──恐怖とは知識だ。
ノーチラスはどこかでそんな言葉を聞いた。
知を識るということは、《わかる》ということだ。《わかる》とは、解る、判るという漢字が当てはめられる。理を解するから解るし、比較して判別がつくから判る。
大きいということは勢いがつくということ。勢いとは速さであり、速さは重さであるということが《わかる》。
相手の大きさと自分の小ささ。ふたつのものに違いがあることが《わかる》。
それは物心つくころから自然とやってきたことで、今さら変えようとしたところで一朝一夕にできるものではないし、そもそも変えられるかどうかすら怪しい。
犬を見て、人間だと思うことがないのと同じように。それは生後間も無く行われた刷り込みにも似た教育によるものではなく、人間として生まれ持った本能に基づく感覚だから。
人外の形をした、それでいて敵意を隠さない自分より大きな存在に対して《恐怖》を覚えるのは、しかたないことではあるのだ。
粉雪が舞っていた。
斧が轟音とともに宙を裂く。頭陀袋が地を叩くたび空気が震える。背教者の動きに合わせて軽やかに舞う雪は踊るように降る向きを変える。
それらの攻撃を、ノーチラスは全て盾で受け止めていた。
「っ……!」
モブ狩りで得たコルを全て注ぎ込んで可能な限り最高の防具を買い揃えた。強化値を全て最大にし、現在の解放層で可能な自分が思いつく限りの最も硬い装備を用意した。
また、モブ狩りの最中は可能な限り回復しないことを心がけた。それにより微量ながら毎秒自動回復スキルを得ている。
さらにステータスの割り振りをできるだけ防御方面に振った。筋力値やHPが上昇するように。そうすることでHPの最大値が上がり、耐久力も必然的に上がっていく。
壁戦士──タンクと呼ばれる役割。それをノーチラスは突き詰めていた。
「グォォォォ……!」
ニコラスが唸り、斧を振り上げる。ノーチラスは構え、盾で受け止める。
受けるダメージはおよそ最大HPの三分の一。単純な計算をするなら三度目で死ぬところを、自動回復によって四度目に決定打をずらしている。それはノーチラスが想定していたダメージよりも小さく、ゆえに消費する回復薬は少なく済んでいた。
また、相手がさほど強くない設定であることも確認した。五本あるうちの一本目を、一番最初の飛びかかりによる渾身の一撃によっておおよそ十分の一ほど削っている。レベリングの甲斐あってか、武器防具の性能も相まってか。受けるダメージも与えるダメージも、自分に有利な風向きだった。
いけるかもしれない。相手には回復がないという希望的前提があってのことではあるが、同じ攻撃をあと四十九回繰り返せば倒せる。それはけっして無茶な数値ではないはずだ。
──そこまでは、よかった。
「く、っそ……!」
足はすでに土を噛んでいた。まるで轍のように泥混じりの線がボスから遠ざかるように刻まれている。ニコラスの踏み込む足の跡は常に同じ場所。長い腕によるリーチのぶんだけ、ノーチラスは後ろへ後ろへと追いやられていく。
──遠い。
二者間には距離が生まれていた。体格差もあってノーチラスの攻撃は剣を振るだけでは届かない。だがノーチラスが感じたその感覚は、決してそれだけではなかった。
二撃めが、遠い。まだダメージを与えたのはたった一度だけだ。最初の、飛びかかるようにして振り下ろした一撃だけ。それ以降、ノーチラスの剣は一度たりともニコラスに届いていない。
足が、動かないのだ。
「ウォォォォ……」
ニコラスは三回斧を振るうと、まるで休憩するようにその動きを止めてゆっくりと体勢を整える。おそらくは息をつくような演出なのだろうが、そのため息にも似たそれが、ノーチラスにはまるで嘲笑のように聞こえる。
「……な、にが……っ!」
その瞬間だけ、ノーチラスの足は動く。相手に戦意がないとわかるからだろうか、まるで杭で打ち込まれたように地面にはりついていた足が突然軽くなる。だがそうして開いてしまった彼我の距離を埋めるべく疾走しても、たどり着く頃にはすでにニコラスが攻撃モーションに入っている。
そしてそれを認めたとき、再びノーチラスの体はびくりと動けなくなるのだ。
「なにが、本能……!」
試しに、攻撃モーションを無視して飛び込んだことがあった。だがソードスキルの途中ですら体は止まる。しかも強制キャンセルという扱いになり、ニコラスの攻撃をもろに喰らった。一撃でHPが赤くなったのを見て、二度とやるまいと誓った。
身構えるだけなら可能なのだ。《身を守る》という体勢をつくり、そのために力を入れるということはどうやらできる。それはおそらく、《恐怖》に基づく《恐怖》ゆえの動作だから。戦うことばかりを意識するあまり気づかなかったことだが、守るだけならできるのだ。
ただ、逃げられはしない。まるで蛇に睨まれた蛙だ。体がすくみ、逃げるための動作がままならない。とにかく攻撃を受けて耐えるしかなかった。
「怖いと思ったら、逃げ出すのだってアリだろう!」
誰にともなくノーチラスは吐き捨てる。
なぜ動かない。なぜ固まる。レベリングはできたのだ。等身大の蟻に囲まれたって問題なく動けたし、同じく等身大の猪なんて戦闘に不慣れな第一層から向き合い続けてきた敵だ。あれらだって怖いし、なんならニコラスは人のかたちを取っているだけまだマシなほうなのではないのか。
「なんで、どうして……!」
斧を受ける。重い衝撃が腕を抜けて足元までビリビリと伝わる。だがそんなものはどうでもいいと言わんばかりにノーチラスはまたも吐き捨てる。
「ボス、だけがッ!」
ボスにだけ。ボスと設定されたモブに対してだけ、ノーチラスのFNCは機能する。そこに獣型もヒト型も関係がない。ボスであること。条件はそれのみだ。
「どうしてそれだけで動かない……!」
ボスか、そうでないか。その違いを、ノーチラスは《わかっ》ている。
ボスが出現するには限定のエリアが設定されていて、そうでないものは広いエリアを与えられていたり。基本的にネームドと呼ばれる固有名詞を持つものがボスで、種族としての名前しか持っていないものがモブであったり。あるいは時間経過で同じものが湧くものがモブで、特定の条件下で一度きりの機会しかないものがボスであるとか。HPバーが一本ならモブで、複数ならボスだとか。
その区別なら簡単にできる。だがその違いがFNCに関係があるのかと問われれば、ノーチラスは首を横に振る。断言こそできないけれど、そうである確率は高い。
なぜならば、自分以外にも少数ながら似た症状のプレイヤーはいて。
それらの全てを《フルダイブ不適合》と呼ぶからだ。
名称から察するにFNCとはナーヴギアとの相性であり、ゲームハードの問題となる。ゲームソフトに関しては関係がない。ましてこのゲームはMMOであり、全員に同じ不具合が出るならともかくゲームソフトのシステムが個人に影響を及ぼすなどあり得ない。
だがそうなると、ボスだけにという条件が《わからない》。
ゲームソフトの問題でないのなら、それ以外にどこでボスかモブかの区別をつけるというのか。ゲームハードなわけがない。ナーヴギアは媒体であってゲームシステムの本体ではない。であれば、残るのはノーチラス本人。ノーチラス自身が《わかる》ボスかモブかに対する心の持ちようだ。
気持ちの問題──たったそれだけのはずだった。足が動くかどうか、気の持ちようで変わるのだと。だからいくら攻撃を受けてもいいように回復薬はありったけ持ってきたし、防御力はありったけ高めてきたし、レベリングはありったけの時間を使ってきた。そうやってゲームのシステム的な安心を揃えてきた。
そしてなにより、……少しだけ。ほんとうに僅かではあったけれど、背中を押してもらいもした。気持ちのうえで、萎縮するような要因は全て取り払ったのだ。
「畜生……っ!」
それでも動かないというのなら、やはり気持ちの問題などではないのかもしれない。ヒースクリフが言うように、機械との相性──機械の問題であると。
視覚や聴覚の不具合がアバターへの出力不備だとするならば、ノーチラスの場合は機械の過剰な読み込み。人間が正常に機能するための電気信号の出力に不備が出ているのでなく、脳から発せられる意思すらを読み取っているのだとノーチラスは仮定したことがあった。ああしたいこうしたい、あるいはその逆のあれは嫌だこれは嫌だといった脳に浮かんだビジョンすらをもナーヴギアは読み取っているのではないか。そうと考えなければ、《怖いから動けない》なんて起こり得ない。
気持ちよりさらに深い、人間として──というより動物としての在り方を、ナーヴギアは拾ってしまっている可能性があるのだ。
だとしたら、本当に手の施しようがない。生物として《わかって》しまっている以上、考えるな、意識するなというほうが難しい。《怖い》ということは忌避感であり、避けるためには意識しなければならないのだから。
「……ああ、そうか」
考えて、考えて。ノーチラスはふと思い至った。
ニコラスが三度目の攻撃を終え、息を入れる。もう何度その光景を目にしただろうか。初めて、ノーチラスはボスに向けて走り出すのをやめた。
《怖い》という感情は天秤で計れる。二つの状況を比べて、どちらの結果がより《怖い》かという比較が可能だ。差が《わかる》のであれば。
そういえば、とノーチラスは思い出す。最初の一撃はユナが死ぬか自分が死ぬかという天秤を心の中で傾けていた。だから足を動かすことができたのかもしれない。
それが今はできていない。ユナの存在は変わらず自分の中で絶対の存在だ。それでも現状できないというのは、おそらくニコラスとの戦闘が長引いたために奴の存在へ割いた意識が大きすぎたのだ。ひょっとしたらあのときは、《梟》との短い会話によってよりその思いが強まっていた、いわゆるブーストがかかっていたのかもしれない。
なら、また天秤を作り直せばいい。ノーチラスは自身を器用な人間ではないと認識している。思い出と現状の天秤で上手くいかなかったのなら、現状と現状で天秤をつくればいいのだ。
「……死ぬ前に、殺せばいいのか」
ニコラスという異形のモノへの《恐怖》と。
ニコラスに殺されるという《恐怖》。
目の前の存在にもたらされる《恐怖》を秤にかけて、ノーチラスは目を閉じる。行動への気持ちではない。起こる事象への意識を強める。
窮鼠が猫を噛むように。背に川を臨む陣のように。
あと一撃で終わるというギリギリの状態を保っていれば、足はまた動いてくれるはずだ。
HPの調整はできる。攻撃は受けるのでなく避けない。防御は最大限捨てる。さながら諸刃の剣のように、ダメージを受けながらダメージを与えればいい。
「っ……!」
ニコラスが斧を振りかぶる。もう何度見た光景かもわからない。だが初めてだった。初めて、ノーチラスは攻撃を避けることも防ぐこともしようとせずに攻撃を受けようとした。
一撃でいい。今の防御力の高さならそれだけで死ぬことはない。それは一度だけやって実証済みだ。ただそれを意図的にやるだけだ。
盾は構えない。
視界が広くなって、ニコラスの動作がはっきりと見えた。そして斧を振り下ろそうとして──。
「エーくん!」
聞き慣れた声が響いた。
視界の下半分が見慣れた茶色の髪で埋まる。思わず視線を下げると、きれいに右回転で渦を巻くつむじが見えて。
それが誰であるのか、考える前にわかった。
「グォォォォ!」
斧が、眼前に迫っていた。頭が真っ白になる。そんな中でただ──ユナ、と。
それは声に出していたのか、それとも心の中だけでなのかはわからないまま、とにかくノーチラスは叫ぶ。
そして──体が動いていた。
「ああああああッ!」
斧に、青白い光がぶつかる。片手剣ソードスキル《スラント》──基礎の基礎、これでもかと第一層で振るい続けてきた技は滑らかに繰り出された。システムのアシストもあったが、それ以上に体がその動きを覚えていた。
ユナを押しのけるようにしながら、構え、剣を振り下ろして。
そしてノーチラスとニコラスは、どちらともなく後ろへ吹き飛んだ。
「ぐっ……!」
雪のその下、ややぬかるんだ土に両足と右手の剣と左手の盾でしがみつく。そして後退が止まった途端に、身体中から力が抜けて思わず膝をついた。
「エーくん! だいじょうぶ!?」
駆け寄り、肩に手をやる人物。やはりその声は聴き覚えがある。というか、聞き紛う──そして見紛うはずがない。
だが、なぜここにいるのかがわからなかった。
「ユナ……どうして──」
「心配した!」
言葉を遮られ、さらに動きを封じられる。
ノーチラスは、ユナに抱きしめられていた。
「……心配、したんだよ」
ぎゅうっ、と。まるでしがみつくかのようにユナはノーチラスをかき抱く。
「──っ!」
「わっ」
ノーチラスはそんなユナを抱き上げて飛び退った。轟音が耳朶を打ち、降り積もり重みを増した雪が土と共に飛び散る。直前までいた場所にニコラスの大斧が振り下ろされていた。
「おー……間に合ったね」
ノーチラスにしがみついたまま、ユナはどこか呑気な口調だった。
「間に合ったじゃないよ。一歩間違ったら死ぬんだよ? どうして来たんだ、こんなとこに」
「だって、エーくんが行っちゃうから」
ノーチラスの責めるような言い方に、ユナは拗ねてみせる。
「約束、覚えててくれてありがとう。でもそれでエーくんが危ない目にあうのは嫌だよ。死んじゃったら、約束守れなくなっちゃうよ」
「……そのくらいやらないと、守れないんだよ」
「じゃあそんな約束、いいよ。破っちゃえ」
「は? ──っ!」
再び、飛び退る。地面をたたくニコラスの斧がまたも轟音を響かせる。
「破っちゃえって、ユナ」
驚きに目を見張るノーチラスから離れ、ユナは笑いかけた。
「私が生きて帰れないのより、エーくんが死んじゃうほうがヤだもん。だったら、あんな約束は破っちゃっていいんだよ」
「……その言葉、そっくり返すよ。ユナを死なせたくないから、僕は約束したんだ」
巻き込んだのは自分。ゲームに誘ったのが自分であるという負い目が、ノーチラスにはある。だからこそ、ユナの生還こそが自分の責務なのだとも。
だから、ひとりでやっていたのだ。
「じゃあついてく」
「は?」
「私もエーくんについてく。守ってくれるんでしょ?」
「──っ!」
「わわっ」
振りかざされた斧に気づいて、慌ててユナを抱き三たび飛び退る。ニコラスは不快そうな声をあげながらも、息を入れるべく下がっていく。
「なんでそうなる!」
もちろん、言われるまでもなく守る。だがユナまでもが危ない場所にいる必要などない。安全な場所にいてくれれば、ノーチラスにとってはその方が安心するのだ。
だがユナは、ノーチラスに抱きかかえられたままぽつりとつぶやいた。
「勇気、もらったんだ」
「え?」
ユウキもアスナも、戦う女の子だ。特にユウキに至っては、自分と同じようにかそれ以上に強い気持ちで《梟》を──シュウを追いかけている。なのに自分は、そんなひとたちに頼んだのだ。自分の問題を。それがどこか情けなかった。
それに──あのひと。名前すら知らないあのひとの気持ちを、ユナはなんとなくわかっていた。ちらちらとキリトを見るあの仕草がどこか自分に似ていて。だからああして踏み出した姿が、とても格好良く見えた。
「私、エーくんのこと好きだよ。そばにいたいんだ。でも弱っちいから。だから、エーくんが守って?」
「ユナ……」
そう──たったそれだけでいいのだ。約束を守ってくれているからと、自分のために動いてくれているのだからと、ずっと思っていた。想いを伝えるのが《怖い》からと、ずっと蓋をして。そうして一歩引いていた。言ってしまえば、こんなにも心は晴れやかになるのに。
いっしょにいられれば、それだけでユナは満たされるのに。
「グォォォォ……!」
「っ……!」
ニコラスが唸る。どこか不機嫌そうな低い声。落ち窪んだ眼窩の奥に覗く赤い瞳が、睨みつけるように鋭く光っている。ノーチラスは庇うようにユナを背中に回す。
そこではたと気づいた。──避けられた。いいや、その前に、ニコラスの斧を防いでいた。ソードスキルをぶつけられた。動かないはずの足が、体が動いている。
きっかけはもしかしなくてもユナだ。ユナがいるから──いてくれるから、ノーチラスは動ける。ユナを守るのだと強く思えるのだ。
「……エーくん?」
聞くだけ聞いて、何の言葉も返さないノーチラスにユナは不安げに声をかける。その頭をくしゃりと撫でて、ノーチラスは初めて、戦場で笑った。
「ユナ、歌を頼む。いつも歌ってるやつ」
「──! うん!」
その言葉に、笑顔に。ユナは笑顔を返す。
歌い出しは──曖昧なボリューム。それはユナが、自分で考えたんだと少し照れながら歌っていたオリジナルソング。だがそのアップテンポな曲調が、ノーチラスには心地よかった。
ユナがいる。そのことが、これほどに心を軽くしてくれる。
「──やってやる」
もう、怖いとは思わない。
剣が光を帯びていた。