泊まっているホテルの鏡の前で、服について悩んでいる俺を、ディオが選んできた服に着替えさせ外に放り出した。
「待ち合わせは昼だろう、出るのが早すぎないかまだ朝だぞ」
『鏡の前でウダウダ悩み続けるよりは、外に出て少しは落ち着け』
うっとおしい、と不機嫌そうに少年サイズのディオは吐き捨てた。そんな彼から俺はそっと視線を逸らす。一時間以上居座った自覚があるため何も言えない。
直感で入った店でサンドイッチとコーヒーを購入し、適当なベンチに腰掛ける。いざ齧り付こうというそのとき、視線を感じて俺は周囲を目で探った。
そして通路の先にいる、こちらを見たまま立ち止まっているトリッシュの姿。
「――ッと、あっぶねー……」
驚きのあまり手を放してしまったサンドイッチを、どうにか空中で再び掴むことに成功する。ただし、ソースで手が汚れてしまったが。
崩れかかったサンドイッチを包装紙に戻し、タオルで手を拭っているとクスクスと笑い声が聞こえた。見上げれば楽しそうなトリッシュが、いつの間にか俺の近くに立っていた。
「Buon giorno(おはよう)、泣き虫でシャイなお兄さん。ドジも追加した方がいいかしら?」
「――やめてくれると嬉しいなぁ」
『事実だろうに』
ディオの茶々に俺は顔を引き攣らせた。やかましいわ。
「そっちは……弟? 昨日の彼はいないのね」
「ああ、今日は部屋にいるらしい」
トリッシュの視線を無視してベンチに座ったまま本を読んでいるディオ。いつも通りではあるが、今日は妙にハラハラと俺は落ち着かなかった。
幸いトリッシュはディオの態度を気にしていないようで、俺に視線を戻した。
「昨日のモデルのことだけど、今からでも平気かしら。丁度会ったことだし、連れて行きたいの」
「いいよ……連れて?」
「すぐそこよ」
彼女が指さしたのは、病院だった。
*
トリッシュを船頭に病院の通路を俺たちは進んでいく。ディオは本を読みながら器用についてくるのだが、一体何の本を読んでいるのだろうか。
「ここよ」
扉を開けて病室に入っていく彼女に、俺は恐る恐る続いた。部屋の主はベッドに横たわっていたが、俺達に気づくと身体を起こした。トリッシュが起き上がるのを手伝い、その女性はにっこりと俺に笑顔を向けた。
「貴方がトリッシュの言っていた画家の子ね。随分と綺麗な子捕まえたじゃない」
「何言っているのよママ……」
病室の主――トリッシュの母親である彼女はドナテラと名乗った。母と言っても年齢は、戸籍上の俺のものとほとんど変わらないように見える。
――あれ、トリッシュっていくつなんだろうか。
「不躾な質問ですが……おいくつで?」
「ふふふ、別にいいわよ。私は三十三歳で、トリッシュは今年で十五ね」
「そういえば、ヘーマさんの年は?」
トリッシュが俺の名前を呼んでくれた。湧き上がる喜びが胸から溢れると同時に、聞こえた衝撃の事実に俺はよろめいた。
「ドナテラさん……俺の一つ上……?」
「えっ」
「えっ」
そしてトリッシュは俺の半分の年齢……後ろでディオが小さい声でロリコン、と呟いた言葉が突き刺さる。声だけでわかるぞ、お前ニヤニヤ笑っているだろう。
気がそれていた俺の顔を、トリッシュが両手で掴んで強引に引き寄せてきた。
「ちょ」
「うそ、この顔にこの肌で三十二歳ってなんなのよ。絶対何かケアしているでしょう」
「ち、近……別になにも、うッ!?」
「してるでしょうッ!」
引き寄せられ、より近くなった顔の距離に、恐らく彼女の香りであろう良い匂いに頭がくらくらする。頑張って耐えろ俺。
「ラブシーンはもう少し日が落ちてからの方が、ママ、いいと思うわトリッシュ」
ドナテラさんのからかうような声に、トリッシュはぱっと俺の顔を放した。
「ちょっと、ママ……違うからね」
「年は離れているけれど、ママは応援するわ」
「だから違うって言っているでしょ」
娘の慌てる姿が楽しいのか、ドナテラさんは笑顔でトリッシュを宥めている。しかしその顔色は青白く、目の下には影が見えている。手足も方も細い彼女は、何らかの病魔に侵されているのだろう。それも、末期の。
「ヘーマさん」
「む?」
「モデルのことだけど、あたしとママを描いてほしいの」
気が逸れていた俺に、トリッシュがいいかしら、と俺を見上げて言う。その可愛らしさに俺はこくこくと首を上下に振った。……ディオ、お前またロリコンって言っただろう。
それから会話を交えながら、二人の姿をスケッチブックに描きこんでいった。時折ディオにも話が飛んだが、当たり障りなく返していた。
スケッチが終わった後は、一週間後にまた来ると伝えて俺はドナテラさんの病室を後にした。
一週間、俺は寝食以外をキャンバス内に作ったアトリエで絵を描いていた。ちなみにキャンバスはジョセフ仕置き用のものを組み直したものだ。ジョセフ用のままにすると、ピクテルが彼を中に入れようとする為、この機に用途を変更させてもらった。
絵が乾ききってから額縁を購入し、はめ込んで布にくるむ。脇に抱えて俺は意気揚々と外に出た。
途中、ジョナサン達を出していないことに気づいたが、足取りの軽い俺は部屋に戻ることをせずにさっさとドナテラさんの病室へと向かった。
「あら、ヘーマ君。いらっしゃい」
ドナテラさんが微笑んで俺を迎えてくれた。まだトリッシュは来ていないようで、絵を置いて彼女が起き上がるのを手伝う。少しの動作でも疲れるのか、息を吐いたドナテラさんの背にクッションを入れて寄りかかれるようにした。俺は椅子に座り、顔色の悪い彼女に笑いかける。
「少し、早く来すぎてしまいましたか」
「私は話し相手ができて嬉しいけれど……ヘーマ君はトリッシュがいなくて残念ね」
「あ、いや、そういうわけでは」
からかいの言葉をかけてくるドナテラさんに、俺は情けなく眉を下げた。同じ年代――と言っていいのか少々悩むが――というのにこの余裕の差、母親で子供を育て上げた経験……というよりは、単に俺がドナテラさんのような人に弱いだけのような気がする。
「ヘーマさんは旅行でイタリアに来たのよね?」
「ええ、知人にも会いにですが。――それが?」
「いつまでいられるの?」
「四月の半ば頃までは一応」
ビザを取っていないため、イタリアに滞在できる日数は九十日までだ。そこまで伸びるほどSPW財団から妨害が続くとは思いたくないが、最悪……今回はハルノに会えないことも覚悟している。
無理に動いて、ハルノの周囲を騒がせることであの子を危険にさらすのは本意ではない。
「そう……ねえ、ヘーマ君。トリッシュのことお願いね」
ドナテラさんは俺の手を握ると、穏やかな表情を浮かべた。
「お願い、とは」
「不躾なお願いよ。
あの子には私以外の親族がいないの。私が死んだらあの子は一人になるわ。命が長くないと知ってソリッド――トリッシュの父親を探したけれど……見つからなかった」
彼女はシングルマザーで、主な親族は全て亡くなっていると。
頼る人がいない、それは理解した。だが何故俺に頼むのか。トリッシュと出会ってから一週間しか経っていない、ドナテラさんとも二回しか会っていない俺に。
それを訪ねると彼女は含むような視線を俺に向けた。
「だってヘーマ君、トリッシュのこと好きでしょう」
「……いや、あの」
「正確には、好きな人にトリッシュが似ているのかしら」
唖然とする俺に、ドナテラさんは女をなめちゃだめよ、とウインクをする。
「トリッシュはそこまでは気づいていないわ。でも満更ではなさそう、というのが母親の見解。ヘーマ君も三か月もホテル暮らしできる程度には、余裕があるみたいだし」
きっちり経済力の予想を立てて娘を任せることを決めたらしい。恐るべし死期を悟った母親の観察力。それほど娘を大切に想っているということなのだろう。
だが――頷くことはできない。
これからもスタンド使いと関わるだろう俺では、荒事に巻き込まれざるを得ない俺では、トリッシュの安全を確保することは難しい。
「俺の側にいる方が危険なんです」
「マフィアが仕切る南イタリアで、身寄りのない若い娘よりも? ――ヘーマ君は日本人だったわね。日本ではどうか知らないけれど、この国では今のあの子が置かれた状況より危険なことはないわ」
真剣な目で俺を見据えるドナテラさんに、気圧された俺は黙り込んだ。
トリッシュを案じる心と、彼女を傍に置けるという暗い喜び。甘い毒に心の天秤が傾くのを止めたのは、頭を撫でる感触だった。
「どうしても無理なら断ってくれてもいいのよ? これでもいくつか対応策は考えているもの」
丁寧に髪を梳く手は、骨が浮き出る程に細い。頼りないその手の持ち主を見上げると、少し眉をひそめていた。
「トリッシュは強い子よ。ヘーマ君が思っているよりずっと」
「――俺は、惚れた相手と彼女を重ねるような女々しい男ですよ」
「ふふ、本当に重ねていることが全てかしら」
くすくすと笑うドナテラさんから視線を逸らす。
言われずとも、自覚はあった。
ドナテラさんの話は、トリッシュが病室に来たことで中断した。先ほどまでの会話の余韻を微塵も残さず、彼女は娘に微笑んでいる。
俺が持ってきた絵については、とても好評だった。すごいすごいと二人して目を輝かせて連呼するため、照れた俺は目を泳がせることしかできずに、面白がった二人にからかわれる羽目になった。
「四月までで良ければ、承ります」
病室を出るときに、俺は振り返ってドナテラさんに言う。目を丸くした彼女はふわりと顔を緩めて、ありがとうと小さく口にした。
そして――――ドナテラさんは五日後に息を引き取った。
葬式もすべて終わった雨の日の墓地。泥が黒いズボンの裾を汚していくことを気にせず、俺は歩いていた。そして、傘も差さずに真新しい墓石の前に座り込むトリッシュを見つける。
「風邪をひいちゃうよ、トリッシュ」
俺の声にも、彼女は振り返らない。すぐ側まで近づき、傘の中に彼女を入れたことでようやくトリッシュは俺を見上げた。
その顔には、雨ではない液体がつたっている。
「一か月が限度だろうって、言われていたの。ヘーマさんと会ったあの日に」
ぼんやりと俺に焦点を当てたまま、トリッシュは力なく口を動かす。
「一か月もある、だからそれまで笑顔でいようって、ママとたくさん話をしようって……そう思っていたのに」
くしゃり、と彼女の顔がゆがんだ。
「まだ、半月も経っていないじゃない……ッ、なんでよ……どうしてよッ!」
叫ぶように泣く彼女を、俺は腕の中に閉じ込めた。トリッシュの細い手が、俺のシャツを握り締めるのを見て、ドナテラさんに告げた決意を思い浮かべる。
四月まで、彼女といよう。
それまでに彼女の生活環境を整えて、彼女一人で生きていけることを確認してから、離れよう。
ずっと側にいることはできないから。
だけど、傷ついて泣く彼女を一人にはできないから。
保護者としてでも彼女の側にいられるのなら――この押しつぶすような胸の苦しさにも耐えられる。