──春。それは出会いの季節。
「いい出会い転がってねえかなあ……美少女との」
桜揺らめく田舎町を、宛もなく、両手を振って歩いていく。日曜日の朝っぱらからこんな辺鄙な場所を歩く物好きは僕くらいらしく、たとえ路上に寝っ転がったところで誰にも咎められなさそうな自由さがそこにあった……いや、やらないけどね。とはいえそんなことを考えた瞬間、微妙に寝不足だったことを思い出し眠気が襲ってきたので、コースを変更して河川敷に向かうことにした。橋の下なら誰にも見つかることはないだろうし、少し暗がりで眠りやすいだろうなと読んだからである。欠点といえばホームレス感がすごいところぐらいではなかろうか。そうこうしているうちに、目的地に到着。
「キュウ〜」
こじんまりとした橋の下、雑草が茂る斜面にごろりと寝転んだ。ふかっとした感触が心地いい。本当に眠ってしまいそうだ。
「キュキュウ〜」
うららかな春風が、優しく頬を撫でていった。気持ちのいい休日である。目を閉じる。
「キュキュキュウ〜」
「……………………………………」
スルースキルが早くも限界を迎えたので立ち上がった。謎の鳴き声の音源を確かめるべく、振り返って頭上、橋の根本付近を一瞥する。目が合った。というか、思いっきり見下ろされていた。ダンボール箱に入ったアザラシが、つぶらな瞳でこちらを見つめていた。
「なんだアザラシか、寝よ」
「キャウ!?」
本格的に眠くなったので、瞳を閉じて羊を数えることにした。のどかな牧場の柵を、羊がジャンプで越えていく。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、アザラシが一匹…………
「……………………」
何か圧を感じたので、試しに目を開いてみた。至近距離でこちらを見つめるアザラシの姿がそこにあった。甘えるような声を漏らし、無理矢理体を曲げて側頭部を手に擦り付けてくる。結構でかい、大人のアザラシなのだろう。そしてこれはもしや媚びられているのだろうか。ぬめぬめすべすべして気持ち悪い。
「……アレか、お腹空いてるのか?」
「キュウ!」
勢いよく頭を振るアザラシ。余程腹が減っていたと見える。朝ごはん用にと持ってきていたパンが余っていたので、カバンから取り出してアザラシの口元に持っていく。アザラシって確か肉食だった気がするけど、まあパンくらい食わせても問題ないだろ。
「キュウ〜〜〜!」
「あっ、やべっ」
大きく口を開け、パンにかぶりつこうとするアザラシ。しかしその牙は宙を切った。同時にどさりと何かが落ちる音。音の正体はパンだった。手がぬめぬめすべすべしていたせいで、滑り落ちたのだ。
「キュウ…………」
「あー……なんだ、気に病むな。最悪洗えば食えるだろうし。っていうかもう一切れ残ってるし」
「キュウ!?」
反応と復活が早い上に、意外とノリがいい。
「まあ待てアザラシよ。僕も馬鹿ではない、同じ轍を踏まないよう、今度は工夫をして取り出すことにする。ぬるぬるしていない方の手でパンを持てば、間違いなく
パンを取り出すべく、空いている手で袋を持った。手の中から袋は滑り落ちていった。袋、何かぬるぬるしてた。どちらかと言えば、ぬるぬるしていたのは袋を持った俺の手だった。アザラシはあんぐりと大口を開け、絶望と驚愕の入り混じる大変愉快な表情で地面を見つめていた。
「ふっ、アザラシよ。お前は馬鹿だなぁ。落ちたのは袋だ、中身に支障はない。つまりモーマンタイ」
しゃがみこんで袋を持ち上げる。しかし袋は僕の手中にあるのが気に食わないようで、真っ逆さまに地面に落ちた。中身は緩やかに零れ出た。蟻さんが作業の手を止めて、こちらに向かい始めた。一秒で拾い上げて軽く埃を払ってやる。
「気にするなアザラシ、まだ落としてから三秒経っていない。つまり余裕だ。さあ、遠慮なく施しを受けろ」
「ア゛ア゛ァ゛! ゛」
歓喜に震えるような咆哮を上げた後、アザラシは僕の手に全身でタックルしてきた。パンが取られるとでも思ったのだろうか、可愛いヤツめ。そして僕への感謝の表れか、必死の形相で腕に噛みつき始めた。これはアレだろう、甘噛みって奴だ。親愛のしるしだ。アザラシもライブ中のドラマーのごとく、ぶんぶんと頭を振って肯定してくれている。だが人とのコミュニケーションに慣れていないせいだろう、力加減がなっていない。少し出血してきたので、頭を撫でて優しく離れてもらうことにする。
「うんうん、お前の感謝の気持ちはよくわかった。だから一旦離れろ、な? もうパン落としてから三秒以上経っちゃってるぞ、このままだとお前がお腹を壊してしまうかもしれない。そうだ、洗ってきてやるから大人しく待っていてくれ」
「ア゛ァ゛〜゛! パ゛ウ゛ワ゛ウ゛! ゛! ゛ア゛ァ゛〜゛! ゛! ゛」
抑えきれない感謝の気持ちを伝えたいのか、甘噛みをやめて何かを訴えてくるアザラシ。嘆息する。
「ごめんなアザラシ、僕はあくまで人間だ。どれだけ聖人でいたとしても、人の枠組みからは外れられない……だから、お前の感謝の気持ちを察することは出来ても、余すことなく理解することはできないんだ……自分の無力さが悔しいぜ」
「…………………………」
株で大損した人みたいな絶望感に溢れる顔をするアザラシ。気にするな、言葉が通じないなんて些細な障害だ。僕たちはもう友達だ。そんな優しい言葉を投げかけようと思ったのだけれど、突然アザラシの体から、もくもくと煙が湧き始めた。奴の体は煙に包まれ、姿は見えなくなってしまった。
「どうしたアザラシ! 大丈夫か!?」
「どうしたもこうしたもあるかぁ!!!!」
声が返ってきた。女の子の物だった。何故かキレてる感じだ。今の僕は善行をなし得たばかりの聖人だと言うのに。
「なぁにが善行だよクソが! 黙って媚びてりゃ勝手なことばかり抜かしやがって!! 何度パン落とせば気が済むんだテメェは、それくらいちゃんと握っとけよ! 芸人か!! あまりにもムカついたからお前の腕を朝メシにしようと思ってかぶりついたら鋼鉄かってくらい硬いし!! 腐ってもこちとらヒョウアザラシやぞ、その牙で砕けないってどういう腕しとんねん!!」
「……………………えーっと、君は?」
「アザラシやアザラシ!! さっきまで目の前にいたやろ、自分の目を疑うな!!」
煙の中から出てきたのはどう見たって人間の女だった。歳の頃は多分同じくらい。ピチピチのスク水みたいな服に身を包んで、白いグラデーションの入った灰色の長髪を、怒りのあまりかぶんぶん振り回してる。なるほど、ずっとご立腹だったのか。気づかなかった。
「つーか人の腕を朝メシにしようとするな! 生意気なアザラシめ!」
「だって肉食やで!? 肉食わな生きていけへんもん!! っていうか何やお前の体の硬さは!! 鍛えとんのか!!」
「合気道を少々」
「あーなるほどな、って納得できるはずあるかァ!! っていうかしゃあないやろ!! 人間どもがメシくれるのが昨日までの当たり前だったんやから!! お前な、こちとらヒョウアザラシのヒョウちゃんやぞ!?!?」
「ヒョウちゃん……ああ、あのヒョウちゃんか」
ヒョウちゃんとは最近巷を騒がしている、川に住み着いたアザラシである。ヒョウアザラシだからヒョウちゃん。極めて安直。確か目の前の川の、遥か上流で暮らしていたはずだ。それがどうして。
「人がウザくなったから逃げてきた」
「その割に人に媚びて餌貰おうとしてたよな……」
「しゃあないやん。腹は減るんやから」
何故関西弁なのだろうと気になったが、突っ込んだら負けなので流す。
「つーかさ、なんで人になれるんだよ」
「そりゃあ数年にも渡って人見てたら、なり方の一つや二つ分かるやろ」
「分かるんだ……っていうか、なり方って色々あるんだ……」
「それは言葉の綾や、つつくな」
かなりファンキーなアザラシである。よくわからないので、正直もう関わりたくない。
「じゃあ僕はこの辺で」
「こら待て逃げるな、ちゃんと餌置いてけや。さもなくばお前の家に着いていくで。飼え。一日魚一キロで我慢してやるから」
「ペットに立候補するな。お前、人が嫌で逃げてきたんじゃなかったの? なんでわざわざ飼われにくるの?」
「気づいたんだ。あたしは人が嫌なんじゃなくて、見世物が嫌だったんだって。だから…………ダメ?」
「ダメだよ。っていうか急に流暢な標準語で喋るなよ、キャラ崩壊も甚だしいよ」
「ちっ、重い過去持ち系清楚キャラは失敗やったか」
「大して重くないし清楚の欠片もねーよ」
変なアザラシである。というか、やけに人の文化に詳しいのは何なんだ。
「そりゃもう、数年も人と関わったからなあ」
「何なんだよそのガバガバ学習能力は」
「なあ、身体で払うから一晩泊めてっていったらどうするぅ?」
「いいよ」
「即答かい! 屑やなぁ!」
ここでひとつの真実に気づく。こいつはアザラシである。しかし今の姿は美少女である。もしアザラシを飼うとすれば、実質僕は、美少女を飼っているのと変わらないのでは……?
「……お前にも悲しい過去があったんだよな……よし、うちのペットになるくらいでいいなら、許そう。それでお前の心の傷が癒えるなら何よりだ。うちの家族もきっと喜んでくれる、動物好きだし」
「なんやその手のひら返しは!! 露骨すぎるやろ、露骨に身体が目的やないかい!!」
「違う!! 僕が求めているのは……背徳感だ!!!」
朝の河原に僕の叫びが響いた。この後、数時間に及ぶディスカッションにより、アザラシはようやく折れ、お持ち帰りされることを受け入れた。首に縄をつけて引きずり回し、家に着いたのは夕方。玄関で丁度母と遭遇した。
「ただいま母さん、うちでアザラシ飼いたいんだけど良い?」
「ダメよ、海に返してきなさい」