イルファング・ザ・コボルドロードというボスがいた。
第一層フロアボスとして、迷宮区最奥に待ち構えていたコボルドの王。基本は斧と盾を駆使し、四本あるHPバーの最後の一本が削られ始めようというときに武器をカタナに切り替える。そのカタナは野太刀と呼ばれる種類のものだった。
野太刀は刃の長さを三尺以上、だいたい九十センチ以上のものとしている。細かい分類はゲームの性質上されていないが、同じ商売仲間で詳しい者がいたために散々聞かされてエギルは覚えてしまった。刀の平均は二尺三寸、およそ七十センチくらいだとも。
だが長いほうが有利というわけでは決してないらしいというのをクラインの使用経験から知っていた。鍛治スキルもあれば便利と身につけてみて、それでクラインのカタナを打ったことがあった。長いもの、短いもの、その中間。クラインが選んだのは中間のものだった。
リーチがあるのは良い。だがリーチがありすぎても、今度は腰に下げたとき切先を地面に擦らせてしまったり狭い場所で振り回せなかったりと実は不便なのだと。
なるほどそういうものかと納得した。確かにコボルドの王も鞘には納めず包帯のような白い布を刀身に巻いて腰に佩いていた。キリト曰く野太刀であるあれはもしかしたら、最終的に鞘を不要とするからだったのかもしれない。
抜けば、終わり。自分が死ぬか相手が死ぬかしない限り納めることはない。そういう意味ではソロ向きの武器と言える。
だからなのだろう。
シュウの武器は、奴と同じ。刃渡りが少なくとも百センチはあるように見えた。
竜巻が雪を巻き上げる。
刀の纏う燐光は赤。まるで炎が渦巻くようでありながら、それはひどく冷たい風だった。
《梟》を中心とする風の渦に、彼を囲んでいたリンドをはじめ《聖竜連合》のメンバーが雪と共に宙に浮かびそして地に叩きつけられた。
「囲むなよ。忘れたか?」
言いながら、《梟》は間髪入れず着地ざまに踏み込む。長い刀身の切っ先が地面すれすれを這うように、どちらかと言えば水平に近い角度で切り上げた。正面にいた三人のプレイヤーが引っかかり、再び宙に浮かされる。
同時に《梟》も跳ぶ。短く、鋭く息を吐いて水平に一閃。六つのブーツが地面に転がった。
──まず三人。
声が聞こえたわけではない。だがシュウの一挙一動をずっと見ていたクラインには、彼の目がそう言っているように見えた。
躊躇いがなかった。殺してはいない。足止めという言葉どおり、脚部の部位欠損のみだ。それでも、二発のソードスキルと最後の斬撃は流れるように繰り出された。モンスターではない相手に──人間に、シュウは迷わず刃を向けたのだ。
リンドが、筋違いとはいえシュウに恨みを持っているのは知っていた。あくまでも、それに対しての防衛だともわかっていた。先に刃を向けたのはリンドだ。それでも反撃とはいえ、シュウはプレイヤーにダメージを負わせた。オレンジのカーソルは間違っていないとでも言うかのように。
はじまりのあの日を思い出す。アルゴに教えてもらった、シュウの行動の動機。《知り合いかもしれない誰か》のために奔走したのだと聞いている。隠しログアウトスポットの件でひょっこりと顔を見せたときに本人からも聞いたが、シュウの行動の動機にはその《誰か》──後でアスナのことだと判明した──やキリトやユウキがいた。誰かのために動けるやつなのだと、少し嬉しくも思っていた。
その矢先に、一層攻略、同時に失踪、なにひとつの音沙汰もなく出会ったかと思えばノーチラスのソロ撃破を助けるように立ちふさがった。
何が起きたのかは人づてに聞いて知っている。だが、それでもなおシュウがこうしていることに疑問を感じずにはいられない。ましてや先ほどの会話──ベータテスターについてなど、そもそも最近はその単語すら忘れかけていたほどだ。そんなことのために、シュウは行動していたというのだろうか。
「シュウ……」
だが小さな呟きは、リンドの叫びと続く剣戟の音にかき消された。
「《梟》ッ!」
「叫ばなくても聞こえてる」
裂ぱくの気合とともにリンドが剣を大上段から振り下ろす。鋭い一撃はしかし、《梟》の無造作にも見えるひと振りに簡単に受け止められた。
リンドは《聖竜連合》でもリーダーを務めるだけあって、決してレベルの低いプレイヤーではない。攻略組としてはもちろん名を馳せているし、フロアボス戦においては欠かせない戦力である。間違いなく上位ランカーだという自負はリンド自身も持っていたし、それは攻略組のメンバーからも認められていた。
加えて片手剣はソードスキルが豊富なことが特徴だ。短剣ほど連撃は多くなく、槍のようにリーチは長くなく、両手剣ほど破壊力は高くない。器用貧乏とさえ揶揄される武器種だが、それゆえに幅広い戦略を可能とする。連撃、刺突、剛撃。どれも突き詰めたものほどの強さはないが、ひとつの武器でどれでも選べる、選択肢の多さが強みの武器である。上手く使えば片手剣だけでなんとかなる。片手剣はそういう武器だった。
「このときをずっと! 待っていたぞ、《梟》ッ!」
リンドの剣が一振りごとに纏う燐光の色を変える。とりどりの軌跡、その残光の上を異なる色が塗りつぶしていき、やがて眼を焼くほどの残光は白い光に変わっていく。
「ここで会ったが百年目! 絶対に殺してやる!」
「それは勘弁してくれ」
火花が散る。金属のぶつかる音。二合三合と武器を合わせる。剣と刀が交わるたび、リンドの険しい形相が照らし出される。
「よくも、よくもディアベルさんを殺してくれたな! オレたちのリーダーだぞ、レイドのリーダーだったんだぞ!」
その声にクラインはハッとして、これまでここにいるだけに徹していたアルゴに目を向けた。
リンドは関係者の中でもより深く関わっているはず。だが今の言葉は、完全にシュウがディアベルを殺したものだと思い込んでいる。
アルゴは肩をすくめ、やれやれとでも言いたげに首を横に振る。そうして手早く手元で何か操作をすると、メッセージを受信した音が聞こえた。
『聞く耳などないヨ』
それだけ心酔している──それは見て聞いていればわかることだった。真実こそ知らないとしても、これほどの激情を露わにするというのは相当なものだ。
だがそれは、裏を返せば。
再びの着信音。
『けどだからこそ、チャンスではあル』
顔を上げる。アルゴと目が合った。そして同じタイミングで頷く。
シュウに執着するということは、逆にシュウを足止めさせるということでもある。人数差ならこちらに利があるのだ。
ごく、と喉が鳴った。
──悩む必要なんてない。最初から考えていたように、とっ捕まえてゲンコツを食らわせてやればいい。
腹を括ったクラインはすぐに《風林火山》のメンバーに指示を出す。
「やってやるよ、シュウ!」
そして自分は、腰の刀を抜いてシュウとリンドの間に無理やり割り込んだ──が。
「来たか、クライン。──でも悪いな、ちょっと抜けるぞ」
シュウはひときわ大きく刀を横に振り払う。長いリーチがクラインの踏み込みより速く襲いかかり、その勢いのままリンドまでもまとめて大きく弾き飛ばした。
「通さないっつったろ!」
《梟》は止まらない。その回転の勢いのまま、燐光を纏わせた足が閃く。カッ! と小気味よい音がして、《梟》を避けて横を抜けようとしていた《風林火山》のひとりの鼻先を何かがかすめて飛ぶ。それはすぐ向こうの木の幹に突き刺さった。
足元に転がしていた、《梟》の刀の鞘だった。
「ふたり」
それに驚いた《風林火山》のひとりが足を止める。その隙を《梟》が逃すはずもなく、長刀が横に薙ぎ払われる。宣言どおり、ふたりの足首から下が斬り落とされた。
「おおかた俺を引きつけてその隙に、だろ」
返す刀で左腰に刀を構え、踏み込んだ勢いで体をねじる。長い刀身はそのまま薙ぎ払うような軌道を描き、続く三人をまとめて斬り飛ばした。その勢いで回転し、逆袈裟から斬り下ろす斬撃が残りふたりを襲う。太ももあたりを狙った一撃はしかし、突如現れた黒い壁──エギルによって止められた。
「当たりだ、シュウ」
「相変わらずいい壁だ。けど遅えよ、もう五人やっちまったぞ」
「遠慮ってもんを知らんのかお前は」
「忘れんな、俺は《敵》だぜ」
《梟》とエギルがお互いに口角を僅かに上げる。ギャリギャリ、とぶつかり合う刀と斧が音を立てた。
シュウの言ったことは当たっていた。《風林火山》のメンバーがクラインから受けた指示は『シュウの脇を抜けてノーチラスがいるエリアに向かう』こと。戦う必要などない。ただノーチラスをソロにしないことが目的であり、そのためには一刻も早くこのエリアを抜ける必要がある。
そしてアルゴの護衛は不要と判断したエギルは、新たにそうした《風林火山》の護衛として動いていた。
「その《敵》さんから彼らを守るのがオレの仕事でな。行かせてやってくれないか」
「却下だ」
「……だよな。じゃあ力ずくで通させてもらうぞ」
「はっ、こっちのセリフだよ。力ずくでも行かせねえ。カルマ回復未経験のオレンジプレイヤーなめんな」
「──な、にッ!?」
《梟》は再び足に燐光を纏わせる。そうして斧との鍔迫り合いの姿勢のまま、エギルの水月をめがけた前蹴り。パワーや重量で勝っているはずの巨体はしかし、まるでボールでも蹴るかのような気安さで、足が止まっていた《風林火山》のふたりを巻き込んで飛ばされた。
「知ってるよ、攻略組でも指折りの壁役だろ。けど悪いな、レベルは俺のほうが高い。殺しはしないよ。そこで寝てろ」
攻略組の壁役。それはボスの攻撃を一身に受け止める役割である。そのために求められるのは筋力値を始めとする《重さ》のための数値。エギルの重量は、装備も含めて決して低い数値ではない。シュウの言うように、指折りの壁役であるということは数値として見ればかなり高いはずだ。おそらくは攻略組最高のレベルを誇るキリトですら、エギルを蹴り飛ばすなどできないだろう。その巨体が軽々と飛んだという事実に驚く。
だが、エギルにとってはそれ以上に気になるワードが《梟》の口から漏れていた。
「待て、お前──!」
「《梟》ッ!」
「シュウッ!」
「だから呼ばなくても聞こえるっての」
エギルの制止を遮るようにリンドが叫ぶ。それに続いてクラインも再び割り込むように飛び込んだ。それぞれの武器が交わり、甲高い金属音とこれまでで最も大きな火花がはじける。
三人の鍔迫り合い。鋼と鋼と鋼のこすれる音が耳元でしていた。
「邪魔をしないでいただきたい、クラインさん! こいつは、こいつだけはオレの手で殺すんです!」
クラインに呼びかけていながら、リンドは一度たりともクラインに目を向けてはいなかった。ただ《梟》だけをにらみつけている。
「一年前のことは知っているでしょう。その元凶がコイツです。ずっと探していたんだ。この日をどれだけ待ちわびたか。絶対に殺します。この剣に誓って。だから邪魔をしないでください」
そこには強固な意志があった。清廉な騎士風の見た目に反してそれは決して褒められた目的ではない。それでも、リンドは《剣に誓って》言うのだ。その思いの強さは、言葉からも、そして故人に寄せているという見た目からもクラインには伝わっている。
だが、だからといって。
「ハイそうですかと頷くわけねえだろうがよ。アイツが何をした誰であれ、目の前で殺すのをだまって見てるわけねえだろ。……だからシュウもよ、道を開けろ。ノーチラスを放っておくわけにはいかねえんだ」
似ている。たったそれだけなのだ。だが、たったそれだけでもクラインにとっては見捨てられない理由になる。キリトがひとりで去るあの背中を忘れたことはなかった。シュウがひとりで動いているのを聞いているしかできなかった。そしてまた、ノーチラスも。
今度こそという思いがある。ここで退くわけにはいかない。
「……だからさぁ、ふたりとも」
そして《梟》は、そんなふたりを見ながら仕方ないとでも言うかのように笑っていた。
「何度も言ってるだろう。通りたいなら──自分の意志を通したいなら、力ずくでやってみせろよ。そうやって攻略組は全てのフロアボスを倒してきたんだろうし」
そこで一度、言葉を切る。
ちらとクラインを見、《梟》はさも楽しげに口角を上げる。
「俺もそうやって、力ずくで殺してもらったんだぜ?」
「貴……様ァァァァ!」
リンドが叫んだ。片手剣に両の手を添え、全体重を乗せて押し込む。拮抗していた三人の武器が次第に《梟》を押すようにバランスを傾けていく。
「おいシュウ──!」
火に油を注ぐようなシュウの言葉に声を上げたクラインを、《梟》は遮るように刀を強引に押し返す。リンドによって傾いていたパワーバランスが元に戻っていく。
──ドンッ! と。
クラインとリンド、ふたりの腹に重い衝撃が走った。
《梟》が鍔迫り合いを押し返すために強く踏み込んだだけ。シュウの手は変わらず刀に添えられたままだった。
「遠当てっつってな。《体術》スキルのひとつだ」
言いながら、体勢の崩れたふたりを武器を薙ぎ払うようにして押しのける。
「お前らをやれば他も芋づるってことでいいんだよな?」
《梟》が刀を右腰に構えた。刀身が赤く光りだす。
そして再び、竜巻が雪を巻き上げた。
「……終わりか?」
《梟》だけが立っていた。
風の渦に呑まれた《聖竜連合》はもちろん、戦闘を──《梟》を避けるようにして森の奥へと進もうとした《風林火山》も、そのメンバーのほとんどが足首より下を斬り落とされている。そのなかでリンドとクラインだけが斬り落とされなかったのは、リーダーとしての矜持だったのかもしれなかった。
「なんだ、攻略組ったって大したことないな? 無事なのはリーダーだけか。あとアルゴ」
長刀を地面すれすれのところで緩やかに揺らした。大きく長いだけに重量もあるはずのそれを《梟》は片手で軽々と持ち上げ、それでいて鮮やかに、舞うように振るう。
それはさながら演舞のように滑らかで──そして一切の容赦がなかった。
「お前は来ないのか?」
「オイラにゃもう荷が重いヨ。……そんな見事な足止めを見せられちゃ余計にナ」
「殺しちゃったら足止めじゃないからな」
部位欠損の回復は、HPバーのそれと違いアイテムによる効果はない。それは即ちポーションによる漸次的回復も、結晶アイテムによる即時回復も効かず、ただ時間経過による回復以外に手段がないということ。
そして回復に要する時間は一時間。安全圏外で行動不能になった仲間を放置するわけにもいかず、結果として《梟》による言葉どおりの《足止め》を受けていた。
「くそっ……! クソクソクソ、《梟》ッ!」
足へのダメージがないリンドが裂帛の気合とともに斬りかかる。大きく踏み込んだ大上段からの剛撃はしかし、《梟》の刀に無造作に受け流された。
「懲りないね、お前も。……そりゃそうか、一年前のやつをずっと引きずってんだもんな」
「うるさい! お前があの人を語るな! お前が殺したんだろうが!」
リンドは激昂し、再び肉薄する。
「あんな、よりにもよってあのタイミングで! 人をひとり殺しておいて! それでもお前は自分のせいじゃないと言い張るのか! あの人がどれだけ苦労して人を集めたのか知らないだろう! あの人がどれだけ人が集まったことを喜んだか知らないだろう! あの人がどれだけ──」
リンドが叫ぶ。水滴がひとすじ、頬を伝う。
「どれだけ本気でゲーム攻略を考えていたかお前は知らないんだろうッ!」
ひときわ大きな音がして、リンドの剣が沈んだ。おおっ、と動けないまでも《梟》を逃がさないために出入り口付近を固めていた《聖竜連合》から声が上がる。
《梟》は左手を刀に添え、防御の姿勢を取っていた。足元の雪が後方にやや盛り上がっている。リンドの剣に、初めて《梟》が押されたのだ。
ざり、とリンドが一歩踏み込む。そのぶん《梟》が後方へ押される。
一歩。一歩。鍔迫り合いのまま、リンドは少しずつ、しかし着実に踏みしめていく。
歓声が上がる。《聖竜連合》からだ。リーダーの優勢に、ここぞとばかりに喉を震わせる。
「オレはお前を許さない」
そんな歓声を背に、リンドはさらに強く踏み込んでいく。
「ディアベルさんの想いを踏み躙ったお前を、オレは絶対に許さないッ!」
剣に体重が乗る。上から押しつぶすようにリンドの体が前に沈んでいく。刀の背が、《梟》の眼前まで迫っていく。
だがそれでも、《梟》の表情が崩れることはなかった。
「……許さなかったら、どうするんだ」
「なに?」
《梟》の後退が止まる。雪に泥が混じっていた。《梟》の
「俺を許さない、それはいいよ。俺を殺したい、それも構わない。それで? 早くやってみせてくれよ。さっきから口だけじゃねえか」
「貴様……!」
リンドが押し付ける刃に体重を乗せるべく身を乗り出す。だがそれとは裏腹に、じりじりと上体がのけぞっていく。
《梟》が押し返していた。一歩、押される。
「前もそうだったよな。お前はぎゃあぎゃあとわめくだけだ。見殺しにしただの嘘だのベータテスターだのと支離滅裂に。なに言ってやがる、号外にちゃんと書いただろうが。『この情報はあくまでもベータテスト時のものです』ってよ。『正式サービス版とは異なる場合がある』のは当たり前だろう」
わざわざ赤字にまでしてやっただろう、とため息交じりに《梟》は言う。その瞳は目の前のリンドではなくその向こうにいる誰かを見ていた。
ぎぃん、と甲高く。《梟》が競り合うリンドの剣をはじく音が響く。
ふたりの間の、距離が開く。
どちらかでも踏み込めば、そこは互いの間合いだった。互いに剣を向けながら睨み合う。
「それでも選んだのはディアベルだ。そして負けた。ならそれは他でもないディアベルの責任じゃねえか。《鼠》とはいえ疑うことをしなかったアイツが馬鹿だっただけだ。俺には関係ないね」
「貴様……ッ! 許さん、許さんぞぉぉぉ!」
「だから許さないならどうすんだっての」
「殺すッ!」
リンドが踏み込んだ。瞬間、間合いが急激に縮まる。
踏み込みの反動で両手を振り上げ、そして裂帛の気合いとともに剣を、《フラガラッハ》を振り下ろす──。
「遅えって」
《梟》の呆れるような声がして。
リンドは腕を──手首から先の無い腕だけを振り下ろした。
「……な、あ?」
「学習しねえな、お前」
遅れて、リンドの背中側からいくつかの落下音。振り向くと、そこにはふたつの手と片手剣──《フラガラッハ》が雪に埋もれていた。
ドッ!!! と。水月に衝撃が走る。肉薄していた《梟》の膝がすぐ眼下にあった。体に浮遊感を覚えた次の瞬間、自らの手の上に激しく尻もちをついていた。
「っ……!」
「覚悟はできてるな?」
顎が冷たく細い鋼に持ち上げられる。一対の瞳とオレンジ色のカーソルがリンドを見下ろしている。
「忘れたとは言わせねえよ。お前は俺に剣を向けた。てことは、俺に斬られる覚悟はあるんだよな」
「ま、待て」
「待てと言われて待つやつはいないだろ」
リンドは尻もちをついた体勢のまま後退する。だがそんな鈍い動きで振り払えるはずもなく、《梟》はぴたりと追ってくる。
左手で握られていた刀の柄に、右手が添えられていた。カタナの分類は両手剣だ。両手で握って、初めてソードスキルの発動が可能となる。
刀が、橙色に光っていた。
「死ね」
短く吐き捨てた言葉と共に刀が振り下ろされる──。
「待てっつってんだ、シュウ!」
だが《梟》の斬撃は、
「……クライン」
「やり過ぎだぞ、お前ェ!」
《梟》の刀が、クラインの同じく刀にはじかれる。ソードスキルの相殺による反動は大きく、互いに三歩ほど後ずさった。
シュウの動きが止まったその隙に、リンドを隠すようにしてクラインはふたりの間に割り込む。リンドが戸惑いとも安堵ともつかない声をあげていたが、それに関しては一瞥するだけで何も反応を示さない。
ただ目の前のシュウだけを、睨みつけるように見ていた。
「ノーチラスのほうはいいのか?」
「良かねえよ! 良かねえけど、こっちもこっちで放っておけるか!」
叫びながら、クラインは雪に刀を突き立てる。
自分ひとりでもノーチラスのところへ向かう心構えではあった。だがリンドとシュウのやりとりを目の当たりにして無視などできようもない。苦渋の決断だった。
「なぁシュウ、何も殺すこたぁねえだろ。本当に人殺しになっちまうぞ」
「今さらだよ。《梟》はすでにレッドプレイヤーだ。もうひとりもふたりも変わらない。言ったろうが。本気だよ」
シュウの言葉に、背後でリンドが恨言を吐く気配があった。だがそもそもそれが筋違いであることをクラインは知っている。
シュウは誰も殺していない。シュウが言うように少数派の意見ではあるが、それが真実であるということはわかっている。クライン自らが知るシュウの人となりとその彼の近くにいたプレイヤーたちが受けた印象を重ねれば、それは明白だ。
ボタンを掛け違えてしまっただけ。そのほんの少しの差を直すことさえできればいいはずなのだ。
だがその差を、シュウは逆に大きくしようと、確たるものにしようとしている。それがクラインにはどうしても見過ごせない。
「変わるだろうが、ゼロか一かだぞ! なんでお前ェはやってもねえことをやったと言い張るんだ!」
「だから言っただろ。必要なことなんだよ」
「だから何がだっつうんだ!」
クラインは激昂する。
わからないことだらけだった。ディアベルの死をさも自分がやったことのように言い続けるのも、よりによって殺人ギルド《笑う棺桶》のシンボルをその身に宿していることも、そして今回、ノーチラスの無謀な挑戦を後押ししていることも。
人を殺す、あるいはその可能性があるという選択が必要になることそれ自体がわからない。
最後に顔を合わせたとき──偽のログアウトスポットのときにわかったはずなのだ。彼が抱え込む性質であると。そして言っていた。なりふり構っている場合ではないのだと。あのときの苦しげな表情は今も鮮明に思い出せる。
「お前ェ、キリトをひとりにしたことを後悔してたろ。見間違いかもしれない人を追いかけるっつって、結局成果が出なくてよ。だったら無理やりにでもついていくなりついてこさせるなりすればよかったって思ってたろ」
「……っ」
《梟》が──シュウが息をのむ。
「けど気にすんなって言ったよな。あれは別におためごかしとかじゃねえんだ。オレはあのときのお前ェを見て、心配ないって、安心だって思ったから言ったんだ。だってそうだろ、お前ェはオレと同じかそれ以上に見捨てたって思ったのかもしれねえけどよ、ちゃんとキリトに追いついたじゃねえか。しかも隣にユウキちゃん連れて、《鼠》の仕事だってアポまで取ってよ。しかもその後で、別行動したときの目的もちゃんとこなしてアスナさんまで助けたらしいじゃねえか。知ってるか、三人とももう攻略組の最高戦力だぞ。攻略になくてはならない三人をつなげたのはお前ェなんだぞ!」
訴えるように。黙り込んだシュウの目からひとときも視線を外すことなく、クラインは言葉を投げかける。
──わかるさ。大人なめんな。
キリトのために、アスナのために。あれだけの行動力を示す男だ。その動機は、ちゃんと《救う》ことにあるはずだ。だからこそあの場にいなかった自分が心底憎い。何が変わったわけでもないかもしれないけれど、ひょっとしたら何か手助けができたかもしれないのだ。
一年もの間ずっと悔やんでいた。今このときが、やっと巡ってきたチャンスなのだ。
「……戻ってこいよ。お前ェがいねえから、またキリトはひとりで行っちまう。アスナさんも難しい顔してるし、なによりユウキちゃんの顔が晴れねえ。お前ェ、まさか女の子泣かしてそのままなんてしねえよな?」
クラインは手を差し伸べる。
その手をシュウは黙って見ていたが──やがて口を開こうとして、
「ふざけないでください!」
これまで黙って聞いていたリンドの声が大きく響き渡った。
「こいつが何をやったのか知らないんですか! 人を殺してるんだ! それをあなたは許そうと言うのか!」
「やったのはこいつじゃねえ。少なくとも、ディアベルだったか? そいつを殺す理由がねえ」
へたりこんだままのリンドを後ろに庇うようにして、やはり視線はシュウから外すことなくクラインが答える。
「そんなの、LAボーナスが欲しかったからでしょう! オレも仲間も聞いたんだ、こいつはLAを欲しがってた!」
「けど取れなかったんだろ。しかもそれ以降は取りにも来てない。殺してまで欲しかったにしては諦めが良すぎる」
「そんなのいたって取らせるわけないじゃないですか! それがわかるからいなかったんでしょう!」
「……欲しいものを欲しがるって気持ちがそんなに弱いもんなら、お前ェはどうなんだ。蘇生アイテム、諦められるか?」
「なっ……諦められるわけないでしょう!」
「だろ? なら同じだ。諦めるわけねえんだ。それでもいなかったってことは、LAボーナスが目的じゃなかったってことじゃねえのか」
「──っ!」
リンドが口をつぐむ。返す言葉が見つからない。確かに、欲しい気持ちがそうと言われれば否定はできない。
だが、だからってハイそうですかと頷くこともできない。
「いったいなんなんだ貴方は! 人殺しを許容するとでもいうのか! コイツのカーソルを見ろよ、オレンジなんだぞ! 犯罪者じゃないか!」
リンドは《梟》を指で指し示す。そこには確かに、オレンジのカーソルが浮かんでいる。
「そうだな」
クラインは振り返ることなく頷く。そしてリンドがさらに何か言おうとするのを遮るように、再び口を開く。
「けど、
「なっ……」
リンドが今度こそ絶句した。《梟》に向けていた腕が力なく垂れ、雪に沈む。
シュウが少しだけ驚いたような顔をしていた。
「……クライン」
「なあ、シュウ。もういいだろ。もう一年だ。話せよ、あのときあったこと全部。そんで、戻って来いよ。な?」
クラインの言葉に、シュウが初めて困ったような表情を見せた。
だがそれも一瞬のことで、ややあって苦笑を浮かべながらゆるゆると首を横に振る。そして雪に刺していた刀を流れるように引き抜いた。
「……ダメなんだって。言ったろ、必要なことなんだ。まだ役目がある。それを終わらせないと、俺はそっちに戻れないんだよ」
「シュウ!」
「気持ちはありがたい。だが決裂だ。俺は戻れないし、やはりここは通せない。わかるだろう、クライン。
「……馬鹿野郎が」
毒づき、クラインも刀を抜く。もはや交渉の余地はない。
音が止んだ。雪が静かに降っている。
ふたりが、同時に踏み込んだ。