「定刻になりましたので、対局を始めてください」
その言葉と同時に、僕たちに大量のフラッシュが降り注ぐ。棋帝戦第一局。僕にとっては、二回目のタイトル戦だ。
棋帝戦の持ち時間は4時間。これは盤王戦と並んでタイトル戦の中で最短となっている。僕としては最も得意とする時間。得意意識そのままに、勢いで押し切りたいところ。
振り駒の結果先手になった僕が、初手に角道を開ける7六歩を指す。駒音を隠すように報道陣のシャッター音が響き渡り、僕はフラッシュで目が眩まないように目をつぶる。
篠窪棋帝の応手は、僕と同じく角道を通す3四歩。もし彼が相居飛車をご所望だったら、横歩取りか一手損角換わりに誘導する手だ。狙いは恐らく、僕も得意とするところの横歩取りで初戦を圧倒することで、シリーズを通してプレッシャーをかけるつもりなんだろう。
でも彼には気の毒だけど、今日はこっちにもとっておきの隠し玉を用意してある。残念ながら横歩取りにはしてやらない。
僕はゆっくりと盤上の歩に手を伸ばした。角道を閉じる、6六歩を着手する。
大盤解説は午後から始まった。局面は中盤に入ったところで、両対局者の方針も見え始めたころだった。
「それでは棋帝戦第一局、大盤解説を始めさせていただきます。聞き手は私……皆の鹿路庭珠代だぜっ! 皆盛り上がってるかー!!」
会場から大歓声が上がった。元々アイドル的人気を得ている女流棋士ではあるが、地元沼津でのイベントということで、彼女目当ての客も居るようだった。
「そして解説は藤居九段に来ていただきました。先生、本日はよろしくお願いします」
よろしく、と会場の礼をする藤居に拍手が起こる。タイトル経験もあるベテランで、将棋ファンからの人気も高い棋士の一人である。
「対局者の紹介から参りましょう。まずは篠窪棋帝です! 藤居先生は棋帝についてどんな印象をお持ちですか?」
「本格派の居飛車党って感じですねえ。角換わりと横歩取りが得意で、若い勢いか押せ押せの攻め将棋の印象です」
「挑戦者の夜叉神八段はいかがでしょう?」
「激しい将棋が大好きですよね。独創的な棋風で、特に名人戦に敗れてからはタガが外れたように暴走に拍車がかかってる気がします」
会場が沸いた。鹿路庭も口を抑えて顔を背けている。暫くして笑いが収まると、鹿路庭は話を続けた。
「では、さっそく局面を見ていきましょう! 挑戦者の夜叉神八段が選んだ作戦はノーマル三間飛車です! 先生、これは意表を突いたと言っていいんでしょうか?」
「ええ。篠窪君も驚いたんじゃないでしょうか。夜叉神君はたまに振り飛車を指すこともありますが、三間に振ったのは初めての筈です」
将棋の戦法には、大きく分けて二つの戦法がある。攻めのエースである飛車を右側で使う居飛車と、中央から左に移動させる振り飛車だ。振り飛車は守備的な作戦とされることが多く、それ故プロでは人口の八割以上が居飛車を好む居飛車党だが、アマチュアでは振り飛車の安全性の高さから、人口比は拮抗している。そのため、プロの振り飛車党はアマチュアからの票を集めやすく、人気が高い傾向にある。藤居もそんな棋士の一人だった。
「それにしても、振り飛車になってよかったねえ」
「現地解説の聞き手と解説が振り飛車党ですからね。もしかしたら私たちに気を遣ってくれたのかも」
「ありがたいですねえ。もし横歩になったらどうしようとビクビクしてたんですよ。トップ棋士の横歩なんてオジサンわかんないよ」
再度観客から笑いが起こる。将棋という競技は長時間に及び動きが少ないが故に、その間を繋ぐ高いトーク力も壇上の棋士には求められる。棋士の露出が増えた昨今では、棋士に求められる能力はただ”将棋が強いこと”だけではなくなってきているのだ。
「さあ、後手は大方の予想通り穴熊に組んでいます! 対して夜叉神八段の陣形はどうでしょう?」
「これは真部流とよばれる陣形ですね。ややクラシックな戦法で、最近ではめっきり見なくなりました」
「どのような狙いがあるのでしょうか?」
「相手が穴熊を金銀四枚で固めようとしたら、その隙に中央を制圧することが狙いです」
なるほど、と鹿路庭は相槌を打った。この程度の知識は鹿路庭にもあるが、会場の人たちに向けた解説を引き出すのが聞き手である彼女の役割だ。
「ただ、最近は囲いを金銀三枚で済ませて手数を省略し、穴熊側からも互角に攻め合うことが増えました。となると、囲いは三枚でも穴熊が堅いですから、真部流は指されることが減った訳です」
「なるほど。篠窪棋帝の穴熊に対して挑戦者がどんな対策を用意しているのか、皆さん注目です!」
来た! 想定通りの展開だ!
振り飛車の天敵である穴熊囲い。現代将棋の振り飛車は、常に穴熊との闘いを強いられてきた。穴熊の前に、さまざまな振り飛車の戦法が淘汰されてきた。この真部流もその一つ。ただ、僕はこの戦法に面白いアイデアを思い付いた。
3五歩と突く。銀の前進が狙いの手だけど、同時に桂頭に隙を作るリスキーな手でもある。篠窪さんは明らかに怪訝な表情をしながら同歩と取り、更に僕から同銀と銀の進出に成功させた。
その後は暫く互いに攻撃陣の整備が続いた。互いの飛車が向き合う盤の左側に戦力を集中する篠窪さんに対して、王様が向き合う盤右側の駒を押し上げていく僕。王様を守る城である高美濃囲いを解体して、金銀を上に上にと盛り上げる。
相手が左辺での突破を目指しているうちに、こちらは穴熊を狙い撃つロケットを作り上げる。1九にある右香を浮かしてその裏に飛車をセット。これで第一段階クリア。
更に相手の攻めが自陣に届く前に角を交換する。そして取ったばかりの角を使って敵陣左隅の桂香に狙いを定める。相手は端にいて働いてない桂香を助けるより攻め合った方が良いと判断したのか、龍を成り込んで王手をかけてきた。囲いをバラして攻め駒に投入した分、こちらの玉周りはスカスカだ。一手の判断ミスが、即命取りになる危険な局面。
とりあえず自玉と敵龍の間に歩を打ってバリケードを作ると、相手はその龍で僕側の陣地左下で初期位置に取り残された桂馬を取ってきた。よし! ここで手堅く指してくれるならありがたい。これで僕も敵陣左隅の桂香を拾う時間が作れた!
取った香車をすぐに1六の地点に打つ。これで盤の右上隅で穴熊のシェルターに籠る敵玉を狙い撃つ秘密兵器が完成した。自陣の右端に、香車、香車、飛車が縦に並ぶ三段ロケット! 将棋を指した男の子なら誰もが憧れるロマン陣形!
発射スイッチである1四歩を着手する。敵玉目掛けて駒たちが躍動する。穴熊に籠る敵玉に、逃げ道は無い。
休憩と次の一手クイズを挟み、大盤解説は局面の解説に戻った。
「さあ、対局に戻りましょう! 現局面は……え? なんですかこれ?」
先に中断した局面から、その後の進行通りに大盤を操作していく鹿路庭の手が止まる。
「高美濃囲いが、どんどん解体されていきますが……藤居先生、どう思われますか?」
「いやー、夜叉神君の変態……いえ、独創性が爆発していますねえ」
「挑戦者の狙いは、玉頭戦にあるということでしょうか?」
「そうでしょうけど、これはやりすぎじゃないの? 王様が自分で城を打ち壊してその柱や瓦を投げて攻撃してるようなものですよ」
引き気味の聞き手解説に対して、観客の盛り上がりは大きかった。ソフトの台頭によって棋士の将棋内容の個性が薄れつつある中、夜叉神のそれはファンにとって好意的に受け取られることが多かった。
「振り飛車ってのは、捌きと美濃囲いが命なんですよ。でも彼は捌いても美濃囲いも無いわけだから、これはもう実質振り飛車じゃないですね!」
鹿路庭が言った。投げやりに吐いた台詞だったが、意図に反してドッと会場は沸いた。
「さあ、ここから▲3六銀、△7四飛と進んで……おっと!? ここで▲1七香です! この手はまさか……」
「なるほど、最初から飛車を振り直してロケットを作る心算だったんですね。だから美濃を自分から崩す必要があったと」
「なるほどこれは……夜叉神先生にしかさせない将棋ですね」
「夜叉神変態流ですね」
先生抑えて! と諫める鹿路庭に、藤居はもう取り繕いようがないでしょう、と答えた。