三段ロケットは簡単に穴熊を崩壊させ、敵玉を上空に引っ張り出した。そして持ち駒をベタベタ張り付けて行って簡単な即詰みに討ち取った。これで僕は棋帝戦を先勝。タイトル戦には三本先取の五番勝負と四本先取の七番勝負があるが、棋帝戦は五番勝負だ。対局数が少ない分、この一勝の重みの大きい……と言いたいところだけど、僕は天衣からストレート勝ち司令を受けてるから、どのみち全勝以外に道は無い。
篠窪さんが投了を告げる。三手詰の局面だった。もちろん篠窪さんはもっと早く自玉が詰むことに気づいていただろうけど、タイトル戦など中継される注目度の高い対局では、アマチュアにも配慮して、詰みがわかりやすい局面まで指すことがあるんだ。
投了と同時に、対局室から一歩出た廊下で待機してたであろう記者たちが、カメラを担いで雪崩れ込んで来た。彼らの八割は篠窪さんの背後に陣取って僕を正面から写し、一割は横から僕ら二人をカメラに収め、最後の一割は僕の後ろから篠窪さんを撮影していた。注目度の高い対局で起こる現象で僕も名人戦で嫌って程経験したが、大量のカメラを背負ってシャッター音を聞いている時間は、自身の敗北を最も悔しく感じる瞬間だ。
記者たちの写真撮影がひと段落付くと僕と篠窪さんで感想戦が始まった。その内容は主に僕の仕掛けに関するところで、美濃を崩しての攻勢、構想が成立していたかに集中した。三十分ほどの検討の結果、どうやら正しく受けられれば僕の仕掛けは無理攻めらしいと結論付けられた。くっそお。有力な戦法だと思ったのに。自玉の周囲がスカスカだし、流石に反動が大きすぎたみたい。
感想戦を終え自室に戻ったころ、時刻は22時を回ったところだった。着ていた服を脱ぎ捨て、うつ伏せに布団へと倒れ込む。普段の対局より芯まで重い疲労感があった。自覚は全く無かったけど、やっぱり知らず知らずのうちにプレッシャーはかかっていたのかな。
横になると、眠気は急激に襲ってきた。顔だけ右に向け、右手でスマホを操作して天衣に「勝った」とピースマークの絵文字を付けてメッセージを送っておく。それが体の限界だった。風呂は明日の朝でいいや、と思いながら、僕は睡魔に身を任せた。
体を揺すられる感覚に目を覚ますと、目の前には黒のワンピースの上に白いエプロンを着た天衣の姿があった。寝ぼけた頭でスマートフォンで時間を確認すると8時。日付は棋帝戦一局目の翌々日だった。
天衣が研修会に入会してから、例会の前日からこうして僕の家に泊まりに来ることが多くなった。その時は決まって僕の目覚まし時計のアラームを止められる。そして天衣に起こされた時には既に朝食が出来上がっていて、今日は焼き鮭と冷奴に大根の味噌汁だった。……段々と手の込んだものになっていってる気がするな。
「お前、毎度ここまでしてくれなくてもいいのに」
鮭の切り身をほぐしながら僕は言った。このイベントもそろそろ習慣になりつつある。
「やりたくてやってることだから。私の楽しみを奪わないでちょうだい」
「楽しいならいいけど。花嫁修業か何かかと思ったよ」
「……そうね」
朝食を終えて僕の支度も済むと、家を出て将棋会館へと出発する。天衣はもちろん例会だが、僕の用事は月光先生へのタイトル戦初勝利の報告だ。
降り続く梅雨の雨も休憩か、気分の良い晴天だった。高く立ち上る雲に寄り添う太陽が、まだ夏の準備が出来ていない僕の皮膚をじりじりと焦がしていく。右手の甲で額を拭うと、じっとりと汗が滲んでいた。
「天衣、その格好で暑くないの?」
僕の左側に並ぶ天衣に声をかける。天衣の手に握られた指から、しっとりとした感触が伝わる。彼女の衣装は変わらずに黒のワンピースだ。こんな日に黒い服装は自殺行為だが、宿泊用に持ってきた服はこれしかないから仕方がない。
「暑いに決まってるでしょ……」
「ですよねー。会館まで10分もかからないから、もう少し頑張りな」
げんなりした表情を見せる天衣を引っ張って歩く。高架下を潜り、いざ再度日向に出ようかというところで、天衣が僕の服の袖を引っ張ってきた。
「どうしたの?」
振り返って問いかける。天衣の頬を汗が伝って落ちるのが見えた。
「それ、貸して」
「それってどれよ」
「これ」
そう言って摘まんだままの服の袖を引っ張られる。
「ああ、これが欲しいの。いいけど、会館着いたら返してね」
天衣が指していたのは、僕の着る白い七分袖のジャケットだった。僕としては上着を脱ぐと却って直射日光が当たって暑くなる気がするけど、流石に天衣が気の毒なので了承を返す。青いTシャツの上から羽織っていたそれを脱いで、襟の部分を持って天衣の背後に回り、袖を通してやる。
明らかに大き目の服を纏う天衣に、こういうのもアリだなーなどと感想を心の中でだけ零す。さあ行こう、と僕が差し伸べた手を天衣が掴んだ瞬間、背後から女の子の声が飛んできた。
「ほら、やっぱり天ちゃんじゃん! 澪の言った通りでしょ!」
「隣に居るのってもしかして……夜叉神八段です!?」
「あっ、ホントだ!」
その声を聞いた瞬間、天衣はバっと僕の手を振り払いながら体ごと振り返った。僕も遅れて回れ右するとそこには、天衣と同じ年頃の女の子が二人立っていた。
「天衣、友達?」
「え、ええ」
僕の問いに天衣は少し引き攣った表情で答えた。
「あ、あのっ、わたし、みじゅこしみおといいます! 天ちゃんには研修会でおせわになってます!」
短髪で、いかにも活発そうな子だった。なるほど、研修生か。確かに、天衣の大阪の友達って言ったら将棋関係くらいのものだろう。まさかこんなところで神戸の小学校のクラスメイトと出くわすことはないだろうし。というか肝心の名前を噛んでたけど、水越さんでいいのかな。
「ウチは、貞任綾乃といいますです。同じく研修会で、天ちゃん……天衣ちゃんとは仲良くさせていただいてますです」
こちらは打って変わって、眼鏡でいかにも大人しそうな、まさに文学少女という出で立ち。
「天衣の兄の蒼天です。知っての通りかもしれないけど、プロ棋士やってます。これからも妹をよろしくね」
僕からも名乗りを返す。雛鶴さんの時も思ったけど、ちゃんと同級生の子とも仲良くやってるようで安心する。
「澪、夜叉神先生の大ファンで……あの! 揮毫いただいてもいいですか!?」
「ウチもお願いします!」
いいよ、と了承を返すと、二人は鞄の中身を漁りだした。暫く待つと水越さんはスマートフォンとサインペンを、貞任さんは手帳を差し出してきた。
「このスマホ、裸だけどこのまま書いちゃっていいの? ケースの上からじゃなくていい?」
「はい! そのまま書いちゃって下さい!」
随分と元気のいい子だな、と思いながら銀色に林檎マークが光るスマホの裏面に揮毫する。棋士はサインを書く時に自分の名前だけでなく、自身の座右の銘や好きな言葉を一言一緒に書き記し、そのセットのことを将棋界では揮毫と呼んでいる。元々の言葉の意味としては、単に毛筆で絵や字を書くことらしいけど。
貞任さんの手帳にも同様に揮毫し、『天衣無縫 八段 夜叉神蒼天』の文字が並ぶ。かがんで目線を二人と合わせて、揮毫入りのスマホと手帳をそれぞれ手渡す。やったーと声を上げる二人を微笑ましく感じていると、背後から天衣のわざとらしい咳払い。振り返るとジト目の視線とぶつかった。彼女たちの対応をしている間ずっと放置だったから、機嫌が悪いのかな。
「ほっといて悪かったよ、天衣。さ、行こうか」
そう言って歩き出し、天衣へと手を差し伸べた。しかし、天衣は僕の手を取ろうとしない。あれ、珍しいな。そんなに放置されたこと怒ってる? それとも、何か他に気に障ることしちゃったのかな。僕は思案に暮れるも、心当たりは見つからない。
「天ちゃん、手繋がないの?」
声は、僕らの数メートル後ろをついてくる二人のうち、水越さんからだった。
「はあ? 何言っているの? 甘えたがりの子供じゃないんだから、そんなことするわけないじゃない」
答える天衣に、んん? と思ったが、隣を歩く天衣に視線で制される。とりあえずで頷いてはおく。
「え、でもさっき手繋いでたよね? 澪の見間違い?」
「ウチも手を繋いでる様に見えたです」
「見間違いでしょ」
堂々ときっぱり言い切る口調とは裏腹に、その顔は真っ赤に熟れ、口はへの字にきつく結ばれていた。その表情を見て僕の我慢は限界に達し、思わず吹き出してしまう。うん。そうだよね。こいつの事だからどうせ普段は大人びた風な態度取ってるんだろうし、それが同級生にお兄ちゃんとおてて繋いでるとこ目撃されたんだもんね! そりゃ恥ずかしいよね!
「あー! ほらお兄さん笑ってる! やっぱり手繋いでたんでしょ! ね、夜叉神先生!」
「やっぱりそうだったんです!?」
「そんな訳ないでしょう! ちょっと、あなたはいつまで笑っているの! 何膝を付いているの! ちゃんと立ちなさい! 立って、ちゃんと否定するの! ほら! 立ちなさいったら!」