「若菜がな、可愛いんだよ。この前オムツ替えてやった時にさ、いきなり『パパ』って言って、にこぉーって笑ったんだ。すごいだろ、生後七か月でだぞ。きっと若菜は天才だな。将来は学者か弁護士になるかもしれん」
「……それ百回聞いた」
僕は小一時間、若菜という娘についての新米研究員の雑談に付き合わされていた。聞けば聞くほどうんざりするくらい子煩悩なお父さんっぷりである。
「何度でも聞け」サカキはほくほく顔でうんうん頷いている。「ものすごく愛らしい声色だった。ざっと数時間はソファで悶えてたな」
三か月ほどサカキなる新人研究員と関わり――研究者と被験者(爆弾持ち)としてではあるが――僕は彼にだんだんと気を許し始めていた。
いつ何時も明るい振舞いを欠かさない彼は陰気な僕にとって常に鬱陶しい存在ではあったが、その一貫してただただ明朗快活な態度に多少の好感はもてた。
僕を異常者扱いせず、常人と分け隔てなく接してくれるサカキといる空間は、正直なところ、居心地は全く悪くなく、僕はいつしか、忘れていたはずの笑顔を自然と取り戻しつつあった。
「『パパ』と言った三日後には、母さんを指さして『ママ』と呼んだんだ」
「それ、初耳だ」
「言ってなかったか。『ママ』のたどたどしい発音がまた可愛くてなあ」
「そうなんだ」うっとりと笑みを浮かべるサカキに、僕もつられて頬が緩んでしまう。
そんな矢先だった。「ヒーロー」の話を持ちかけられたのは。
青く晴れ渡った空に神経を逆なでする喚きが広がっては、消えていく。
若さゆえの美麗な柔肌を汚い液体でぐしゃぐしゃにして、ゆるくウェーブのかかった長髪を振り乱し、しがみつこうと迫ってくる彼女。なだめすかし、徐々に屋上の隅に誘導しながら、男は広大な視界の中に小さく、そこにあってはならないものが映りこむのを見た。くすんだ緑色の物体。見間違いかと思い視線をやると、どこにも見当たらない。
そちらに気を取られたのはほんの一瞬のはずだった。
気が付けば、不倫相手の女が腰に抱きつき、喘ぐような嗚咽を漏らしている。不快さに顔をしかめると、またも視界の端に先程と同じ異物、いや、人型の怪物が、今度は前回よりはっきりと、映った。顔を向けると、やはり何も見当たらない。眼に残る異形の残像がその口元を横に長く結んだ。
冷静沈着な男は、醜悪なそれが彼に段階的に近づいてきていると直感した。
鼻が裂けるような腐臭が漂ってきたのは、すがる彼女を無理に引き剥がした時だった。前方に臭いの元らしきものはなく、十分以上顔を突き合わせている不倫相手が今初めて嗅いだ腐臭の根源であるはずもないので、ならば後ろかと、体ごと振り返ると、それはいた。
四肢を部分的に欠損した生物――元来は人として町中で営業活動をしていたような――が触れれば色が付きそうなじっとりと湿った息を吐き出していた。くすんだ緑色だと思ったのは、それの腐りただれた前腕だった。
奇妙に湾曲した首からぶら下がる、嫌悪感を催させる不自然な形状をした頭部を左右に揺らし、怪物が歪んだ口元を大きく開いた頃には、不倫男と若いOLの意識は空の彼方に消え去っている。
白目をむいて泡を吹く男と、その横で気を失いピクリとも動かない女を見比べ、グロテスクな怪異はぼそぼそと呪文めいた言葉をつぶやいている。
ぬるい風がふわりとコンクリートタイルを撫で、路上の塵がざらざらと屋上の敷地を移動する。
その音が止む前に、彼は姿を消している。
それは暇つぶしとしてはなかなか悪くない提案だった。
「社会にはびこる悪を根絶やしにするんだ」彼は言った。「深夜に物陰で悪い取引をしている奴らがいるだろう? そこを化け物に変身して襲撃するんだ。被害者を迅速に救出し、後には何も残らない。悪者も被害者も、フリーメイソンさえもな」
僕はソファで文庫本に目を向けたままである。
「何のために」
羞恥心の欠片もなく、彼は堂々と言い放った。
「世界から犯罪をなくすんだよ」
それを聞いた僕は全身の力が抜けた。
「そういうことを言ってる自分が恥ずかしくはないの」
「ない」サカキは答えた。
彼は本を読む僕の目の前で、鼻息荒く仁王立ちしている。
「ヒーローでもないくせに。僕は生きる目的も見つからないんだよ? そんなの夢のまた夢だ」
皮肉気に口の端で笑ってしまった。僕の針山を具現化したような性格はその時もまだ健在だった。
「あるじゃないか」
サカキは僕とは正反対の笑みを浮かべている。仁王立ちを継続中だ。
「今、ないって言ったよね?」
頭の上に巨大なクエスチョンマークを浮かべる僕をよそに彼は、分かってないな……、という表情で言葉を溜めて溜めて。
「『生きる目的を見つける』んだ。そのために生きればいい」
「……矛盾してるよ」
「矛盾だろうが無限ループだろうが構わん。『目的』なんていくらでもこじつけられるようなもんに人生を支配されて、悔しくないのかと、そう俺は言いたいんだ」
僕はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「意味がないって途中で人生ぶった切るのが一番意味がない。研究も子育ても人生も、終わってみなけりゃ意味なんか分からないもんさ。続いたら続いたでなんだかんだ楽しいのが人生だっつーの」
その後もいくらか問答があったのだが、聞いているこちらが恥ずかしくなるくらい理想的な理想論を延々と語る彼に嫌気がさし、適当な相槌を打ちつつ、途中から本を読むついでに聞いていたので会話内容はうろ覚えのようにしか記憶していない。覚えている限り書き出してみるが、多少の趣旨のずれや美化があるかもしれない。勘弁していただきたい。
――ヒーローをやる目的か? うーん……特にねえな。
――おいおいそんな呆れた顔をしなくてもいいじゃねえか。そりゃ、単なる思い付きだけどよ。
――やりたいことはちゃんとある。
俺はさ、悪人を懲らしめてやりたいんだ――
――……そもそも悪とは何か? ばっかお前、難しく考えすぎるなよ。
――自分が他人を見て「こいつは許せない」と思ったら、そいつは悪いやつなんだよ。
――そういうもんかって? そういうもんだよ。
――「悪とは?」なんて、哲学みたいにさ、うだうだ考えてばっかで悪者がいなくなるか?
――仲間だと思ってたやつまで悪の仲間入りしちまうのがオチだぞ。
――まあ、俺にはお前がいてくれるから安心だけどな。
――歯の浮くようなセリフってなんだよ。俺そんなこと言ったか?
――とにかく、自分が悪だと思う奴を、やっつけていけばいいってことだ。
――それで「東京の今月の犯罪件数、過去最少」なんてニュースを見て、ほくそ笑むわけだ。
――そのうち、お前と同じような超能力者がどこからか現れるかもしれないし、情報が漏れて、一躍スーパーヒーローだって騒がれるかもしれない。
――どうでもよくはないだろうが。
――ん? 俺か? あーー~~、そうだな。俺は約束を破るような奴は、許せねえなあ。
最後にこんな会話をして、その日の会話は終了した。
「結局、目立ちたいだけなんじゃないの?」
「それで見ず知らずの人が救われるなら、しめたもんだろ?」
にかにかと生気に満ちみちた笑顔は、本当ににかにか音が聞こえてくるかのようだった。
「目立つのは嫌だよ。僕は平穏に暮らしたいんだ」
僕はそう結論づけ、サカキは上からかぶせるように諭してくる。
「何を言っている。目立ってこその、ヒーローだ」
「僕らの活動は一向にばれる気配がないね」
ナツキがまるで自分のおかげだと言わんばかりに腕を組み、ソファでふんぞり返ってふんと鼻を鳴らす。
「そうだな。いいことだ」
腐食まみれの人型の化け物が首を縦に振ると、不気味な頭部の一部の肉片が床に落ちてぐちゃりと音を立てた。「……」
いつにも増して衝撃を受けている様子の彼にナツキは「だ、大丈夫、すぐ元に戻すから」と焦った様子だ。
「ええと、その、命には別条ないから」
サカキは人間らしい外見を取り戻してもなお気分悪そうに椅子でうなだれていて、無垢な少年は思いつく限りのとりなしの言葉を彼にぶつけている。
「『娘』は無事にあの男との別れを決意したみたいだよ」
「……そうか。それならよかった」
やっと落ち着いてきたサカキにナツキは安堵の息を吐く。
「今のサカキさんは立派に『父親』だと思う」
「……」
彼が目を細め、言葉を噛みしめてわずかに口角を上げるのを、少年はただ見守った。
軽い気持ちでぽちっとお願いしやす【感想】
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いいじゃないか~
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悪くないだろう
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悪くないっすねえ~
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つまんねえw
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これはアカン!