黒猫燦なんかに絶対負けないつよつよ現役リア充JKのお話   作:津乃望

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間が空いてしまって申し訳ありませんでした。本当の本当に最終話です。


最終話 たいせつなあなたのために、あたしにできるいちばんのこと(下)

 ゆっくりと意識が浮上していく。この感覚をあたしは知っていた。夢の幕が閉じるこの瞬間のことを、人は目覚めと言う。

 意識の浮上と共に、薄いタオルケットに包まれた身体が感覚を取り戻していく。特に光に対して敏感な頭の辺りは、窓から差し込んでくる夏の陽射しを存分に浴びているらしい。

 いつもは……特に最近はこの寝起きというやつがとにかく億劫で、すぐにまた夢の世界へ旅立たないかとベッドの上でうじうじとしていたものだけど、今日のあたしは違った。枕元に置いたスマホを手に取り、目を開けて見れば、時刻は朝の6時55分。セットしていたアラームの5分前起床に成功していた。

 普段であれば、この寝起きの後の貴重な5分を迷いなく二度寝に費やす。しかし、今日は寝起きの頭が冴えに冴え渡っていた。一瞬で身体の上に掛かっていたタオルケットを跳ね除け、その勢いでベッドから身を起こす。後ろを流れる髪は櫛も通してないのにサラリと揺れて、まるで今の自分の気持ちを反映したような絶好調ぶりだ。

 

「……うん、大丈夫」

 

 腕を上に伸ばし、膝を曲げて屈伸。最後に軽く首を回せば、僅かに残っていた眠気も消えた。身体の調子はここ1週間の状態が嘘のように良くなっていた。

 身体は精神の影響を受けやすいとは聞いたことがあるけど、正にその通りだ。あの鉛を背負ったような倦怠感も、大して動いてもないのにへばりついてきた疲労感も、跡形もなく消えてしまっていた。

 代わりとばかりに、それまで控えめだった空腹感が目覚めと共に湧き上がり、グーーーっと盛大に胃を鳴らしてくれた。そりゃあここのところはロクに食べてなかったとはいえ、ちょっと気持ちが持ち直したらこうまで図々しく自己主張してくるとは、自分の身体ながら恥ずかしかった。

 とりあえず、この気恥ずかしさを誤魔化すためにも、まずは胃に何かを収めるとしよう。

 

「おっはよー! お母さん、ごはーん!」

 

 お母さんはごはんじゃないって何度も言ってるでしょ、という耳に馴染みのある声は、いつもより少し柔らかかった。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 さて、お腹が膨れたらまたおやすみ、といかないのが平日。今週も残すは今日の金曜日だけというイージーモードなのだけれど、その最後の最後がしんどいというのが人類の共通認識だったりする。

 普段のあたしだったなら、もう頭の中が帰りたい気持ちでいっぱいになっていただろうけど、今日という日は学校へ行くのが楽しみで仕方がない。夏場特有の強い日差しだって特に気にならない。

 いつもの通学路をちゃっちゃか歩いていると、例の如く暑さにやられた友人たちの姿が見えた。どいつもこいつも暗い顔して俯いて歩いている様子は、まるで本物のゾンビのよう。仕方ないな、と自分の元気を分けてやるつもりで挨拶をすることにした。

 

「おーい、おっはよー!」

 

 古今東西のゲームで、ゾンビは音や声に反応するもの。どうやらあたしの有り余る生気に反応したらしい、ゾンビもとい友人たちが顔をこちらに向けた。

 初めは鬱陶しそうに。次に私の姿を認めて驚いた表情に。そして最後、何やら感極まったような表情を浮かべた一体が、ついさっきまでの幽鬼のような足取りをやめてこちらへ飛び込んできた。

 

「メ、メルー!」

「おー、どうしたどうした」

「どうしたじゃないよ! 本当に心配させてくれてさぁ……!」

 

 ぐりぐりと人の身体に頭を擦り付けてそう言う、ゾンビ改めあたしの友人。その声は若干くぐもっているというか涙声といった感じで、如何にここ最近の自分が彼女やその他の友人たちを心配させてしまっていたかを痛感する。

 だからまぁ、このクソ暑い中でも引っ付いてくることをちょっとくらいは我慢しようと思った。

 

「んー……あー、この柔らかさの欠片もない固さが逆に安心する」

「ていっ」

「んぎゃっ!」

 

 ……のだけれど、大変失礼な言葉が聞こえた気がしたので速攻で地面に転がしてやることにした。アスファルトと文字通り熱烈なハグを交わした友人はしばらく悶絶した後、怒った顔でこちらに詰め寄ってきた。

 

「何すんのさ!」

「何すんのさ、はあたしのセリフ。こんな暑い中でハグとか勘弁してよね」

「おー? まるで暑くない所ならしてもいいっていう風に聞こえるけどー?」

「んー。まぁ、時と場合によるかな」

「なんと。じゃあ今すぐハグしちゃどわああああ!?」

 

 時と場合によると言うのにすぐさま抱きつこうとしてくるおバカは、とりあえず抱え上げておくに限る。俵みたいに担いでみても、元が小柄だから軽い軽い。

 と、気配がすると思えば、他の友人たちが生暖かい目でこちらを見ていた。

 

「おはよ……朝っぱらから何してんの?」

「……しつけ?」

「あー、なるほどね」

 

 躾のひと言でこの場の状況を理解されてしまう我が友人に涙を禁じ得なかった。

 

「あー、これはこれで楽かも。メルってタッパはあるし、力持ちだしでいいよねー。このままガッコまでよろしくー」

 

 そして現在進行形で担いだままの友人は何やら調子に乗っている様子。しかも、あたしが地味に気にしている身長と腕力にまで触れよってからに。

 許すまじと少々友人の持ち方を変える。具体的には腰より下の辺りを持って、脚が少し浮くようにしてやれば――

 

「んー? ちょっとバランス悪くないかな……って、あ、あっ、メル! さっきの持ち方に戻して! スカート、スカートめくれちゃうから! あっ、パンツ! パンツこれ絶対見えてるから! メル! メル様ッ! ごめんって、謝るから降ろしてー!」

 

 あーあー、聞こえない聞こえない。たとえ聞こえたって許してあげなーい。

 まぁ、さすがに学校まではあたしの体力が保つ訳もなく、1分ぐらいその状態で歩く程度で許してあげましたとさ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「うっうっ、もうお嫁いけない……」

「貰ってくれる奴がいればいいけどね」

「いるしっ!」

 

 さて、朝から漫才に興じていると、あっという間に学校へ到着した。友人たちがキャイキャイと声を上げている後ろで、あたしはひっそりと緊張の息を吐いた。

 いつもの調子を取り戻したとはいえ、やはり黒音さんと対峙するとなると、どうしても気を張ってしまう。そう、心機一転を図るあたしは、今日こそ黒音さんと真っ向からお話をし、謝罪すると決めているのだ。

 あたしはこれまでずっときりんさんの言葉に従って見に努めてきた。その言葉は決して間違ってはいなかった、おかげであたしは黒音さんの知らないところをたくさん知ることができた。

 問題があったのはあたしの方だった。きりんさんの言葉に依存して、自分で考えて行動することを止めていた。きりんさんはあくまで他人で、今を変えられるのは自分だけなのだから当然のこと。それに気づけなかったんだから、本当に重傷だったのだと思う。

 でも、今日からのあたしはいつも通り――いや、これまで以上だ。

 

「メルー? 何してんのー?」

「ん、ごめんごめん」

 

 考えごとをしていると、いつの間にか教室の近くまで着いていたらしい。ボーッとした状態で後ろを歩いていた自分を心配して声をかけてくれた友人のおかげで、自分の教室を通り過ぎるという恥ずかしい真似をせずに済んだ。

 さっさと冷房の効いた教室に入ろうと口にする友人たちに同意して、扉に手を掛けようとしたところで、ふと記憶が待ったを掛けた。つい最近、似たような状況がなかったっけ?

 

「メルさー、そこに立たれると邪魔なんだってー」

「ほーら、開けちゃるから入った入ったー」

「あ、ちょっと待って……」

 

 あぁ、その言葉も背中を押される感触にも既視感が。これってつい先日にあたしの中で新しいトラウマとして刻まれた朝の出来事と同じ状況なのでは?

 待って待って、こんな場面は想定してない。テンパって思考はまとまらないし、あたしの中のヘタレの虫ががががが――!

 

「…………あれ?」

 

 横開きの扉が開いた先、そこに黒音今宵さんの姿は、なかった。

 扉が開いた音に反応したクラスメイト数人が、こっちにおはようと挨拶の言葉を掛けてくるだけで、それ以外は特に何もない。

 黒音さんの机の方を見れば、小柄な彼女の姿はなかった。まだ登校して来ていないのだろうか。どっちにしろ、あたしの心配は杞憂だったという訳だ。

 

「っはあぁああああぁ……」

「なに、どしたん?」

「ううん、何でもない。何でもないの」

 

 怪訝そうな表情で聞いてくる友人にそう答える。『ちょっと気になってるクラスメイトがいるかもと思ったらテンパった』なんて馬鹿正直に返しでもすれば、卒業するまでからかわれ続けるのは確定だろう。

 ホッとひと息を吐きながら教室に入ると、クーラーの冷風があたしたちを迎えてくれた。

 あー、今朝はあまり暑さを気にしていなかったけど、やっぱりこの熱気から解放される瞬間は堪らなく気持ちがいい。掻いていた汗も一気に引いて、思わず身震いするような寒気が――。

 

「ねえ、何か寒くない?」

「確かに……って、エアコンの設定18度になってるじゃん」

 

 そりゃあ寒い訳だ。誰だ、設定温度を一番低くした奴は。というか、早く来た人たちも寒そうにしてるけど、寒いなら温度上げようよ。

 ぶつぶつと心の中で文句を言いながら、エアコンの温度をちょうどいい温度に上げる。これでいいだろう。

 

「うっ……」

 

 と思っていると、急に身体が冷えたからか、唐突に尿意が襲ってきた。それも唐突にやって来た癖に強烈なやつだ。

 咄嗟に時計を見れば、SHRまであと5分ほどもない。我慢できるか……いや、うちの担任のヒゲ中年オヤジは見た目通りに話が長い。たまに1限の授業開始直前まで話したりするし、今日が運悪くその日であれば、そこから1限終了までおしがまコースに突入という最悪の未来に突入しかねない。

 まぁ、そうなったら何が何でもトイレに向かうつもりではあるけど、やはりクラスメイトの前で先生トイレ宣言は辛いものがある。教師によっては『先生はトイレじゃないぞ』とか寒い笑いを取ろうとしてくるし、これ以上身体を冷やさないためにも、パッと済ませてパッと戻ってこよう。

 

「おん? メルどこ行くん?」

「ちょっと雉撃ちしてくる」

「きじうち? パンでも作んの?」

「いや、生地打ちだったらうどんでしょ」

「ウチはそばのが好きかな」

「パンでもうどんでもそばでもいいから土産よろ~」

 

 そんな何とも緩い言葉を背に受けながら、あたしは廊下へと出た。そして、足早に一番近いトイレへと直行する。ここで走ったりなんて愚はもちろん犯さない。何でかって女の子にはちょっとの衝撃が致命傷になるんだよ察しろ。

 マンガだとこういう場面はことごとく何某かに邪魔をされて、時にはミッション失敗の事態に陥ってしまうけれど、一般人であるあたしには当然そのようなことが起きるはずもなく、無事にトイレの前に到着した。

 ここまで来るのに約1分といったところか。後はパパッと不浄を流して、万全の状態で教室へ戻れば問題はない。あたしは何の気負いもなくトイレの扉を開けた。

 

「――――んえっ?」

 

 そして、扉を開けた先の向こうの景色に、あたしの脳はショートを起こした。

 トイレの扉を開けてすぐの洗面台の前に、黒音今宵さんは立っていた。ただ立っているだけじゃない、彼女は目の前の鏡に見せつけるように自分の腋を晒している。

 明後日に飛びかける思考を何とか繋ぎ止めて、どういう状況だろうと頑張って考えてみれば、黒音さんの反対の手に白い布切れが握られていることに気付いた。それと同時に理解した。黒音さんが握っているのは恐らく制汗シートか何かで、腋を晒しているのはそこを拭いている真っ最中だからだろう。

 そういうことなら、黒音さんがトイレで腋を晒していたのも納得だ。今の時期はとにかく汗を掻くし、腋の辺りなんて何をか言わんやだ。それでいて腋というのは拭きづらく、周囲の目を気にしがちな部位でもあるので、ちょっと内気がちな彼女が女子トイレでこっそりと処理している状況にも頷ける。

 が、しかしである。そんなセンシティブ極まりない場面に出くわしてしまった奴はどうすればいいのだろうか。黒音さんはまだこっちに気付いた様子もなく、自分の腋を拭くことに集中しているが、さすがにずっとこのまま気付かないなんてことはないだろう。

 誰もいないと思って油断していたら実は見られていた。そう思い至ったときの彼女は、一体どういった反応をするのだろう。叫ぶだろうか、泣き出すだろうか、それともこっちの頬に張り手の一つでもかますのだろうか。どれも想像するだけで、あたしの心が軋みを上げる。

 そんな絶体絶命の状況だというのに、あたしは目の前の魅惑の光景から目を離さないでいた。いやだって、黒音さんの腋が、白過ぎる肌が、服の隙間から見える黒い下着が、腕を伸ばしたことで大きさがより強調されている乳が……。

 

「……ごくっ」

 

 唾を飲む音が聞こえた。あたしの喉からだ。

 いや、ごくっ、じゃないがな。

 

「あ」

「あ」

 

 あたしの喉はよほど大きく鳴ったらしい。一心に自分の腋を拭いていた黒音さんと目が合ってしまった。当然ながら、あたしたちはどちらも無言。相変わらず、あたしたちの間で流れる空気は気まずいままだ。

 あぁ、でも何だろうこの懐かしいような気持ちは。たまたま歩いていたところで昔どこかで嗅いだことのある臭いに反応してしまうような。これを郷愁と言っていいのかは分からないけれど、あたしは何故か変な方向に冷静になってしまった。

 時分は朝である。場所はトイレの中とはいえ、クラスメイトに会ったのであれば挨拶くらいするべきだろう、と何故かそんな結論に思い至った。

 

「おはよう、黒音さん」

 

 完璧な挨拶だった。声の張り、抑揚、笑顔、言葉と一緒に挙げた手のひらの角度まで文句のつけようがない。今までは逃げられたり、遮られたり、怖気付いたりでマトモな挨拶ひとつできていなかったが、あたしはこの日初めて黒音さんを相手に挨拶ができた。

 やはり今日のあたしはこれまでと違うのだと実感する。

 

「ぉ、はょ……~~っ!」

 

 と、あたしの挨拶から遅れること数秒、ようやく黒音さんも再起動を果たしたらしく、蚊の鳴くような声で挨拶らしき言葉を返してくれた。腋を見せつけたままで。自然、あたしの視線はそちらへ向いてしまう。

 そんなあたしの不躾な視線に気づいたのか、黒音さんは油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動きで腕を下げて腋を隠すと、あたしの横をするりと抜けて走り去って行った。

 パタパタと走り去る音を耳にしながら、尿意も限界を迎えそうだったこともあり、ひとまず一番手前の個室に入る。そして、ようやく個室に入ったことで万感の想いを口にした。

 

「えっっっっっっっ……!」

 

 降って湧いた突然の事態(ラッキースケベ)に、あたしは男でもないのに、便座に座って前屈みになるしかなかった。

 ……とまぁ、そんなことをしていれば当然、朝のSHRに間に合うはずもなく、友人たちはご丁寧にもあたしが雉撃ちに行っていたことを担任に報告し、いらん知識だけは持ち合わせた担任によって、トイレに行っていたことがクラスメイト全員の前でバレてしまったのだった。

 まじふ◯っく。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 さて、気付いたら放課後になっていた。いや、聞き苦しいのは分かっているのだけど、言い訳をさせて欲しい。

 あの朝の黒音さんショックは、あたしの精神に多大な影響を及ぼしてくれていた。授業中に黒音さんを見やれば当然のようにトイレでの出来事がフラッシュバックし、彼女がちょっとした動作のために腕を上げるたびに、あの白く柔らかそうな肌が想起された。

 あのときの状況を説明しろと言われれば、あたしは原稿用紙数枚に渡って、黒音さんの一挙手一投足を書き並べるだろう。それほどあのときの光景は脳裏に焼き付いている。ほんとご馳走様です――いや、ではなくて。まぁ、つまり朝の出来事もあってロクに意識を保たないでいたあたしは、放課後になるまでの貴重な時間を見事に潰してしまったという訳だ。いや、ほんとにどうしようもないな!

 そんな様を晒してしまったものだから、心中に広がる焦りばかりは抑えようがない。今日は週末。今日を逃すと次に黒音さんと会えるのは来週の月曜日となってしまう。心機一転を図ったとはいえ、そのときの自分が今のようなモチベーションを保てていられるかというと、たぶん微妙なところだ。

 鉄は熱いうちに、あたしの心も弱虫が顔を出す前に……つまり今日のうちに何とかカタをつけたい。

 

「黒音さん、どこだろう……」

 

 SHRを終えた教室に、黒音さんの姿はなかった。ここしばらく彼女を観察していたから分かったことだが、黒音さんは基本的に学校が終わるとすぐに帰ってしまう。だから、あたしが話しかけるとしたらその帰るまでの僅かな間なのだけど、見事に出遅れてしまった。

 部活の生徒は出払ってしまったからか、校舎の中の人は疎らだ。そんな中、黒音さんがまだ校舎に残っているという一縷の望みに懸け、目を皿にして廊下を駆け回る。

 汗が吹き出るけど、今は気にしちゃいられない。女としての体裁よりも自分の矜持を優先せねば。最悪、学校の外まで走り回ることを覚悟しながら1階へ通じる階段を2段飛ばしで駆け下りた。

 

「ねぇねぇ、君も暇なんでしょ? いいじゃん、一緒に遊ぼうよ」

 

 その軽薄そうな言葉が聞こえたのは、ちょうど全校生徒の靴箱が並ぶ正面玄関の所だった。

 廊下の先を目指そうとしていた両足に急制動を掛ける。少々無茶な動かし方にふくらはぎの辺りが痛みを訴えるけど、今は無視。音を立てないようにゆっくりと靴箱へと近づく。

 今は急ぐときなのに、どうして脚を止めたのかは分からない。ただ、自身の直感が止まれと叫んだ。あたしはその直感を信じた。そのまま靴箱からゆっくりと顔を覗かせれば、探していたその人の姿があった。

 

「君、カラオケ行ったことある? あ、ない? じゃあ行こうよ。絶対に暇させないし、楽しいからさ!」

 

 黒音さんは靴箱の前に佇んでいた。ただそこに立っているだけなのに、妙に絵になるのは何故だろう。

 そして、そんな彼女の前には、熱心に遊びへ誘う男子がひとり。上履きの色からして同学年、それに見覚えが……あぁ、彼はそうだ。何週間か前に一緒にカラオケに行って、あたしに『残酷な天使のテーゼ』を歌わせられた彼だ。

 あのときは男子たちで固まってロクに喋ることもできていなかったのに、今の彼は非常に饒舌で、色んな言葉を掛けながら、黒音さんの反応を窺っている。どうやら一度、あたしやその友人たちとと遊んだことで、妙に自信を持ってしまったらしい。

 

「君って可愛いしさ。来てくれたらそれだけで場が華やぐと思うんだよね」

「っ!」

 

 ついこの前までは絶対に口に出せなかっただろう言葉を口にしている。可愛いと言われた黒音さんの表情も、戸惑いが強いものの嫌そうではない。

 この場を客観視するあたしは何となく察してしまった。このままだと黒音さんは彼の話に乗ってしまう、と。それは困る。うまく言葉にできないけど、あたしは困る。

 でも、自分は彼らにとって他人でしかなくて、黒音さんが了承するのであれば、あたしがいくらダメだダメだと駄々をこねたって何の意味もない。

 あたしはまた、その場で動けずにいる。

 

「あ、もしかして俺みたいな男だけだと思ってる? 大丈夫! 他に女子も誘ってるから、緊張しなくていいよ!」

 

 彼の覚えたての嗅覚もこの流れであればイケると判断したのだろう、黒音さんだけでなく他の女子もいるから安全安心だと殊更にアピールしていく。

 でも、ハッキリ言ってその言葉は黒音さんにとっては逆効果だ。人見知りの彼女にとっては、たとえ同性だろうと見知らぬ誰かと同じ場所で過ごすことは苦痛でしかないだろうから。緩みかけていた黒音さんの表情に、再び緊張が戻った。

 

「……えっ、と。わたしはいい、です……」

「えー。そんなつれないこと言わずにさぁ、行こうって」

 

 黒音さんの答えは、彼にとって予想外で、また自尊心を傷つけるものだったらしい。さっきまでの甘い抑揚が消えた声で、強引に彼女を誘おうとしている。

 彼の手が、黒音さんに迫っている。彼女はその手を振り払えるだろうか……いや、きっと無理だ。相手は男子、少し抵抗をしたとしても、小柄な黒音さんではそれを振り払うまではできそうもない。

 周りに人はおらず、彼女に手を差し伸べることができる人はいない――陰から覗いているあたし以外には。

 

「あっ」

 

 その一瞬、あたしの意識はゆっくりと横に引き延ばされた。自分の思考以外の全てが緩慢に流れていく。空気が、時間が、音が、誰かの声が、どこか遠くへ感じる。全てがスローモーションの世界で、思考だけが加速していた。

 もしも、あたしがこの場を動かずにいたら、黒音さんはそのまま彼とその友人たちの遊びの場へ連れていかれるのだろう。彼女にとってはきっと苦痛で、楽しくも何ともない場所。あたしはその様をむざむざと眺めるだけなのだ。

 あたしは、あたしに対して質問をしよう。自分はこの場を見過ごして、それで来週になって何気ない調子で黒音さんに話しかけることができるだろうか。おはよう、と。この前はごめんね、と。

 

 ……いいや。

 

 そう、答えは否だ。

 きっと、来週登校してくるときの黒音さんは暗い顔をしている。これは予感とか予想なんて曖昧なものではなく、確信だった。

 自分が原因で彼女にそんな顔をさせてしまう、そんなのは御免だ。だったら、あたしは何をすればいいのか。

 そんなのは決まっている。黒音さんのために、何より自分のために、あたしは動くんだ。

 散々見てきた。待ってきた。きりんさんが口にしていた好機、私が変われる機会を。今が好機じゃなければ、いつが好機と言うのか……!

 

『頑張って!』

 

 遅延する世界の中で、そんな声が聞こえた。それはあたしの都合の良い幻なのかもしれない。でも、この声に背中を押されたあたしは誰よりも無敵だ。

 あれほどまでに重かった一歩は、踏み出してしまえばなんてことはない。逆に勢いが良すぎて前につんのめりそうになるところを何とか踏ん張り、ほんの5メートルほどの距離を全力で駆ける。

 彼の手が黒音さんの腕を掴むのとほぼ同時――けれど、僅かに早かったのはあたしだった。黒音さんの身体を抱き寄せるようにして攫い、身体に掛かった慣性を逃がすついでに、彼と1メートルほどの距離を空けて対峙する。

 掴もうとした手が空振り、目の前にはいつの間にか見知った相手がいることに呆ける彼は言う。

 

「……メル? えっと、何してんの?」

 

 おやおや、随分と気安い呼び方をしてくれる。下の名前で呼ばれるほど仲良くなった覚えはないのだけどなぁ。

 

「何してんのはこっちの台詞。こんな所で何してたの?」

「え? あー、いや……」

 

 少し険を含んだ声で聞いてみれば、歯切れの悪く言葉を口にしながら明後日に視線をやる。どうやらあたしの介入で、自分が今どういうことをしようとしていたかに思い至ったらしい。強引だったと自覚したのか、ばつが悪そうにしている。

 

「って、そういうメルこそ何してるんだよ。汗びっしょりじゃん」

「あたしは探してる人がいたから走ってたの」

「走ってたって、スマホで連絡取って待ち合わせでもすりゃあいいじゃん」

「お互い電話番号も何も知らないから、自分の脚で探すしかなかったの」

 

 隠したいことがあるなら、真実性のある言葉を混ぜればいい。実は覗いていたなんて都合の悪い事実は流してしまえるし、事実に後押しされたあたしは男子が相手だろうと強く出れる。

 話を逸らすんじゃない、答えなさい、と強く目で訴える。

 

「俺はその、今日はダチたちと遊ぶ予定で、それでついでにその子もどうかなって」

「ふーん、そうなんだ」

「あ、メルも来るか!? 飛び入り参加も全然オッケー! むしろ大歓迎だしさ!」

 

 さも名案を思い付いたといった様子の彼。あたしが乗ってくれば話をなあなあにできると思ったのか。ついでに黒音さんも付いてくれば万々歳といった感じだろうか。でも、残念。

 

「誘ってもらって申し訳ないんだけど、今日は先約があってね」

「あー、そっか……ちなみに誰と? アレだったらこっちに来てもいいよ?」

 

 やんわりと断りを入れるあたしと何やら探りを入れてくる彼。よっぽどあたしたちを逃したくないらしい。

 しかし、あまりしつこいのは減点だ。ついでにちょっと上からな発言も減点対象ね。

 諦めの悪い彼に、再度断りを入れる。

 

「遠慮しとく。あたしはこの子――黒音さんに用があるから」

「へ?」

「へ?」

 

 それまで居心地悪そうにしていた黒音さんを理由にして。

 

「えっと、黒音さんってのはその子のこと?」

「そう。それであたしの探してた人」

「へっ、えっ」

 

 戸惑った様子の彼の問いに頷く。そして蚊帳の外から突然、話の内に引き出された黒音さんがアワアワしている。かわいい。

 

「何か、メルがその子に用があるって意外だな」

「そう? 友達なんだし普通でしょ」

「と……!」

 

 黒音さんがあんぐりと口を開けて絶句している。かわいい。けど、今このときだけは、あたしに合わせてほしかった。……無理か、黒音さん、腹芸とか絶対向いてないだろうしね。

 言われた彼も、まさかあたしと黒音さんが友人だとは思っていなかったらしく――悲しいことに現実はその通りだ――同じようにビックリしていた。

 

「へえ、珍しい組み合わせだな」

「そう? 最近は結構仲良くやってるつもりなんだけどなぁ」

「ぴぃ!?」

 

 仲の良さアピールのために肩を抱き寄せてみれば、黒音さんが小さく鳴いた。かわいい。そして、黒音さんってばマジで華奢。抱いた肩がちっさい。あと何か良い匂いする。はー、美少女っていいな……。

 

「あの、ええっと、よ、用件は……」

「んー、まだ内緒。二人になったら、ね?」

「へえうっ……」

 

 ちょっとイタズラ気味に言ってみればこれだ。実に具合――いや、反応が良くて困る。このままもうちょっとだけ、いやいや、私は何を……。

 と、またも明後日に飛んで行きそうになる思考を理性で引き留めていると、『あのさ!』と割って入る無粋な声。

 

「ちょ、ちょっとメルさ、そこの黒音ちゃんには俺も用があって……」

 

 瞬間、あたしの中の感情が正から負へと裏返る。黒音ちゃん? あたしですら未だにさん付けなのに、名前も今知ったばかりの野郎がちゃん付けだぁ?

 

「は?」

「いや、だから俺もそこの黒音ちゃんに……」

「は?」

「えっと、黒音ちゃんに……」

「は?」

「……ごめん。邪魔した」

 

 ちょーっと声にドスを利かせて睨んでみると、彼は肩を落として去っていった。しつこい男は嫌われると身をもって実感できたことだろう。

 まぁ、あとは一緒に行くお友達が慰めてくれるんじゃないかな。知らないけど。

 

「……あ、の」

「おっと」

 

 腕の中で黒音さんが身動ぎし、遠慮したように声を掛けてくる。彼が去った以上はこのままにしておく必要もない。あたしは断腸の思いで彼女を解放した。

 

「……はぁ」

「大丈夫? 災難だったね」

「いや、別にそんなことは……」

「ありゃ。もしかして、助けいらなかった?」

「うっ……助かりました」

 

 内心、自分でも驚くくらい普通に話せている。これが覚悟の有無の差だろうか。

 まぁ、私が喜びを感じている一方で、相手の黒音さんは辛そうにしているのだけど。今すぐにでもこの場を立ち去りたいといった心情がありありと読み取れる。

 いきなりナンパ紛いのことをされたかと思えば、自分のような女に迫られればそうもなるだろうという話だ。

 

「ねぇ、黒音さん」

「ぴっ」

「あたしといるのは怖いよね」

「そ、そんなこと……」

「いいんだよ、無理しなくて。黒音さんに苦手に思われてるのも知ってるから」

 

 これまでの自分の行動を振り返ってみれば、まぁ仕方のない反応だと思う。

 

「でも、ほんのちょっとでいいの。少しだけ、あたしの話を聞いてもらえる?」

「え、っと。いい、けど、話って?」

 

 だからこそあたしは、これまで積み上げてきてしまった印象を変えるべく行動しなくてはいけないのだ。

 黒音さんから今しばらく会話する許可を得ると、彼女に向かって迷いなく頭を下げた。

 

「黒音さん、あのときは本当にごめんなさいっ」

「え、えっ!? なん……え、あの時って!?」

「覚えてない? 少し前にあたしが黒音さんの机に落書きしてたこと」

「落書き……あっ」

 

 そこで黒音さんは何に対して謝られているのかを理解した様子。とはいえ、その顔には困惑の色が強い。

 

「えっと、そんなことでわざわざ……?」

「そんなことって! あたしは勝手に黒音さんの机を使った上に落書きまでしてたんだよ!?」

「ひうっ……お願いだから大きい声出さないで……」

「あっ、ごめん……!」

 

 怯んだ様子の黒音さんに、慌てて自分の口を押さえる。思いがけず声が大きくなっていたことを申し訳なく思う一方、彼女の反応を見て、腰の辺りがムズムズするような謎の感覚を覚えたが、今は状況が状況なので無視だ。

 

「えと、別にそんな謝らなくていい。気にしてないし……」

「……本当に?」

「ほ、本当。その、最初はちょっと思うところもあったけど、もう気にしてない。猫、可愛かったし」

「……そっかぁ」

 

 色々と申し訳なさが込み上げてきて、再度、頭を下げていたあたしに、黒音さんはそう言ってくれた。念押ししても許すと言ってもらえた。それなら、あたしもあたしを許していいのかもしれない。

 

「私からも、聞いていい?」

 

 心のうちで安堵していると、何と黒音さんから質問があるという。それだけでテンションが跳ね上がった。

 

「黒音さんから? あたしに? いいよ、何でも聞いて!」

「……何でも?」

「……あー、ごめん。答えられそうな質問なら何でも答える」

 

 黒音さんにオタク趣味についてとか聞かれたら、あたしは舌を噛み切って死ぬかもしれない。だから予防線を張ってみれば、黒音さんが心なしか残念そうに見えるのは気のせいだろうか。

 まぁ、彼女に限ってあたしのプライバシーに踏み込むような質問はしないだろうし、きっと気のせいだろう。

 

「じゃあ、その、何でわたしなんかに構うの?」

「ん゛っ」

 

 黒音さんからの質問は実にストレートだった。縦縞球団の全盛期リリーフエースばりの火の玉ストレートに言葉が詰まる。

 まぁ、まぁまぁ、そりゃあそうだよねという話だ。それまでに何の関わりもなかったクラスメイトの奴がいきなり見てきたり、手を振ってきたり、今日みたいな場面で急に出て来たら、気にもなるだろう。

 ぶっちゃけ、彼女の中でストーカー疑惑が浮上してても何らおかしくはない。悲しいかな、黒音さんの目から見たここ最近の自分の行動は、ストーカーと何ら遜色はなかった。あぁ、思い出すだけで軽く死ねる。

 

「それは……」

 

 とはいえ、それは全て彼女を想ってこその行動の結果。黒音さん相手だからこそ、あたしはそうしたいとの想いから動いてきた。だから、わたしなんか、なんて言葉を彼女の口から聞きたくはなかった。

 

「それは……?」

 

 そんなあなただから、あたしはついつい構いたくなってしまって――そうしたこれまで溜まりに溜まった想いはこの瞬間に閾値を超えて、するりと零れた。

 

「黒音さんと、友達になりたいなって、思って……」

「…………へ?」

「あっ」

 

 ああああああ、口にするつもりなんてなかったのに! 何で我慢できなかったのこのお口は!

 顔に熱がどんどんと集まっていくのが分かる。さっきまでとは違う冷たい汗が背中を伝う。呼吸もうまくできているか怪しい。黒音さんが何か言いたそうにしているけど、今のあたしじゃちょっともう無理!

 

「と、とにかくそういうこと! あの男も戻ってくる感じしないし、あたしも帰るねっ」

「え……ええっ!?」

 

 そう捲し立てると、あたしはその場から離脱した。逃げたとも言えるし、ヘタレたとも言える。

 だってだって、あんな本音を言うつもりなんてなかったのだ。おまけに、こんなにも恥ずかしいことだなんて思いもしなかった。友人はいつの間にかできるものだったから、いざなってくださいとお願いすると、色々と意識してしまう。

 でもでも、いいよね? あたし、ようやく謝れたし。黒音さんも許してくれたし。当初の目的は達成できたんだからヨシ! ヨシったらヨシなのだ!

 そんな風に自己正当化を図り、とにかくその場から離れたい一心で学校の廊下を駆ける。

 

「倉洲、さん……!」

 

 そんなあたしの背中に掛かる声。それはあたしの名字だ。友人たちはみんな下の名前で呼ぶから、それで呼ばれると逆に新鮮なもう一つの名前。誰が呼んだのか、誰が呼んでくれたのか。それに思い至ったあたしは、いつの間にか脚を止めた。

 廊下を振り返れば、靴箱から顔を出す黒音さんを見つけた。相変わらず警戒心の強い猫みたいな姿で、彼女は叫んだ。

 

「…………ありが、とうっ!」

 

 そう叫ぶと、黒音さんはすぐに顔を引っ込めてしまった。しばらくしても何の反応もないから、たぶんそのまま帰ってしまったんだろう。自分から逃げ出した癖に、残念だな、なんて思ってしまう。

 

「あ、メルだ。何してんのこんなとこで」

「早く帰るよ……って、うわ」

「どしたの、その顔。ニヤけちゃってさぁ……」

 

 立ち止まっていたら、廊下の向こうからいつもの友人たちが現れた。かと思えば、どいつもこいつも失礼なことを口走るではないか。

 ニヤけてなんかないが、と言い返そうと思えば、ちょうどよく廊下の壁に掛けてある鏡に自分の顔が写っていた。それはもう見事にニヤけていた。友人たちが気味悪がるのも無理もないと思ってしまうくらいのニヤけ面だ。思わず自分の顔を引っ張ってみるけれど、どうにも治りそうにない。

 原因は……うん、分かっている。というか、この状況じゃ一つしかない。でも、認めたくない。だって、黒音さんに名前呼ばれてありがとうと言ってもらえただけでこんなにニヤけるとか、自分はどんだけチョロいのかと!

 他にも自分の名前を覚えててくれたんだとか、あんな大きな声も出せるんだとか、ここ数分でまた色んなことが分かって、それがまた顔面崩壊を助長させてくれている。いや、いけないいけない。心機一転を図って早々にこれでは何も変わらないじゃないか。心だけじゃなく表情も引き締めなくては……。

 

「わっ、また変な顔になった」

「なに、笑いでも堪えてんの?」

「笑いたいのはこっちの方なんだけど」

 

 と、引き締めたつもりだったけど、結果は大不評であった。そんなに酷いかと思ってもう一度鏡を見れば、まぁ吹き出す一歩手前のような自分が写っているもんだから、当の自分が真っ先に笑ってしまった。笑わずにいてくれた友人たちの優しさに改めて感謝した。

 早く帰るぞと文句を垂れる友人たちに促されて、荷物を取りに教室へ足を進める。ここ数週間の懸案事項が解消されたこともあって、足取りはこれ以上なく軽い。途中の階段も三段飛ばしで駆け上がる。

 ようやく黒音さんに謝れた。おまけに名前まで覚えてもらえていた。一足飛びで友だちになる夢は残念ながら叶わなかったけど、まだチャンスはいくらでもある。ゆっくりと距離を縮めていければ良い。

 羽のように軽い気分で教室の扉を開ければ、そこにはもう誰の姿もなかった。静かな教室では自分の足音と、開け放したままの窓の向こうから聞こえる部活生の声がよく響く。

 そういえば、黒音さんの声をマトモに聞けたのは今日が初めてかもしれない。誰かと話している姿も見ないし、授業中に当てられたときの声も小さいし。それだけに、あんな大きな声も出せたんだという驚きがあった。それが、自分に向けて発せられたんだという喜びも同じくらいに。

 

「……あれ?」

 

 そんな風に思いながら、開けっ放しの窓を閉めようと近付いていた足が不意に止まった。

 初めてちゃんと聞いたはずの声だった。あんな大きな声を聞くのは初めてのはずだった。それなのに、どうしてだろう。

 

「黒音さんの声、どこかで聞いたことがあるような……?」

 

 首を傾げる。風に煽られたカーテンが、全て分かったようにはためいていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 VTuberとは何だろうか……と、突然こんな哲学じみた問いを投げかけられたら、人はどんな回答を返すだろう。

 憧れと照れ臭そうに語る人。暇つぶしとバッサリ言い切る人。気持ち悪いと忌避する人。夢への近道と自信満々に返す人。全く知らないと正直に答える人。それぞれの答えに偏りはあれど、聞けば聞くほどに色々な答えが返ってくるのだろう。プラスの意見も、マイナスの意見も。

 

 

『はーい、じゃあ時間的にもキリがいいし、今日はこれまでにしよっかな。いやー、本当に楽しい時間っていうのはあっという間だよねえ』

 

 

 あたしはそれらの声を否定しない。確かにVTuberという存在を肯定的に捉えられると嬉しいけど、それに反感を抱く人がいるのも仕方のないことだと思っている。全ての物事には長所と同時に短所があり、どんなに優れたものでも受け入れられない人には受け入れてもらえない。それは当然、VTuberも同じこと。どれだけ世の中に広まり受け入れられようと、ただの目立ちたがりとしか一生捉えない人もいるのだろう。

 まぁ、何が言いたいのかというと、要は人それぞれという話だ。誰かにとってのVTuberは芸能人も同然であったりするかもしれないし、他の誰かにとっては毛も生えてないド素人でしかなかったりするかもしれないといった、そんな単純な話。

 

 

『という訳で、この配信が面白かったー、って思った人は高評価をお願いします! あと、今回が初見だよー、って人たちは、よかったらチャンネル登録もお願いしまーす!』

 

 

 では、こんな無駄にダラダラと特に意味もない思考に(ふけ)るあたしにとってVTuberとは何かといえば、一言で言ってしまえば生き甲斐である。

 

 

『はい、じゃあまた次回もみんなが元気に配信を見に来てくれるのを待ってるよー! ばいばーい!』

 

 

 パソコンの画面向こうからは、推しからの締めの挨拶が元気に響いてくる。それと共に、チャット欄には無数のコメントが流れていく。きっと本人の目には留まらない。

 それでも、『次の配信も楽しみにしています』と、他の視聴者と同じようにコメントをする。それがほんの僅かでも自分の推しの活力になればと思って。

 

「……まぁ、きりんさんの配信にコメントするのも久しぶりなんだけどね」

 

 と、コメントと一緒に自虐もポツリ。……いや、本当にファン失格だと思うけど、どうか広い心で許していただきたい。面倒くさいファン特有の素直に推しを推せないムーブが自分にもやって来てしまってたんです。とりあえず自分の中で整理がついたから良かったものの、場合によってはVTuber自体、追うことをやめてしまうところだったかもしれない。それだけVTuberという存在は、あたしの中で良くも悪くも大きな割合を占めているということだ。

 そんなあたしを救ってくれたのは、やはりというか最推しである来宮きりんさんだった。ここ数週間を思い返すと、一人で勝手にドタバタして、その挙句に疑心暗鬼に陥ったりと最悪だったけれど、最後は彼女の言葉に背中を押してもらった。

 きりんさんは、あたしを裏切らなかった。だから、あたしもきりんさんを裏切らない。きりんさんがきりんさんであり続けるその日まで、ずっと推していくと心に誓った。それは、あたしにとっての生き甲斐となるに違いない。

 そして嬉しいことに、あたしにとっての生き甲斐は一つと限らないらしい。

 

「さてと、」

 

 きりんさんが安定した打率を残すアベレージヒッターとすれば、そいつはとんだブンブン丸だ。平気のへいで三振はするし、時たまとんでもないエラーまでかましてくれる。その癖、これ以上ないくらいに美味しい場面では狙い澄ましたようにホームランをかっ飛ばす。

 プレーは雑。考えは粗だらけ。口を開けば失言だらけ……それでも、そいつには華がある。見る人たちを惹き付ける魅力が備わっている。あまり認めたくはないけれど、きっとあたしもその魅力に取り込まれたうちの一人だ。

 この荒削りな原石に、視聴者たちは注目している。あたしたちは彼女がこれからもその良さを失うことなく、さらに輝くことを望んでいる。そして自分は、その成長を見届けたいと誰よりも強く願っている。それがあたしにとっての新しい生き甲斐なのだ。

 

「さぁ、あたしが見てなかった間、どれだけ成長したのか見せてもらいましょうか、黒猫燦?」

 

 だから、あたしは今日も……いや、これからも、自分の推しを推し続ける。




「は? 黒猫とオフ会した!? お家訪問にごはん、それにカラオケオフまで!? な、夏波結めええええっ! あんたはあたしの敵なのか味方なのかハッキリしろおっ! ああああああ、あたしも黒猫とカラオケ行きたいいいいいっ!!」



なお、やろうと思えばいつでもカラオケオフできる模様。
はい、そして拙作はこちらで完結になります。リアル事情などがあり、最後の最後で大いにグダりましたが、何とかお話を畳むことができました。
実はこれまで連載を完結させたことがなく、たったの十数話とはいえ、自分が決めた終わりまで書き上げられたのは自信となりました。

最後なのでほんの少しだけ裏話など。最後の最後でようやく苗字が判明した主人公ですが、正確には下のような名前になります。

倉洲明留(くらすめる → くらすめいと → クラスメイト)

これが主人公を黒音今宵ちゃんと同じクラスにせざるを得なかった根本的な理由でした。別クラスにしたらアイデンティティクライシスもいいところだよね、と。
某所では主人公のTwitterIDを「fasten_light_class962」と答えたことがあるのですが、これは「fasten=留まる」「light=明かり」「class=クラス」「962=くろね」で「黒音ちゃんのクラスメイト」という意味だったりしました(分かるか)
あと、拙作はいわゆるα世界線とか分子世界的な感じなので、僅かに原作と異なっています。だから、メルちゃんも黒音ちゃんに名前覚えてもらってるんですね、はい(ガバの体のいい言い訳)
つまり、場合によってはメルちゃんルートもあるということです! やったね、メルちゃん! 押し倒せば君の勝ちだ!

とまぁ、そんなこれまで我慢していた裏話をこぼしつつ、いい加減締めようと思います。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。また、二次創作を許可していた煉瓦氏には最大限の感謝を。
原作とそれに連なるあるてまワールドが、更なる発展を遂げますことを願って。
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