『両対局者の入場です。盛大な拍手でお出迎え下さい』
アナウンスと共に扉が開き、スタッフに先導されて花道の中をステージまで歩く。ホール内には幾つもの丸型のテーブルが配置されていて、そのテーブルに沿って人が並んでいた。
時は棋帝戦一局目の前日。場所は静岡県沼津市の某有名旅館。タイトル戦では、対局の前日に前夜祭が開催されることが慣例になっている。前夜祭とはつまり、将棋関係者やスポンサー、記者に応募してくれたファンが集まるパーティーだ。ステージに上がると、ホール全体が良く見える。今日は結構人が入っているな……名人戦の時と同じくらいいるんじゃないか?
将棋連盟の幹部と主催者のスポンサーから挨拶があり、僕ら対局者が紹介される。その後スポンサーが音頭を取って会場皆で乾杯し、自由な会食の時間が設けられる。
この会食時間こそが、対局者にとっての仕事の時間である。関係者への挨拶回りと、ファンへの対応の時間だ。僕は棋士だけど、この時ばかりは取引先との接待に奔走する営業担当そのものだ。接待の飲み会なんて気を遣いっぱなしで全く楽しくないなんて話をよく聞くけど、今の僕が正しくそんな感じ。いや、飲んではいないけどね。
スポンサーの方に挨拶に伺おうとしたら、逆方向からも人が近づいてくるのが見えた。対局相手の篠窪棋帝と目が合った。気まずい思いをしながら手で「お先にどうぞ」のジェスチャーをすると、彼はこちらに会釈をして、スポンサーと会話を始めた。
篠窪棋帝……先手で角換わり、後手で横歩取りを得意とする攻め将棋の居飛車党だ。現在23歳と若くして将棋界を担う一人であり、ルックスも良く、名門大学を首席で卒業と天に何物与えられてんだって人。恐らく、今後も長く戦っていくことになる相手だろう。
少し離れた位置で篠窪さんの挨拶が終わるのを待っていたら、あっという間にファンに囲まれてしまった。写真だ握手だサインだと群がるファンを捌いているうちに、ターゲットを人ごみの中に見失ってしまった。
というか入場したときから思っていたけど、女性の数が多くない? ちょっと前まで将棋のイベントに集まる人なんて殆どがオジサンやお年寄ばっかりだったのに、ここ数年で爆発的に若い人や女性の姿が増えた。今日も3、4割は女性なんじゃないかな。両対局者が若いってことと、何より相手が篠窪さんって要素も大きいと思うけど。
挨拶回りに行かなきゃいけないけど、流石にファンを振り切るのも良くない。人だかりの中で戸惑っていると、助け舟は思わぬところからやってきた。
「みなさんごめんねー! 夜叉神先生ね? スポンサーの偉い人たちに挨拶しにいかなきゃいけないの。もうちょっとだけ待っててね?」
送り出してくれたのは、鹿路庭さんだった。「たまよーん!」とお客さんから歓声が上がる。そうか、沼津は彼女の出身地だったんだっけ。ここは任せろ、とサムズアップとウインクを飛ばしてくる彼女に礼をして、僕は堅っ苦しい社会人の集まりに飛び込んでいく。
「――自分らしい将棋を指せればと思います。本日はお集りいただきありがとうございました」
対局者の挨拶を終えて、会場を後にする。会食はまだ続くけど、大抵対局者は前夜祭の時間半分くらいで退出して、翌日の対局に備えることが多い。
篠窪さんと別れて、それぞれ自分の泊まる部屋に案内される。戦前に作られたという木造の廊下を歩いていく。一歩ずつ聞こえる床の軋みが、却って歴史の重みと木の風合いを感じさせた。
通された部屋に入ると、統一された木の意匠が目を引く和室だった。大きなはきだし窓から庭を望むことが出来て、中央にある池では鯉が泳いでいるのが見えた。内風呂を覗くと、なんと檜風呂。すごいなあ。流石に日本でも有数の旅館と言われるだけはある。部屋の規模的に、一人で泊まるにはちょっと寂しいけど。写真を撮って天衣に送ってやる。
風呂に入ってから備え付けの浴衣を着て、庭に出て石造りのベンチに腰掛け、ぼんやりと夜風に当たっていた。梅雨時期の湿った温い風も、風呂上がりの夜に浴びると心地よかった。
どのくらいそうしていたかはわからない。ふと我に返ったのは、視界の端でちらと人影が映ったからだ。あれは……
「鹿路庭さん?」
「あれえ、夜叉神さんじゃないですか」
近づいて声をかける。振り返った鹿路庭さんの顔は少し紅潮していた。お酒に酔っているようだ。この人がここに居るってことは、前夜祭も終わったのかな。
風に揺られて黒のドレスコードの裾がひらひらと踊っている。同時にお酒に混じって、女性特有の甘い体臭が鼻をくすぐった。
「ああ、先ほどはありがとうございました。ファンに捕まってた時、助けてもらって」
「いえいえ~。沼津のファンの人たちなんて、私みんな顔見知りだから」
蕩けたような笑顔で彼女は言った。酔いのせいか、いつもより口調が砕けている。これが素の喋り方なのかな? いつもより柔らかな雰囲気の彼女に、少しばかりドキリとさせられる。
「こうして地元に帰ってくると、皆すごい喜んでくれるし。今日の宿泊だってね? 後援会が泊っていけってお金出してくれて、この旅館も結構値引きしてくれてるみたいで」
あ、彼女今日ここで泊まるんだ。旅館やホテルでのタイトル戦では、対局者や立会人、記録係に現地解説会の出演者なんかは連盟持ちでお金出してくれるけど、地元の人で家が近かったりしたらその場合でないこともある。鹿路庭さんは明日現地の解説に出るんだろうけど、実家に帰るものだと思ってた。
「鹿路庭さんは人気トップクラスの女流棋士ですからね。そりゃ地元からしたら誇らしいでしょうね」
「でも……期待してもらってる分、ちゃんと恩返ししたいの。聞き手やイベントばっかりじゃなくて、将棋の成績で」
そう言って、唇を噛む鹿路庭さん。棋士である以上、当然将棋の成績で周囲に認められたいという思いはあるだろう。対局以外の要素でどれだけ持て囃されたって、将棋に勝たなきゃ飢えは満たされない。本来棋士ってものは、そういう生き物だ。
「まあ、そのうち結果も付いてくるんじゃないですか? 鹿路庭さん、女流棋士の中ではかなり勉強頑張ってる方だし」
その人の将棋にかける情熱や、どれだけ努力してきたかっていうのは、棋譜を見れば伝わってくる。それは、才能とは一種別のもので、尊いものだ。
「えへへ、本当ですか? 夜叉神さんに言ってもらえると励みになるなぁ」
カラカラと笑う彼女を隣で見る。言ってからかなり上から目線だったかと心配になったけど、流してもらえたみたいだ。
その時、ブブブと携帯が震えた。浴衣の下に履いていた短パン(下着の上に直で浴衣着るとスース―してなんか嫌じゃない?)のポケットから携帯を取り出し、画面を確認する。天衣からのメッセージだった。
『明日、お兄さまの勝利を信じてる』
短い文章だった。応援……というより、その真意は脅迫だろう。抑えきれずに苦笑が零れてしまった。
「どうしたの? そんなにやけちゃって。あ、もしかして彼女さん?」
「違いますよ! 妹です。前に相談したでしょ。あの子です」
携帯を寄越せと迫ってくる鹿路庭さんを躱して、自分の部屋へと退避する。だる絡みの酔っぱらいそのものだ。部屋に戻ってはきだし窓の鍵を閉める。窓の前には頬を膨らませた鹿路庭さんが僕を睨みつけている。僕は手を振って、襖を閉じる。時計を見ると、それなりに良い時間だ。歯を磨いたら、明日に備えて早く寝よう。