──危ないと思ったら逃げてくれ。俺が全力で援護する。
それが、キリトと交わした助っ人の条件だった。
まず憧れがあった。攻略組といえばこのゲームでの猛者を指し示す言葉。自分がその言葉を使うとき、その対象は間違いなく自分よりも強いプレイヤーのことだ。そんな畏怖憧憬を自分も浴びてみたい。そんな憧れがあった。
そのために必要なのは強さ。RPGにおいて強さの指標とは単純にレベルの高さだ。レベルが上がればステータスが上がる。ステータスが上がれば敵が倒せる。敵が倒せればレベルが上がり、ステータスが上がり、より強い敵を倒せるようになる。そうして段階的に設定されたボスを順に倒していくことで自分たちが次に挑めるかどうかの判断材料とする。
季節ごとに行われるイベントのボスは、その判断材料としては適切だとケイタは考えた。イベントをクリアしたという実績、ボスをギルド単独で倒したという実績は少なからず自分たちの名を売ることになる。それはより攻略組に近づいたという自信にもつながる。
厳しいかもしれないことはわかっていた。ボスの強さは現在進行している攻略層のものよりは低いとはいえ、決して低すぎる値には設定されない。黒猫団単独での撃破は、装備やアイテムを全て使い切って初めて可能となる……かもしれないというのがケイタの見込みだった。
だが幸運なことに、攻略組でもトップクラスの助っ人を得、道案内をしてくれる情報屋を得た。道中では新戦術を試す余裕も生まれ、全ては順風満帆のように思えた。
ここから月夜の黒猫団は攻略組に名乗りを上げるのだと──そう、思っていた。
「逃げろ!」
「逃がすわけねぇだろ、バカか」
目の前でキリトが叫ぶ。押し寄せるオレンジプレイヤーの向こう側でジョニーが笑った。
次々に振るわれる斧や剣や槍を一身に受けながら、キリトは隙を見つけては相手を斬り飛ばし蹴り飛ばして距離を稼ぐ。その際に可能な限りギリギリのラインで相手にダメージを与えることで回復の時間をつくらせ、人の波を少しずつ散らしていく。
──強い。
キリトを避けて横合いから斬りつけてきたオレンジプレイヤーの刃を槍の柄で受け止めながら、ケイタは改めてキリトの実力を思い知った。
攻略組と自分たちの差のひとつにレベルがあることはわかっていた。だがそれを実際に目の当たりにすると、思っていた以上に大きな開きがあるのだとわかる。
キリトのHPが減らないのだ。実際にはダメージは受けるがその場ですぐに回復している。上等な装備のおかげでどれだけダメージを受けても軽微なものでしかなく、そのドット程度の減少は瞬く間に元に戻るのだ。それはバトルヒーリングというスキルの効果だとケイタはアルゴの攻略本で得た知識と照らし合わせる。ダメージを受けたまま回復しないでい続けると発現する、毎秒に微量ではあるがゆっくりゆっくりと自動でHPが回復していくスキルだ。その便利さや有効さに目のくらんだプレイヤーがギリギリを狙いすぎて失敗したという事例も載っていて、身の竦む思いをしたことを覚えている。それを体得しているキリトは、いったいどれほどの死線を潜り抜けてきたというのだろうか。
「ケイタ、頭下げろ!」
「っ、はい!」
言われるままに膝ごと折れるようにして頭の位置を下げる。直後、頭上を青い燐光が走り抜けて槍が軽くなった。見れば、ケイタを襲っていたオレンジが五、六歩と後ずさっていた。その事実にほっと息をつくと、キリトはもうすでに次の敵に斬りかかっている。
体得に厳しい条件のあるスキルを所持していること以上に、一撃の威力、的確さ、速さ、どれをとっても段違いだということに気づいた。それは単にレベルの差というだけではなくて、動きの無駄を省いてすぐ次の動作に移っていることだったりそうして動作を速く行なっていても慌てるような素振りが一切ないことだったりと、そこには明白な差がある。
──経験の差。
言葉のうえではそれが大きいとわかっていた。だがいざ目の当たりにしてみると想像と現実ではさらに大きな差があるように思える。特に今は、相手がモンスターかプレイヤーかという差もあるはずだ。
「やっぱ強えな。さすが鬼」
少し前まで人垣の向こうにいたジョニーが、今やその姿を無防備に晒している。それだけ人員を割かなければならないほどキリトは強く、なおかつそれだけの人数をあてがわれても一歩も退かないキリトにケイタは目を奪われていた。
だがそれほどに差を感じさせるキリトであっても、数という差を埋めることはできなかった。
「うわああああ!」
「テツオ!?」
悲鳴のした方向へ、ケイタは慌てて目を向ける。
キリトを避けるようにして背後に回り込んだオレンジプレイヤーが振り上げた斧が、テツオのメイスを弾き飛ばしていた。
「ダッカー、ササマル──っ!」
同じように複数人が回り込み、ダッカーのポールアームもササマルの短剣もかち上げられる。やや遅れて振り下ろされた斧をケイタはかろうじて槍の柄で受け止めるが、それでも体勢が悪かったからか膝が地についた。
五人に対して、二十人が攻めるのとひとりが守るのとでは明らかに後者が不利だった。対立するものが大きければ大きいほど、衝突も大きなものとなる。
キリトひとりがどれだけ強かろうと結局はひとりなのだ。腕が増えるわけでも足が増えるわけでもなく、それでいて相手の標的はひとりの自分ではなくほかにある。五つの宝を眼前にした賊にたったひとりで全てを触れさせないなど、魔法でも使わなければ到底不可能である。
そしてこの世界に、魔法というものは存在しない。ゼロと一で構成された、どこまでも数字に従順なシステムがあるだけだった。
「おおあっ!」
キリトがひときわ強く、目の前にいた男を蹴り飛ばす。
「頭下げろ!」
今度は全員が姿勢を低くしていた。振り向きざまに一閃。たったそれだけで、四人が相手をしていたプレイヤーたち全員を斬り飛ばす。
「大丈夫か?」
キリトの声に、しかし黒猫団は立ち上がることはできなかった。
──怖い。
向けられる刃が怖い。眼前に迫る刃のぎらつきが怖い。自分を見ている敵の視線が怖い。防がなければ死ぬ、その事実がはっきりと形になって眼前に現れる。
盾が欲しい──身を守るための盾が。ジョニーも言っていたではないか、必要なのは硬さなのだ。ダメージが少なければそれだけ死からは遠ざかる。敵ながら言っていたことは正しかったのだとケイタは改めて実感する。
そしてケイタは、サチを見た。黒猫団の前衛。攻撃を受けるのは、サチの役目──。
「キリト……っ」
サチがキリトの名前を呟く。まるで怯えるように肩を縮こまらせ、所在なく手をキリトのほうに伸ばそうとしては邪魔になると思ったのか押しとどめてを繰り返す。
──怖がりすぎ。
以前サチに言った言葉が脳裏に浮かんだ。陣形を変えるときに自分が投げた言葉だ。上を目指すには心許ない戦力を少しでも向上させるための策。ギルドのためだと、何度も口酸っぱく言い続けた言葉だ。
その一言がそのまま自分に返ってきていることに気づいて、ケイタは愕然とした。
「ケイタ」
キリトは依然として、否、今まで以上にオレンジプレイヤーを多くいなしていた。剣戟の音が激しくなる。その状態でも、彼はケイタたちの身を案じていた。
「結晶、渡してあるよな」
「あっ」
言われて、慌ててウインドウを開く。何度か操作を間違えながら《転移結晶》の文字にたどり着いた。
結晶アイテムは即時効果のあるアイテムだ。例えば回復ポーションは一定量のHPが漸次回復していくのに対し、回復結晶は同じ量を即時回復させる。転移結晶ならば指定した場所に一瞬で移動するというもの。
それは非常に強力であるが、同時に高価なものでもあった。自分たちではそうそう手が出せる金額ではない。だが事前に、助っ人の契約をしたときにあらかじめひとつキリトから預かっているのだ。いざというときの脱出手段として。
しかし──。
「転移、タフト!」
コマンドを叫んでも、転移結晶はなんの反応も示さなかった。
「え……な、なんで? 転移!」
再び試すもやはり反応はなく。代わりに、とても楽しそうなジョニーの声が聞こえた。
「あーそれ、使えねーぞ。ちゃんとそういう場所を選んだからな。大変だったぜ、ここ探すの」
「結晶無効エリアか……」
「正解だ。ご褒美にナイフやろうか」
「いらねえよ。どうせ毒だろ」
「大正解。なんだよつまんねーの」
ジョニーとキリトの応酬は半分もケイタの耳に入ってこなかった。結晶が使えないことがとにかくショックで、オレンジプレイヤーにふさがれた前のエリアとの接続ポイントがひどく遠くに感じられて。脱出は絶望的だという事実が、さらに色濃く目の前に立ちはだかった。
「な……んで、そこまで……」
結晶無効エリアをわざわざ探し、そこでオレンジプレイヤーを待ち伏せさせて他のプレイヤーを誘い込む。鬼ごっこと称して行われているのはただのリンチだ。自分で思いたくはないが、ここまで手の込んだ仕組みをつくったところで罠にかけるのが黒猫団では旨味などないはずだ。こんな──こんな、怖さで立てなくなってしまうような自分たちでは。
なぜ、どうして。もはや立ち上がる気力は湧かず、へたりこんだまま弱い動きでケイタはジョニーを見る。
ジョニーは頭陀袋から覗かせる瞳を、さも愉快げに三日月形に歪めた。
「なんでって。楽しいだろうが。ゲームだぜゲーム。今もお前らがやってる脱出ゲームだ。出れなきゃ死ぬ、生き残りたきゃ頑張りなってな。雑魚が頑張った姿が好きなんだよ。そういうときの顔が特にな。……くっくっく、ああ思い出したら笑っちまうな」
体を折り、腹を抱えて笑い出す。その様子が、ケイタには壊れたおもちゃのような狂気じみたものに感じられた。
「なあ鬼。黒の剣士さんよ。さっきも言った気がするけどまぁ聞けよ。ディアベルだっけか、水色のやつ。あれが死んだときとか最高だったぜ。お前もそうだし、周りもよ。そのあとの騒ぎもおもしろかったしな。いつ思い出しても笑えるんだよな。そうだ、お前には教えなきゃいけないよな。ここまでこいつらを連れてきてくれたことだし」
そういえば、とケイタはキリトを見上げる。変わらずオレンジの攻撃をいなし続ける彼の纏う雰囲気が少しだけ変わった気がした。
ジョニーが黒猫団を狙っても旨みがないというなら、彼が黒猫団を守る旨みだってないはずだ。一時的とはいえ行動を共にしたことはもちろんケイタたちにとってプラスだったが、彼にとってはどうだったのか。
思い返せば、彼が助っ人の依頼に頷いたのはジョニーの名前を出してからだ。そしてジョニーもまるで前から知り合いだったかのように言っていたし、彼が欲しがる情報を持っているとも言っていた。
ダシに使われたことに関しては何も言えないし言うつもりもない。ジョニーの奸計から守ろうとしてくれていたのはよくよくわかっている。だがそこまでしてキリトが──《黒の剣士》が《笑う棺桶》に聞きたいことというのがどういったものなのか。今はそんなことを考えている暇などないことはわかっていたが、それでもひどく気になった。
キリトは何も言わない。剣戟の音が激しくなる。ジョニーはさらに楽しげな声を出した。
「──《梟》もコレだ」
言いながら、ジョニーはギルドのシンボルが描かれた自らの左手の甲をトントンと叩く。
「今頃は本物のモミの木の前だな。ちなみにそこまでは空が見える道を行くのが正解だ。よくわかんねえよな、あいつひとりで倒せるだろうに自分じゃやらねってんだぜ。そのくせひとりでやるっつって行っちまった。ま、おかげでそのぶんオレのほうに人数持ってこれたんだけどよ」
《梟》が《笑う棺桶》の一員。それは、そういうものなんじゃないかとケイタには思える。アインクラッドで最初の殺人プレイヤーだ。《笑う棺桶》といえば《梟》という代名詞でもある。
それがジョニーに聞きたいことだったのか──そう思って見上げると、キリトの口元が、やっぱり、と動いていた。
ギィンッ!! と、ひときわ大きな音がしてオレンジプレイヤーが弾き飛ばされる。黒猫団を間近で取り囲んでいた数人をひと振りで弾き飛ばして、キリトはジョニーに向き直る。
「……知ってるよ、そんなことは」
「あん?」
「そんなことは知ってるんだ。俺の代わりに悪役になってくれるような奴だ、そこまでやるだろうとも思っていた。そんなことはいいんだよ。シュウのことは信じてる。アイツが何をやろうと変に疑うつもりはない。俺は俺の《芯》を貫くだけだ」
そう言って、キリトはジョニーに剣を突きつける。
「もう二度と、俺の前では誰ひとり死なせない。守ってみせる。そのために、ここにいるんだ」
立てるか、とキリトはジョニーから目をそらさずにケイタに手を伸ばす。その手を掴むと、ぐいっと強い力で引き上げられた。キリトの毅然とした言葉に圧されてか、オレンジプレイヤーの動きが止まっていた。
「キリトさん……」
「言ったろ、全力で援護する。とにかく死なないことだけを考えろ。……それに、聞きたいことは聞けた。もうここにいる必要はない。逃げるぞ」
未だ逃げ道はふさがれている。人数が減っている様子はない。それでも、抜けていた腰はいつの間にか治っている。キリトが逃げると言えば、ほんとうに逃げられるんじゃないか。そんな安心感があった。
「いけるか」
キリトがジョニーから視線を逸らさずに問う。
怖い。眼前に迫る斧を想像するだけで足が震える。それは黒猫団の顔を見れば、みんな同じように思っているようだった。
それでも、キリトは見捨てようとはしないのだ。まだ彼は約束を口にしてくれる。これだけ追いつめられていても、これだけ情けないボロボロの姿を見せても、まだ。
その背中は、ひどく大きく感じられた。そして同時に強く惹きつけられた。
──やっぱり。
やっぱり、目指すなら攻略組だ。ケイタは改めて目標を定めた。だがそれは、黒猫団としての目標ではなかった。あくまでも個人として、ひとりのプレイヤーとして彼に憧れたのだ。誰かを守れる強い背中に。黒猫団を守れる強さが、欲しい。
特にサチは、人一倍怖がりだとわかっていて連れてきてしまった。ちゃんと帰ったら謝って、そしてもう一度話をしなければならない。《怖い》なら、戦線から外すことも考慮する。
「いけます」
けれど今は、とにかく逃げることだ。黒猫団を守るにしたって、キリトひとりにおんぶにだっこじゃ情けない。自分がリーダーなのだ。自分が引っ張っていかなければならない。
ケイタは腹を括ってキリトに頷き返し、再び剣を構えた。
「信じる、ねえ……。真面目に言って──る、んだろうなぁ。ふぅん……あっそう……」
ジョニーはぶつぶつと小声で呟く──そして。
「あーあーあーあーあーあー!」
突然大きくため息をついた。大げさに俯き、そして天を仰ぐ。そして聞こえよがしに舌打ちをした。
「チッ。……あーあー、うざってぇ。嫌いなんだそういうの。虫唾が走るっつーのか反吐が出るっつーのか。信用だの信頼だのと。むかつくね。むかつく。ああイライラする」
ガリガリガリガリガリガリガリガリ、とジョニーは頭陀袋の上から顔を両手で思い切りかきむしり始めた。絞り出すようなうめき声が絶えず聞こえる。思わずケイタは後ずさった。
狂気を感じた。今までの命の危機に瀕した怖さではない。もっと深い、おぞましいものの恐怖。近寄りたくないと本能が叫んでいる。
そしてそれは突然動きを止めた。
だらんと腕を垂らし首をゆっくりと持ち上げている。
猫背のまま、顔を少しだけ傾けてこちらを見ている。
頭陀袋の奥で、ぎょろりと光る眼が見開かれている。
「──殺してやる」
小さく、けれどはっきりとその声は聞こえた。
「引き裂いて刺し貫いて切り刻んで砕き潰す。痛みがないってのはいいよなぁ……どういう顔してくれんのかな。そうなんにも怖くない、痛くなんてないんだから安心しろよぉゆっくりとひとつずつ試してやるからいい顔見せてくれ逃げられると思うなよバカどもがよォッ!!!」
バララララッ! と、ジョニーの手にいくつもの短剣が現れた。両手の指いっぱいに短剣を握り、それを一瞬の溜めすらなく投げ放つ。
「ヒャアッ!」
そしてジョニー自身もまた、右手に残していた一振りの短剣に燐光を宿して肉薄した。
「っ!」
飛来する短剣はいくつか弾けたものの、全てを防ぐことはできなかった。だが幸いなことに麻痺を示す稲妻のアイコンはキリトのHPバーには表示されない。その代わり、先ほどの二十人との戦闘以上に大きな継続ダメージがキリトのHPバーをじわじわと削り始めていた。
ソードスキルがぶつかる。眼前で激しく火花が弾けた。ジョニーは続けざまに燐光を宿した短剣を閃かせる。
短剣の特徴は手数にある。他の武器に比べてリーチが短いという欠点を補うためか連撃系のソードスキルが多い。軽い一撃を積み重ねて相手にダメージを与えていくのだ。
それが、ことジョニーの場合となると危険の度合いは数倍に膨れ上がる。
一撃のダメージはおそらく一般的な短剣使いよりも少ない。その変わり、麻痺か継続ダメージか、それともほかの毒か。敵モンスターが使ってくるような間接的なダメージを付与できる短剣を使用している。一撃でも当たれば容赦なく毒が襲い掛かってくるのだ。
絶え間なく繰り出されるジョニーの短剣が宙に軌跡を残す。だがその全てをキリトは防いでいた。
「ヒャハハハハ、いいねいいねいいぞ黒の剣士、ここまで防がれるのは初めてだ!」
「そう、かよっ! ──ケイタ! ジョニーは抑えとく、今のうちに脱出しろ!」
「あ、は、はい!」
キリトの声でケイタは我に帰る。黒猫団に一瞬だけ目配せして、まっすぐに出口を見据えた。
ここが偽のルートなら、これ以上進むことはない。危険な区域である以上は一刻も早い脱出を目指す。
「逃がすな殺せ! 遊びは終わりだ!」
ジョニーの声でオレンジプレイヤーたちもまたハッとしたように動き出した。
どう気持ちが変わろうが、戦力差は変わらない。むしろキリトがジョニーに両手をふさがれている分さらに広がったとさえ言える。攻撃を受けるのがやっとだったさっきの今で、黒猫団がこの窮地を抜けられるかと言われれば十中八九あり得ない。
けれどきっと、自分たちがここに残っているほうが足手まといになる。さっきのジョニーの短剣も、彼が防いだのは自分の体に当たらないものだけだ。守らせてしまったせいでキリトがダメージを負うのなら、ここにはいないほうがいい。
だからケイタは迷わなかった。
先頭に立ち、槍を構える。
「おいおい、やろうってのか?」
「さっきまでビビり散らしてたのによ」
オレンジが言った。それを皮切りに、いくつもの嘲笑が黒猫団を囲む。ビビりだの腰抜けだのと言いたい放題、罵詈雑言の嵐。
それでもケイタは、前をにらみつける。
「──僕はギルドのリーダーだ」
「ああ? なんだ急に」
斧が無造作に振り下ろされる。ケイタは槍の柄でそれを受け止めた。
「ぐっ!」
「ケイタ……」
後ろでテツオが呟く。余裕の表れか、オレンジプレイヤーたちがケイタ以外に手を出すことはなかった。けれどそれは、いま自分がこの斧に負けたら、次に襲われるのは自分ではない誰かということになる。
その誰かは、他人じゃない。ケイタにとってはかけがえのない大事な仲間だ。
「ごちゃごちゃと御託並べんのはいいけどよ、足震えてんぞ兄ちゃん」
「無理すんなって。大人しく守られてな。ま、その守ってくれるひとはジョニーさんに捕まっちまったがな」
「諦めんのも人生だぜ。怖いんだろ? 大丈夫心配すんな、ひと思いにやってやるって」
オレンジたちはずっと嘲るように笑っている。斧の鈍い光が眼前に押し付けられた。
「そりゃ怖いさ。でも、だからって」
それでもなお、ケイタは退かなかった。
──死なせない。
憧れたのだ。あの背中に。彼のようになりたいと思ってしまった。
憧れたら、もう止まれない。
腕に力を込める。眼前に迫っていた斧はびくともしない。それでもケイタは押し続ける。
「みんなが傷つくのを、黙って見てるわけにはいかないんだ!」
「じゃあ望みどおりお前からやってやるよ!」
ケイタに斧を押し付けるオレンジの横で、もうひとりが剣を振りかぶる。
二本目を受け止めるのは難しいかもしれない。けれど逃げたくなかった。
死ぬのは怖い。なんなら目の前の斧だって怖い。でも、それでも。
「僕はみんなを守ってみせる!」
自分に向けて啖呵を切る。誰よりも、自分の憧れにみっともない姿を見せたくない。
オレンジの剣が振り下ろされる。
ケイタは思わず目を瞑ってしまう。
「──よう言った」
そして槍が軽くなった。
「え?」
「おっと。無事か?」
ケイタにつられるようにして目を瞑っていたサチが目を開けると、つんのめったケイタの体をがっしりとした右腕が受け止めていた。
「遅れてすまんかったな。ここ道がややこいんや。立てるか?」
男性の左腕はケイタに押し付けられていた斧の持ち手を掴んでいる。剣を振り上げたオレンジプレイヤーは突き飛ばされたか足をかけられたか、男性の横で転んでいた。
「あ、ありが──」
「もーキバオウさん! ボクたちには行くなって言っといてなんで自分は行っちゃうのさ!」
「じゃかあしいわ! 出ちまったもんはしゃあないやろが!」
「血盟騎士団、近いところのオレンジカーソルプレイヤーから捕縛しなさい!」
「おうワイらも負けてられへんで! ぜーんぶ現行犯や、遠慮すな!」
ケイタが礼を言おうとして遮られる。が、その後に聞こえてきた名前でサチは驚いた。
キバオウといえば最大のギルド《軍》の幹部。血盟騎士団もまた攻略組の中ではトップクラスのギルドだ。ましてそれに指令を出した声は女性の声。血盟騎士団の女性といえばサチには《閃光》しか思いつかない。でも、どうしてここへ?
目の前ではいつもの倍速くらいで人が動く。白い制服と鎧のプレイヤーたちが瞬く間にオレンジプレイヤーの動きを封じていく。自分たちだけがなんだか取り残されたような錯覚をサチは感じていた。
「ユナ!」
「うん!」
そして聞こえてくる歌声。聞いたことのない歌だった。しかしどこかで聞いたことのあるような不思議な感覚の歌。どこか風を感じさせる。いつ消えるのかと気にしていたキリトの毒のアイコンがなくなっていた。
「とぉー!」
「おわ!」
「チィッ!」
黒髪を靡かせ、少女が舞う。キリトとジョニーの間へソードスキルの光を纏わせた剣を真っ直ぐに振り下ろした。
刃が三つ交じり、弾ける。そうして強引に距離を空けさせたところへ、
「アスナ!」
「ええ!」
栗色の髪が駆けた。まさに一瞬、残像すら見えそうな速さでジョニーへと肉薄して刺突を一撃。突進の勢いでさらにジョニーを後方へと弾き飛ばした。
「キリト、生きてる?」
背中を向けたまま、黒髪の少女が問う。尻餅をついたキリトはそれに苦笑して返した。
「……死ぬかと思った。やるならやるって言ってくれ。びっくりするだろ」
「ごめーん」
「キリトくん、立てる?」
黒髪の少女が屈託なく笑う。その傍らで、ジョニーを飛ばした少女が手を差し伸べた。
「アスナに、ユウキに……キバオウさん。あとウタちゃんか、彼女は。助かった、ありがとう」
「どういたしまして」
アスナ。ユウキ。キリトは彼女らをそう呼ぶ。サチの知識と目の前の出来事とを照らし合わせれば、彼女らは間違いなく攻略組のあの人たち。フロアボスがクリアされるたびに名前の挙がる、あの人たちだ。
アスナの手を取り、キリトは立ち上がる。
「よくここがわかったな」
「尾行した!」
「ユウキ……そんな堂々と言うもんじゃないわよ」
「そお?」
「いや実際助かった」
「ほら!」
「ほらじゃなくて。まったくもう」
聞く限り、アスナは血盟騎士団の副団長という立場からそれほどではないにしろ、キリトとユウキは単独行動しがちだという話が多い。よくフロアボス戦の参謀を担うアスナがそれに頭を抱えているということもよくケイタから聞いてはいたが、目の前の三人を見る限りそれはあながち間違ってないように見える。けれど決してアスナはそれを迷惑と受け取ってはいない。きっと仲の良い──というよりも、長く行動を共にしたのだろうなという印象をサチは受ける。
ちくりと胸に痛みが走った。
「なんや、ボスはおらんのけ。てことはやっぱハズレやったか」
「キバオウさん。……あんたも一緒なんて珍しいな」
ジョニー・ブラックを除く全てのオレンジの捕縛と、血盟騎士団と軍による連行──この場の離脱を見届けて、キバオウも歩いてくる。二十人ものオレンジプレイヤーも、その倍もいるトップギルドのメンバーには手も足も出ないようだった。
「せやな。ワイかてこんなことになるとは思っとらんかった。……アレが、ジョニー・ブラックやな」
「ああ。左手の甲にシンボルがあるし、自分で名乗ってた」
「ならワイにとっては大当たりや。聞かなあかんことがある」
「わ、私もです!」
続いてウタちゃん──プレイヤー名はユナ──も小さく挙手をしながら近づいてくる。
キリトが攻略組でも群を抜いて強い部類であるとは聞いていた。だが、なんというか──人間関係においても強い部類だというのは初めて知った。《鬼》とまで呼ばれる割には。
「……キリト」
「ん、ちょっと待ってな。すぐ終わらせる」
黒いコートの端を掴むと、キリトはそっと手を添えてくれる。急な展開で置いてけぼりをくらうのはいいけれど、キリトまでが遠い存在になってしまうのはなんだか嫌だった。
「チッ……クソが」
吹き飛ばされたジョニーが体を起こす。
「なんだぁ、ずいぶんと豪華な顔ぶれじゃねえの。しかも全員オレが目当てときた。金取ったらいい商売できそうじゃん」
雪を払いながらジョニーは身軽に立ち上がった。その手には既に新たな短剣を握っている。黒い刀身のものだ。
オレンジプレイヤーは全て無力化したというのに、ジョニーはそれを気にする様子はなく、かといってさっきまでの狂ったような高い声でもなく、自分たちをここまで案内していた時のような静かで余裕のある態度に戻っている。
それがサチには、ひどく不気味に感じた。
「で、オレに聞きたいってのはなんだ? せっかくだから教えてやる。情報屋のジョニーは開業中だぜ。もちろんお代はいただくけど」
「その前に神妙にして縄につけ。話はそれからや」
「嫌だって言ったら?」
「力尽くや」
「仕方ねえなあ」
キバオウがこちらに目配せする。キリトは頷くと、コートを掴んでいるサチの手を優しくほどいた。
「キリト……?」
「大丈夫」
笑って、キリトは優しくサチの頭に手を乗せる。その行動に驚いて、離れていくキリトを止めることはできなかった。
そしてキリトは残っていた軍のメンバーふたりと共にキバオウに並び、じりじりと距離を詰めていく。
ジョニーはひょうきんに肩をすくめて薄ら寒く短剣を弄んでいるだけ。キリトと対等の戦いをしたジョニーであっても、自分たちという足かせがなくなり、かつ軍とのパーティならば即席であろうと負けることなどあり得ない。
それにここに来る前、初めて前衛として戦闘をしたときも大丈夫だったのだ。あのときとキリトの声音は同じだった。
──だからきっと、大丈夫。
ホッとすると同時に、サチはそれでも《怖い》という感情が消えないことを不思議に思った。形勢は逆転したはずだ。数的不利はジョニーのはず。だというのに、今までどおりの態度にどうして戻れるのか。
「……だ、だめ」
言い知れない不安があった。気持ちとは裏腹に、否定の言葉が口をついて出る。遠ざかるのは嫌だと思った矢先に手を離してしまったせいで、さらに不安は募る。手を離すべきじゃなかった。
──キリトの背中が、遠ざかる。
キリトたちが地を蹴る。ジョニーが短剣を握っていない左手を盾にするように振るう。
「だめぇ──────!」
そしてそれよりも早く、サチは駆けだしていた。
盾を構える余裕はなかった。ただがむしゃらに、自分の背中を盾にするようにキリトとジョニーの間に入った。顔がキリトの胸にぶつかる。見上げるとキリトの驚いた顔が目の前にあった。その顔がどこか可愛らしく思えて、場違いにも思わず顔がほころんだ。
──ああ。私は、きっと。
胸の高鳴りを感じて。
そして体が軽くなる。
どこか遠くで、ガラスの砕ける音がした。