いつだっただろうか、普段は快活なサカキが妙に浮かない顔つきで僕の部屋に現れたのは。
こちらが息苦しくなるほどの重い空気を背負って、腫れたまぶたを見せぬよう、手で顔を隠して彼は僕の真向かいに腰かけ、部屋に沈黙が下りる。
意気とともに消沈した頭をテーブルにぶつけるというお約束も、全く笑えなかった。
僕は超能力者だ。他人の考えが読める。だから最初からすべて分かっていた。
若い父親が自らの不注意で幼い娘を亡くしたことも。
自らに生死の選択を迫っていることも。
それは実に、実に皮肉な伏線回収だった。
彼の心に「死」が色濃く渦巻いている様を、僕はありありと感じ取った。その隣に「約束を果たせなかった」思いがぎらりと光り針のようにとがり、自らを責め苛むを目の当たりにした。
彼の中に儚く舞い散る記憶の断片の一つがゆらりと翻り、知る必要のない情報を僕に叩き込んだ。
「お父さんと動物園に行くの!」
母親の膝でのけぞりながらたどたどしく発する声音は生命力に満ち溢れていて、とても可愛らしい。
「そうなの。良かったわね」
母親と思しき女性はたおやかに微笑んで答える。
「構ってやれなくてごめんな。でも、次の日曜にはついに休暇が取れそうなんだ」
記憶の中のサカキは自慢げに彼女らの正面に腰を下ろすと、娘のしなやかな髪をさらさらといじっている。
それは一般的な、よくある家族の団欒風景だった。何の変哲もない日常だけれど、孤独な老後にふと思い出しては、幸せな日々だったと涙する類の、二度とは戻らぬ景色。
わずか三日後、この景色に永劫の終止符が打たれることになると、この時の彼は到底知る由もない。
頭がおかしくなりそうだった。
優しく生温かい眼差しがソファの奥からナツキに注がれていた。
「何か?」
「……あの時はありがとうな」
「な、何、いきなり……」
普段のサカキらしからぬしっとりとした口調に、ナツキは思い切りたじろいでいる。あの時とはまさにあの時だろう。赤面なしには思い出せない記憶が否が応にも思い出されてくる。
「心が安らかになった」
それそれもっと赤くなるがいいとばかりにサカキはそっぽを向いた朱色の頬に言葉を投げつける。
「……別の話しない?」
「我慢しなくていいんだろ?」
「ちょっと」
抗議の声を上げつつも、胸を撫で下ろす気持ちは確かにあった。どうやら傷は僅かずつではあるが癒えてきているようだ。先程ソファでうなだれていたサカキの姿が、記憶の中の彼と重なる。
逡巡したのは二、三秒だったか。
僕はサカキの前に立っていた。歩いたか走ったか瞬間移動したか、とにかく、目の前に彼の頭部があった。小刻みに揺れていて、生え際がまだらに白く変色している。
後ろの漆喰の白壁に溶け込み今にも消え失せてしまいそうな佇まいに、何かしなければ、助けなければという気持ちが体中を駆け回っていた。
深呼吸をした、と思う。
そして、両腕を巻き付けるようにして、彼の頭を胸に抱いた。もちろん、柔らかく微笑むのも忘れない。
数年振りに、僕は意識的に力を使った。
「……地下室に瞬間移動したよ。誰も来ないし、見ていない。……我慢なんかしないでいいから」
辺りには底冷えのする空気のわだかまっている。だが、僕らの周りの空間だけは少し暖かい。
それが僕の力によるものなのか、擦れる衣服の間に生まれる熱なのか、はっきりしない。
「……悪い」
じわりと温かい感触が胸に広がっていった。
その後しばらくのことは、サカキさんの名誉のためにあえて記さないでおきたい。
数日が経過したある日。
僕とサカキさんは、後に僕らの拠点となる地下室にこっそりと移動し、とある計画を立てていた。
「……本当にいいのか?」
「うん。人助けだし」
ためらい気味に問うてくるサカキに、僕はさらりと答えて見せる。必要以上に明るく振舞っていたのは、晴れない面持ちの彼を元気づけようとしていたからだ。
「それに、ヒーローになるのはサカキさんだ」
それを聞いた彼はあからさまに表情を曇らせた。「それについてなんだが」
「昨日今日と、頭を冷やして考えたんだ」そう彼は前置きした。「ヒーローなんてものはいやしない。あいつらは頼んでもいないのに不躾に現れては、助けてやったとでかい顔して去っていく詐欺師に過ぎないんだ」
「……」どんな顔をすればいいか分からなかった。
「そんなものに望んでなって、一体何になる?自分勝手にしたことに感謝される道理はあるのか?」
分からない。
「……仮にだ、俺達のおかげである一般人が何かしらの危機を脱したとする。だが、その彼か彼女かが再び同じ危機を繰り返したらどうする。それで助けなかった場合より酷い目に合ったなら、俺たちは本当の意味でそいつを助けたと言えるのか?」
分からないよ。
「なあ」僕を呼ぶ声は震えていた。
「『人を救う』ってなんだろうな?」
それから毎朝、首が取れそうなくらいにうなだれて僕の部屋を訪れるサカキさんを励ますのが僕の日課になりつつあった。
「僕たちは神じゃない、救世主でもない、ちっぽけな人間なんだから、人類をあまねく救済するなんて無理に決まってる」
「それは神や仏に祈る次元の話で、各人の努力どうこうの問題じゃないんだ」
「全部、みんな、何もかも救うなんてどだい無茶な話だよ」
週が変わった。
「ヒーローの役目というのは、予期せぬ危機に瀕した哀れな一般人に、もう一度やり直すチャンスを与えることなんだ」
「僕らにはそれができる」
「少なからず人助けにつながるのなら、やるべきじゃないか」
また何日かが過ぎた。
「何ができるかじゃない、やるか、やらないかだ」
「何事にもやり方ってものがある。サカキさんはサカキさんなりにしたいことをしたらいい」
「ねえ、元気出して」
その日も変わらず、前向きな言葉で彼を鼓舞し続けていた。
が、さすがに心が折れそうになっていた。そんな最中のことである。
「ありがとうな」
彼は笑顔を繕ってこそいたが、それはあまりに弱々しく、無理をしているのがありありと見て取れた。
鼻の奥がつーんと痛くなり、みるみる頬が熱くなっていく。
それからのことは、僕の名誉のために伏せさせて頂きたい。
「こんなのはどう?」
ローテーブルに開いた図鑑を覗き込みながら、僕は適当な怪物を思い描いてパチンと指を鳴らす。
僕とサカキさんの間に、グレイ型宇宙人に似た、一メートルほどの銀色の人型の物体が瞬時に形成された。背丈の四分の一ほどの角の取れた逆三角形の頭部を持ち、短い手足には指がない。
「……悪くはないが、これに歓喜する人間がいないとも思えない」
「うーん、じゃ、こっちは?」
閑散とした地下室に音が響くと、僕らの間に、くちばしのある、人魚のようなずんぐりむっくりした生物が出現する。頭と胴体の間にくびれがなく、頭部から虹色のふさふさした毛が真っすぐ地面まで届いている。四芒星をかたどった奇妙な形状の目があり、大きな鱗に覆われた胴体の下には尾ひれのような足が三本生えている。
「……」
「……」
「……これは?」一応、という体でサカキさんが尋ねてくる。
「アマビエ」
頬を引きつらせて答えた。
「……ダメかな」
「……ダメだな。もはや可愛いの域だ」
「……別の本に変えるね」
図鑑をぱたりと閉じ、バッグから別の本を取り出す。
「ちょっと待て、今の本の題名を見せてくれ」
「え、いいけど……」
僕は机上に置かれていた、『やさしいかいじゅう』図鑑をサカキに手渡した。
「おい」
「ところで、どうして毎回指をパチンとやるんだ? 超能力は念じれば使えるんだろう?」
「もちろん。でも、いきなりこんな怪獣が出てきたら心臓に悪いでしょ?」
僕はソファの脇に除けてあったアマビエ人形の頭をぽんぽんと叩く。
「アマビエで驚くかは別として、まあ、なるほど」
顎に手を当ててサカキさんはふむと頷いている。
「サカキさんこそ、あんな恐ろしい怪物に扮して人助けなんて、本当にそれで構わないの? ……外道野郎を怖がらせるのには便利かもしれないけれど、それだと被害者の方も怖がっちゃって、感謝の言葉も何もあったもんじゃない」
アマビエの頭部を撫でながら僕は言う。ローテーブルにはゾンビ映画のパンフレットがあった。
「俺たちは勝手に助けに行くだけだ。もともと感謝される筋合いがないんだ」
サカキさんの顔にかすかに笑みが浮かんだのを、僕は見た。なんだか嬉しくなり、知らず、笑みがこぼれる。
「そうだ。よく映画でさ、標的を隠語で呼んだりするじゃない。僕、あれがやってみたいんだ」
珍しくサカキさんが長考の態勢に入った。
たっぷり一分の熟考の末、おもむろにいくつかの言葉が紡がれていく。
僕らは哀れな被害者を「娘」と呼び、「父親」の名分で悩める彼らを身勝手にも救出する。
何と独善的な行為か。こんなわがままで自己中心的な活動を、誰が到底ヒーローなどと呼べるだろう。偶然にも救出された一般人にとってしても、感謝を徴収されるいわれはない。
僕らは突如として現れ、お節介を働き、また突如として去るだけだ。決してヒーローではない。
「来たよ。奥多摩の外れ、さびれた映画館の裏手にある空き地だ。気弱そうな少年がカツアゲにあっている」
「何人いる?」
腕組みをしたサカキが流し目で問うてくる。
「3対1だ。ひどいね。全員二十代前半だと思う。吐き気がするほど服装のセンスが悪い」
「よし、『父親』の役目を果たしに行くとするか」サカキは少しづつ、だが着実にショックから立ち直っていっているようだった。
「3人が扇形に少年を囲んでる。少年から見て左端の男の後ろに瞬間移動させるよ。向こうに飛んで一人目を倒したら、右手にもう二人いるからね」
「了解。やってくれ。『娘』の身の安全は俺が守る」
ナツキが指を鳴らす。
途端に、正面に立つサカキの肉体が異形の姿に化ける。
「いくよ。せーのっ」
彼の姿が消える。
白い密室に残されたナツキは、彼が移動した映画館裏に意識を集中する。
少年の周りに男が3人。左端の一人を彼が殴り飛ばしたのが見えた。
そう、僕らはヒーローなんかじゃない。自分なりの正義に裏打ちされた、単なる一般人だ。
僕らがするのはおせっかいのような物、一時的に救済となれ、長い目で見た場合必ずしもそうとはならない。
僕らは誰も救わないのだ。救えないし、「救ってやった」とつまらない虚言を吐く気もない。
超能力を持ってしても、その結果は変わらない。
僕は超能力者だが、結局誰も救うことなんかできないのである。
しかし、サカキさんは今までにたった一人だけ、人を救ったことがある。
この僕だ。
特別な力も持たないにもかかわらず、僕が人間らしいあり方を取り戻すきっかけを与えてくれた。
僕が彼を宗教の教祖のように妄信してしまうのはおそらくそういう理由だ。
実際、人間関係とはほとんどおせっかいから成り立っているものだと思う。
彼が僕にヒーローの話を持ちかけたのも、僕が落ち込んだ彼を励ましたのも、全部おせっかいだ。
「つまり、この活動はまさしく人間らしさそのものであり、したがって俺たちはヒーローなどではない」
きっと彼ならそう言うだろう。
だからヒーローなんだ。
彼は僕にとうとう娘の死を知らせなかった。
自分だって胸が張り裂けるほど苦しいくせに。本当に馬鹿みたいだ。
「無理するな」と叱っても、「大丈夫だ」と答えてそれきり。一人で抱え込まなくたっていいのに。泣いて崩れて悲しんでも、誰も怒らないのに。譲れないプライドに誓って、絶対に弱音を吐きはしないのだ。
全然大丈夫じゃないのに、一生懸命に平静を装って。
万が一バレた時のために、僕を椅子に拘束してみたりと、いらぬ心配に身を焦がしてばかりいる。
ふざけるのも大概にしてほしい。あまり超能力者をなめてもらっちゃ困る。
僕はサカキさんの考えていることくらいお見通しなんだよ。
……と僕が考えているであろうことまで、もしかすると彼もお見通しなのかもしれない。
妄信かな。妄信で何が悪い。
あれほど馬鹿で、真っすぐで、優しい人には出会ったことがなかった。
そんな彼が危機に瀕しているのなら、僕は彼を助けたい。
サカキさんはヒーローだから。
僕を救ってくれた、ただ一人のヒーローだから。
映画館裏に意識を戻すと、彼が難なく三人をコンクリートの地面に沈め、少年が一目散に逃げていくところだった。
自らの容姿に恐怖を抱かれるというのはどんな気持ちなのだろうか、とナツキは思いを巡らせている。
サカキは走り去る少年の背中を目で追いつつ、ぶつぶつと何事かを呟いているようだ。
特に今まで気にしていなかったのだが、ふと不思議に思い、ナツキは耳を傾ける。
「たくましく生きろよ」
彼が小声でささやくのが耳にこそばゆく、ナツキは思わず微笑を漏らした。
これにて完結です。楽しんでいただけたでしょうか? 良ければ評価や投票をお願いします。
軽い気持ちでぽちっとお願いしやす【感想】
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