天衣のお兄ちゃんの話   作:久遠_

12 / 21
わがまま

 負けた。

 完敗だった。

 言い訳の余地なく、ものの見事に、完膚なきまでに吹っ飛ばされた。

 

 順位戦の初戦。二年連続の名人挑戦に向けて、更にもうじき始まる棋帝戦に勢いをつける為にも、獲っておきたい一戦だった。

 でも負けた。

 

 序盤から相手の用意した研究手に嵌って、中盤に挽回しようと攻めた手が暴発で、何一ついい所のない将棋だった。感想戦をやるところすらない。最後までみっともなく粘って踏ん張っても、終局時間は持ち時間6時間の順位戦としては異例の夕食休憩前。

 

 将棋は強い方が勝つゲームじゃない。勝った方が強いゲームでもない。ミスの無い方が勝つゲームだ。そしてそのミスってやつは、人間である以上誰もが逃れられない運命にある。歴代最高の通算勝率を誇る棋士でさえ、10回中3回は負けている。勝てば心は晴れやかだけど、負ければ黒い雨雲に覆われる。酸性雨にうたれるコンクリートみたいに、ビリビリと心を溶かされる。

 

 負けて悔しさを感じない棋士は強くなれない。けど、負けを引きずりすぎる棋士もまた、強くなれない。敗北を消化・吸収して、エネルギーに変換してまた立ち上がる糧にしなきゃいけない。勝負の世界に生きる以上、一生付きまとってくるこいつと、上手く付き合っていく必要があるんだ。

 

 でも、偶にどうしようもなく心を折られる負けってのも存在する。例えば今日みたいに、悲惨な内容で自分が弱くなったんじゃないかと思わされる将棋とか……。

 

 

 

 会館から家まで、徒歩数分の道を我武者羅に走る。スーツに革靴、脇にビジネスバックを抱える人物の全力疾走に、道行く人から不審げな目で見られているのがわかる。でもそんなことは気にしていられない。視線を振り切るように走り抜け。自分の住むアパートに到着する。

 

 靴を脱ぎ、スーツを脱ぎ捨て、鞄を放り投げる。こんなひどい負け方をした時は、どうしようもなくネガティブな感情がもくもくと煙のように立ち上ってくる。胸から生じるそれはどんどん体中に広がって、いずれ頭に到達すると、怒りという感情に変わっていく。自分自身への怒りだ。何でお前はあんな手を指したんだ。何でお前は弱いんだ。お前が弱いから、僕はこんな思いをしなきゃいけないんだ……自分をぶん殴りたくなる。痛みつけて、とにかく自分をダメにしたくなる。

 

 下着姿のまま、腕立て伏せを始める。普段から筋トレしているわけじゃないから、十数回もやればすぐに腕が悲鳴を上げる。もう限界? 知るかよ。こんなんじゃ収まらないんだよ。あんな無様な将棋指しやがって……!

 

 自分に対する怒りの発散法として、筋トレは昔からのルーティーンだった。自分を痛みつける、自傷行為の代替だ。いや、筋繊維をに破壊しているから、本当に自傷行為と言えるかもしれない。ついでに体力も付くし、健康にもいい。一石三鳥のストレス発散だ。

 

 腕が上がらなくなると、次は上体起こし。タオルを床に敷くのを忘れたから、尾てい骨が当たって痛い。だけどそれがどうした。負けたお前が悪いんだ文句言うなバーカ。

 

 更に上体反らしも終えて、床にうつ伏せで横たわる。木目のフローリングが冷たくて気持ちいい。激しく上がった息と一緒に、体内の黒い感情が排出されていくような感覚。心地よい疲労感があった。

 

 暫く床で横になっていると、玄関から物音がした。あれ、誰だろう……誰か会う約束してたんだっけ。

 

 とりあえずこの姿勢、格好じゃまずい。そう思って起き上がろうとするも、力が入らない。腕、上がらね……足音が近づいてくる。

 

「はぁ……やっぱりやってるわ。服くらいは着なさい。風邪ひくわよ」

「ご無沙汰してます。蒼天様」

「天衣と、晶さん?」

 

 

 

「ちょっと、この年で、恥ずかしいんだけど」

 

 部屋に上がってくるなり、天衣は僕の頭の下に足を滑り込ませてきた。所謂膝枕だ。僕が起き上がれないのをいいことに。え? 何この状況? 天衣の付き人の晶さんが、知らんふりをしながらも、僕たちをちらちら目線だけで伺っている。

「もっと他に恥ずべき事があるでしょう?」

「ちょっ、まだ敗戦の傷新しいからやめて」

「違うわ、下着姿で床に寝転がっていることよ」

 しょうがないじゃない。人が来ると思ってなかったんだもの。

「で、この足は何?」

「昔、たまにお父さまに負けた後、お母さまの膝にすがりついて泣いてたでしょう?」

 よく覚えてるな……お前そのとき何歳だったんだよ。

 懐かしい思い出が胸を過ぎる。記憶の宝箱にしまっておいた家族の風景。でも、今僕が触れているのは母さんじゃないし、今日負けたのは父さんでもない。時の移ろいを感じて、胸に少しばかりの郷愁が差す。

「わざわざ慰めに来てくれたの?」

「ええ。荒れてるだろうと思ったから」

「悪いな。天衣もマイナビが控えてる大事な時期なのに」

 マイナビ女子オープン。女王のタイトルをかけて戦う、最大級の女流棋戦だ。天衣にとっての初めて参加する棋戦になる。プロアマ混合の予備予選チャレンジマッチで出場者を選抜し、それを突破すれば一斉予選に参加することが出来る。そして予選を勝ち抜くと16人の決勝トーナメントで挑戦者を決める。

 

 二つの予選はそれぞれ一日ですべての対局を行うから、短い持ち時間ながら一日4局とか5局の対局をこなすこともある。殆ど早指しみたいなものだ。この形式は研修会と近いから、慣れという面では大丈夫だろう。

 

「悪いと思っているなら、弟子の公式戦デビューくらい応援に来て下さらないの?」

「いや、僕もタイトル戦あるから勘弁してくれって」

「三連勝すれば一斉予選には間に合うでしょう?」

 

 チャレンジマッチは対局料の出ない非公式戦だから、勝ち上がれば天衣の公式戦デビューは一斉予選になる。日程的には、棋帝戦三局目と四局目の間だ。

 

「そんな無茶な……」

 

 タイトルを保持するってことは、七つある将棋界の頂点に立つってことだ。そしてそこに挑む挑戦者は、全棋士が参加する予選を勝ち抜いてきた棋士。当然実力の保証された一流棋士の戦いになるから、拮抗した勝負になることが多い。僕は初タイトル戦でストレート負けしたけどね!

 

「無理なら、三連敗の方でもいいけど」

「お前、縁起でもないこと言わないでくれ」

 

 天衣の言葉を冗談だと判断して、苦笑が漏れる。でも寝返りをうって天衣の顔を見上げると、その顔は笑っていなかった。

 

「お兄さま。私の公式戦デビューを、私が将棋の世界に足を踏み入れる瞬間を、お兄さまには見ていて貰いたいの」

「天衣」

「これは、ただの私のわがままで、お兄さまにとって負担にしかならないってわかってるけど、それでも見ていて欲しいの」

 

 ごめんなさい。そう続く天衣の言葉に、僕は深い溜息を吐く。天衣の瞳が不安げに揺れたのが見えた。

 

「妹にわがまま言われたんじゃ、おにいちゃんは叶えてやるしかないなあ」

 

 足を振って反動を使って立ち上がる。疲労した筋肉を労わるようにストレッチをする。体に力が戻っていた。

 

 直後、今まで気にならなかった空腹を感じ、夕食休憩前に投了したため食事がまだだったことに気が付いた。肉が食べたい、と思った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。