野郎どもに花束を   作:小川 帆鳥

29 / 31
エーデルワイス

 この世界──アインクラッドに、犬や猫といった現実世界で言うペットとして愛される動物たちは存在しない。厳密に言えば、犬や猫はいることはいるけれど例外かつ限定的にNPCが連れる犬や野良猫が町の中に存在するだけで、プレイヤーがその動物たちを連れて歩く、あるいは自らのホームでともに過ごすということはできない。それはNPCがゲームシステム的な一般人であり、プレイヤーは逆に冒険者であるからという理由からだった。

 あくまでも幻想的な蒼穹に浮かぶこの城を冒険するのがプレイヤーであり、ゆえに定住を前提とはしていない。できるようになってはいるが、それでも目標は生活でなく攻略でありそれが主軸となる。

 しかしそれならば、そもそもそういった動物たちはいないほうがいいといった声があがることがある。憧憬、羨望、そういった感情が行き過ぎる場合はある。それはこの世界としても、あるいはそうでなくとも不和を生む。

 その行き過ぎた感情を少しでも和らげようという計らいなのだろう。あるいは単に攻略を円滑化するためか。ビーストテイマーという存在は、さほどレアな存在というわけではなかった。不明瞭とはいえ《小型モンスター》かつ《同種討伐数の少なさ》がテイミングの条件として有力視されているなかで、レベルやスキルの熟練度といった《討伐数の多さ》はむしろ不要とされている。仲間にしたいモンスターに巡り合うために《遭遇した回数》を増やすことを重視させるその条件は、《攻略》でなく《冒険》に時間をさける中層プレイヤーにはさほど難しいものではなかった。

 それにより、確かに多くはないにしろ、どの街を歩こうが中層であればだいたいふたりか三人のビーストテイマーとすれ違うことができる。決して珍しいものではないのだ。

 そしてそういう意味で。ピナの種族、シリカの年齢という組み合わせは確かに珍しいものであったが、それ以上に《攻略組》──ギルド風林火山の、しかもリーダーであるクラインがそんな彼女と行動をともにしていることは非常に稀有な事象であり、それゆえに大きな話題となっていた。

 

「……えっと。クラインさんもいっしょでいいですか」

「おう、いいぜ。食いモンにいい思い出があんまりなくてな。楽しみだ」

「そうなんですか? ……じゃあ期待していいですよ。ここのチーズケーキ、とってもおいしいんですから」

 

 三十五層主街区、ミーシェ。クラインがクリスマスの夜に急ぎ駆け抜けたときと印象は違わず、レンガや粘土、ときに木組みで作られた建物が立ち並ぶのどかな街並み。その一角にシリカが当面の拠点にしている宿がある。そしてそれに隣接したカフェで、ふたりは向き合って座っていた。

 石畳に並べられた木の丸イスとテーブル。ランタンに照らされ、はめ殺しの窓の向こうには草原。街の雰囲気そのままののんびりとした店内はしかし、そこそこの客が入っているにもかかわらずどこかそわそわとした空気が流れている。それはシリカにもなんとなくわかった。

 クラインと、ふたりの前にチーズケーキを運んだNPCの店員だけがどうにもその空気を読めていないようだった。

 

「ん! こりゃうめえ。ギルドの連中にも教えてやっか」

「あはは、ぜひ。他にもおすすめのとこあるので、案内しますよ」

「頼むわ。オレらあんまり降りてこねえからな。いろいろ教えてくれると嬉しい」

 

《降りてこない》。その言葉に、ほかの客が少しだけ体を傾けたのがシリカにはわかった。視界の隅で、お前行けよ、いやお前がと押し合いへし合いしているのが見える。気づけば全て席は埋まっていた。

 街に帰ってきたときもそうだった。シリカがフリーになったのを耳ざとく聞きつけたいくつかのパーティがすぐに走り寄ってきて、けれど隣に立つクラインの姿に足を止め、そして半信半疑ながらひとりが確認を取ったらクラインは迷わずにうなずいて。それ以降はシリカ以上にクラインが注目の的になったし、あわよくば、ともすれば。ふだん見ない《攻略組》といっしょに冒険ができるかもしれないという可能性に浮足立っているのだ。

 初めてピナと友達になったときもこんな感じだったのを覚えている。だが今は、きっとピナだから、クラインさんだからこんなふうになるんだな、ともシリカは思う。そのことにどこか寂しさを感じて、シリカは紛らわすように言葉を紡ぐ。

 

「そういえば、どうしてクラインさんは迷いの森にいたんですか? こないだ五十七層がクリアされたばっかりって聞きますけど」

「探してんだ。ひととものと、いろいろ。アスナさんにちょっとお願いして次の攻略は休みにしてもらってな。けどあれだな、やっぱそう簡単にはいかねえや」

 

 うんうめえ、とクラインはチーズケーキを頬張る。どうやら一緒に頼んだコーヒーも気に入ったようで、もう一杯と追加注文をしていた。

 アスナさん。その名前は、あの《閃光》のことだろう。その単語にふたたび店内にざわめきのような緊張感のような、変な空気が漂う。そんな名前がまるで知り合いのように出てくる会話など全く聞かない。それこそニュースで知る有名人というような。やはり本人と店員は気にしている様子がなかったけれど。

 シリカにとっても、その名前のおかげでクラインの存在が本来は遠いところにいるひとなのだとはっきり突きつけられた気がした。

 

「……探しものって、なんですか?」

 

 それでもせめて、今日のお礼になにかひとつでも助けになりたいと思った。チーズケーキをごちそうするのも教えてくれるだけでいいと断られてしまったし、何もお返しできていない。彼が迷いの森にいたということは、目的のもの、あるいはひともその場所に関係するはずなのだ。今日こそなんだかんだで無様な姿を見せたが、探すくらいなら手伝えるかもしれない。

 だがクラインはシリカの言葉に驚いたように目を丸くするも、

 

「ありがとな。けど大丈夫だ」

「ひゃ」

 

 笑ってまたぐしゃぐしゃとシリカの頭を撫でまわす。アバターだから髪が崩れることはなくそこは心配しないが、だからこそ違うところに目を向けることができた──できてしまった。

 彼は大丈夫だと言うけれど。

 

 ──なんだか悲しそう……というか寂しそう? 

 

 その顔は、何かに耐えているように見えてしまった。

 だがそれも一瞬のことで。

 

「ま、それは今はいいんだ。急ぎの用事ができたからな。予定、詰めてくか」

 

 あんな顔をしたというのに、彼はシリカとの約束を優先してくれる。なんだかそれがすごく嬉しくて、にやけそうになる頬をあわててチーズケーキのせいにした。

 

 

 

 

 

 

「あらシリカ。こんなとこにいたの」

 

 あのあと、よほど気に入ったのかクラインはもうひとつチーズケーキをおかわりして、それを食べ終わるのを待ってから《思い出の丘》挑戦への日程を詰めることにしたのだが──始めた途端に、向かいに座るクラインの向こうから聞きたくない声が聞こえてきた。

 

「ロザリア、さん……」

 

 長く赤い髪を後ろでまとめた切れ長の目の女性プレイヤー。街中だからか武器はしまっているが、彼女の武器は槍だ。プレイヤー名をロザリアという。彼女こそ、今日のシリカが喧嘩してしまった相手だった。

 露骨に嫌そうな顔をしていたのだろう。クラインが何事かと振り向く。

 

「むご?」

「ぁん」

 

 ……クラインの振り向いた高さはちょうどロザリアの胸の高さだった。鎧を着ているとはいえ薄めのもの、しかも胸元は大胆に開いた装備である。少なくともクラインの鼻から上は、ロザリアの肌に直接触れていた。

 

「お兄さん大胆ね。嫌いじゃないわ」

「もがご!?」

 

 大胆と言いながら、ロザリアこそ大胆にまるで絹でも扱うかのような動きで両腕でクラインの頭を抱きすくめる。顔がほとんど埋まっていた。

 

「ロザリアさん!」

「あ痛って!」

「あら」

 

 ロザリアに牙をむきながら、シリカはつま先でクラインの向こう脛を蹴とばした。軽くではあったが、その衝撃に驚き飛び上がったクラインの勢いでロザリアは腕を離す。

 

「クラインさんも!」

「いやわざとじゃねえって! こんな近いとは思わねえだろ!?」

 

 確かに、ロザリアはクラインの本当に真後ろ至近距離から覗き込むようにして立っていた。位置関係として仕方ないことはシリカもよくわかっている。だがそれはそれとして、ムカつくのはムカつくのだ。

 

「なにもそんなに怒んなくたっていいじゃないシリカ。あなたにあのトカゲっていう武器があるみたいに、私は私の武器を使っただけでしょ?」

 

 言いながらテーブルの横に移動して、まるでクラインに見せつけるかのように胸を寄せ上げる。そしてそれに見事に吸い寄せられるクラインの視線にまたムカついて、再び脛につま先。

 

「……でへ」

「──っ!」

「はっ! いやすまん」

 

 仕方ないというのはわかる。わかるけれど、こんなにもあからさまな誘惑にくらいは勝ってほしい。ロザリアが言うように、シリカにはない武器だから。そこで勝負されたら勝てるわけがない。

 

「……何しに来たんですか」

「ご挨拶ねぇ。森にひとりで残ったのに無事帰ってきたっていうから顔を見にきたんじゃない。そしたら風林火山のクラインさんと一緒にいるって聞くし、せっかくだからご挨拶でもと思って。──ロザリアです、よろしくねお兄さん」

「よよ、よろしくお願いしゃっす」

 

 身を乗り出すようにしながら、ロザリアはシリカの前に割り込んでくる。クラインの視線が揺らいでいたりなんだかどもっていたり、とにかくシリカの気に障る。

 

「何しに、来たんですか!」

「あら、そういえばあのトカゲどうしたのよ、いないじゃない。逃げられたの?」

 

 ──わかってるくせに。

 

 言い返そうとする自分の口を無理やり閉じる。

 テイミングされたモンスターはアイテムのようにストレージに納めることも、どこかに預けることもできない。まして逃げられるなどあり得ない。主人のそばにいない時点で、理由などひとつに絞られる。

 それはロザリアだって知っているはずだ。にもかかわらずわざわざ尋ねてくる。しかも、シリカの質問は無視して。ロザリアのこういうところが嫌いだった。

 ただ、そこで初めてシリカはロザリアの後ろにいるプレイヤーたちに気づいた。三人の男性プレイヤーたちは全員が申し訳なさそうな顔をしていて、ふと我に帰る。

 

 ──そうだ、あのときもこうやって怒っちゃったから。

 

 ひとりで怒って、ひとりで抜けて。結果ピナを失った。同じ轍を踏むわけにはいかない。ピナのためにもクラインにはいてもらわなきゃならないし、自分がまた怒って暴走するのだけはしちゃいけない。

 

「ねえお兄さん、この子と遊ぶのもいいけど、アタシとも遊ばない? 楽しめると思うわよ」

「うぇへ? いやそんな、だめっすよそんな」

「──っ!」

 

 けどこのときばかりは、どうしたって我慢の限界だった。

 

「ピナは死にました! けど絶対に生き返らせます。そのためにクラインさんが必要なんです、邪魔しないでください!」

「え、シリカちゃん?」

 

 戸惑うクラインの手をがっしと固く握って、手早く会計を済ませたシリカは足早に店を出た。店中が注目していたからか、怒髪天を衝く形相のシリカに皆がさっと道を開ける。彼らは見ているだけで助けようともしてくれないことに、八つ当たりだとわかっていながらもやはり腹の虫がおさまらず、方々をにらみつけるようにしながらずんずんと歩みを進めていく。

 いつの間にか日は落ちていた。大小並ぶ二つの月がやけに静かで、すぐにシリカは落ち着きを取り戻したけれど。

 

「ど、どうしたんだよ急に」

「……なんでもないですっ」

 

 未だ事態を飲み込めていなさそうなクラインの顔を見た途端にすこしだけムカムカが戻ってきて。手をさらに強くぎゅっと握って、シリカはクラインを引っ張っていく。

 

「ありがとうございましたー」

 

 嵐の後の静けさが訪れた店内に、NPCの声がのんびりと響く。それをきっかけに、だんだんとそれまでの異様な緊張感でなく、日常的な活気が戻ってくる。

 

「……生き返らす、ねぇ」

 

 ロザリアの呟く声は、やがてカフェから酒場に姿を変えた店内の騒々しさにかき消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もーもーもー、もー!」

 

 あのままその足で宿に戻ったシリカは、手早く部屋着に着替えてベッドに飛び込んだ。基本的に音は隣の部屋にすら漏れることはないけれど、それでも心置きなく大声を出したかったから枕に顔を埋める。そのままごろごろとベッドの上を転がった。

 

 ──なんであんなことになっちゃうのかなぁ。

 

 結局、クラインも同じ宿を取った。シリカが手を離さなかったからだ。たまたま隣の部屋が空いているからと、クラインは迷わずにそこを選んだ。

 また後で、と言って別れたクラインは最後まで戸惑うような困るような、それでいてどこか申し訳なさそうな顔をしていた。それでも《思い出の丘》について何も話せていなかったことはちゃんと覚えていて、後でその打ち合わせはしようなと笑っていた。なのにシリカは、最後まで憮然とした表情を崩せなかった。

 

 ──困らせちゃったかな。そうだよね、あんなに怒っちゃったもん。態度悪い女の子って思われたかも。

 

 よっぽどロザリアのほうが好印象だったに違いない。あんなにデレデレして、鼻の下を伸ばして。男の人はみんなそういうのに弱い。思い出すとまたムカムカしてきそうだった。

 

「……お父さんはあんなじゃないのに。ねえ、ピナ──」

 

 言ってから、ハッと体をこわばらせた。

 もういないのだ。そのせいでクラインに手伝ってもらうような事態にすらなっているのに、まだ自分は心のどこかでピナがいると思ってしまっている。

 今は、ひとり。ピナを取り戻すために頑張らなきゃならない。ならないんだけど──。

 

「ピナ……」

 

 寂しい。いつもみたいに、あの声を聞かせてほしい。あのふわふわな毛が恋しくて、手をやんわりと開閉させる。目頭が熱くなる。じんわりと視界が滲んだ。

 

「あー、えっと。シリカちゃん?」

「は、はい!?」

 

 クラインの、扉をノックする音に文字どおり飛び上がった。そのまま開けようとして部屋着だったことに気づき、少し待ってくださいと声をかけていつもの装備をよびだそうとして──なんとなく、思い直した。

 

「ごめんなさい、お待たせしました」

 

 ややあって開かれた扉の向こうにはラフなシャツ姿のクラインがいた。彼はどこかほっとしたような表情を見せながらも驚きに目を丸くする。

 

「ど、どうですか? もらった装備、胸当ては今はいいかなって思ったのでつけてないですけど。……変じゃ、ないですか?」

 

 えんじ色のミニワンピース。長袖は腕にフィットするような細身のものでありながら袖の部分は少しだけ広がっている。腋の部分が大きく開いているのが恥ずかしかったけれど、それ以上に動きやすさがあった。その下に履いた黒のミニスカートから覗く足は同じく黒のロングソックスで覆われていて、絶妙に覗く絶対領域が眩しい。

 

 ──手伝ってもらうんだ。だったらせめて、手伝ってよかったって思ってもらいたい。

 

 それでどうして装備を着てみせることにしたかは自分でもよくわかっていなかったが、クラインの反応を見るに間違っていなかったことだけはわかった。

 

「いいね、可愛い。似合ってると思う」

 

 クラインの笑顔に、どきりと心臓が跳ねた。慌てて胸に手を当てるも、アバターじゃ鼓動はよくわからない。けどなんとなく、その心臓の部分がきゅっとなったのがわかった。

 

 ──あれ。なんだろ、これ。

 

「立ち話じゃなんだし、下のロビーにでも行って──」

「あ、いえ」

 

 自分の突然な不調に慌ててか、シリカはクラインの言葉に首を横に振っていた。そして開いた扉と一緒に体を横にずらす。

 

「どうぞ。この部屋、使ってください」

 

 そう言って、入室を促した。ついさっきシリカに引き摺られるようにして歩いていたとき以上にキョトンとしていたクラインだったが、部屋の主が言うならと思ったのだろう。特に迷う様子もなく部屋に入り、備え付けの椅子に腰掛ける。

 少なくとも一ヶ月くらい、この部屋を仮宿として活動している。ひとり分の椅子とテーブル、そしてベッドが置かれただけの簡素な部屋。正直、見慣れたはずだった。

 だというのに。クラインがそこに座っただけで、部屋の雰囲気が変わったような印象をシリカは受けて。

 

 ──なにしてるのあたし!? 

 

 一瞬のうちについさっきのことを振り返って我に帰る。自分はいま、今日知り合ったばかりの男の人を部屋にあげなかったか。しかもピナがいない。正真正銘、一対一だ。これはどういうことだ。いくらピナがいないからって、まして父親を思い出して寂しさが押し寄せてきたんだとしてもこれはなんだ。しかもそのクラインさんから貰った服まで着てみせて。

 

 ──ま、まるで誘ってるみたいな……! 

 

 頬が熱くなるのがわかった。少女マンガとかでよく見る感じの、ちょっと大胆なシーンを思い浮かべてまた赤面する。

 違う、ただの打ち合わせだ、ピナを生き返らせるのを手伝ってもらうんだ。そう、ピナのため。別に変な意味なんてなんにもないし、だから意識する必要なんてない。

 そんなことを内心で自分に言い聞かせながら扉を閉める。ドアノブを両手でしっかり閉めてゆっくりと息を吐いて。そうして振り返れば、いつものあたし。ピナがいないからちょっと調子が悪いだけ。だいじょうぶ。

 とにもかくにも、まずはさっきのを謝らなくちゃ。

 

「あの、さっきはごめんなさい。カッとなって蹴っちゃったり、なんか無理やりお店出ちゃったり……」

 

 だがクラインはまたもキョトンと目を見開くと、なんだか難しい顔のまま苦笑して。

 マグカップをふたつ、テーブルに並べた。

 

「シリカちゃん、コーヒー好きか?」

「え……っと」

「いや待て、そもそも飲めるかどうかか。飲める?」

 

 子供扱いだろうか。コーヒーくらい飲める。よく父親が淹れすぎて、余った分をカフェオレにしてくれていた。ときどきブラックを試してみて、それはちょっと苦かったけれど。

 

「飲めます、けど」

「そっか。じゃあ一緒にどうだ? チーズケーキを教えてもらったお礼……お礼にはならないかもしらんけど、まあそんな感じのヤツだ」

 

 マグカップのひとつを差し出されて、シリカは受け取る。そのままクラインの向かい、ベッドに腰掛けた。

 

「……う」

 

 それは砂糖もミルクもないブラックコーヒーだった。しかし飲めますと言った手前、無理ですなんて言えなくて。

 思い切ってひと口。

 

「……ニガイです」

 

 たまらず、渋い顔をする。

 せっかく用意してもらったのに、しかも飲めますって言ったのにダメだった。すごく悪いことをした気分になる。だからもう少しだけでもと思ってカップを口に近づける。

 だがクラインは笑いながら、自分のカップをテーブルに戻した。

 

「やっぱそうだよな。こんなの飲めたもんじゃねえ」

「え? いえそんな、そこまでは」

「無理して飲まなくていいぞ。たぶん普通のブラックの数倍マズイからな。オレもできれば飲みたくねえ」

「えー……」

 

 確かに香りからしてそうだったし、舌に少し触れた時点でもうダメだった。味がキツいというか苦味が濃すぎるというか。記憶にあるブラックコーヒーが苦かったという思い出しかないから、ひょっとしたらちょっと味覚が変わったのかななんて思ったりもした。

 だが味わった印象そのままらしい。シリカが知っているブラックコーヒーを何倍にも濃くしたような強い味。本当に飲み物なのかと疑いたくなるほどの。

 でも、それならば。

 

「どうして飲もうと思ったんですか?」

 

 ルームサービスのようなものはない。であればこれはドロップ品や何かの報酬か、あるいはテイクアウトか。少なくともクラインは、わざわざ持ち込んで飲んだということになる。

 自分でも飲みたくないほどにマズいコーヒーを。

 

「打ち合わせって言ったろ。今回は仕事ってほどのものじゃないけど、そういうとき飲むようにしてんだ。マズすぎるだろ、これ。けどそれのおかげで目は冴えてくれるんだ。あとは……そうだな、気晴らしかな。オレのもだけど、シリカちゃんのも」

 

 淀みない答えだった。たぶん今のクラインの言葉に嘘はない。気晴らしというのもたぶん間違ってなくて、さっきのロザリアさんとのいざこざを気にしてくれているのだというのもわかった。

 だと言うのに、シリカは今の説明では足りない何かがあると思える。どこがどうという具体的なものまではわからないけれど。明らかに、何かを隠している。

 

「……それだけ、ですか?」

「うん? おう、そんだけだ」

 

 クラインが自分から言わない以上はそれだけでいいのだと思う。でもシリカにとっては、少なくとも《それだけ》で済ませたくないことだった。それがクラインの、あまり踏み込んでほしくない部分だったとしても。

 本当に《それだけ》なら。

 

 ──どうしてそんなに、泣きそうな顔をするんですか? 

 

 今までシリカは、可能な限り男性との距離は一定を保ってきた。それこそ頑ななまでに避けてきたのに、クラインに対してだけはどこか違った。

 最初は父の面影を重ねた。もちろん顔なんて全然違うのに、あの手の大きさや不器用さが似ていた。けれどなぜだろう、さっき部屋に招き入れたときからなんだか違って見えるのだ。

 父ならば、言えないこともあるだろうと納得した。けれどクラインには。できるだけ、そんな顔をしてほしくなかった。

 自分で助けになるのならなんだってしたいと、なんだってやってみせたいと思ったのだ。

 

「もしかして、さっき話してた探しものに関係ありますか?」

「……っ!」

 

 クラインが目に見えて動揺する。それはほとんど正解だと言ってしまっているようなものだった。

 

「クラインさん。言える範囲でいいです。話してみませんか。言うだけでも少し楽になったりするんですよ」

 

 これでも話そうとしなければ、それでもいい。無理してほしくないだけで、口にすることすら難しいならそれでも構わなかった。なんでもないならなんでもないで、そうと言ってくれればシリカは引き下がるつもりでいた。

 だがクラインは、ガシガシと後頭部を掻きむしってため息をついて。

 

「……かなわんね、どうにも。ユウキちゃんもそうだけど、世の女性っつーのはどうしてこう強いというか鋭いというか」

 

 ユウキちゃん。その名前になんとなく身構える。だがクラインの口から出たのは、それ以上に衝撃的なものだった。

 

「《梟》、知ってるだろ。あれ友達(ダチ)なんだ。少なくともあいつが《梟》を名乗る前までよく飲んでたのが、このマズいコーヒーなんだよ」

 

 そうして語られたのは、クラインの知る《梟》の来歴。それはシリカが今まで聞いてきたどの話とも違っていて。なにより、クラインの後悔が。シリカが想像していた以上に深く大きなものだったことにショックを受けた。

 

「仕方なかったんだ。少なくとも誰も止められる状況じゃなかったし、止めたって止まるかどうかわからなかった。けどそれでも、やらせちゃいけなかった。あれだけはどうしても止めなきゃならなかったんだ」

 

 クラインは凪いだコーヒーの水面をじっと見つめる。

 

「《梟》として名乗ったときと、クリスマスのときと。オレは二回、アイツを止めるのに失敗してる。けどもう失敗できねえ。したくねえ。だから多少の無茶は承知の上で攻略も進めながら《鼠》の手伝いもしてんだ。そのついでにアイツの足跡も探してる。そんで、そういうのを始めるときは必ず飲むようにしてんだよ」

 

 カップを手に取って、ひと口。その顔は苦味に耐えているのではなくて、どちらかといえば苦味で何かを抑えているようにも見える。

 後悔と決意。その表れが、このコーヒーだったのだ。

 

「……うん、確かに。言ってみると楽になるもんだな。ありがとな、シリカちゃ──シリカちゃん!?」

「え?」

「いや、え? じゃなくてよ。ごめんな、そんな辛い話をしたつもりなかったんだ。まさか泣かせるとは思わなかった」

「……ほんとだ」

 

 わたわたと慌てるクラインの言葉でやっと気づく。どうも視界が滲むと思えば、確かに泣いているようだった。だが今はいい。そんなことよりもクラインのことだ。

 

「あの、クラインさん!」

「お、おう?」

「あたしもお手伝いします! レベル低いのであんまり力にはなれないかもしれませんけど、《梟》さんに会えるようにお手伝いしたいです!」

「いや待て、その前に涙、涙!」

 

 迷いの森で、クラインは自分のことを横に置いてシリカを手伝うと言ってくれた。だったらそのお返しは同じことであるべきだ。

 わたわたと慌てるクラインが自分の長袖のシャツで涙を拭いてくれた。その動きがとても優しくて、シリカはより強く決意する。

 

友達(ダチ)のため、です。クラインさんがそうしてくれたように、あたしも頑張りますから!」

「わかったから、ありがとうな。けどその前にピナだろ? ちゃんと助けてやらねえとな」

「はい! よろしくお願いします!」

 

 そのあと、コーヒーこそ片付けてしまったものの。時間制限があるからという理由から早ければ早いほどいいと結論が出て、《思い出の丘》挑戦は明日になった。ミラージュスフィアと呼ばれる立体地図のようなもので大まかな道のりを確認する。

 そうして大まかながら予定を立てると、既に時刻は十二時を過ぎていた。明日に影響が出ると良くないからとクラインは部屋を後にする。

 おやすみなさい、と声をかけると。

 おやすみ、と返ってきた。

 部屋に戻るや否や、シリカはベッドにダイブした。まるでピナと初めて会ったときのような高揚感。明日が待ち遠しくてたまらない。ピナを生き返らせて、そしたらふたりでクラインさんのお手伝いだ。

 

 ──早く明日にならないかな。

 

 そんなワクワクはまどろみに溶け。

 やがてシリカは寝息を立て始めた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。