腕に唐突な喪失感があった。腕の中でポリゴン片が舞う。まるで人ひとりぶんを抱きしめるような形で、キリトは動きを止めた。
「サ、チ?」
ぎこちない動きで振り向く。ユウキも、アスナも、ユナも、黒猫団も。全員が驚いた顔をしていた。その中に、サチの姿だけがない。
──幻覚、じゃない。
走り出そうとして、サチが急に目の前に現れて。慌ててブレーキをかけたら、サチが微笑んで。そして。
「ありゃ、ふたり残っちまったか。運がいい」
「……っ!」
キバオウがキリトの襟を掴んで飛び退く。その急な衝撃にも反応できず、勢い余って雪の上に崩れ落ちる。ユウキやアスナが何かを言ってきているようにも思うが、そのどれもを言葉として聞き取ることができない。
ただ理解していたのは、サチがポリゴン片に姿を変えたこと。その光景は何度も夢に出てきていて、そして二度と見たくないとずっと意識してきたものでもある。考えずとも、その現象は知っていた。
だからこそキリトは、目の前で起きたことを信じることができなかった。
「これはまだ使うつもりなかったんだけど、まあしょーがねえか」
ジョニーはやはり気怠げに立っていた。振り払うように左手を動かしただけだ。それ以外の動作は見ていない。ましてサチのHPは、数字こそ大きくはないにせよダメージもなかったはずだ。それがなぜ──。
「……これが、か?」
キバオウが戸惑うようにしながら自分の首元に手をやった。その指の隙間に鈍く光るものがある。持ち手の部分のない、短く細い金属。まるで針や釘のような。それに似たものが、雪の上に三つ落ちていた。
そこで初めてキリトは他に軍のプレイヤーがふたりいたことを思い出す。だが彼らの姿もまた、サチ同様になくなっていた。
「お代はもらったぜ。領収証明っていうのか、レシートの代わりは生命の碑だ。確認しとけよ」
──生命の碑。
その単語に、キリトはびくりと震える。
姿が消えたこと、確認は生命の碑。それが意味することは──。
「即死やと……!?」
誰もが呆然とするなかで、キバオウがあり得ないと言わんばかりの口調で呟く。それにジョニーは答えず、ただ頭陀袋から覗かせる目を三日月型に歪めた。
「さて、三人分か。何が聞きたい?」
毒は大きく二種類に分けられる。
ひとつはダメージを継続して与えるもの。ダメージ毒と通称されるそれは、その程度の差によってさらに細分化する。いかに短時間でHPを削り切られるか、そのダメージ量によって差がつく。
ふたつめに、行動を阻害するもの。麻痺、睡眠、暗闇といったアバターの身体機能に異常状態のステータスを与える。ひとつめの毒のようにダメージこそないものの、行動阻害の度合いの差によって同じように強弱が生まれる。
そして存在の示唆こそあれど確認されていないものがあった。それが《即死》。
分類するならばダメージ毒の極致だろうが、危険度は飛躍的に高い。もはや第三の毒とも言えるだろう。
それを、ジョニーが。存在の証明どころか効果の程度まで見せたのだ。
「なんだよ、聞きたいことがあるんじゃないのか? あ、疑ってんのか即死毒。本物だぜ。さすがに自分じゃ試してないけど、これで何度かモンスター倒してたりするから間違いねーよ。うん」
右の手に握る黒い短剣を弄びながら、ジョニーは自らの発言に頷く。
「今ので一個な。ちなみにサービスで教えてやるけど、当たりの確率はだいたい四回に一回だ。おめでとう、幸運の持ち主だな」
そしてキバオウに向けて拍手。その様子はまさに惜しみない賞賛のようで、その様子がさらにジョニーの異質さを際立たせる。
「あとふたつだ。さて、どんな情報がお望みだ──っとぉ!?」
黒い塊が、疾風の如き速さでジョニーに襲いかかった。
「おおおおああっ!」
「わ、ちょ、待っ、待て待て!」
激しい金属音。雄叫びのような声はキリトが発していた。
喉が潰れんばかりの荒々しい叫びだった。激情に任せて剣を振るう。長い前髪の下からひとすじ、またひとすじと光るものが落ちていく。
「ああああああああ!」
言葉にならない──というより、言葉にしようとしていなかった。ただ感情の昂るまま、その矛先をジョニーに向けて。ソードスキルの発動すらせず、とにかく剣を振るその後ろ姿にユウキは既視感を覚えた。
思い至るのは第一層の惨劇。《ジョニーによってプレイヤーが目の前で死んだ》のだ。あのときは直接の被害ではなかったものの、起きた現象で言えば全く同じ。しかもまるで狙い澄ましたように、キリトの目の前でそれは起こっている。
──キリトの心が壊れる。
危機感を覚えたそのとき、ユウキの横を抜けようとする人影があった。慌ててその腕を掴む。
「……離してください」
「ダメ!」
「離せ!」
「ダメだってば!」
黒猫団のリーダー、ケイタが槍を片手に唸るような声で言う。その間もユウキには一瞥もくれず、ただジョニーだけを見ていた。槍を握る手が震えている。
それでも、振り払おうとするケイタの腕をユウキは離さなかった。
見れば、その後ろで黒猫団の面々が武器を手に取っていた。そんな彼らをユナとふたり、自らを壁にするようにして立ちはだかって抑える。
「アスナ!」
「うん!」
ユウキの呼びかけに答える前にアスナは動いていた。閃光の如き速さで一気に距離を詰め、再びジョニーに刺突を繰り出し弾き飛ばそうと試みる。
その軌道上に、ジョニーはキリトの体を誘導していた。激情に任せた乱暴な攻撃はひどく単調になっていた。
「おら、返すぜ」
「──っ!」
慌ててソードスキルをキャンセルする。物理法則を無視してブレーキをかけたアスナに抱き抱えられる形で、キリトはジョニーに強く蹴り飛ばされた。
「ったく、あぶねーな。びっくりするだろが」
「っ、く、そがぁぁ!」
「キリトくん!」
なおも斬りかかろうとするキリトに、アスナは思いきり抱きつく。筋力値で劣る以上なりふり構っていられない。このまま続けても、ジョニーを捕縛する前にキリトが壊れてしまうだろうことはアスナにもわかっていた。
「よくも……よくもサチを!」
キリトは止まろうとしない。アスナの静止の声が届いていないのか、もがきながらも立ち上がろうとしている。
その顔は怒りに歪んでいた。ジョニーから一度たりとも視線を逸らさず、息を荒げ、まるで今にも噛みつこうとしている獣の如き形相。だが、強い感情をたたえた双眸からは止めどなく涙が流れている。
「離せ、離してくれ……! アイツだけは絶対に許さない!」
まるでうわ言のようにキリトは呟く。離せ、許さない、絶対に。壊れた機械のように、それだけを呪詛のごとく呟き続ける。
アスナはキリトが何を思って彼ら──月夜の黒猫団と行動を共にしているのかを知らない。黒猫団のこともだ。少なくとも攻略会議では見たことがなく、それはここまで尾行して確認した彼らの戦力からもおそらく想定したとおりの低ランクギルドだろう。
全員と初対面であるし、それこそ《彼女》となんて目を合わせたかどうかもわからない。何を思ってキリトの前に飛び出したのかも。だが結果としてそれでキリトは命を救われている。ならば少なくとも、アスナにできることはこれ以上ジョニーに近寄らせないことだ。
彼女が救った彼の命を、守らなければならない。
だからアスナは──いったん、キリトを抱きしめる腕を離した。突然に自由の身を得たキリトはわずかによろめく。
そしてその隙にアスナは素早く立ち上がり、キリトの正面に回り込んだ。
「……ごめんね」
パァン、と乾いた音がして。
キリトは雪の上に尻餅をついた。
「おおっ」
その小気味良く大きく響いた音に、ジョニーまでもが驚く。
キリトは平手を受けた左の頬に手をやりながら、呆然とアスナを見上げた。
「……アス、ナ?」
「落ち着いた?」
目を白黒させるキリトの顔を覗き込むようにアスナはしゃがみ、優しく、それでいて少し怒ったように笑いかける。
その──《笑顔》が。直前に見た、サチの《笑顔》と重なって。
キリトの目から再び涙が溢れ出た。
「……約束、したんだ。大丈夫だって。絶対に守るって、誓ったんだよ……!」
しゃくりあげるようにして泣くキリトを、アスナは今度は正面から、胸に頭を抱くようにして抱きしめる。相槌を打ちながらその背中をさすってやると、嗚咽とともにキリトは次々に言葉を漏らしていった。
それは懺悔だった。彼女が怖がりであるとわかっていたのに強く言えなかった自分を、キリトは責めていた。戦闘に参加させるべきじゃなかった、盾を持たせさえしなければああして前に出ることはなかったかもしれない、とキリトは悔やんでいた。
「キリトさん……」
ユウキに腕を掴まれたままのケイタが、小さく呟いた。自分以上に取り乱したキリトを見て落ち着きを取り戻したのか槍を握る手の震えは止まり、痛々しいものを──それでいてほっとするような、どこか温かみのある視線でキリトを見つめている。
そうしてもう大丈夫と頷くと、ユウキもまたほっと息をつきながら腕を離した。
「そろそろいいか? 鬼の目にも涙ってか。前も泣いてなかった?」
「……っ!」
ジョニーの言葉に、またもキリトがぴくりと反応する。だがアスナが庇うように強く抱きしめたおかげでそれ以上の反応を示すことはできなかった。
「まあいいや。それで、どうする? あとふたつ。ちゃんと教えるつもりはあるんだけど」
ジョニーはそんなキリトの様子に興味を失ったのか、キバオウたちに目を向ける。
「オレに聞きたいことがあるみたいなこと言ってたもんな。どんな内容だ?」
だいたいわかるけどな、とジョニーは短剣を弄びながら笑う。
ユウキたちは互いに顔を見合わせた。この場がどう収まればベストか──いいや、そもそもいま最優先は何か。
脅威の排除という意味では、軍や血盟騎士団に捕縛されたオレンジプレイヤーたちと同じように第一層はじまりの街の黒鉄宮地下に広がる牢へ投獄するのが理想だ。だが、そうすることでジョニーの機嫌を損ねてしまうと情報が得られなくなる可能性がある。
そしてそもそも。即死毒を回避するための耐性などないわけで、さらにあの釘なのか針なのかというアイテムがどれだけジョニーの手元に残っているかもわからない以上は下手に行動に出ることはできない。
ならば今は、真偽はどうあれジョニーがくれるという情報を聞くしかないのではないか。
「……今すぐにでもぶん殴りたいところやがな」
キバオウが拳を握る。
目の前で消えたふたりの名前を、オレンジを連行しているひとりにメッセージで確認させた。返事はすぐにあり、信じがたいことに確かに横線が刻まれているらしい。
仲間を殺されて黙ってなんていられない。だが首に刺さっていたあの金属を避けられなかったのも確かだ。確率次第で死んでいたのだと思うとゾッとする。それを考えるとジョニーへの武力行使は慎重にせざるを得ない。
全てがジョニー次第の現状が、ひどく歯痒い。
「……信じてもええと思うか?」
「だいじょーぶダイジョーブ。オレ、嘘、ツカナイ」
「お前には聞いとらん」
「あ、ひでぇ」
キバオウはユウキを見ていた。《鼠》とのつながりを考えたのもそうだが──三日前の問いかけに、ユウキが頷いていたことがキバオウの印象に深く残っていた。
──お嬢はコイツを知っている。
だから、聞くならばユウキだとキバオウは考えた。そしてユウキは、
「うん、いいと思う」
あっさりと頷いてみせた。
「ほ、本気ですか!?」
ケイタが大きな反応を示した。ジョニーに騙されてここまで来た黒猫団としては疑わずにはいられないのだろう。その声に一瞬驚いたような顔をユウキは見せたが、それでも意見を覆すことはしなかった。
「たぶん、だけどね。嘘は言わないと思うんだ。それでも気になるなら、一個だけ確認はできるよ」
「確認?」
ユナが首を傾げる。他の面々も、ピンとはこなかったらしく怪訝な表情だ。アスナや、キリトでさえも。もしかしたらそれは、ずっと近くで見ていたユウキにしか思いつかなかったのかもしれない。
彼らのそんな様子に苦笑しながら、ユウキはジョニーに目を向ける。
「ねえ、ジョニー。嘘は言わないって、シュウに誓える?」
一瞬、頭陀袋から覗く眼が見開かれる。
「ああ、いいぜ。《梟》に、我が同胞シュウに誓おう。嘘は言わない」
だがすぐに軽い調子に戻って、そう言った。
「ね」
ユウキは改めて、キバオウたちに向き直る。彼らもキバオウと同じく、目を丸くしていた。
確証こそ結局は得られていないけれど、おそらく以前ユナたちの前に姿を現したオレンジプレイヤーはジョニーだとユウキは考えていた。短剣、小柄、左手にシンボル。そして《梟》という単語。オレンジプレイヤーのコミュニケーションがどのようになされ、どれだけの人数がいるのかなどほとんど知らないけれど、決して多くはない人口の中で似た人物が何人もいるはずがない。
そして少なくとも、目の前にいる男と《あのとき》の男は同一人物だ。それに関しては確信を持って言える。
理屈は知らない。だがあのとき、シュウはジョニーを信じてもいいと言っていた。正直、自分ではまだ揺らぐ部分がある。けれどシュウなら。彼ならばこんなときも信じるほうを選ぶのではないかと思うのだ。
「聞くだけ聞いてみようよ。なんなら、嘘かどうかはいったん置いといてさ」
それにこれこそ口にはできないけれど、三人もの命が失われたのは間違いないらしい。決して許してはならない。だがそれで意気込んでさらに犠牲を出すわけにはいかないし、かといって三人の命を無駄にするわけにもいかない。
命と引き換えの情報だ。それで聞かないなんて、それこそ犬死にではないか。
「……わかった。それでええ」
キバオウが一瞬の瞑目ののち、頷く。
「聞いたのはワイやからな。お嬢の判断を信じるわ。ウタちゃんはどうや?」
「私も、大丈夫。そのために来たんだもんね」
ユナはちらと黒猫団を見、キバオウと同じように頷いた。
彼らにはいろいろ思うところがあるだろうというのはわかる。だがユナはユナで焦っているのだ。ここは割り切ってもらうしかない。
「……?」
不意にユウキの視界にメッセージの着信アイコンが閃いた。アルゴからだ。何か急ぎの内容だろうか。メニューウインドウを操作しながら、キバオウの声を聞く。
「じゃあウタちゃんからや。急ぎなんやろ」
言って、ユナを前に促した──そのとき。
「……まだ、やって、いたのか」
「んお?」
ジョニーの後ろで、掠れた低い声がした。
一対の赤い瞳が、ジョニーの後ろの暗闇に浮かんでいた。
「ジョニー。そろそろ、時間だ。終わら、せろ」
しゅうしゅうと掠れるような、途切れがちな声。赤い瞳はやがて顔全体の輪郭をぼんやりと浮かべていく。
闇の中に、髑髏があった。
「……っ!」
キバオウは慌ててユナを引き止め、自分の背に隠した。ユウキはそんなキバオウの動きに合わせて素早く黒猫団の前に移動し、アスナはキリトを強く抱き寄せる。
その髑髏は、ゆっくりとジョニーの隣に歩み出た。
襤褸布を上から被せただけのような格好。身長だけならジョニーとそう変わらない。異なるのはその足元にのぞかせる細い剣の鞘くらいだろうか。短剣ではない。細剣のようなフォルム。頭上のカーソルカラーもジョニーと同じオレンジで、そしてその襤褸布から覗く左足に──ジョニーと同じ、《笑う棺桶》のシンボルがあった。
「まだ早くね? もうちょっと遊ばせろよ」
「無理、だ。ボスも、動いた」
「ありゃ。じゃあマジで終わりかな。……あそうだ、おいザザ。お前、自己紹介とかしとけよ」
「いらん、だろ」
「えー」
ザザと呼ばれたプレイヤーは、それより、とジョニーに何かを手渡す。
「早く、終わらせろ」
瓢箪のような容器だった。ちゃぽん、と水の音がする。それを短剣の代わりに手でいじりながら、ジョニーはしょうがねえなと呟いた。
「ウタちゃん」
「っ!」
そしてユナを指で示す。キバオウがより低く身構えるが、ジョニーはそこから動く様子は見せない。
「ノーチラスの行方、で間違いないな?」
そうして言い放ったのは、まさに今ユナが欲しい情報だった。
「な……!」
「なぜそれを、ってのはナシで。だいたいわかるっつったろ。てかほとんどアレだ、《梟》からのネタだ。それで納得しろ」
《梟》という言葉にユウキがぴくりと反応する。
そういえば、とユウキはユナの話を思い出した。確かユナが乱入を受けた際も、《梟》の言葉を受けていたかのようなことを言っていたのではなかったか。──ひょっとしたら、情報屋ジョニーとは。
「《明るい道を進め》。アイツに教えたのはそれだけだ。ずっと空の見える道を行けばそれが正解だよ。ちなみにサービスな、そこの黒の剣士にも言ったけど。お前らが大好きな《梟》もそこにいるぜ。今もいるかは知らんけど」
ジョニーの言葉を聞きながら、ユウキはつい先ほどのメッセージをユナに転送していた。アルゴからの連絡──それは火急を知らせる内容で。
そしてジョニーの言葉を真と裏付けているものでもあった。
『ノーチラス尾行、シュウ出現。ボス戦をノーチラスひとりにさせようと通せんぼしてル。急ぎユナ嬢連れてこられたシ』
ユナの目が驚きに見開かれる。ノーチラスが──エーくんが、危ない。
「……っ」
だが、ユナは動くことができなかった。
戦力的な不安の残る黒猫団、未だ落ち着きを取り戻している最中のキリトと彼にかかりっきりのアスナ。まともに動ける戦士はキバオウのみだ。
対するオレンジプレイヤーは、即死毒を所持する可能性のあるジョニーとザザと呼ばれる新たに現れた謎の髑髏マスク。
ただでさえジョニーひとりを手に負えなかったというのに、むしろ増えた敵を前にこちらの人数を減らしていいはずがない。
そうして迷うユナの背を──キバオウが、押した。
「ええで。行け。ここはなんとかする」
「え……」
思わず、ユナはキバオウを見上げた。壁になってくれている彼は、《笑う棺桶》のふたりから目を逸らさないでいる。
「もともとそのつもりやったんやろ。ワイかてそれで納得しとる。言うたよな。あんなん、放っといたらあかん」
「キバオウさん……」
「お嬢!」
キバオウの鋭い声が飛ぶ。思わず、ユウキは黒猫団を振り返った。
「……大丈夫、です」
そう言うケイタの顔は不安げではあったけれど。それでも、ちらとキリトを見、そしてユウキに合わせた視線を揺らがせることはしなかった。
「わかった」
ユウキは頷いて、素早くユナのそばに駆け寄り未だ迷うその手を取ると、すぐに走り出す。
「え、ユ、ユウキ?」
「行くよ、ユナ! アスナ、キリト任せた!」
「うん、任せて」
その声を背中に聞きながら、ユウキたちはエリアの境界線を飛び越えた。
「あーあー、行っちまった」
「行かせた、の間違い、だろう」
「まーな」
走り去るユウキたちをジョニーらは追わなかった。それにどんな思惑があったのかはわからない。だが少なくとも、キバオウにとっては好都合だった。
「それで、あと一個か。聞きたいのはキバオウさん、アンタで間違いないな?」
「せや」
ジョニーの言葉にキバオウは頷いて、一歩前に出る。全員をまとめて守るためには、相手により強く自分を意識させればいい。さらに言えば、相手に近ければ近いほど自分をより大きく錯覚させることができる。
「わかっとんなら、はよ言ってくれんか」
キバオウの聞きたいこと──それは、ディアベルに関して。あのとき起こったことの真実を確かめることが、今ここにいる理由だ。
ディアベルを殺した真犯人は誰なのか。
そして自分が、ディアベルに騙されていたのかどうか。
ベータテスターへの嫌悪は間違いなくあった。自分が生きて帰るために、そして仲間を生きて帰すためにと決死の覚悟で進むその横でいとも簡単にキバオウを追い抜いていく彼らは、救いを求めて伸ばした手を払いのけたのだ。自分がよければそれでいいのか。誰が死のうとお構いなしか。いま思えば筋違いも甚だしい怒りであったが、それでもそのときは仲間たちの命を背負っているという責任が崇高な使命感と化していた。
そんなとき、ディアベルだけはその伸ばした手を取ってくれた。助け合いだと彼は笑っていた。自称とはいえ《騎士》だからねと。その彼に、キバオウはついていくことを決めた。
キリトがベータテスターだということを教えてくれたのはディアベルだ。どこからか買ったらしいその情報は、義憤に満ちた当時のキバオウにとって火に油だった。
だがだとすると、《梟》の行動がどうしても合わない気がするのだ。
《梟》に関して知っていることは少ない。なにも知らないとまで言えるかもしれない。ただ、信じられる人間だとは思っていた。だがそれに関しても、《梟》のひととなりを知るからではない。お嬢が──ユウキが。《彼》に全幅の信頼を寄せていると知っているからだ。
トールバーナでの攻略会議のとき。あの舌戦を経て、ユウキというプレイヤーがベータ上がりでないことは確信した。単純ではあるが、それだけでも当時の自分にとってユウキは信頼のおけるプレイヤーにカテゴライズされた。そしてその後に彼女が向かったのが、直前まで座っていた場所ではなく《彼》のもとだったのだ。
キリトと自分との間で、《彼》は《鼠》としての仕事をこなしていた。それがブラフだったとは思わない。後で読み返せば、情報は異なる場合があるということはきちんと書いていた。あれがアルゴによるものか《彼》によるものかは知らないが、少なくとも警告はしっかりと《鼠》から出されていたのだ。それもあって、あのユウキが信頼を置く人物が悪人であったということがどうしても結びつかない。となると、《彼》のあの場での立ち回りの意味が変わってくるようにも思える。
そしてなにより。これも後で思い出したことだが、ディアベルが亡くなったあの瞬間、《彼》は動けない体をユウキに抱きかかえられていたのだ。自分の身を挺してまでディアベルひとりを殺す理由に納得のいくものがどうしても思い浮かばない。
推論をいくつも挙げたところで、そのどれもがそれらしい理屈を当てはめられるだけで確信にまでは至れなかった。ディアベルという渦中の人物が死んでしまった以上、真実は闇の中に葬られたはずなのだ。
──ただ、ふたりを除いて。
「まあそう焦りなさんなって。せかせかしたって良いことないぜ?」
ちゃぽん、とジョニーは瓢箪を揺らす。
ふたりのうちのひとりはもちろん《彼》だ。だが《彼》に関して言えば、知っていることは確かに多いだろうがそれらすべてが推論でしかない可能性がある。頭の切れる人物だった。まるで全て見通しているような。だがそれでも、当事者かと言えば否だ。どこまでも《彼》自身が言ったことであって、収集した情報としては具体的な例はない。あくまでも最も近い人物にすぎない。
もうひとりが──ジョニー。この男に持った印象は疑惑しかない。聞く話によればディアベルを救おうとした《彼》に麻痺毒を与えたのがこの男であるとか、直後あの部屋を《彼》が出ようとしたタイミングで合流したのがジョニーであったとか、その程度のものだ。それでも挙がる話の中に具体的に当事者であったというものがあるのであれば、事実として当事者であった可能性は高い。
そして当事者であるならば。あの当時の真実を知っている可能性もまた、高いのだ。
「そんなことはあらへん。むしろ急ぐのはお前のほうやぞジョニー。ワイは軍や。増援呼ぶなぞ朝飯前やで」
キバオウはわざと不敵に笑う。余裕を示せば、それだけ相手は焦ってくれるものだからだ。実際、すでに呼びかけはしている。ただ、それがいつ到着するのかがわからないというだけだ。
果たしてその効果は、あったのかどうか。
「……そういや、そうか」
「だから、はやく、終わら、せろと」
「わかったわかった、急かすなってのに」
再びジョニーは瓢箪を揺らす。水の音が大きく鳴った。
「んー……そうだな。何から話そうか。って言っても、言えることなんてオレからはひとつしかないんだけどさ」
ひょい、と瓢箪を宙に投げ、それをどこからか取り出した短剣の一振りで切り裂く。
「ディアベルを殺したのはフロアボスだ。オレはなんにもしてないよ。ただ邪魔になりそうな奴の足止めをしただけだな」
ジョニーが言い終わると同時に──森の奥から、獣の太い雄叫びが轟いた。
「……足止め、やと?」
「そ。なんかみんなオレの短剣ばっかり気にするけどさ、オレとしてはそんなんどーだっていいわけ。お前らの情けない姿が見れればそれでいいわけよ。そういう意味で上出来だったぜ。たかがディアベルひとり死んだ程度で見事に逃げ腰だ。アンタもそうだったな、キバオウさん?」
くつくつと頭陀袋の奥で喉を鳴らすジョニー。
「勝手に前出て、勝手に死んだんだぜ。まさか武器が違うってのはオレも知らなかったけど、そもそも壁役でもないパーティひとつで最後のHP一本ぶん相手にできるとかバカの極みだろ。それまでのHPの削りかた見てなかったのかっての。だから、死んだのはアイツがバカだっただけだよ」
「そう、か……」
キバオウは視線を下げて呟く。
結局、ディアベルにどんな背景や思惑があったのかはわからない。だが少なくとも、《足止め》が事実だったということはわかる。そして過去に得た情報と照らし合わせれば、その足止めを食らったのが《彼》だということも。
つまり──。
「お前が、ディアベルはんを殺すように仕向けたっちゅうことやな?」
──《梟》は、関係ない。お嬢と同じように、信頼してもいい人物なのだ。
「だからそう言ったろ?」
満足げに頷き、ジョニーはキバオウを──その先の、アスナを短剣で指し示す。
そして、出血大サービスだぜ、と頭陀袋から覗く眼をさらに愉しげに歪めた。
「なあ閃光さんよ。偽ログアウトスポット、覚えてるか? ここはな、迷いの森ってダンジョンの最奥だ。つまりここにもボスがいる。そして発現の条件は、《酒を撒くこと》だ」
アスナが驚きに眼を丸くする。
偽ログアウトスポット──それはアスナが初めて踏み込んだダンジョンで。外に出られるという嘘の情報を信じ込み、危機に陥ったところをシュウやキリトに助けられた場所。それを知っている?
その様子をも、ジョニーは愉しげに眺めていた。
瓢箪からこぼれ出た無色透明の液体が雪を溶かし塊になって再び凍る。そしてつんと強い匂いをあたりに漂わせ始めた。
「足がついちゃうからよ、直接はやりたくないの。カーソルカラーとかな。それにこれはみんなに言ってんだけどさ、ゲームなんだぜ。ゲームの中。せっかくだからさ、オレはみんなにゲームを楽しんでもらいたいわけ。──さぁて」
言いながら、ジョニーは両手を広げて後ろにステップを刻む。いつの間にか髑髏マスクのザザは全身を森の闇に溶かしていた。
「宴もたけなわ、現れますは猿山の大将《ドラグドエイプ》。日本語で《酔いどれ猿》だ。楽しんでいってくれ」
ズン、と地響きが鳴る。ザザのときとは明らかに違う高い位置に、笑っているかのような三日月形の赤い瞳が闇の中から浮かび上がる。
それに合わせてジョニーが大きく後ろに飛びはねて、森の闇に消える。
「イィィッツ、ショウタァイム!」
そして残響のような声とともに、瓢箪をガラガラと腰にいくつもぶら下げた大猿が数体の《ドランクエイプ》を率いて姿を現した。