたい。このゲームにおける、いかなる蘇生手段も機能しない。HPが0になった瞬間、諸君らのアバターは永久に消滅し、同時に……ナーヴギアによって脳が破壊される」
沈黙のなかで、茅場の声だけが大きく響く。
「諸君らがゲームからログアウトする方法はただひとつ」
そして、上を示した。
「この城の頂を極めることだ」
みたび、広場に喧騒が戻った。
不安と、それから諦念。周りから聞こえるのは、βテストの二ヶ月間でも十層にたどり着いていないというものと、それも死に戻りを前提とした特攻による結果だという話だった。
キリト曰く、死に戻りというのはこういったゲームではよくあることだという。各フロアに一体ずつ配置されたボスは先ほどのイノシシとは比較にならないほど強い。それに何度も挑み、ボスの行動パターンを知り、対策を立て、初めて討伐を可能とする。それが一般的だと。
「だが、それができなくなった。ボスに対して、死に戻りという情報収集の手段が消えたんだ」
「……それは、マズイな」
「まずいなんてもんじゃねえ。無茶苦茶だぜ」
クラインは頭痛でもするかのように頭を抑えた。
俺はあまりゲームをする人間ではなかったからあまり実感がなかったが、慣れている人間からすればたまったものじゃないはずだ。現に、さっきの簡単な説明を聞いただけの俺でもヤバいことはわかってしまう。
それを、第百層まで続けなければならない。
死んだら、終わり。
ぞわ、と背筋をなにかが這う感覚がした。
「こんなの、ゲームでもなんでもないだろ」
キリトが吐き捨てるように呟く。
クラインもまた、信じねぇぞ、信じねぇ、と頭を抱えたままぶつぶつと喋っている。
ふと、なにかの記事に書いてあった言葉を思い出した。
「……これはゲームであっても、遊びではない」
「なんだ、それ」
「茅場の言葉だよ」
とあるインタビューで茅場が放った一言だ。読んだときはゲームも遊びも同じだと思っていた。だが、今ならこの意味がわかる。
遊びにかまける余裕はない。
このゲームを全力でプレイしなければ死ぬ。
この事態を踏まえての言葉だったのだとしたら。茅場という男は、とんでもない大悪党だ。
「これはゲームなんだ。これが茅場の仕組んだことであるなら、間違いなく。止まることなく、クリアを目指さなければならないということなんだろう。そこに遊びの入る余地はない、と」
やめどきが見つからずに困るくらいなら、やめどきをなくしてしまえばいい。つまるところ、そういうことなんだろう。
「……馬鹿馬鹿しい」
キリトはやはり、吐き捨てるように呟く。
まったく同感だ。自分なりに受け入れられるよう試みてはみたが、それでもゲームから脱出できないなんて事態は夢想が過ぎる。
いやまあ、わかるところはわかる。やめどきの例えなんか、なかなか的を射た表現じゃないかと思う。
だが、だからってこれが現実とは思えないし、思いたくもない。
「それでは最後に、諸君にとってこの世界が現実であるという証拠を見せよう」
そんな俺の心境を知ってか知らずか、はたまた広場の喧騒がある程度治まったからなのか。茅場は、最後の託宣を下した。
「諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え」
茅場が言い切る前に、広場のあちこちで鈴の鳴るような音がしていた。キリトやクラインもまた、右手指二本を縦に振ってアイテムを確認している。
「手鏡……?」
「こんなもん、どうしろってんだ?」
彼らは四角い小さな鏡を手にしていた。しかし何も起こらない。俺も手元に出してみたが、俺の呆け顔が映っているだけだ。三人で顔を突き合わせ、首を傾げる。
──瞬間。
視界が、真っ白になった。
だがそれもほんの二、三秒のことだ。視界はすぐに元に戻り、元の風景が……あ?
「誰だ、お前ら──あれ?」
見慣れた風景ではあった。石畳、噴水広場。だが、立っている人間が違った。黒髪赤髪のイケメンが消え、代わりに女顔の少年と髭面のおっさんが、そこにいた。少年はともかく、おっさんのほうはもしかして。
「そういうお前こそ、誰?」
「ぅおっ、なんじゃこりゃ!」
周囲がにわかにざわつき始めた。
慌てて周囲を確認すると、変化があったのは目の前の二人だけじゃないようだった。広場にいたプレイヤー全員が、姿を変えている。服装は変わらずに、顔のつくりや体型を変えている。
──まさか。
はっとして鏡を覗くと、映り込んだのは見慣れた男の顔だった。
見紛うはずもない。これは俺だ。
「……てことは、ふたりとも」
「お前クラインか!?」
「おめぇキリトか!」
赤髪のイケメンだったおっさんと黒髪のイケメンだった少年が互いを指差している。まあクラインの顔は見たことあるからわかる。ということは消去法で少年がキリトになるのか。可愛い顔してんな、こいつ。中学生くらいか。
そうか、つまりそういうことだな。今のアイテムの影響でプレイヤーが作ったアバターは消え、体格や顔の造形が現実準拠のものになったと。
見渡してみれば確かに、ゲーム開始時に多かった美男美女は消えていた。代わりに、同じ服装の別人ばかりが広場を埋め尽くしている。
……別人すぎやしないか。美形が減るのはともかく、体格差が生まれるどころか男女比までごちゃごちゃだぞ。
「リアルの顔……そうか、信号素子で顔を覆っているから……でも身長や体格は……」
「それアレじゃねぇか、キャリブレーション? とかいう。体のあちこち触ったぜ」
「そういうことか……でも、どうして……そうか」
ふたりはぶつぶつと推論を重ねていく。そうして、キリトは顔を動かさずに視線だけを左上に動かした。そこには、青の横線が輝いているはずだ。
アバターが現実の姿に戻っても、その存在までは消えていなかった。
「……これもまた現実だと、そう言いたいのか」
キリトはそう呟いて、はっと顔を上げる。まるで聞こえていたかのように、茅場は満足げに頷くようなジェスチャーをした。
「これで、私の目的は達成された。この世界を創り出し、観賞する。そのためのナーヴギアであり、そのためのSAOである」
その声は、今までの無感情なものとはどこか違った。目的達成の嬉しさか、観賞できる喜びか。あるいは──到達点への、憧れか。
だがそれも、短い間を空けた次の言葉にはもう含まれていない。機械的な声がいんいんと響く。
「以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の健闘を祈る」
その言葉を残して、巨大なローブがどろりと溶けた。
逆再生でもしているかのように、水滴が上へと落ちていく。同時に、空を一面に赤く埋めていたパネルもまた閉じていった。環境音やBGMが次第に耳に届くようになり、やがて一陣の風が頬を撫でる。
そうして俺たちは、ゲームに戻された。アバターを現実の姿にされたまま。
「──いやぁぁぁああああ!」
ひとりの少女の、悲鳴。
それが、パニックの始まりだった。
悲鳴、怒号、絶叫。なんだそれは、ありえない、戻せ。そんな声が声にならないほどの大音量で空気を震わせる。たとえゲームのアバターとわかっていても、鼓膜が破れるんじゃないかと思わず耳を塞いでしまうほどだった。
理解ができない、追いつかないのも無理はない。俺だって、キリトやクラインがいてくれなければこうまで落ち着いてはいられなかったはずだ。というかふたりが、特にキリトが落ち着きすぎなんだよな。こいつ見た目だけならまだ高校生くらいだろうに、大したもんだ。
「ふたりとも、こっち」
そんな賛賞を心の中で贈っていると、キリトに腕を引かれた。なにやら思いつめた表情で、ずんずんと集団の外側へと引かれていく。もともとの立ち位置が外側寄りだったようで、あっという間に人垣を抜けた。
──そのとき、ひとりのプレイヤーが目に止まった。
ただ立ち尽くすだけ。罵声も懇願もせず、流す涙すらなく、ただ立ち尽くしている。その表情は、ほかのどのプレイヤーとも違っている。その顔は、どこか見覚えがあった。
「次の村へ行く。お前らも一緒に来い」
物陰に隠れるようにして、息を潜めて。しかし真剣な声音で、キリトは告げる。
「茅場の言葉は事実だと考えていい。あれだけやって嘘でした、なんてことは絶対にない」
よほどの悪趣味でなければ、あのチュートリアルに嘘はない。それについては俺もクラインも異論なしだ。
同時に頷くのを見て、キリトは続ける。
「であるならば、生き残るためには強くならなきゃいけない。そう簡単にHPの全損がされないレベルまで。幸い、俺はベータテスターだ。危険な場所、安全なルートは知ってる。お前たちふたりなら実力も知ってる、問題なく案内できる」
やや早口になりながら、それでもできると断言してキリトは言いきった。
だがそれに、クラインは顔を歪める。
「悪りぃが、そりゃムリだ。ダチとやるってんで、みんなして徹夜で並んだんだ。あいつら、きっとまだ広場にいる。置いてけねぇよ」
その言葉に、キリトは眉を寄せる。わずかに、瞳が揺れた気がした。
少しの逡巡ののち、
「……わかった」
と眉を寄せたまま頷く。
そうして、俺を見た。なにも言ってはこなかったが、視線はどこか縋るようなものだった。
正直なところ、俺はついていきたい。間違いなくキリトが一緒なら安心だろうし、置いていけないというクラインの言葉を借りるなら、俺はキリトを放っておけない。
しかし、だ。それでも俺は、ここに来るまでにすれ違ったひとりのプレイヤーが気がかりで仕方なかった。
見覚えのある女性のプレイヤーだった。まさかこんなところにいるはずないとは思うんだけど、他人の空似にしてはよく似ている。それに、あの表情。一歩間違えば、ひょっとしてしまうかもしれない。
「……すまん。俺も、気になることがある。捨て置けない」
杞憂ならいい。だが、もしも万が一が実現してしまえば取り返しがつかない。たとえ名前の知らない他人でも、俺はその万が一を起こして欲しくない。俺はその顔に見覚えがあるから、余計に。
「……そっか」
わかった、とキリトはまた小さく呟いた。俯いたときのその目が、やはり一瞬だけ、小さく揺れた気がした。
だが次に顔を上げたときにはもうそんなそぶりは消え、勇者顔のときのような爽やかな笑顔に戻っていた。
「じゃあ、ここでいったんお別れだ。なんかあったらメッセージ飛ばしてくれ」
そう言って、背を向ける。その背中がやけに小さく見えたのはきっと俺だけじゃない。
「待て、キリト」
「ちょい待ち、キリトよ」
気がつけば、俺は呼び止めていた。クラインも同じタイミングで。
ふたりで顔を見合わせ、そして頷いた。
「俺らと一緒に行くことはできねえのか? 急がなくても、大人数でなら安全に進めるだろ?」
「それか俺と一緒に行こう。こっちも増えたってひとりだ。クラインの代わりと思えば──」
「オイこらシュウ、俺をのけ者にしようってか?」
「うん」
「このやろ」
軽く小突き合う。クラインがこういうノリのいい奴でよかった。あんまりしんみりしたって、いいことなんかない。振り向いてくれていないからわからないが、キリトだって笑ってくれているはずだ。
それでも、キリトの首は横に振られた。ややあって、
「……やめとくよ」
肩越しに聞こえたのは短い言葉だった。そうしてすぐに、歩き出してしまう。
そう言われてしまえば止められない。キリトの中で、きっとなにかしらの強い決断があったはずだ。
だから、最後に呼びかけた。
「キリト!」
再び、足が止まる。
「またな!」
一瞬だけ肩を震わせて、キリトは親指を立ててみせた。
「クラインも」
「おう、達者でな」
こっちはこっちで、ごつんと拳をぶつける。
──また、会う日まで。
そうして、俺たちはそれぞれの方向へ歩き出した。
21/3/24 誤字修正