クラインの大きな手がシリカの頭を撫でる。
「ごめんな、怖かったろ」
「いえ、いいえ……!」
クラインの言葉に必死に首を振る。
確かに恐怖は感じた。だが来てくれた。助けを求めたら、やっぱり迷う様子なんて見せずに助けてくれた。それがすごく嬉しくて、怖かったことなんてすっかり忘れてしまえた。
ぎゅうと抱き着くシリカの背中をぽんぽんとさすって、クラインは懐から転移結晶を取り出す。
それを、プネウマの花を握る手とは反対の手に握らせて。
「お守りだ。よく頑張った、あとは任せな」
そして堂々と包囲網の中心に向かって踏み出していった。
「なっ……なんでてめえがいるんだ!」
ふたりを囲む男たちにどよめきが走った。シリカに迫っていた男が叫ぶ。だがそんな激昂にも、クラインは泰然とした態度を崩さない。
「さて……お前ェらにはいろいろ確認したいことがあんだけど。質問、いいか?」
「こっちの質問に答えろ! なんでてめえがここにいる!」
それはシリカも聞きたいことだった。なぜここに──攻略組がという意味なら、それをシリカは知っている。探しもの、あるいは探しびとがいるからだと本人から聞いた。
だがこの場でここにいる理由は。シリカが呼んだからというならこれ以上なく嬉しいが、ならば彼女は。
ロザリアは、どうしたのだ。
「ハァ……なんでって言われてもな。そんなの、お前ェらがいちばんわかってんだろ?」
わざとらしくため息をついて、心底からしかたなさそうにクラインは答えた。心当たり。シリカに思い当たるのは彼らが一律にオレンジプレイヤーということだが。
内心で首を傾げるシリカを、クラインは肩越しに一瞥した。
「え……」
視線がぶつかって、思わずびくりとする。だがまるで「安心していい」とでも言うようにクラインは笑って、視線を前に向けた。
「今回のお前ェらの標的はこの子だった。正確には、この子なら手に入れられるプネウマの花。間違いねえな?」
標的が、あたし。その言葉に再び肩が跳ねる。
「どっかの物好きが欲しがってんのか、プネウマの花は高額で取引される。あるいはただ単にレアものだからなのか。そこは知らんけど、とにかく金になる。だからお前らは狙った」
クラインは淡々と話し続ける。どこかゆっくりとした、わざとらしい説明口調なのは自分のためだとシリカは理解していた。
「そしてシリカちゃんはプネウマの花を取りに行くらしい。それは昨日、けっこうはっきりシリカちゃんが言ったな。だからお前らは待ち伏せた」
はっと息をのむ。確かに、昨日はかっとなって大声になってしまっていた。あのとき既に狙われていたのだと思うと、みすみす情報を流してしまっていた自分に腹が立つ。
「だが同行者がいる。だからお前ェらは考えた。どう引き剥がすか。その答えが──これだったってわけだ」
クラインが指で、オレンジプレイヤーの向こう側を指し示した。しかしそこには誰もいない。少し離れて森があるだけだ。だがクラインは念を押すように言葉を続ける。
「もうネタは割れてんすよ。諦めてください、ロザリアさん」
「え──」
シリカが驚くと同時に、森とこの広場の境目にある茂みがガサガサと揺れる。
そして出てきたのは。
「ンもう、置いてくなんてひどいじゃない。心細かったのよ?」
軽薄な笑みを浮かべた、赤い髪の槍使いだった。
「急に走り出すから慌てて追いかけたのにあっという間に見えなくなるんだもの、アタシ驚いちゃったわ。攻略組って足も速いのね?」
相変わらず、どこか甘ったるい声音でロザリアは言う。だがクラインはこれまでのようなだらしない声にも態度にも変わることはなかった。
「もうやめましょう、その演技。なんならあんた、コイツらの頭だろ? オレンジギルド、タイタンズハンドのよ」
「え……オレンジ?」
クラインの言葉にシリカは再び驚く。確かに、男たちは軒並み全員がオレンジカーソルだ。だがロザリアのカーソルは緑。彼女の向こうに見える森の色に近くて、見失いそうになるくらいの緑だ。
だがカーソルカラーは関係ないとクラインは言う。
「カルマ回復のクエストを受ければいつだってグリーンに戻れる。それにひとりくらいグリーンがいないと街の中に入れねえからな。今回みたいに誘き出すこともできねえ。そういう意味じゃ、今回はやりやすかったんじゃねえのか?」
クラインが話すうちに、ロザリアの顔から甘みが消えていく。代わりにどこか毒々しい、まるで嘲るような粘つく笑みに変わっていった。
「……そうねぇ、そこまでバレてんなら隠す必要なんてないわね」
言いながら、ロザリアは歩み出た。まるで男たちを率いるように彼らの前に──シリカたちに相対する位置で足を止める。
「だらしないわねアンタたち、あんな小娘一匹になにダラダラやってんのよ。……ま、アタシもあのお兄さん引き止めらんなかったから似たようなもんか」
「ほ、本当に……?」
未だシリカは信じきれない様子だった。そんな彼女にロザリアは嫌らしい笑みを向ける。
「首尾よくプネウマの花は手に入れられたみたいじゃない? おめでと、シリカ。それでさっそくだけど、その花アタシも欲しかったのよ。こっちに渡してくれない?」
「──っ、イヤ、です!」
「あら冷たい。そんなに嫌わなくてもいいじゃない」
慌ててシリカは自分の後ろに庇うように花を隠す。
もしかして、この二週間くらいのあいだ一緒のパーティにいたのはこのためだったのか。思えば頻繁に彼女はシリカを孤立させようとしている雰囲気はあった。昨日の喧嘩だって発端は彼女だった。
もしかして、パーティに誘ってくれたあの人たちのことも──?
はっと気づき、ロザリアを睨みつける。その意図が伝わったのかロザリアは嫌な笑みをさらに深く歪めた。
「もちろんアンタだけじゃないわよ? そもそもあのパーティ全員ひっくるめて美味しそうだったから目をつけたんだもの。本当なら今日にでもヤッちゃう予定だったんだけど、攻略組だのプネウマの花だの、ちょっと目を離した隙にどんどん美味しくなってくじゃない。そんなの逃すわけないわよねぇ?」
ちろりと舌で唇を舐める。その様子はまるで獲物を前に笑う蛇のようだった。
だが、一転ロザリアは急に冷めたような顔をする。
「でもお兄さん、そのへんわかっててついてきたんでしょ? 馬鹿なの? それともなぁに、アタシみたいな女よりそのちんちくりんの方が好み? ロリコン?」
「いや正直ロザリアさんすげぇ好みっすけど」
間髪入れないクラインの返事に、挑発に乗りかけて思わず短剣を握りしめたシリカも挑発をしたロザリアも一瞬呆ける。その隙を──狙ってのことではないだろうが──突いて、クラインは話し続けた。
「けど生憎と、交わした約束を破るほど落ちちゃいない。まずシリカちゃんの相方を生き返らせなきゃならんし」
左手を腰に刷いた刀の柄に置き、右手で腰に下げた巾着を探る。
「そもそも、オレはアンタを探してたんだ。なんならシリカちゃんのより前の依頼だ。シルバーフラグスって名前に聞き覚えは?」
「……あの貧乏な連中のことかしら」
「一ヶ月前だ。リーダー以外の四人を殺しておいて忘れたなんて言わせねえよ」
クラインが取り出したのは濃紺の結晶アイテムだった。転移結晶より色の濃いそれは、同じく移動用のものではあるが用途が異なる。
転移結晶が転移門の座標限定ながら即時的に転移できるものであるのに対し、濃紺の結晶──回廊結晶は、あらかじめ座標を一ヶ所指定しておかなければならないがその座標の場所に制限がない。
そして、クラインが持つ回廊結晶の接続先は。
「この先は黒鉄宮の牢獄だ。依頼主の希望でな、殺すんじゃなく捕まえてくれだとよ。あいつは毎日のように最前線の主街区に来ては頭下げてたぜ。これを用意したのもあいつだ。やりすぎだぜ、あんたら」
──探してんだ。ひととものと、いろいろ。
昨日のクラインの言葉をシリカは思い出していた。このことだったのだ。攻略組のいる街でそうやって依頼をして回っていたひとがいて、それをクラインが受けた。だから珍しくも攻略組が直接降りてきていたのだ。
黒鉄宮の牢獄は第一層のその下、地下にあるとされている。脱獄するには推定八十層レベルの敵がうろつく広大な地下迷宮を通らねばならず、現状では実質的に脱獄は不可能だ。存在だけが牢獄エリアのマップをNPCが売っていることで知られている。
いつ出れるともわからない牢獄に、いつ終わるともわからないゲーム中ずっと閉じ込められる──それは間違いなく極刑だった。
「お兄さんそういうタイプだったのね。アタシのいっちばん嫌いなタイプ。この世界に現実の法とか罪とか持ってきちゃってるイタいやつだわ」
だがロザリアは眉ひとつ動かすことなく、むしろ面倒臭そうに答える。
「ここはゲームなのよ? ゲームでできる範囲でアタシたちは楽しんでるだけ。ましてここで殺したって実際に死んでるかなんてわかんないじゃない。しかもアタシらがやったなんて証拠はないのよ? 罪に問われるかどうかも怪しいでしょ。そんな死に損ないの言うこと真に受けてアタシらを探しに来るなんて、お兄さんてばお人好しすぎない? 馬鹿かロリコンかって言ったけど、訂正するわ。大馬鹿者ね」
ロザリアの唇が嗜虐的な笑みを結ぶ。目に凶暴な光が宿った。
「しかもたったひとり。いくら攻略組だからってナメすぎでしょ。アタシのものになるならこんなことにならなかったのに、残念だわ。──アンタたち」
掲げられたロザリアの右手の指先が宙を二度切る。クラインの存在に動揺していた男たちは一度躊躇うも、ロザリアの言うように数で押せば勝てると踏んだのだろう、顔を見合わせて頷くと武器を構える。
一対十。多勢に無勢だ。どう考えたって、いくらクラインが攻略組とはいえ勝てるわけがない。
だがシリカの耳に届いたのは、呆れ混じりに呟かれたクラインの忠告だった。
「……やめとけ。お前ェらじゃ、オレにゃ勝てねえよ」
「その余裕がいつまで持つかしらね。アンタたち、やっちまいな!」
ロザリアの右手が振り下ろされる。男たちが武器を構えて走り出す。それなのにクラインは武器も構えず、ため息交じりに立っているだけだ。
「クラインさん!」
「ストップだ、シリカちゃん」
せめて少しでも助けになればとシリカが走り出そうとしたのを、クラインは振り向きもせずに止める。
「任せろって言ったろ」
「で、でも!」
「大丈夫だから」
声が、かすかに笑った気がした。たったそれだけで毒気が抜かれ、シリカは踏み出した足をつい引き戻す。
男たちはクラインのすぐ目の前に迫っていた。よそ見をするな、舐めてんじゃねえぞと怒号が飛ぶ。それでもクラインは武器を構える素振りを見せなくて、シリカは思わず頭を抱えるようにして目を瞑った。足に力が入らなくて、ぺたりと膝を折ってしまう。
斬撃の音がした。十人分の攻撃がクラインの体を斬りつける音だけが響く。雨霰のようにダメージの音が続き、ロザリアの鼻で笑う音が聞こえて。
「なんだ、コイツ……!」
「……嘘だろ?」
そして男たちが困惑の声をあげた。
「まだやるか?」
どこか呆れた様子のクラインの声にシリカは恐る恐る顔を上げる。そして目の前の光景を疑った。
クラインは変わらず立っていた。
それどころか多少は勢いが鈍くなっているとはいえ絶えず攻撃を受け続けているのに動じた様子はない。シリカの見間違いじゃなければ、その場から一歩たりとも動いてすらいなかった。
「な……アンタたち、なに手ぇ緩めてんの! 全力でやんなさい!」
異変に気付いたロザリアが煽りたてた。だが男たちの手は次第に緩み、やがてぴたりと止まってしまう。
「なにしてんの! 誰が手を止めていいって言ったのよ!」
「……無理っス、ロザリアさん」
「勝てねえよ……理不尽だろこんなの」
男たちは弱弱しくロザリアに振り向く。その様子がよほど無力感を示していたのか、ロザリアまでもが倣うように口をつぐむ。勝ちを確信した嘲笑は一瞬のうちに崩れている。
それほどに、目の前の光景は圧倒的──というよりも、彼らのひとりが呟いたように理不尽なものだった。
クラインの頭上にHPバーがある。満タンになっている緑色のそれは、十人の同時攻撃を真っ向から受けていながら雀の涙ほども減少しないのだ。そしてそんな微々たるダメージは瞬きをするうちに元に戻る。バトルヒーリングというスキルだろう。戦闘を主とするプレイヤーたち、すなわち攻略組くらいしか身につけることのないスキル。
どれだけやってもダメージを与えたことにならず、それどころかどんな攻撃を繰り出したところで全て無駄に終わるのだ。それはいったいどれほどの徒労感か。
まして彼らは実際に倒すつもりで攻撃したはずだ。そんな彼らの前に泰然と佇むクラインがどう見えていたのか、シリカは想像もしたくなかった。
大袈裟なくらいに大きく、クラインはため息をつく。
「だから言ったろ、無理なんだって。RPG初めてか? レベルに差がついたらもうどうにもなんねえなんて常識だろ」
言いながら、クラインは腰に佩いていた刀を抜いた。鞘を滑る音が高く響く。
「お前ェらを捕まえてぶち込めって依頼だ。だから殺しまではしねぇよ。けど──」
「ひっ」
「逃げられると思っちゃダメっすよ、ロザリアさん」
一瞬にしてクラインは、ロザリアとの間にあった十歩ぶんほどの距離を詰めていた。鋭く研がれた鋼が鈍く光をはね返す。
──怒ってる。
短い期間の付き合いしかないが、それでもシリカは響きだけでその感情を読み取ることができた。それほどにクラインの声は低く、怒気を孕んでいる。
カランと何かが落ちる音がして、そこで初めてシリカはロザリアの手に転移結晶が握られていたことに気がついた。
「な、なんなのよ……マジになっちゃってさ。言っとくけど、アタシを攻撃したらアンタがオレンジになるのよ?」
「そうすね。けど一日二日あれば戻せるんですよ。そのくらいなら攻略に戻るのにも問題ない」
ロザリアの必死な抗弁に、クラインは素直に頷きを返した。オレンジになることに躊躇いを持っていないという返答にロザリアは目ざとくつけ込もうとする。
「アンタがオレンジならアタシらと同じになるのよ。そうなったらアンタが裁くのはおかしいじゃないのよ!」
「そうすね。確かにそれはおかしな話です」
クラインは再び素直に頷いた。ロザリアがここぞとばかりに目つきを鋭くする。
だがクラインは続けて、これまでの返答と同じように滑らかに、しかしこれまで以上に冷たく言い放つ。
「だからそうなったら、全員を殺しますよ」
息を呑む音が聞こえた。それがロザリアのものだったのか、それとも自分のものだったのかシリカには判別がつかない。あるいは力なく膝を折った男たちの誰かだったのかもしれない。
クラインの言葉は、決してそれが不可能ではないとわかるからこそ恐ろしかった。耐久の高さも行動の素早さも、シリカからすれば明らかに常軌を逸していて数値の高さを窺い知れる。そもそもパーティを組んでいるからレベルだけは見えていた。シリカが今日一日でレベルをかなり上げたにも関わらず、クラインの半分にやっと届いたというくらいだ。
であるならば。攻撃力の数値の高さなど、それこそ容易に想像できる。
「ロザリアさん、あんた自分で言ったんだぜ。ここで死んでも現実で死んでる保証なんてない。確かにそのとおりだ。だからたとえばここであんたを殺っても、死なない可能性だってある」
「な……ち、ちょっと本気? ねえ待って、待ってよ!」
「そうやって命乞いしたプレイヤーをあんたは殺したんだろ?」
「アタシじゃない! やったのはアイツら! アタシは命令しただけよ!」
「変わんねえよ。むしろその方がタチ悪いじゃねえか」
「ひぃっ……!」
クラインの声がより低くなった。ロザリアが目を見開いて怯えるようにじりじりと後ずさる。
「そういうロールプレイがあるってのは理解してんだよ。けどこれはゲームであって遊びじゃねえんだ。どれもこれも冗談じゃねえし、冗談じゃ済まされねえんだ!」
「──っ!」
ザン、と。
ひときわ大きな音がして、クラインは大地に刀を突き立てた。その迫力に呑まれ後退を止めたロザリアを乱雑に肩に担ぎ上げ、オレンジカーソルの男たちの中心に放り投げる。その間も苦し紛れにロザリアは何かを言っていたが、クラインは一切の聞く耳を持たない。
「……コリドー、オープン」
クラインがコマンドを詠唱した。左手に握っていた結晶が砕け、青い光の渦が宙に浮かび上がる。
「ねえ聞こえてるんでしょ!? 手を組みましょ! アンタとアタシで組めばどんなギルドだって──!」
「選んでくれ。自分で入るか、オレに投げ込まれるか。ただもしオレに任せるってんなら、加減はしない」
ロザリアの叫びにも近い懇願すら無視したクラインの言葉に、沈み込んでいた男たちがのろのろと起き上がる。
多少の毒吐きはあれど、落とした武器を拾いすらせず青い渦へと男たちは向かった。圧倒的ともいえる力量差を直に体感したからだろうか、誰も抵抗する様子を見せない。
そうして次々と姿を消していって──ついにロザリアひとりとなった。
「なんだってのよ……ここまでなんて聞いてないわよ」
ぶつぶつとまるで呪詛を唱えるようにロザリアは口を動かす。その様子はまさに先ほどの男たちと同じく消沈という言葉を体現しているようだったが、それでも動こうとはしない。負けを認めたくないというのがシリカにも伝わってくる。
だがそれでは埒が明かない。クラインもそれはわかっているのか、ため息交じりにロザリアの腕を掴み立ち上がらせようとして。
「待て待て、ジャパニーズサムライ。その女だけはダメだぜ」
シリカの耳元。すぐ後ろから、男の声が聞こえた。
「てめぇ……!」
「おっとストップだ。別にお前とやり合おうってんじゃない」
シリカを追い越して、声の主はシリカに背を向けて立ちはだかる。
その男はポンチョで全身を覆っていた。その風貌にシリカは見覚えがなかったが、頭上に浮かぶカーソルカラーがオレンジだったこととクラインがすぐに身構えたことで少なくとも味方でないということだけはわかる。
「PoHとか言ったか。何しにきやがった」
「知っているとは嬉しいね。自己紹介とかしたっけか──そうか、クリスマスの」
「何しに来たって聞いてんだ!」
PoH。その名前は知っている。殺人ギルド《笑う棺桶》、その頭領の名前だ。シリカがへたりこんでしまっているとはいえ、見上げるほどの長身。身を包むポンチョはまるで闇のように黒かった。
「ご挨拶だな。まあ用事なんてとっとと済ませるに限るか。──その女、こっちに寄こしな。俺の用件はそれだけだ」
「ヘッド……!」
ロザリアの顔色がぱあっと明るくなる。ヘッドという呼び方からして、ふたりには接点があったのだろう。……助けに来た、ということだろうか。シリカは自分でそう考えて、どうしてもそこに違和感があるように思えた。
それはクラインも同じだったらしく、剣呑な視線を向ける。
「らしくねえじゃねえか。お前ェらに仲間意識なんてもんがあったのか?」
「そりゃあるさ。俺たちは同じ人間だぜ? 人類皆兄弟って言うだろう」
「ふざけんな、てめぇと兄弟なんて吐き気がする」
言いながら、クラインは刀を抜こうとして──腰にあるのが鞘だけだということに気づく。
「お前の武器ならほら、そこに自分で刺したじゃねえか」
「クッソ……!」
クラインは振り向く。背後に十歩ほど行ったところ、ロザリアに肉薄した場所にクラインのカタナは突き立っていた。
「いやなかなかに面白い見世物だったぜ。あれだけでも来たかいがあった。クラインと言ったか。こっちに来ねえか? 歓迎するぜ」
「断る。誰が好き好んで犯罪者になるかよ」
即答だった。だがその様子にもPoHは楽しそうに笑って、
「いや冗談だ。本当に今はお前とやり合おうなんて思ってないんだよ。その女をこっちに寄こしてくれればそれでいい。交換といこうじゃねえか」
「……なにとなにの交換だよ。オレのメリットなんざなんにもねえだろうが」
「あるさ。俺が差し出すのはこの嬢ちゃんだ」
シリカの首元に短剣の切っ先が突きつられた。振り向きもせず、剣を抜いた動作も見せない早業。しかし的確にシリカの首を捉えている。
PoHのいる位置はシリカとクラインを分断するような場所だった。もしかしたら最初からその位置を狙っていたのかもしれない。
「人質の交換だ。平等だろ? お前はこの嬢ちゃんを守りたい。俺はその女に用がある。なんの損もないと思うがな」
「……っ!」
人質。その単語に、シリカは息をのむ。
わかってはいたのだ。少なくとも今日、なにかひとつでもクラインの助けになれただろうか。いいや、それどころか足を引っ張ってばかりだ。さらに今、人質にまでなっている。どこまでも自分はクラインの足かせでしかない。
少なくとも今ロザリアを渡すわけにはいかない理由は、このまま彼女を野放しにすればまた新たな被害者が生まれる可能性があるから。であれば、人質の交換なんてさせなければいい。
自分がこの場から消えれば、もしかしたら。そう思って、ポーチの奥深くに手を差し込む。
「てん──」
「ストップだ、嬢ちゃん」
「──ぃ」
だが消えたのはPoHの姿だった。遅れて舌に冷たい鋼の感触。それが口に差し込まれた短剣の感触だと気づくのに時間はかからなかった。
「──ッッッ!」
ひゅっと喉が鳴る。悲鳴すらあげられない。ポーチに突っ込んだシリカの右手はpohによって引き抜かれる。
「シリカちゃん!」
「サムライもだ、動くな。……しかしいい機転だ。まだちびっこの割によく頭の回る。将来が楽しみだな」
「てめぇ……っ!」
今にも飛びかからんとする勢いのクラインに見せつけるように、PoHの短剣は再びシリカの喉に狙いを定めた。いつでも殺せる──そう言わんばかりの脅迫に、クラインはギリギリ踏みとどまる。
「これ以上の交渉は無しだぜ、サムライ。その女を寄こしな。そうすればお嬢ちゃんは返してやる。絶対に、安全にだ。これ以上ないほど良心的だと思うが?」
「……、──っ! 畜生、約束は守れよ!」
クラインがロザリアの腕を離した。ここぞとばかりにロザリアは走り、PoHの背にすり寄るように隠れる。
「勿論だ」
言って、PoHはロザリアを連れて祭壇の範囲から外へ出た。さらに二歩三歩と大きく離れたところで足を止める。
クラインは急ぎ駆け寄ると、力なくへたりこんだシリカを強く抱きしめてくれた。
「ク、……クラインさぁん……!」
「大丈夫、大丈夫だ。ごめんな、怖い思いさせたな」
あふれ出る涙を拭おうともせず、シリカはクラインの胸に顔を埋めた。鎧の胸当てがざらざらしていて触り心地は決して良いものではなかったが、そんなことは気にもせずとにかくぎゅうとしがみつく。
クラインはそんなシリカの背を優しく撫で続けてくれて、安堵を覚えるとともに少しだけ平静を取り戻すことができた。
「やっぱロリコンじゃないの、アンタ。……それよりヘッドぉ、助けに来てくれたの? アタシに用ってなんのことかしら?」
最初の口調こそ蔑むような冷たい声音だったのに、ロザリアのPoHに向けた言葉はクラインに色かをまき散らしていた時以上に甘ったるい声音に変わる。それはまるで猫が主人に甘えるような──そんなかわいらしいものではなかろうが──そんな印象を受ける。
だがPoHは、そんなロザリアを一瞥して。
「ああ。お前、用済みだ」
そして短剣を持つ左手が閃く音。
「──えっ?」
ロザリアが短く驚きの声を上げ、そしてドッ、と音がした。クラインは抱き着いたままのシリカが振り向かないように強くかき抱いてくれたが、それでも音でなにがあったかわかってしまう。
ガラスがはじける音がして、ロザリアの声はそれ以降いっさい聞こえなくなった。
「てめぇ……味方なんじゃねえのかよ!」
クラインの激昂が胸当てを震わせる。これまで怒りを見せてはいたけれど、それよりも強く荒い声。
「味方? あれの? おいおい勘弁してくれよ」
だがPoHは何を言っているのかわからないというような言い方だった。心の底からの疑問。ただなぜか、シリカにはPoHの口元が笑っているのだろうということだけは想像できた。
「あれは俺らのシンボルが欲しいと言うからテストしたんだ。単にそれをパスできなかっただけだぜ。よく日本人が言うだろう、クビだと。文字どおりになっただけじゃねえか。しかもお前に周りを嗅ぎまわられてるときた。足手まといってのはこういうことだろ?」
──だから殺したんだ。要らなくなったものを捨てるのと何が違う。
平坦な声だった。どこかに抑揚があるわけではない。ただ平坦に、言うというよりも述べるという表現が近いような。さっきプネウマの花を手に入れたときに耳元で囁かれたあの感覚じゃなく、もっと鋭い、氷の刃のような痛みのある冷たさが背筋を駆け上っていく。
まるで、ひとを物か何かと思っているかのような。そんな奇妙なズレがシリカにはひどく恐ろしい。
「てめぇ……ッ!」
「何を怒ることがある。他人だろ? ジャパニーズってのは優しいんだか甘いんだかわからねえな。ここだけは《梟》も突っかかる」
《梟》。その言葉に、クラインがぎしりと鎧を鳴らす。
「武器の所持は認められている。武器とは殺人のための道具だ。ならば殺人もまた認められている。そうだろう? 《梟》を──この世界初の殺人者を友に持つサムライよ」
「……ああ、そうかよ」
ぞくりとした。
さっきまでの怒りがわかる声じゃない。それよりももっと低い。
そしてクラインは、シリカを支える腕をゆっくりとほどいていく。
「シリカちゃん、先に結晶で帰っててくれ。オレはこいつにたったいま用ができた」
大地に差していた刀を抜き放ち、クラインはシリカから離れた位置でPoHと向かい合う。PoHもまた、楽しげに笑いながら短剣を握る手をだらんと垂らし半身になって構える。
「……いい殺気だ」
それ以降、互いに無言だった。沈黙が重い。空気がひりつく感覚。それに気圧されて、シリカは言葉を発することができない。
──止めなきゃ。
それだけがシリカの頭の中でぐるぐると巡る。
自分も短剣を使うからわかる。PoHの短剣捌きは自分のそれに比べて極端にレベルが高い。それこそタイタンズハンドとクラインとの差ぐらいはあるだろう。クラインが負けるはずないとは思えど、彼らの間に差があまり大きくないだろうと思うと万が一はある。
そしてPoHの躊躇いのなさと、クラインの怒り。きっとお互いに命を奪い合う。そうなったとき、勝敗に関わらずきっとクラインは傷つくだろう。負ければたぶん命はないだろうし、勝ったとてPoHの命を彼がその手で奪ったことになる。
──あれだけはどうしても止めなきゃならなかったんだ。
彼は後悔している。それを自ら味わってしまえば、それこそ彼は自分を許せなくてもっと追い詰められてしまう。だから、止めなきゃ。
「あれ……?」
だというのに足が動かない。腰が上がらない。動きたいのに、動かなければならないのに腰が抜けてしまって立ち上がることができない。こんなときに限って自分はへたり込んだままだ。
情けない──それでも自分を責めている時間すら今は惜しい。とにかくなんとしてでもクラインを止めなくちゃならない。でも、どうやって。自分は動けない。じゃあ誰が動けるというのか。呼んで来てくれるのはクラインだけで、それ以外に助けを呼べるひとなんて──。
「……いる」
ハッとしてシリカはすぐさまウィンドウを呼び起こす。
いるではないか。もうひとり、シリカが絶対の信頼を置く仲間が。あの子ならきっとクラインを止めてくれる。
左手に花。右手に、《心》があった。
──先に帰っててくれ。
言いながら、クラインは離れた場所に突き立てた刀を抜く。名を虎徹といった。
およそ十歩の距離。それは一瞬で詰められる距離だ。PoHの短剣に比べて刀はリーチもある。どうあっても優位なのはこちらのはずだ。
だがクラインの頭にチラつくものがあった。釘状の金属──それは話に聞いただけでしかないが、ジョニー・ブラックが使用したという短剣。即死という当たれば終わりの毒を付与された危険な武器は、もしかしたらラフコフ内で共有されている可能性がある。しかもそれは投擲武器だという。自分のリーチなど関係なしに、雨霰のように投げられてしまえば避けることは難しい。
そのせいでクラインは踏み込むことができなかった。近づけば近づくほど被弾の確率も上がる。一度の失敗も許されない一発勝負の場面で闇雲に突っ込むほど熱くなっているわけではなかった。
「……いい殺気だ」
PoHが笑う。半身になりながら見えるように左手に短剣を持ち、だらんと垂らすようにして構える。右手はポンチョの陰に隠れて見えない。
その右手に何を隠しているかによってクラインの出方は変わる──が、それを確かめる術を考えるうちに時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
《梟》がどう、とか。そういうことで頭に血が上っているわけでは決してない。アイツが何をしようと構わない。ただアイツが不本意に選ばされたような道筋にいるのが、そのせいで仲間たちが辛い思いをしているのが嫌なだけだ。それはどこまでも自己満足でしかなく、本人が納得しているのであれば深くは関わらないつもりでいた。
だが。目の前で、誰かを殺すのを見てしまっては。その相手がどんな人間であれ、それはやりすぎだと思える。そしてそのことに対して何ひとつ悪びれることがない。さながらヒトをモノか何かと思っているような言動が、クラインには我慢ならない。
「……、……」
深呼吸をひとつ。正眼に構える。切っ先がPoHの薄ら笑いに重なるように。
殺しはしたくない。回廊結晶はまだ生きている。ぶち込めばそれで解決だ。だが、最悪の場合。
──殺してでも、コイツはここで止める。
矛盾していると自分でもわかっていた。殺すのはやりすぎと憤りながらも殺すことを決意したのだ。だが少なくとも、PoHの中でその行動には正当性がある。ならば相手の土俵に乗っかったまでだ。
──たとえそれで、もう戻れなくなるとしても。
それならそれで、アイツの位置に追いついたことになるだけだ。アイツの背負った業を理解してやることができる。共倒れ上等だ。少なくともそれで、アイツがひとりになることはなくなるのだ。
そうして踏み出そうとした、次の瞬間だった。
「ピナ!」
「きゅるるぅ!」
シリカの声がした。次いで何かの鳴き声。視界が水色で埋まる。
「……あ?」
それが自分の声だったのか、あるいはPoHの声だったのか。クラインには判別がつかなかった。ただ張り詰めていた緊張の糸は切れ、構えていた刀が自然と下がっていく。
「きゅる! きゅ?」
べしべしと鎖骨のあたりを何かが叩く。それがその水色の何かの仕業だと理解するのに時間はかからなかった。
顔に張り付くそれを剥がすと、水色の小竜が大きな瞳でクラインの顔を覗き込んできていた。
「な、なんだぁ?」
「ピナです!」
「ピナぁ?」
「きゅる!」
シリカの言葉を反復すると、目の前の竜が嬉しそうに鳴いた。ばさばさと翼をはためかせてクラインの顔を挟もうと企むその様子は、いたずら好きな猫を思わせる。
「ピナ……って言ったらおめぇ、もしかしてシリカちゃんの?」
「きゅう!」
問いかけに、ピナは満足げに鳴く。言葉が通じているのかどうかはわからないけれど、少なくとも今の問いかけは合っていたらしい。
ピナはさらに、どこか諌めるような雰囲気でびしびしと二本の長い尾羽でクラインの顔をはたく。
「きゅる、きゅるる! ぎゅ!」
「わぷ! な、なんだよ!?」
「止まれって言ってくれてるんです。今のまんまじゃ危ないからって」
「ちょ、その通訳、の前にこれ、止めてくれ!」
「はい。ピナ!」
「きゅ!」
びびびび、と二本ある尾羽で交互にはたき続けるピナにシリカが呼びかけると、素直に攻撃が止む。だが暴れ足りぬと言わんばかりのピナは身を捩り、体を掴んでいたクラインの手を振り払い、どこか楽しげに鳴きながらクラインの頭に降り立ち座り込む。そこにはまるでここが定位置であると言わんばかりの太々しさがあって。
「……なんなんだ、いったい」
すっかり毒気の抜けたクラインは、自分の肩から力が抜けるのがわかった。
「……ふっ、くっくっく、ハッハッハッハ!」
笑い声はPoHからだった。
「いいねぇ、本当に将来が楽しみな嬢ちゃんだ。──帰るぜ。もう用は済んだ。攻略組相手に無傷で済むなんて思えねえしな」
言って、PoHは背中を向ける。はためいた右の袖から覗くその手には、何も握られてはいなかった。
「待て、PoH──」
「そうだ、届け物があったな。そら」
追いかけようとしたクラインに向けて、肩越しに見ながらPoHは何かを放り投げた。放物線をきれいに描いてクラインの手元に収まる。
それは白い結晶アイテム。メッセージクリスタルと呼ばれる、音声の録音と再生のためのアイテムだった。
「《梟》より、サムライ宛てだ。中身は俺も知ってる。……楽しみにしてるぜ」
そしてPoHは今度こそ踵を返して歩き始めた。クラインが追いかけようとしたとたんに再びピナが暴れ、その対応に追われているうちにPoHは森に姿を消す。
これ以上の追跡は難しい。そう判断して、暴れるピナをなだめることも諦め、クラインは空を仰いで大の字に寝転がった。
「クラインさん!」
クラインが仰向けに倒れるのを見て、シリカは慌てて近づく。足が上手く動かなくて四つん這いというなんとも情けない姿になったが、そんなことはどうでもいい。それよりもクラインだ。
「大丈夫ですか?」
「きゅ?」
どうにか近寄ったシリカがそのままの体勢でクラインの顔を覗き込む。それを真似るようにして、クラインが倒れると同時に飛び上がっていたピナもシリカの肩に降りて首を伸ばす。
その重みが、ひどく懐かしく感じた。
「大丈夫だ。いろいろあって疲れちまっただけだよ」
長く細く、クラインは息を吐く。溜め込んでいたものをゆっくりと吐き出すように。
「……ごめんな、めちゃくちゃ巻き込んじまった」
クラインは、タイタンズハンドの襲撃はプネウマの花を手に入れた帰り道だと考えていたらしい。思い出の丘を往復した後の、いくつもの戦闘を経て回復薬が枯渇したタイミングで数の暴力にまかせて奪いにくると。
ところが実際は、プネウマの花の取得直後を狙っていた。しかもロザリア自身がパーティに混じってシリカの孤立を促すというかなり大胆な作戦だった。
さらには、《笑う棺桶》の頭領であるPoHまでもが現れる。これはクラインも全くの予想外だったらしく、本当に驚いたらしい。
「やっぱ考えるのは向いてねえな。やること全部裏目に出てるもんなぁ」
「……そんなこと、ないです」
シリカは言いながら、寝転がったままのクラインのそばに腰を下ろす。ピナが「もういい?」と言うように覗き込んできて、それに頷いてやると楽しそうに一面の花畑を飛び回り始めた。
「クラインさんは、あたしを助けてくれました。迷いの森でもそうですし、ここでも。クラインさんがいなかったら、ああやって飛んでるピナを見ることはできなかったんですよ」
クラインに装備で助けてもらって、プネウマの花の情報でも助けてもらって。オレンジプレイヤーたちの挙動に関しては予想と違うところもあったのかもしれないが、少なくともピナは無事に復活できたのだ。
シリカの依頼はピナの復活だ。少なくともそれに関しては、しっかりと達成されている。
「でもなぁ……」
それでもクラインの返事は煮え切らない。その理由も、シリカはちゃんとわかっているつもりでいる。ただそれに関して深く突っ込むことはしなかった。どう触れるべきかもわからないし自分で扱いきれる自信がないというのもあったが、いま以上にクラインを追いつめたくない。
だから、一度だけ深呼吸して。
「……クラインさん、頭、少しだけあげてください」
顔にクエスチョンを浮かべながらも、クラインは言われたとおりに頭を上げた。そうしてできた彼の頭と地面との間に自分の足を差し込む。
「え? シリカちゃん?」
「じっとしててください」
「いやこれ、膝枕……」
「いいですから」
昼寝をするピナを抱えているときのようにクラインを膝の上に乗せ、クラインがそうしてくれたように、今度はシリカがクラインの頭を優しく撫でる。
「なんでも抱えすぎなんです、クラインさんは。昨日のコーヒーも。全部が全部クラインさんのせいなわけないじゃないですか」
《梟》の話だって、全てが聞いた話でしかないから断定はしないが、原因がクラインだけにあるようには思えない。それに今回のもシリカがもっと上手に動ければ、あるいはもっと強ければまた違う結果があったかもしれないのだ。そう考えれば、やはり全部が全部クラインのせいなんてあり得ない。
ただきっと、クラインはなにを言おうと自分のせいだと思ってしまうのだろう。優しすぎるひとだ。……まあ、だからシリカのことも助けてくれたわけで。
結局どうやったって彼が何かしら背負ってしまうなら、それを少しでも軽くする手伝いくらいはしたいと思う。なにも出来なかった自分ができるのは、今はこれだけだ。
「あたしだって、います。話すだけで楽になるって言ってたじゃないですか。なんだって聞きますから。ピナを撫でるのもいいですよ。ふさふさで気持ちいいんです」
「シリカちゃん……」
──いつか。
いつか、きっと。話すだけじゃなくて、ちゃんと隣に立って、支えてあげたい。
シリカは胸中で目標を立てる。大事な秘めごとだ。そうなっていることを想像すると、やる気が満ちると同時に胸が少し温かい。
クラインが見上げてきているのがわかるから、シリカは視線を下げなかった。一面の花畑で飛び回って遊ぶピナを見るふりをしてごまかす。
「ありがとな」
クラインの言葉がこそばゆい。けれど、声の調子は戻ったと感じた。さっきまでの怒った声じゃなくて……そう、昨日のチーズケーキを食べているときのような。冷たい鋭さのある声じゃなくて、温かみのある声に戻っている。それだけでも、シリカはすごく安心できた。
やがてピナが、遊び飽きたのか宙を泳ぐようにして戻ってきた。それを合図にどちらからともなく立ち上がる。
「……もう、戻るんですよね」
シリカの言葉に、クラインは手元の結晶を見ながら頷く。
「おう。そろそろ攻略に戻らないといけねえし……アイツじゃねえけど、用は済んじまったから」
タイタンズハンドの捕縛──それは完遂こそしないもののひとまずの決着をみた。今回の結果は依頼主に正直に話すらしい。そのうえで、クラインは少なくともひとつ決意を固めていた。
「相手が誰であれ、やっぱ嫌なんだよな。死ぬだの殺されるだのって良いモンじゃねえ。やっぱり、アイツらをほっぽっておくわけにはいかねえんだ」
そしてそもそもクラインが中層に降りてきた理由。《笑う棺桶》の痕跡探しということにおいても、もともとは三十五層にアジトがあるのではないかという予想をたてていたらしいところに、頭領本人の登場と内容こそこれから聞くとはいえ《梟》からの伝言を得た。であれば、彼がここに留まる理由などありはしない。
「……あ、あの」
行かないでほしい、と口をついて出そうになって慌てて両手で口をふさぐ。
言えるわけがなかった。ゲームの攻略が最重要事項なのは火を見るよりも明らかだし、そうでなくても《笑う棺桶》を止めようとするならば動くべきはゲーム内で高レベルを誇る攻略組だ。彼らとの情報共有はなによりも優先されるべきなのだ。
そんなシリカの葛藤を読み取ったのか、クラインはぽすぽすと優しく頭を撫でて。
「また降りてくるさ。そんときはちゃんと連絡する。そしたら、また美味い店教えてくれよ」
その言葉に視界がにじむ。本当ならそのまま抱きつきたいところだったけれど、それは必死に抑えた。代わりに、隣で自分の尾を追いかけてくるくると回るピナを引き寄せてそのふかふかなお腹に顔を埋める。
──強くなろう、と思った。
結局、ピナのいる心強さやクラインの優しさに甘えてばっかりで自分ではなにかできた覚えがない。クラインを手伝うにせよお礼をするにせよ、今の自分じゃ難しい。
でも、また会う約束はできた。ならばそれまでに強くなってびっくりさせてやろうと思うのだ。とりあえず今は、今の自分にできることから始めよう。
踏ん切りがつくと、なんだか気持ちがすっきりした。ピナのお腹から顔を離すと、クラインはどこかほっとしたような顔をする。
そうして「帰るか」とクラインが言った矢先に、クラインの腹が鳴った。
「……夕飯、なにがいいですか」
いつのまにか日が傾いていた。西の空が赤く染まり、東から夜の闇が迫っている。
ピザ食いてえ、とクラインはどこか切実そうに笑った。