綾木家へ来て二か月が経った。
二か月もここにいるというのに鈴音は自分がなぜここにいるのかは分からない。
だが、聞こうとも思わない。養父母に何かがあったことは覚えている。だが何があったのかは覚えていない。
正直に言うと思い出したくない。そう思う鈴音は薄情だろうか。
何故かはわからないが破られてしまっている外套の縫い目をほどいて行く。外套は新しい物をもらったし、手の中のこれはもう外套としては使えないので糸をほどいて別の物に作り直そうかと思っている。何にするのかは決めていない。
(そういえば、いつだっけ)
何が、と言えば累が鬼になった日である。
原作と比べれば累は圧倒的に健康なので、鬼になるイベントは発生しないかもしれないが、確実に起こらないとも言えない。
ぷっと音がして糸が切れた。きれはしをしばらく眺める。
確か原作では累の絆を糸として表現するところがあった。
なるほど、きずなも幸せも糸のようなものだ。強い事も弱い事もあるが、どのようなものであれ一度切れてしまえば元どおりにつなぎ直すことはできない。
そっと藤の香をたく。鬼除けの効果を別にしても鈴音が一番好きな香りだ。
藤の花をかたどった小さな髪飾りに手を伸ばす。いつも身に付けているそれは小さい時に駄々をこねて養母に買ってもらったものだ。素材はガラスだが、お守りになると言われた。
藤の花は鬼除けの効果があるので、そんなところで鬼除けか厄除けのお守りという事なのだろうか。
(これ、形見になっちゃったのかな)
鈴音が知りたいことであるが、同時に一切知りたくない事だ。
手を下すと明かりを消す。
日はとっくに暮れている。外套の解体もまた明日続ければよいだろう。
横になって目を閉じたがすぐに飛び起きた。
感じたのは強く、恐ろしい、鬼の物だ。過去に一度だけ感じたことがある。
どこで、と一瞬思ったのだが、そんな考えは頭から追い出す。何処であった鬼なのかというのはこの際どうでもいいことだ。
◇◇◇――――◇◇◇
「私が救ってあげよう」
目の前の人ならざる者が言った言葉に累は何も考えられないでいた。話術でも使っているのか、この男が本当に自分を救ってくれると思ってしまう。
自分の方へ一歩、一歩と近づいてくる男を累はただただ見ていることしかできなかった。
累の方へ延ばされた手が手首から切り落とされるまで、動けなかった。
「ほう、私の手を切ることが出来るのか。なかなかの手練れだな」
そういう男の手は見せつけるかのようにゆっくりと再生していく。
累をかばうように立った人の左手に握られていたのは、その銀色の刀身に一本、糸のような模様が入った刃だった。
「父さん……」
累の小声に累の父、翔は少しだけ視線を累に向けたがすぐにそらした。
「累っ!」
切り裂くような声は累の母親のものだ。
「累を連れて、逃げろ」
翔が絞り出すように言った言葉もまた小声だった。だが、見事に聞き取ることが出来た累の母親の行動は速かった。
累の手を取ると、外を目指して走る。
累が部屋を出る前に見たのは男の首に一太刀入れんとする父親の姿だった。
そしてそれが累の見た父親の最後の姿だった。
◇◇◇――――◇◇◇
ゴポッと音を立てて喉の奥から血が溢れる。
翔が鬼に切りかかったとき、翔に見えていた隙の糸はとても細かった。現役として鬼殺隊に入っていたころなら首を落とせたかもしれない。だが十四年戦っていないことは想定していた以上に体をなまらせていたようだ。
刃が届くより先に翔は壁にたたきつけられていた。
刀は叩かれた時に手元を離れていた。落ちている場所は近くない。
いつの間にか表れていた鈴音の姿に気付く。鬼には気づかれていない。彼女に足元には翔の手元から飛んで行った刀が落ちている。
ほんの一瞬だけ放心したような表情を浮かべていた鈴音だが、次には何を思っているのか読むことが出来ない表情で足元の刀をゆっくり拾い上げていた。
(死ぬ前になって気付くとはな)
これまで鈴音の隙の糸が読めなかった理由、それがやっとわかった。
(隙の糸を隠す呼吸か)
彼女の呼吸は気配を背景に溶け込ませてしまう。
これまで気配を消している人とは何度もあったことがある翔だが、背景に溶け込ませていた人と会ったのは初めてだ。
どうやらこの糸の呼吸では気配が背景に溶け込んでいる人の隙の糸は見えないようだ。
考えてみれば思い当たるところは何度もあった。翔はこの特徴的なこきゅうのおかげで気配を消している人でも来る事前にその存在を見つけることが出来ていた。
なのに、鈴音だけは話しかけられるまで気付けなかったことが何度もある。
てっきり自分の勘が弱くなっていただけだと思っていたが、そんなことはなかったようだ。
(恐ろしい呼吸だな。気配を消す以外の方法で相手に気付かせず近づけるとは)
そう思いながら徐々に白く染まっていく視界をただ眺める。
鬼の腕を切りつけ、注意を引き、その勢いのまま逃げ出す鈴音と、その後を怒りをあらわにして追う鬼。彼らの姿はもはや翔の目には映っていなかった。